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憎き己の未熟さよ 人は変われるものでしょうか


僕は現在に至るまで一度も、自分自身を善い人間だと感じたことがない。無論思ったこともない。むしろ僕は傲慢で冷たい悪い人間であった。そのことに気づいたのはずっとあとになってからだった。非難され、批判され、叱られ、嫌われ、避けられ、そうして初めて自分にその原因を認めた。僕は必死に人に好かれようとした。しかし、それは機嫌をとり、追従することに過ぎず、人の心を理解する努力ではなかった。僕の孤独は改善されることがなかった。人の心が理解できない僕がかろうじて見いだすことができたのは、「善」であった。「善」を行えば、人に好かれる。そう考えることができたのだ。人の心を読むのではなく、本を読むことで代替としたのである。

このブログを読むと、僕がどれだけ愛の感覚を欠いているのかよくわかる。人は愚か、自然でさえも愛していないのではないかと思うことさえある。夕陽に輝く黄金の稲田を見て、なんの気の利いた言葉も美しい表現も浮かばない。美しいと思う。けれど、それ以上でもなければ、それ以下でもない。自然を自然として認識し、自然は美しいという概念の元そう感じ取っているにすぎない気がしてならないのである。また女性に対しても、異性であるから好むのであって、すべてが味気ない感じなのだ。

自己愛でさえ怪しい。けれど自分で納得と満足を感じている仕事にさえ、なにか不快を感じている。人の役に立っている、お金を頂いている、という感覚はあれど、休みを楽しみにしている自分に気づき、絶望する。こんな恵まれた労働環境にもかかわらず、僕は労働を厭っているのだ!働きたくないという感覚が自己嫌悪を強める。僕はなぜこれほどまで怠惰な人間なのか。愛にも欠け、勤勉さにも欠け、想像力にも、実現力にすら欠けている。

はたして人は変わることができるものでしょうか。
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正しい者が生き残るのではない、生き残った者が正しいのだ


人類の歩みに貢献した人々はみな等しく、運命に対する用意ができていたからこそ、有能有為だったのだ。それはモーゼにも仏陀にも、ナポレオンにもビスマークにもあてはまる。人間がどんな波に仕え、どんな極から支配されるかは、自分かってに選びうることではない。もしビスマークが社会民主党員を理解し、そこにピントを合わせたとしたら、彼は賢明な人であったかもしれないが、運命の人ではなかっただろう。ナポレオン、シーザー、ロヨラ、みんな同様だった。それを常に生物学的に進化論的に考えなければならない。地球の表面における変革が水棲動物を陸地にほうり上げ、陸棲動物を水中にほうりこんだとき、新たな前例のないことを遂行し、新しい順応によって自分の種を救うことができたのは、運命に対する用意のできていたものだった。それが以前その種の中で保守的なもの持続的なものとしてひいでたものであったか、あるいはむしろ変わり種であり革命的なものであったかどうかは、わからない。彼らは用意をしていた。だからこそ自分の種を救って、新しい発展に進むことができたのだ。それをぼくたちは知っている。だから、用意をしていよう。   『デミアン』より


「なぜ生きているのか?」

この問いに対する自分なりの答えを持っていない者は不幸である。またそんなこと考えたことのない人間は脳天気なのだろう。

生きている事実が厳然としてある。だから私たちは自分の生きやすいよう、住み心地のよいように環境を変えながら生きている。自分の都合のいいように状況を変えようとする。だからみんな自分勝手だ。それは生存本能なのだ。生物としての存在である以上、種の保存ということは考えなければならないだろうと思う。私たちで言えば、人間として生き延びていくことを考えること。人間なんて絶滅すればいいという考えの人間がいるかもしれないが、それはほとんど意味がないことに気づく。なぜなら、彼が子孫を残さなくても、ほかの人間が残すだろうから絶滅することには直接つながらない。ただ、事実としてそうした種の保存に消極的な傾向をもった種が減ったということだ。結果的に人類の発展に貢献したことになる。この考えによって、人間否定、そして自殺、が馬鹿馬鹿しくなった。僕が死んだら却って人類に貢献することになるのである。人間と未来を否定するための自殺が、その逆の結果を生むのである。自殺することはすなわち、種としての不完全性を示す行為にすぎない。存在してしまっている自分という存在自体ですでに、なんらかの人類に対して貢献しているわけである。ならば、生きて貢献するほうが気持ちがいい。

なんか、僕の中で俄然「馬鹿」が都合のいい表現になった。反応があるということはやはり意味があったということではないだろうか。今更、相対性、どの意見も間違いではない、ということはほとんど意味がないと僕は考える。もっともらしい言葉、当たり障りのない、無難な言葉を遠慮がちに使うことも無力だ。顔色をうかがって発言の意図を二転三転させたり、大多数の気に入られるような甘言をあやつるのを僕は良しとしない。意図的にきわどい言葉を繰り出したい。

「馬鹿」は馬鹿の生き方がある。国公立大を卒業せずに豊かな人生を送ることも結構だし、「論語」も読まず、人生を歩むことも構わない。彼らは彼らなりの生き方を選び、もしそれが進化論的に正しければ、生き残っていくのだろう。国公立大を卒業して無難な?人生を歩むやり方も、結果はどうだかわからない。だが僕は、生き残るために、「1+1=2」の理解力でもって、「馬鹿」に負けないようにしなければならない。だから僕にとっては「住み分け」という感覚が必要なのである。平等主義者からは非難されるにちがいない。僕のような弱い存在は、「馬鹿」という競争相手をはっきりと認識し、自分の存在を保たなければならないのである。

意見は人それぞれ違っていいはずだ、いや違わなければならない。皆が同じ方向を向くことは進化論で言えば悪い傾向だ。僕にとっての「馬鹿」が意味があるのであって、その「馬鹿」自身は何の意味もない。僕が種を救い、発展させないとも限らないし、「馬鹿」が種を救い、発展させないとも限らない。
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恋するゲーテを僕は見たくない 漠然たる確信、愛こそすべて


「ゲーテが好きか?」と聞かれたら、僕は何と答えるだろう。

『ゲーテとの対話』の中で人生観や芸術論を話すゲーテは大好きだ。そして偉大だとさえ感じる。しかし、僕はそれ以外の点ではゲーテに対して否定的だ。著作は『若きウェルテルの悩み』、『ファウスト』、新潮文庫のゲーテ詩集を読んだくらいで好きな作家というには読んでいる量が少ない。たしかに、『若きウェルテルの悩み』は3回、『ファウスト』、詩集は2回読んだので関心のある作家であることは確かだ。だが、僕はその中に書かれている社会や生きるということに対する彼のスタンスに触れるために読むのであって、彼の真骨頂である愛と恋、の場面に遭遇すると嫌気がさしてしまう。彼の愛と恋への詩情が僕は受け付けることができない!異常性を感じてしまうのだ。ゲーテは70歳くらいで18歳くらいの少女に恋をしたという。僕には考えられない、彼がもし理性の人であるとしたら、そんなことが起りうるだろうか?恋をしているゲーテを僕は見たくない。

彼は文豪であるばかりでなく、政治家でもあり、科学者でもあったと言われる。僕の勉強不足でもあるのだが、政治家としてあまり伝えられないので、彼が実際にはどういった政治家であったのかというのがわからない。ナポレオンやリンカーンなどは政治家としての発言や功績がよく伝えられているので、偉大だという印象を持っているが、ゲーテは彼らには全然及ばないのだろうという印象なのだ。それは社会的な意図によるものなのか、実際に世界史でみたら大きな功績を残しているわけではないからか正確なことは分らない。だが、僕にとってゲーテが政治家であったことは大きな意味を持たない。また、科学者としてのゲーテはその著書『色彩論』が知られているが、色彩に関して大きな功績を遺したことはもちろん認めるのだが、なんとなく理論に欠ける感じを受ける。科学者ではない、少なくとも数学的ではないのである。政治家と同様に僕にとってゲーテが科学者であったことは大きな意味を持たない。

「馬鹿につける薬はない」、こういうことを言ってのけるゲーテが僕は好きだ。「バカの壁」という本も僕が小学生くらいの時だったか、にはやって読んだが、当時すごく納得したことを覚えている。薬が効かない、壁を感じる、そういう相手が馬鹿ともいえる、なるほど。

「ゲーテとの対話」が好き。と答えるのがもっとも正解のような気がする。作者はエッカーマンだ。愛に満ちたゲーテ、虚無に基づく功利主義の僕、そりゃ相容れないのも無理はない。愛は理性的ではなく、愛は愛だから。しかし僕は漠然と、結局は愛なんだと確信している。しかし、僕はまだ到底その境地に達することはできなさそうだ。
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馬鹿の反感 宝くじを買う者は阿呆である


何事においてもそうだが、一定期間、業界と呼ばれるようにある特定の世界の中で活動するとその内部構造というものが分ってくる。僕はこのブログ界において多少その構想が理解できたように思う。どうしたものは反応が得られ、どういうものが等閑に付され、黙殺されるのか。皮肉なものだ。真面目な仕事は取り合われず、好い加減な仕事が取り合われるのだ。そして、全く気のないものが人の気に入り、関心を集めるのだから。それでも、いろいろと試行錯誤しながら、挑戦し、手を変え、品を変え、すればまた違った世界が見えてくる。

商売は馬鹿を相手にすれば儲かる。これは真理だと思う。カラマーゾフの兄弟のヒョードルの言葉が思い出される。ものの価値の解らない馬鹿者に高く売りつければいいのである。それ以外の方法はおそらく、資本家であるより他ないだろう。だから儲けている人間を僕は信用しない。資本家はその運命がうらやましいかぎりだ。

多くの関心を集めるためにはどうすればいいのか?同じ事だ。馬鹿が思うことを、共感するようなことを示してやればいいわけだ。馬鹿は欲深く、意志が弱い人間とでもしておこう、だが僕にはそうしたこと、馬鹿が思うこと、共感するようなことを考え、思い、感じることができないので、ずっと彼らからは相手にされない。では相手にされるためには?馬鹿が思わないこと、反感を持つようなことを示せばいいわけである。これなら僕にもできそうである。これを示せるということはその反対を示せば、彼らが思うこと、共感することになるわけで、難しくないかもしれない。ただ、僕がそういうことを思うことを自分自身に許していないだけだ。なぜだ?僕自身を保ちたいからである。つまり、こんな反感を買うようなことを本当に思っているわけないだろう。という了解を期待しているわけだ。もし僕が、「みんなちがって、みんないい!」とか言い出したら、本当にそう思っていると思われてしまうだろう。他者も結局己の基準で判断するので、肯定的なことには肯定的に考えざるをえないだろう。

「宝くじを買う者は阿呆である」

僕は宝くじを絶対買わない。自分さえよければそれでいいと宣言しているようなものではないか。300円くらい払ってくじをするくらいなら、それを全部集めて寄付か何か、もっと有用なものに使えばいいものを、たまたま当選という、運の良かった数人で山分けするのである。さもしい限りだ。夢を買うだとか、買わなければ当たらないとか、ばかばかしい。たしかにがんばっても、努力しても、報われない、社会構造上、金持ちになどなれやしない。それゆえに、宝くじに需要があるのだろう。金持ちになる、成功するという幻想を捨てなければならない。目を覚まして、つましく生きるべきだ。

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なぜ「高卒」なのか、そこが問題だ

僕にとって「旧帝大」は偏差値が高いだけであった。そこにはなんの実相もなく、数字で順位づけられているばかりで大学ごとの特徴や校風、強い分野などの知識がまったく欠けていた。住む場所と偏差値、それとなんとなく興味のある、将来役立ちそうな分野が魅力的に紹介されている学部を選ぶのであった。もっと学問に対する真摯な姿勢と学問の真髄を感じ取っていたのならば違った道を選んだことだろう。しかし、僕の制限のことを考えてみればそれも怪しい。ひょっとしたら学問などを軽視し、学びと知識を疎んじていたならば成功や幸せを掴めていたのかもしれない。

ノーベル賞の発表があり、今年も日本人の受賞があったが、その受賞者の多くはやはり旧帝大出身で、たとえば名古屋大学はノーベル物理学賞受賞者を複数出していることなど、大学によって強い学部やその特徴は表れる。山中教授は京都大学で研究されていたようだが、京都大学の医学部(京都大学自体が)はとても魅力的であった。このブログに関していうと、たまに東京大学や京都大学、名古屋大学からアクセスがあることがある。その内容は夏目漱石の作品であったり、ニーチェに関するものだったりして、さすが旧帝大と思う。それ以外の大学からのアクセスはほとんどないし、あったとしても旅行とかそうしたものだ。国会議事堂からアクセスがあったときは嬉しかったし、なにより驚いた。また島津製作所などの大きな会社からもアクセスがあったりするが、やはり思想ジャンルの記事だ。それ以外のパナソニックなどは大抵旅日記をご覧になっているようだ。このように、全部が全部ではないが、おおよそのことは傾向として表れる。

僕は誰がなんと言おうと、彼らへ最大・最高の敬意を払いたい。科学の発展なくして人間の未来はありえない。商業主義がその成果を汚しているのは誰もが知っていることだが、それでも多くの命を救い、多くの人の不便を解消してきた。ペンは剣より強し。そうした道を選ばなかったのはなぜなのか?僕は聞きたい。まっとうな理由がないのなら馬鹿だからと言わざるをえないではないか。

最近の記事は多くの反論と反響をいただいていて、とてもうれしい。今まで精一杯、真剣に、真理と正論、つまりまともなことを書いてきたが目立った反応はなかったので、所詮世の中そうしたものだと痛感させられた。だが、人間は自己を他人によって否定されることをひどく嫌う。僕は人間の研究をしたい。もう少しおつきあい願いたい。

僕は今まで、「高卒」ということを考えてこなかった。ただ実感として、就職において「大卒」でないことは大きなハンデである。ああいったことを書く僕を「馬鹿」だと証明してくださったことは素晴らしい。だが、僕は聞いてみたい、なぜ「高卒」の人は大学進学を選ばなかったのか?僕は不思議でならない。常識的な考えで行けば大学進学の方がメリットがあるのになぜ、大学に行かないのか。そして、なぜ授業料なども安く、評価もされる国公立を選択しないのか?そこが知りたいのに、それに関するコメントは一切ないなんて!なぜ「高卒」なのかぜひ教えていただきたい。その理由によって馬鹿かそうでないか判断するにきまっているではないか。しっかりと例外を認めたのにもかかわらず、自らその例外には入らず、馬鹿として発言する意図がよくわからない。そうした卑屈になるべき理由ではないことで卑屈になる必要がどこにあるのだ。記事を書いている立場上どうしても僕の方が有利である。だから、もっと敵意をもって、痛烈に辛辣な反論、ときには暴言も結構だ。言葉には心が宿る。それくらいの気持ちがなければ、僕には伝わらず、僕も気づくことができない。もっと強く!もっと激しく!僕は批判され、非難されたい。新たな価値を創造し、見逃している価値に気づきたい。

誤解されることを僕は全く恐れない。そして、真意を見抜く力を持たなくてはならない。
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国公立大学を出ていない者は馬鹿である


先日の記事で僕は世間に別れを告げた。世間とはなんだったか、僕にとってそれは世間を構成する大半の馬鹿のことであり、僕の知能を最低とし、これに満たないものを馬鹿と呼ぶ。なぜ、世間の大半が馬鹿なのか、これを証明することは難しいが、前回世間に失望したことを書いたのでそこから導き得るとは思う。だが、ここにもう一度僕の言う馬鹿の定義を示したい。

簡単なのはやはり学歴で計るという方法だろう。学歴社会を批判する声も多く、根強いがそもそも学校というのがなぜ存在するのかを考えてみれば、批判こそナンセンスだということも分かるだろう。僕はもう、一般論は書かないし、細かい説明も省くことにする。これからは僕よりも圧倒的な知性のある”天才”と出会うきっかけづくりのためにこのブログを運営していこうと思う。僕の唯一の夢、それは圧倒的な”天才”に生きているうちに出会うということだ。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン、フィンセント・ファン・ゴッホ、ヴォルフガング・フォン・ゲーテ、ジャン・ジャック・ルソー、夏目漱石などの天才だ。普通に生きていたら存在しているはずの生きている彼らに会うことなく命を終えなければならないだろう。僕はその運命に抗いたいと思う。

さて、馬鹿の定義に戻ると、端的に言って、「国公立大学を出ていない者は馬鹿である」(「旧帝大」と言ってもよかったが、例外を考慮して「国公立大学」とした。)、あらゆることに例外はあり、またこれが馬鹿の定義であることも注意してほしい。”国公立大学を出ている者は馬鹿ではない”ということにはならないのだ。あくまで消去法として、国公立大学を出ていない者は馬鹿だといっているのである。先ほど言ったように、これは僕を基準にしており、そうするとどう考えても国公立大学は行けて当たり前だ。所謂勉強なんぞしなくても論理的な考えができれば、「国公立大学」に行くことはたやすい。一般的には、人並み以上の努力が必要だと思われているが、知性の内でももっとも単純な論理的思考が身についていれば行ける。断言する。国公立大学に行けなかった者はその論理的思考が欠けている馬鹿だと思った方がいい。とにかく、世間の人々は自分が馬鹿だということに気づき、自分を馬鹿だと思わなくっちゃならない。そこから初めて、「無知の知」のように、「考える人」足り得るのである。

少なくとも僕にとってこの条件を満たさない者は論理的思考を持たない馬鹿なのである。論理的思考は本当に必要か?社会は論理的思考の積み重ねによって成立していることからその必要性は明らかである。
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プロフィール

hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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