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己の弱さを乗り越えよ


もしあなたが、なにか顕著な災厄のもとに苦労しているならば、もしある異常な悲運によってあなたが貧困、病気、不名誉と失望におとしいれられるならば、たとえ部分的には、あなた自身のあやまちが原因であったかもしれないにしても、それでもあなたは一般に、あなたのすべての友人のもっとも真剣な同感をたよりにしていいのであり、利害関心と名誉が許すだろうかぎりにおいて、かれらのもっとも親切な援助にも、たよっていいのである。だが、もしあなたの悲運が、この恐ろしい種類のものでないならば、もしあなたが、あなたの野心を少しばかりくじかれたにすぎないならば、もしあなたが、愛人に甘やかされてすてられたにすぎないか、妻の尻にしかれたにすぎないならば、あなたのすべての知人のひやかしを覚悟すべきである。   『道徳感情論』より


僕は何度も絶望した。少なくとも僕にとって人生とは絶望を積み重ねていくことだ。絶望を解消することはできない、乗り越えるか死ぬかだ。けれども、乗り越えられない絶望は与えられないと僕はあくまで信じている。そしてまた、災厄による苦労を―幸い僕の災厄なるものは顕著ではない―表立たないようにひそかに克服していくことが美徳であると考えているからほのめかすことはあれど、告白することは決してしない。それに仮に告白してみたところで、おそらく顕著でないがゆえに、きっとかえって誤解を招くに違いない。僕は真実を愛し、美徳を重んずる。誤解ややましさが入り込む余地が少しでもあるならば、僕は嘘と偽りを厭わない。それでも僕は、その真実に塗りつけた嘘と偽りの一つひとつを剥がしていくことになるだろう。この嘘と偽りは僕の自尊心を守っているものであるから、それを剥がすことは僕の弱さを明らかにすることで、それに負けないだけの力を獲得しなければならない。僕はその力をグレートと呼ぶ。己の弱さを乗り越えよ(弱さは克服するものでない)。汝、グレートであれ。
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誤算


僕の予想は大きく外れた。ブログを始めて十分に時間は経過した。記事を重ね、内容を充実したものにすれば、おのずと人の目に触れることも増え、こう言ってよければ、同志と呼べる人たちとの有意義な交流が期待できると考えていたのだ。名高い文学作品をバランスよくちりばめながら、名言や名文を取り上げて現代風、あるいは個人的観点、つまり特定の観点からの探究、こうした試みは少なからず一般的な人間であるならば興味をひかれるだろうと思った。しかし、違うようである。今の時代に文学作品は必要であるが、必要とされていない。共通認識として存在しえない文学はもはや力を持たない。かつては共通の話題にもなったことだろう。お互いの思想や考えを代弁するためのいい道具ともなっただろう。多様化し細分化した現在において、共通認識ということがどれだけ可能なのだろうか。お互いが好きなことを話し、とんちんかんな会話を繰り返しながら、互いに誤認識、誤解を重ねていく。相手の理解よりも、自分の主張、それが重要視されている。みんな、読むことよりも発信することに関心がある。金のため、話題のために、薄っぺらな知識に裏付けられた小気味よい言葉が周囲にあふれている。

僕は愚かであった。多大な時間と労力を無駄にした。書かないでいいことも書いたし、書きたくないことまでも書いた。人の目に就いていないのだからまったく問題ないのだが、少なからず何かを傷つけたし、何かが減じたであろう。十中八九読まれないであろう、一つの小説をかきあげるか、思考の断片かつ一過性のもので埋もれるブログを書き続けるか、その選択を考えたとき、僕が選んだのはブログであった。しかし、今この瞬間、僕は敗北し、失敗した。その選択は誤りであった。書き続けて感じたことは、僕が自分で考えている以上に、一般性から外れた、異常性を有しているということであった。当然共感も得られなければ、人からの関心も得られようはずがない。「孤独な放浪者の随想」、このタイトル自体が矛盾していることに僕は薄々気づいていたが、振り返ってみて、間違いなく孤独な放浪者の随想であったと思う。全力を尽くして小説に挑めば、なにか道が開けるかもしれない。僕は挑戦してみたい。諦めないという姿勢だけは持ち続けていたいのだ。
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人生に与えられた制限の中で汲みうるものを汲みつくすこと 僕の天職


ここで突然鋭い炎のように一つの悟りが私を焼いた。―各人にそれぞれ一つの役目が存在するが、だれにとっても、自分で選んだり書き改めたり任意に管理してよいような役目は存在しない、ということを悟ったのだった。新しい神々を欲するのは誤りだった。世界になんらかあるものを与えようと欲するのは完全に誤りだった。目ざめた人間にとっては、自分自身をさがし、自己の腹を固め、どこに達しようと意に介せず、自己の道をさぐって進む、という一事以外にぜんぜんなんらの義務も存しなかった。―そのことは私の心を深くゆり動かした。それが私にとってこの体験の結実だった。しばしば私は未来の幻想をもてあそび、詩人としてか予言者としてか画家としてか、あるいはなんらかのものとして、自分に定められているかもしれない役割を夢想したことがあったが、それらすべてはむなしかった。私は、詩作するために、説教するために、絵をかくために、存在しているのではなかった。私もほかの人もそのために存在してはいなかった。それらのことはすべて付随的に生ずるにすぎなかった。各人にとってのほんとの天職は、、自分自身に達するというただ一事あるのみだった。詩人として、あるいは気ちがいとして終ろうと、予言者として、あるいは犯罪者として終ろうと―それは肝要事ではなかった。実際それは結局どうでもいいことだった。肝要なのは、任意な運命ではなくて、自己の運命を見いだし、それを完全にくじけずに生きぬくことだった。ほかのことはすべて中途半端であり、逃げる試みであり、大衆の理想への退却であり、順応であり、自己の内心に対する不安であった。新しい姿がおそろしくかつ神聖に私の前に浮かんで来た。それは百度も予感され、おそらくもういくども口に出されたものであろうが、体験されたのはいまが初めてだった。私は自然から投げ出されたものだった。不確実なものへ向かって、おそらくは新しいものへ向かって、おそらくは無へ向かって投げ出されたものだった。この一投を心の底から存分に働かせ、その意志を自己の内に感じ、それをまったく自分のものにするということ、それだけが私の天職だった。それだけが!   『デミアン』ヘルマン・ヘッセ著より


夢を見て、努力の先にそれを掴むこと、それが人生の目的であり甲斐であると信じていた。人生は自由であり、可能性であると、それは前向きであるし、建設的で進歩的でさえある。しかし事実ではない。理性、主に想像力は人間が達しうる活動範囲の最大値を担うのだが、肉体の制限を受けなければならない。もし仮に肉体的欠損が我が身に起こればその瞬間に人生は大きく変わる。当たり前が当たり前でなくなったとき、人間は初めて、自分の運命というものを意識するのかもしれない。

人にできて、私にできない―これは大きな絶望となる。社会生活を営む中での足かせとなる。厳然と存する、制限。一生片時もはなれることのない制限は僕を苦しめた。そこに意味を見いだすために、神を創造してみても、その事実から目をそむけ、ごまかし、運命の決定の先延ばしになるに過ぎなかった。また自分を選ばれしものだと考えようにも、世界になんらかあるものを与えようにも、自分は世界から大目に見てもらっている弱い存在であるという意識が、そうした意気を挫いた。あきらめるのとは違うが、芸術的作家として生きることは期待できないし、経済的行動派としても期待できないであろうことは明白であった。家族を十分に養うということや、近親のものに満足を与えることもまた期待できなかった。けれどもそれらは付随的に起りえないというものでもなかった。ただ、期待さえあれば人は不安を抱かないものであるから、期待させれないことが歯がゆかった。生物であり、人間である能力の欠如は痛烈に弱さという自意識に強く結びついていた。けれどもまた真っ向からその事実を把握し対峙している自分をも見いだしたのだった。自然は僕を生み、僕は存在している。不確実なものへ向ってか、新しいものへ向ってか、無へ向かってか僕は投げ出されたのである。その意志を自己の内に感じながら、それを自分のものにし、人生に与えられた制限の中で汲みうるだけのものを汲みつくすこと、それが僕の天職なのだ、それだけが!
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善良なものは忘れられているか、笑いものにされている 正当な契約が成り立つ社会を求めて


わたしたちに欠けているのは富み栄えていく国民の歴史だ。そういう国民は、十分幸福で、賢明なので、それについては歴史はなにも語ることがないのだ。そして、じっさい、現代においても、もっともうまくいっている政府はもっとも話題にのぼることの少ない政府であることをわたしたちは知っている。わたしたちはだから悪いことしか知らないのだ。よいことが一つの時期を画したというようなことはほとんどない。有名になるのは悪人だけだ。善良な人間は、忘れられているか、笑いものにされている。だから、歴史は、哲学と同じように、たえず人類を中傷していることになる。   『エミール』より


わたしたちは経験に最も多く学び、歴史から多くを学び、忠告からわずかに学ぶ。つまりある人が何を経験してきたかによってその人の人格や思想が形成が左右される。ゆえに、思案することよりも、行動することを僕は推奨したい。だが、今回の主題は歴史についてであり、わたしたちに伝えられる世界、実際の世界ではあり、構築された世界がどうであるかということだ。

わたしたちが常に見ている世界のほとんどは何物かによって、あるいは何かによって効果を付与されたものである。事実のある一部分をさも全体であるかのように映し出しているかもしれないし、実際とは違う情報を流しているのかもしれない。とくに今の時代にあっては、情報が即座に利害を生むので否応なく利害関係によって歪曲させられてしまうか意図的に選択されたものとなっていることが多いにちがいない。

こうした中で、ブログやツイッターなどは真実を伝えうるメディアとして活用できる可能性をもっている情報伝達手段だと僕は考えている。もちろん、多くのブログやツイッターはお金を稼ぐためか、名誉を得るために公開されているのでそうした役割を担い得ないのだが、中には、―ほとんどが埋もれてしまっているというのが現状なのだろうが―真面目で良心的なブログやツイートをするユーザーが存在している。僕はブログやツイッターを通して、そうしたユーザーを発見して、今後発信していきたいとも考えている。とはいえ、僕自身がまだまだ有意義なブログやツイートをできていないので、こちらの方が先決になってしまっている現状ではある。また、同時にこれらは、わたしたちが求めてやまない、「正当な評価」も可能にすると信じている。世の中にはまだまだ不当な契約が多すぎると僕は感じる。厳然として存在する、不正がはびこる社会との付き合い方を考えながらも、真実と正当な評価、契約が成立する場の開拓も勧めるべきではないだろうか。社会と家族・友人との間に存在する新たな社会とでもいうものだ。

(真面目で良心的なサイト、ブログ、ツイートにたどり着くために有効な検索エンジンがあればいいがこれはまだまだ難しそうだ。キーワード検索をすると商品のサイトか広告がべたべた貼られた一般受けのする甘い誘惑満載のサイトが上位にきていつもうんざりする。)

客観的に善良なブログといえるかどうか、それは定かではないが、僕自身は善良であろうと欲しているし、そのつもりで発信しているので、このブログが忘れられているかのように(むしろ存在していないかのように)、ほとんどのネット利用者の目に触れないのはある意味でいい兆候なのかもしれない(善良であるという証拠?)。けれども、やはり公正な社会の一端を担う為には、善良なユーザーの目にとまる必要はあるので憂慮すべき事態であるから、諦めず、地道に発信し続けていきたい。諦めないことは、ときに美徳でもあるのだから。
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日本社会に対する危惧 成功する仕事の手順


「あすのことを思い煩うな。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」(マタイによる福音書6-34)人間は想像力という危険な賜物を神からさずかっているが、これはわれわれの実力をこえた、はるかに広い活動範囲をもっている。想像力はわれわれの計画する仕事の全部を、なしとげ得るはずのものとして、一時に目の前に置いてみせるが、人間の力はそれらをつぎつぎに一つひとつやりとげて行くことしかできない。そこで、この目的のために、常に元気を新たにしていかなければならぬ。だから、いつもただ、今日のために働くという習慣をつくるがよい。明日はひとりでにやって来る、そして、それと共に明日の力もまた来るのである。   『幸福論』より


もちろん仕事は、特に精神的な仕事はなおさら、丁寧にすべきである。が、しかし、何一つ言いおとさず、読み残さぬというように、全部を尽そうと思ってはならない。そのようなことは今日、もはや誰の力にも及ばぬことである。一番よいやり方は、比較的せまい範囲を完全に仕上げて、そのほかの広い範囲については本質的な要点だけに力を注ぐことである。あまりに多くを望む者は、今日では、あまり成績のあがらないのが普通である。   『幸福論』より


「明日から仕事かー」、あちらこちらで、こんなため息交じりの声が聞こえてくる。誰か相手がいて、その相手にこのようにこぼす人もいるし―そしてお互いに共感し合ったりなんかして―、独り、布団に入っていよいよ明日が来るという間際になって、闇に向って嘆く人もいる。最近ではツイッターでネット上という虚空につぶやいている人が驚くほど多くいる。勤勉と賞される日本人が現代ではこの有様。この国民の美点は今、どこにあるのだろう?製造における技術の高さも、その流出や他国の成長によって以前ほど突出してはいないのではなかろうか。とにかく僕はこの「仕事が嫌だ」という叫びが日本社会を覆っていることをとても危惧している。これは異常というしかない。仕事は喜びであるとまでは言わないけれど、人間が人間であるための基本的な活動が働くことであることは疑いない。だからそんなさむしいこと言うなよと思う。

思い煩っても明日は来る。明日は明日の風が吹く。と気楽に構えていても同様に明日はやって来る。だったら今日を生き、明日は明日の自分に任せてはどうだろうか。仕事なんかほとんどが繰り返しで、明日急に仕事が変わるわけではないのだから、今までやれていた通りに明日もきっとやれるだろう、やりきることができるだろう。自信とは少し違うのかもしれないが、自分を本当の意味で信頼しなくちゃならない。

加えて、僕は言いたい。そんなに嫌ならそんな仕事辞めたらいいじゃないかと。人それぞれ辞めない理由をさまざま聞いたことがあるけれど、今まで一つも「ああ、それは辞められないね。」という納得のいくものに出会ったことがない。誰もが「生きるため」とわかっていながら、勝手にそれにいろんな解釈、諸条件を付加して苦しんでいる。「死にたくはないけれど、生きたいわけでもない」という絶望にいる人もいるであろう。僕はどうあっても、「生を肯定したい」そして皆が、一人残らず幸せであらんことを願う。「死にたくない」は結構。「生きたくない」を問題としよう。怠惰に生きて、楽に暮らしたいと欲しているならば、その根性を叩き直すべきである。「世の中は所詮金だ」と悟った気になっている一般市民は自分が何も持たず、何も両親や周りの人から与えられなかったことを悔やみ、呪うがいい。その当人が金持ちになった日には大事に抱え込んで、かつて己がそうであったにもかかわらず一般市民に対して何の恵みも与えないことだろう。世の中のほとんどすべてが誰かの持ち物で、そこに後から私たちがやってきたのだから肩身の狭い思いをするのは当然ではないか。贅沢言うなかれ。身分を嘆くな。金持ちの人は、運が良かったですね、おめでとうということにする。そしてこれからうまくやっていってくれとしか言うことはできない。


僕は現実に仕事を行う上で、「比較的せまい範囲を完全に仕上げて、そのほかの広い範囲については本質的な要点だけに力を注ぐことである」という言葉が真実であることを実感している。全体をぼんやりと仕上げるよりも、主要部をしっかりと仕上げ、全体をまとめあげた仕事というのは鮮やかであり、見事な印象を与える。僕は仕事でお客様に手作業によるサービスを行っているのだが、お客様の目線に立って、もっとも関心、あるいは注意の及ぶところを入念に手を入れるようにしている。すべてを完璧に仕上げようと思えば思うほど、視野が狭くなってしまい、結果として考えられぬようなミス、大きな見落としをしてしまうことがある。中心となるものに最も注意を払い、全体を見渡して、要所を十分なレベルに仕上げ、それらの周辺を全体のバランスを考え、整えるように仕上げていくという手順で行なうと、経験上、上々の出来となる場合が多い。
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ハードボイルドへの目覚め 紳士的ダンディズム


仕事を始めて、案の定、自分の時間が大きく減ってしまった。始める前から分っていて、覚悟の上で就職したのだから不満も残念もない。少し月日が経ったから体力や気持ちの面で余裕も出てきたので読書の時間を確保できるようになった。だが、自分の言葉に直したり、あるいは表現するというところまでは至っていないのでまだまだ改善をしていかなければならない。それに、夏が近いということもあるし、成年男子として肉体、体力の鍛錬、維持にも努めなければならず、そのためのトレーニングも生活習慣化させなければならない。もちろん健康のための体のケアも怠ってはいけないから、全く時間が足りていないのが現状だ。

僕はここで現状に対して怒ったり、不平を言うつもりはない。思いのほか客観的かつ肯定的に見ている。生活も徐々に変わりつつある。その変わりぶり、というよりもむしろどのように生活しているかということもおもしろいと思えるような内容で記述できたらいいと考えている。久しぶりにこうして記事を書いているのも、理由のないことではない。そしてまた少し前回の記事から時間が空いたのも理由がある。僕の中で、はっきり実感としての思想的変化があった。それを簡潔に記しておくためなのだ。

ひょっとしたら、すこし文体に変化が表れているかもしれない。つまり主義の変化とでもいおうか。芸術にしてもそうだと思うが、文学の変遷というのも意味と根拠があることを体験した。僕は岩波文庫を贔屓しているので、―つまり、岩波文庫で出版されているものしか読まないし、ほかの出版社でも訳書が出ていても岩波を選ぶ―いわゆるハードボイルド(といってもヘミングウェイの『日はまた昇る』は出版されているので―友人の勧めもあって(ハヤカワ文庫で)読んだ)は読まなかったし、村上春樹も好きではなかったから、ハードボイルドなるものが好きでなかった。ところが、最近になって、ハードボイルドに惹かれるようになったのだ。自分なりに分析してみると、これまで近代までの名高い文学作品をさまざまに読んできて、種々の思想に触れ、生き方を学んできた。そこでたどり着いた一つの答えは―科学に劣らず、思想もまた相対的である。ということだった。「善悪の彼岸」という存在の意識の芽生えに一度は満足していたのだが、これが先日書いた、出発のあたりの心境だったかもしれない。すべては空である、それでもなにかを欲求する己の心があった。それを満たし得るものが「ハードボイルド」であったのだ。だから文学においてもハードボイルドが生まれたに違いないと僕は考えている。価値観が多様化するなかで、それでも人間は価値を求めようとする。そして、僕が次に求めるべきものだと考えたのが、(僕なりの解釈―「ハードボイルド」=かっこよさなのだが)このかっこよさ、紳士的ダンディズムとでもいうべきものだ。かっこよくなければならない。女性が美しくなければならないのと同様に男性はかっこよくなければならない、そう考えるようになったのだ。この美しさやかっこよさを議論し、考えるべきであって、美しくなくてもよい、あるいはかっこよくなくてもよいという態度は遠慮したい。美徳といわれるものもこれに近いのかもしれないが、異性に対するアピールとしてではなく、人類としての礼儀、人類の歩みに対する敬意としてこれを求めたい。(そういえば、新渡戸稲造著『武士道』の中で、傘をさす場面でのふるまいについての考察があった)
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hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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