人は努力次第 どこでどのように暮らすのが幸せなのか


雨があがって、アイルランド人の家をあとにし、もう一度湖のほうへ足を向けたとき、ひと里離れた草地や、ぬかるみや、沼地の穴ぼこや、さびしい荒れ地を渡り歩き、いそいそとカワカマスを釣りに行くなんて、学校ばかりか大学にまで行かせてもらった人間がするにしてはあまりにつまらないことではないか、という思いが一瞬のあいだ、頭をかすめた。けれども、肩ごしに虹をふり仰ぎ、洗われたような大気を通してどこからともなく運ばれてくるかすかな鐘の音を聞きながら、夕焼け色に染まった西のほうへと丘を駆けおりたとき、私の守護神がこう言っているように感じられた。日ごとに遠く、広く、釣りと狩りに出かけるがよい―さらに遠くさらに広く―また心おきなく、あちこちの小川のほとりや炉辺で憩うがよい。汝の若き日に、汝の創造主を記憶するのだ。   『森の生活』より


「hajimeさんがこんな仕事をしているのはもったいないですよ。事務仕事だって十分に勤まるんですし、ホワイトカラーでないにしても、もっと金になる仕事したらいいじゃないですか。まだ若いし、能力もあるんですから…」

仕事の相棒が休憩の合間にこんなことを僕に言った。

「いやー、僕好きなんですよね、この仕事。お客さんに直接ありがとうを言ってもらえるし、なにより苦にならない仕事ですから」

「この仕事は麻薬みたいなものですよ。一度やってみると楽しみやらやりがいを見出してしまって、なかなかやめられないんですね。それでいて、儲かるような仕事でもなし、じきにひどい仕事も舞い込んでくるようになって、しんどくなったり嫌になったからって専門的な仕事ですから簡単に他業種へ転職するわけにもいかず、気が付くといろいろなものを失ってしまったという状況に追い込まれていたりするんです」

僕からいわしてもらえば、よっぽど相棒のほうがもったいない。精神面、技術面で能力が非常に高く、仕事に対する姿勢もプロフェッショナルそのものなのだ。たしかに、彼が言うとおり失ってしまったものというのが選択肢であったり、身辺環境なのであろう。彼の話を聞いていると、仕事こそが彼の人生という気がした。尊敬しないではいられない。

しかし、能力とはなんの意であるか?社会生活における欠陥、ハンデがあること、能力があるにしても、それを用いるのに難があるのであれば、それは能力がないのと同じではないのか。このことが僕の自尊心を大きくしてしまっているのではあるまいか?発揮はできないけれど、能力はあるのだ。と考えるのは意味を持たない。発揮できないのは能力がないのと同じだ。こうした信念のために今の仕事や環境に身を置いているのもまた事実である。今の仕事よりももっと有利な仕事が勤まるようでもあるし、僕が勤まる仕事で今の仕事がもっとも有利な仕事であるようにも思う。多くの人が、状況は違えどこうした悩みをもっているかもしれない。

欠陥があるからこそ、それを補うための能力が自然に従って備わったまでで、この時点では常人と変わらない、やはり自分自身の努力次第なのかもしれない…それは希望でもある…。

僕の家の近くには、川も湖もない。山は見えるが歩いて行ける距離ではない。釣りは大仰な企てであるし、僕の家から西の空も東の空も望むことはできない。『森の生活』のほぼ対極にある生活だ。だからこそ『森の生活』には考えさせることが多くある。ほとんど僕の体験したことのないその生活が僕がどうして知り得よう?しかもそれを実際に体験することは現実社会で考えたときリスクを伴わないことであろうか?僕は決心がつかないでいる…。

田舎暮らしをしてみたら?海外で暮らしてみたら?一度しかない人生をどのように生きていくのか。どこで暮らすのが自分にとって幸せなのか。最近ずっとこのことを考えている。仕事による制限があるので、選択肢は現状では狭まるわけだが、逆に選択肢が狭まることで、選びやすいともいえる。家族や友人との距離感、そして自然あるいは都会との距離感をどのくらいに保つのが心地いいのか。僕はどこでどのように暮らしたら多くの幸せを感じられるのだろうか…?
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幸福を求めるわけ

幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである。   『アンナ・カレーニナ』


僕が執拗に幸福を求め、異常なまでの執着をもってこのブログを書いているのは理由のないことでない。最低限得られるはずの、いや得られるであろう幸福が得られなかったからである。幸福な家庭、僕はどれほどこれを望んできたことだろう。

家庭が円満かどうかというのは、外から見てもわからない。実際の当事者でなければ決してわからない。仮に、その家庭内を覗き見ることができたとして、会話であふれていたとしたらきっと円満な家庭ということになるだろう。人と人とは会話でつながる、会話がなければ心と心は離れてしまう。いつの日からか、僕の家庭から会話が減った。何よりも僕自身が話さなくなった。話したくなくなった。いや、話を聞いてもらえなくなった。わかってもらえなくなった…。――……。

僕の家族は知らない間にばらばらになってしまっていた。みんなが好き勝手に生活をし、ただ一つ屋根の下に共同生活しているのであった。お互いがお互いに理解を示そうとせず、皆が皆自分が正しいと信じて疑わず、耳を貸さない。それぞれがそれぞれに話したいことを話して、誰も聞いていない。自分が話したいことが終われば満足して、自分が話せる機会が来るのを聞くふりをして待っている。結局、話したいことを聞いてもらえないから、こうやって文章にして書いて、本を読んで言葉を聞いていると思い込み、錯覚の会話をしているわけだ。僕はさみしい人間なのかもしれない。聞いてもらえる話ができない僕も悪いのだ。もっと「ファジー」にとのアドバイス、「クソマジメ」、これが僕の形容詞となった。ふざけて身勝手なのが、見てて楽しいかもしれない。けれども自分は楽しくない。「美しい生き方」だけが僕を励ます。「美しく生きる」こと、「清く、正しく、美しく」の教えの宝塚はやはりすごいんだろうなと思わないではいられない。人としてあるべき姿と僕は思う。

僕の住んでいる家は一般と比べると立派な方だろう。お金に苦労した覚えはないからその点では幸せだった。けれども、家は広くても、住人の心は狭かった。人口密度が薄くなって、心と心は離れるばかりであった。もしも修復できるのであれば、修復したい。けれどもう手遅れだった。幸せな家族になれなかったことが残念でならない。

どうか、会話をしてください。お互いを認め合って、互いの人格を尊重して理解を示してください。あなたのそばにいるひとの話をよく聞いて理解を示せばそれでいいのです。感謝の気持ちを伝えましょう、そして自分を感情にいれずに受け止めてあげましょう。ときには褒め合い、時には戒め合い、慰め合いましょう。共通の哲学、宗教を持ちましょう、「お金より大事なものがある」こんなことすら共感・共有できなかった。信頼関係を築くのは難しいが、壊れるのはあっという間だ。そして、一度壊れてしまったら、ほとんど修復することは不可能なのだ…。

だから僕は求めているのだ。別の場所に、幸福の幻を…
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人生で求めるべきもの「友」 相手を思い、時間をかけ、少しずつ仲良くなっていく

人間の心にとっては、はっきりとわかっている友情の声以上に重みのあるものはなにもない。友情がわたしたちに語ることばはすべてわたしたちの利益のためであることがわかっているからだ。友人もまちがったことを言うばあいはある、しかし、友人はけっしてわたしたちにまちがったことをさせようとはしない、と信じていい。ときには友人の忠告を聞き入れないことはあっても、それを無視するようなことをけっしてしてはならない。   『エミール』より


人生で求めるべきもの、それは深い「友情」を感じることのできる友人である。友の存在は、ときとしては家族をも超えるほど自分にとって大きいものとなる。家族には言えない悩みも友になら打ち明けることができる、こんな経験を誰もが一度はしたことがあるはずだ。

友情を感じる友人を得ることは難しいことであろうか?そして本当に孤独を好むひとははたしているのだろうか?
「類は友を呼ぶ」という言葉があるが、これは当たり前と言えば当たり前のこと。友人であるということ、つまり仲がいいということはコミュニケ―ションが円滑に行なわれる、の意と考えていいだろう。人間のコミュニケーションの手段の第一のものは言葉で、それに付随する表情や動作がこれに続く。言葉の遣り取りがスムーズに行われるには、相互の知識量や思想傾向のバランスが取れていることが必要である。いや、そんなことはない、まったくタイプの違う二人でも友人同士というのはありうる!ともいえそうだが、僕は「友情」を感じる関係にまでは発展していないと判断する。あるいは、実はタイプは違っていても、知識量や思想傾向に共通点があったりするものなのだ。だから、「友を呼ぶ」ためには、自分の知識量と思想傾向を良識を伴いながら発信することだ。僕自身、正直、そうした理念のもと他者と接することにしているので時には、困惑させてしまうこともある。多くの人に「この人とっつきにくいなー」、「ちょっと変わってるな…」という印象を与えているに違いない。とはいえ、こうしたふるまいをするのは、あくまで「友を呼ぶ」(友を求める)ときであって、基本的なスタイルは「一期一会」の精神で誠心誠意を尽くし、その場をお互いに気持ち良く過ごせるよう努力するというものなので、大きな問題は起こらない。この切り替えをしっかりとすることが、大人のたしなみといったところなのかもしれない。先輩、後輩、男性、女性というように相手によってもまた当然言動は変化させるが、スタイルを変えてはいけないと思う。実際、これはかなり難しい。年上や異性にはよからぬ欲、下心が頭をもたげてき、年下や同性に対しては自尊心が大きくなったりする。媚び諂い、虚勢をはっていたのでは、円滑なコミュニケーションなど不可能だ。コミュニケーションはどんな関係を築くにもせよ、星の王子さまとキツネのように時間をかけ、少しずつ、仲良くなっていくということだ。僕たちは急ぎすぎる。文明の発展であらゆるもののスピードは格段に速くなった。しかし、今ではスマートフォンなどで他者との繋がりも以前よりも簡単になった。だからといって、人同士が即席に仲良くなり、信頼を築けるようになったわけでは決してない。人と人との絆は、あらゆるもののスピードが速くなっても、決してすぐに築きあげられるものではない。文明の発展で、僕たちは自由にできる時間が格段に増した。その時間を人との絆を深めるために使ったらどうだろうか。

「愛するとはどういうことかわかりはじめてきたかれは、一人の人間を愛する者に結びつけるのはどんなに快い絆であるかということも知っている」   (エミール)
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霊肉の栄養となる「技倆」


君は、われわれの生活費以上莫大な金をもうけてもその銭は大したものではないということを心得ねばならぬ。つまり銭をふんだんに有っていても、君はそれを使いつくすわけにはゆかず、従って君のものではない、使えない財産はすべて一様にわれわれのものであって、君が自分の生活に役に立たないほど儲けてもそれは悉く君の意のままにならぬ他人の掌に握られている〔も同様な〕のである。しかし二つの遠近法の理論によって研究しよく推敲するならば、君は銭よりも偉大な名誉を賦与する作品を残すことになるだろう。けだしそれのみがひとり名誉なのであって、銭を有っている人はそうではない。そういう人はしょっちゅう嫉妬羨望の的、泥棒のねらいの的となり、その生命といっしょに富豪の名声も消え去り、財宝の名はのこるが、財をためた人の名はのこらない。人間の技倆の名誉はかれらの財宝のそれよりはるかに偉大な光栄である。いかに数多の皇帝やいかに数多の王侯が何の記憶ものこさずに過ぎ去ったことだろう!かれらは自己の名を残さんがたまに、一途に豪壮な生活と富とを求めたのである。技倆をゆたかならしめんがために銭の足りない生活をおくった人がいかにたくさん居ったことであろう!技倆がかの富にまさればまさるほどかかる願望は、金持よりも芸術の名人の遂げるところとなるものだ。君は財宝というものが科学のようにそれ自身で金をためた人の名を死後まで揚げるものでないことを知らないのか。科学こそ永遠にそれを創った人の証拠となりラッパとなる、けだしそれは、銭のように、継子ではなくて、それを生んだ人の娘だからである。

また、もし君がその財貨によれば食欲や色欲をよりよく満足さすことができるが、技倆ではだめだというなら、他の畜生同然、もっぱら汚らわしい肉体的欲望に仕えてきた他人のことをつくづく考えてみたまえ。一体かれらのどんな名が残るだろうか?もし君が生活の必要とたたかわねばならぬために研究したり自分を本当に立派な人間にする余裕がないと弁解するならば、それは君自身に罪を着せることにほかならない。けだし技倆の研究のみが霊肉の栄養だからだ。富家に生まれながら、財宝によって汚されないため、自ら財宝と縁を断った哲学者がどんなに多いことであろう!

またもしも子供を扶養する必要があるからと弁解するなら、子供たちにはわずかなもので十分なのだから、忠実なる富である技倆を滋養となるようにするがいい。何故かなら技倆は、死なないかぎり、われわれを見捨て去ることがないのである。そしてもしも君が老後の年金にするよう、予め一定の貨幣資本をこしらえておきたいというなら、この研究は絶対に着手されないだろうし、君を老熟させることもなく、技倆の容器〔たる頭〕は夢とむなしい希望でいっぱいになってしまうであろう。   『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』より


レオナルド・ダ・ヴィンチはルネサンス期の人物なので、ずいぶん昔に生きていた人である。今とは全然違う世界で生きていた人の言葉がはたして現代に生きる僕たちにとって有用なのであろうか?多くの人はひょっとしたらそのように感じるかもしれない。しかし、このレオナルド・ダ・ヴィンチは遥かに時代を先取りしていた。いや、自然をはじめとする事象をよく観察し、論理的に考察することができた。ただただこのことに尽きるように思う。天才とは迷いや惑いのない人間のことなのかもしれない。レオナルドは歴史上において圧倒的存在感を示している。

この論の中で、彼は「技倆」を重要視している。そして僕は「技倆」の向上を伴う「仕事」をやるべきだと思う、そして僕自身そういった仕事をやりたい。だが、今の仕事からは残念ながら霊肉の栄養となるような「技倆」を期待することは難しそうだ。しかも、明確に示されているわけではないのだが、一定の期間が設けられた仕事であり、その期間を終えた後にどのような形態の仕事となっているかは見当もつかない。もしかするとそこでひと段落ということになってしまえば向上した「技倆」も役に立たず、ということになる。それを活かした仕事に就く、あるいは考えるということもできるだろうが、そもそもがお金になるような仕事ではないので、現実的な生活を考えたときにはたして、という不安は拭い去ることができない。つまり、この「技倆」そのものが限定的なものであり、霊肉の栄養となりうる「技倆」を求め、その末に仕事と結びつけるという努力をしなければならないということになる。それは絵画を描く技術であったり、自然科学の学問的知識、あるいは研究ノウハウであるのかもしれない。ここでは導き、発見した理論であったりもしている。さて、こうしたものを眼前にしたときに痛感するのは、僕が年老いた人間であるということである。僕が身を入れてしてきたことといえば、読書とブログの執筆、幸福の探求くらいのもので、これらが「技倆」と呼べるかどうか疑わしい。科学と芸術、どっちつかずのものが「文学」であり「宗教」ではあるまいか?読書とブログの執筆は「文学的活動」であり、幸福の探求は「宗教的活動」に過ぎないではないか。たしかに、レオナルドが求めたような名声を僕は期待していないし望んでもいない。けれども、生きる意味、生きる意欲を見出すには最もいい材料であるかもしれない。「人生は退屈である」、これは「美」や「名声」を求めぬがゆえに引き出された真理ではあるまいか。

「人生は退屈である」、私利私欲を去ったとき直面するのがこの問題ではないか?退屈を超越したところが無心や悟りということか?けれども、こうして文章を起しているときはたぶん楽しい。楽しんでいる。できることなら、この文章が他の人にとっての退屈しのぎ程度のものになってくれればいいと、そんなことを考えた。暇つぶしで精神が向上するならばすばらしいことではないか。引用している言葉、注目している思想には自信がある。あとは僕の言葉次第、「技倆」次第なのだ。
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すべてのものがあふれる時代、けれども楽に手に入るものは脆くて役に立たないものなのだ。


われわれは実際、怠惰、逸楽、浪費、無節度、吝嗇などに慣れると同様に、また勤勉、節制、倹約、正直、寛大の習慣をも養うことができる。そして、ここで言い添えておきたいのは、どんな人間的美徳も、それがまだすっかり習慣となってしまわない限り、たしかにわが物とはいえないということである。

(中略)

まず何よりも肝心なのは、思いきってやり始めることである。仕事の机にすわって、心を仕事に向けるという決心が、結局一番むずかしいことなのだ。一度ペンをとって最初の一線を引くか、あるいは鍬を握って一打ちするかすれば、それでもう事柄はずっと容易になっているのである。ところが、ある人たちは、始めるのにいつも何かが足りなくて、ただ準備ばかりして(その後ろには彼等の怠惰が隠れているのだが)、なかなか仕事にかからない。そしていよいよ必要に迫られると、今度は時間の不足から焦燥感におちいり、精神的だけでなく、ときには肉体的にさえ発熱して、それがまた仕事の妨げになるのである。

また他の人たちは、特別な感興のわくのを待つが、しかし感興は、仕事に伴って、またその最中に、最もわきやすいものなのだ。仕事は、それをやっているうちに、まえもって考えたのとは違ったものになってくるのが普通であり、また休息している時には、働いている最中のように充実した、ときにはまったく種類の違った着想を得るということはない。これは(少なくとも著者にとっては)一つの経験的事実である。だから、大切なのは、事をのばさないこと、また、からだの調子や、気の向かないことなどをすぐに口実にしたりせずに、毎日一定の適当な時間を仕事にささげることである。

われわれの内部の狡猾な「古き人」(使徒パウロの言葉を借りれば)でも、どうしても一定の時間だけは働かねばならず、ただ休んでばかりいてはならないのだと悟るならば、そんなら、今日どうしても必要な事だけはとにかくやろうという決心が、割合に容易につくものである。   『幸福論』 ヒルティ著より


仕事をするようになってからずっと考え続けているのは、仕事に対するモチベーションの持ち方と維持についてである。基本的にはどんな仕事であっても、自分の都合ではなく、お客様の都合が優先となり、また会社勤めをしているのならば、定められた勤務体系を順守しなければならない。人間なのだから気の乗らない時もある、しかし仕事はやってくる。そうした気分の時に「人の役に立ちたい」というような気持ちを持つことは難しく、本来であれば仕事があることに感謝し、お客様に対しても感謝と誠意をもつのは当然であるにもかかわらず、「なんとなく仕事が嫌だなあ」という気持ちになってしまう。「仕事が嫌だ」という風に感じてしまう、人間の怠惰さは非常に問題であるが、どうもこれは人間の性質に近いものであるようである。大半の人の口から、「仕事を辞めたい」、「やらなくていいなら、お金があるなら仕事をやりたくない」という言葉を聞いたことがある。これは大変嘆かわしいことである。しかし、名著はこの問題に解決のヒントを与えてくれる。「やり始めてみる」ということは、実際に僕は毎日実践することにしているのだが、驚くほど効果的である。僕たちは、一日の始まりに、その日一日の仕事を想像してしまう。山積みになった、すぐには片付けられそうにない仕事を目前にして、意欲を掻き立てられる人間などいないであろう。こうした一日の仕事量や、これからやらなければいけない仕事の全体量を改めて確認する必要は全くない、すでにその日にはその日に決まった仕事というものがあるものだ。それを憂いてみたって仕方がない。一つひとつをこなしていって、速やかに仕事を全うしなければならないのだ。そして、その仕事というものは、その特性上すでにあなたが今までも十分にこなしてきたものであって、無理難題というものでもない。案外に、やり始めてみると体のほうが自然に動き、それに伴って発見があったり、楽しみがあったり、ときには喜びがあったりする。仕事をすることで、自分になにが返ってくるのか考えてみるといい。仕事はいつでも担い手を成長させてくれるものだ。逆に、担い手が仕事の主人となってしまったとき、新たな一歩を踏み出すとしたらそれは必ず新しい可能性となる。仕事とはともに成長できるのだ。

ヒルティ著『幸福論』は僕にとって大きな意味を持つ書物の一つであり、労働の価値を僕に明らかにしてくれ、労働へと僕を向かわせた。それほどまでに影響を与えるツールとして書物、もっといえば名著というものは強力だ。最近、僕たちを惑わしかねないメディアとして僕が批判的にみている「tabilabo」というサイトがある。見た目や構成はクールで実に魅力的につくられているのだが、その内容というのが実に薄っぺらく、脈絡もなく、コンセプトもあいまいな奇妙奇天烈なものなのだ。魅惑的なキャッチコピーがつけられた記事、しかし、ひどく説得力が欠けている。思想や言動というものはそれほどインスタントに学び、戒められるものではない。ファッションと思想は違う。思想が安売りされ、受け売りされているのは見るに堪えない。本物を見るべきなのだ。真実の言葉を、経験と熟考、思索の末に結実した思想をそれ相応の苦労と苦悩との引き換えになんとか獲得するべきなのだ。すべてのものがあふれる時代、けれども楽に手に入るものは脆くて役に立たないものなのだ。
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hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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