血は争えない 教育も教養も所詮は誤魔化し 社会での適切な住み分け


「或る人間の魂から、彼の祖先たちが最も好んで常に不断に行って来た事柄を拭い去ることはできない」

「或る人間がその両親と先祖の特性や偏愛を体内に宿していないということは、全くありえないことである」

「最善の教育と教養の助けによって成し遂げうることは、ただこのような遺伝を誤魔化すことだけにほかならない」   『善悪の彼岸』より


性別、人種、宗教、こうしたものにおける差別は決して許されないが、区別は必要だと思うし、当然あるべきだろうと思う。たとえば男女の性差、社会的性差などにおいて特に、平等ということが近代から現代にかけてずっと議論されている。女性蔑視が今も昔もあることは否定しない。けれども、平等といって男性化した女性と女性化した男性が出現するきっかけをつくってしまうのも、社会として重大な欠陥を生み出しかねない。私たちの魂から今まで祖先が命を受け継いできた過程、原始を含めた事柄を拭い去ることはできないのだから、男と女の差異は必ず存在する。男は狩りをしてきたし、女は子を育て、穀物や野菜などの食料を生産してきた。男には力が備わり、高い判断力や空間把握能力を持っているし、女は子を扱うためのしなやかさや植物などの生産に関しての計画性を持っている。他にも男同士はつるむことなく、それぞれに狩場へ向かうが、女同士は意見を交換し合いながら、植物の生産や子育てを円滑に進める。このように、男女には先祖から脈々と受け継がれた特性というものがある。それを殺すような社会をつくるのならば、私たちに明るい未来はない。

これを個人レベルで見てみると、親子間においても似たような現象が起こっていることがわかる。僕自身の人間性を分解してみても分かることだが、両親のどちらにも見出されない僕特有の性質というのはただのひとつも存在しない。僕のどの断面を見てみても、それが少なくとも両親のどちらかから受け継いだものであることに気づく。子を嘆く親はいつの時代もいるようだが、それでいて、決して親自身が自らを戒め、改めることはない。自分自身ではなく、自分の技術の用い方を疑って、技術の真偽を問うことはしないようだ。子の人間性の要因はすべて親にあるといってはばからない。

思想、宗教や教育、知識や常識も、所詮微々たる力しかもたない。先祖代々、そして親から受け継いだ血、というものはなかなか清めることはできない。まさに、誤魔化すことがなんとかできる程度なのだ。僕が懇々と思想を説いたところで、誰一人の心をも動かすことはできない。洗脳、あるいは錯覚、気の迷いや一時的な気まぐれを引き起こすことはできるかもしれないが、彼の持つ人間性を変化させることは不可能である。ではできることはなんであるのか?思想を発展させ、確実な影響を与えることのできぬ人間同士の交流になにを見出すべきなのか?

私たちができる努力は、人間性に合った、社会における適切な住み分けである。
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「森の生活」を超えて

そのあいだも、主は私に身の上話を聞かせた。自分が、近所のある農夫のために「泥沼に漬かって」必死で働いていること、一エーカーにつき十ドルで、鋤や沼地用の鍬を用いて草地を耕し、その土地を一年間、肥料つきで使わせてもらっていること、例の顔の大きな息子は、父親がどれほど割に合わない仕事をしているかも知らずに、自分のそばで嬉々として働いていること、などである。私は、自分の経験が彼の役に立つかもしれないと思い、次のような話をしてやった。ぼくはあなたのすぐ近くに住んでおり、こんなところへ釣りに来ているので怠け者に見えるかもしれないけれど、これでもあなたと同様に、ちゃんと自分で生計を立てている。ぼくはしっかりとした明るい清潔な家に住んでいる。それは、あなたの家みたいなあばら家の一年分の家賃とほとんど変わらない費用で建てたものである。あなたもその気になれば、一、二カ月で自分の宮殿をつくることができるだろう。ぼくは茶もコーヒーもミルクも飲まず、バターも新鮮な肉も食べないので、そういうものを買うために働く必要はない。また、あまり働かないからあまり食べる必要もなく、したがって食費はいくらもかからない。ところがあなたは、はじめから茶、コーヒー、バター、ミルク、牛肉などを飲み食いしているから、それを買うためには必死で働くほかはなく、必死で働けば、体力の消耗を補うために必死で食べなくてはならない―といったぐあいで、結局、事態は少しも好転しないだけでなく、かえってわるくなるばかりではないか。満足することがないうえに、いのちをすり減らすしているわけだから。にもかかわらずあなたは、毎日、茶やコーヒーや肉が手にはいるというので、アメリカへ来て得をしたと思いこんでいるらしい。ところが唯一真正のアメリカとは、そんなものなしでも暮らせる生活様式を自由に探求できる国であり、そういう物を使うことによって直接間接に生じる奴隷制度や、戦争や、そのほかの余分な出資などに賛同することを国民に強制したりはしない国なのである、云々。   『森の生活』より


現代の社会では、「誰かが誰かを搾取している」。若干文法に誤りがあるにはあるが、つまりすべての人が誰かから何かを無許可で奪っている。そしてそれは労働において特に認められる。よい言い方をすれば、協力し合っているともいえるのかもしれないが、僕にしたって営業さんが必死になって獲得したお客さんがいるから仕事があるのであって、自分で仕事を取ってきたわけではない。仕事がいろんな人が関わり合いながら、助け合って、協力してつくりあげていくものだ。でもなぜだか、自分が卑怯な気がしてならない。けれども現代においてこの搾取の感覚を喪失しているとしたらあまりに無神経だろう。

割に合わない仕事をするよりも、自分で生計を立て、つましく、満足と健やかな命をはぐくむ生活のほうが貴いとソローは説くわけだが、僕は自分自身に、「人の嫌がる仕事をやれる人になりなさい」と言い聞かせてきた。キレイごとをいってもはじまらないので「人の嫌がる仕事」とはなんなのか。僕はこれを自分自身の解釈で受取ってしまった。死や生に関わる仕事はどうしても僕には耐えられないものに思われた。おそらく人の嫌がる仕事なのだろうが、僕には厳しそうであった。そう、僕は頭でっかちで、口だけだ。「汚れ仕事や力仕事、不吉な仕事や危険な仕事」、これらが「人の嫌がる仕事」だろうと思う、この中にぎりぎり含まれる程度の仕事を選ぶことが僕には精いっぱいだった。それなりの給料も休みも欲しかった。こうした、いわゆる底辺の仕事というのは命の危険にもさらされる。間違いなく、死のリスクは働きはじめて格段に上がった。死を思わない日はない。朝の「いってきます」が最後になるかもしれないという日々。僕は正しいのか分からない。けれども自分の選んだ道であるし、それ以外に道はなかったようにも思う。誠実に生きることは難しいことだ。美徳のためには嘘もやむを得ないときもある。

かつて『森の生活』を読んでいた時には自分で生計を立てられるのなら、社会人として働かなくてもいいのではないかと考えていた。こんな社会で働くのがばかばかしくもあった。生産性のない仕事に現代はあふれている、それらに携わることが恥にも思えた。しかし、どこかで必死に汗水たらして、お客に頭を下げて、社長の機嫌をよくしてお金を頂くことに抵抗があった。でも、僕にはお金がないのだ。だから頭をさげて、こびへつらってなんとかお金を、生きるためにもらう必要があった。僕は孤独だとわかっていながら、家族や社会に対して愛の様なものを持っていた。だから彼らと共に生きていきたかった。森で、湖のほとりで生きられるほど僕は強くなかった。そのことに気づいていなかったのだ。

自分で生計を立てるのは当然のこととして、「茶もコーヒーもミルクも飲まず、バターも新鮮な肉も食べないにもかかわらず、割に合わない(お客さんにとっては嬉しいという意味で)仕事をして、そうして得られた報酬を満足と健やかな命をはぐくむことにつかうというのは素敵ではなかろうか?実際に僕は割に合わない仕事といっていい仕事をしているのだが、給料に対する不満はあまり感じていない。境遇が境遇だけにむしろ会社に感謝すらしているくらいだ。あまりエリートというのも困ったものかもしれない。驕ってしまって、不満が出て、満足することがなくなるだろう。人間謙虚になることは難しいから、謙虚にならざるを得ない状態にすすんでなってみるのもいいかもしれない。けれどほとんどの人間はそんなことをしたら、卑屈になるか、意地の悪いどうしようもないものになるだろう。
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スタヴローギン的な私 プレゼントは喜びを増やす習慣


『悪霊』のなかでのスタヴローギンの印象は「特になにもしていない」ということだ。ピョートルやキリーロフなどに思想的影響を与えていることは描かれているが、それらでさえ意志によるというよりは彼らの思想的傾向を後押しするような形態のものであって、彼が何かをそそのかそうとしたり、企てているような類のものではない。けれども、その傾向などの強め方が、「悪」、「冷酷」な方面へなされるというのがスタヴローギンの特徴であろう。彼自身がなぜだか知らないが、「卑劣」、「冷徹」たらんとするのである。僕が、僕自身をスタヴローギン的だと考えたのはこうした「卑劣」、「冷徹」という性質ではなくて、相手の思想的傾向を見抜いたり、今後の事態の成り行きや自分自身の振る舞いが引き起こす影響を理解する能力があるということだ。スタヴローギン的とあいまいな表現にしたのは、こうしたスタヴローギンの能力に近いもの、あるいはこうした心がけを僕自身が実践しているという程度のものだからだが、こうした洞察力や想像力、客観性や判断力を求める姿勢というのは人間社会を生きていくうえで重要になると考えている。逆に、スタヴローギンのような能力をしっかりと持っている人間は世界をある程度は思う様に生きていけるにちがいない。そうした意味で彼は天才であり、神がかっていて、いわゆるカリスマであるのだ。

ただ、この能力は人生をつまらない味気ないものにする。予想したことが起り、すでに結果が目に見えてしまう。現実に対する疑問や不可解性などなく、周りの人たちの煩悶や焦慮に対して非常にばかばかしく、そうした姿に低劣さすら感じてしまうだろう。こうしたことが現実に僕自身が感じていることなのである。人は何度も同じ失敗を繰り返し、そのたびに失望したり、憤ったり、自分自身にふがいなさを感じたりしている。当たり前のことが当たり前に起こっているだけなのに気の毒でさえあったりする。人は「できるか、できないか」が問題となるようだが、僕は「やるか、やらないか」ということが問題なのだと考えている。「やることはすでにできることを意味していて、やらないから、結果できない」だけなのだ。それほど人間の能力、力というものは想像を超えるものがあるのも事実であろう。「この人が、こうしたことを行い、社会がこうした潮流にいたり、世論がこうした傾向をもつ」ということも大体予測がつく。単純に、僕が嫌い、厭っている傾向にあらゆるものは流される。健康を害し、自然を破壊し、人を傷つけ、個人が私利私欲に進む。しかし、問題はそうした傾向を持つ僕にとって、なぜそうした反社会的で反人道的な感情や思考になるのかが全く理解できないことだ。観察力と想像力と判断力があるのならば、宗教家にでも、政治的リーダーにでも、会社の社長にでもなれそうなものだが?いやいや、僕にはいわゆる愚民が求めているものがさっぱりわからない。ヒット商品や世論を先導すること、こうしたことができる人たちこそ天才なのだろう。どんな商売をしたら儲かるのか、どんな言葉をはいたら人を魅了し、どんな美辞麗句をつかえば人の心をひきつけるのかということを僕はまったく理解ができない。はっきりいって人の心が読めないのが僕なのである。だから、善や正しさを求め、それに適う言動をすることでなんとかその不安と誤りをごまかそうとしているのだ。経験した者にしかわからないというが、それはその通りだと思うし、人が感じたことのある一般的な衝動や欲望というものに、僕は疎遠であり、疎遠であった。ゆえに、そうした気持ちの理解ができない。孤独な放浪者であるという感覚も、こうした心情に起因しているに違いない。

さて、先日は僕の誕生日であったのだが、友人の何人かが僕に祝福の言葉をかけてくれ、中にはプレゼントをくれる者までいた。大変嬉しかった。そこで僕が考えたことは、家族や恋人にはするけれど、友人にはあまりしない、この境界にあるものはなんであろう、そうこの誕生日のプレゼントではないかと思ったのだ。つまり利害関係が薄い証拠だろうとも思うのだが、プレゼントのやりとりというのは親密さの度合いとみることができそうだ。現にプレゼントをくれた友人は普段から親しくしているという感覚があった。そして僕が取った行動は、よく連絡のやりとりをする友人に誕生日を聞くことだった。

突然の質問に、彼らは怪訝そうだった。けれど彼らもきっと親しい友人からのプレゼントは嬉しいものに違いない。一年に一度の誕生日にプレゼントをするくらいなら背伸びをしなくともできるし、いい習慣なのではないかと考えたので実践することにした。もしよかったらこのブログをお読みになったあなたも親しい友人の誕生日にちょっとしたものでもプレゼントをしてみるといいかもしれません。喜びが増えることでしょう。
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スタヴローギンの告白と私


前の記事で、ブログを書くよりも他にやることがあるということを書いた。思想について多く記述したが、思想の相対性と無力を悟り、生を肯定し、エゴを去ることに見いだせる幸福。これに続く思想はひとまずないように思われる。これからは一般的な思想について云々するのではなく、「人間を理解する」ということに焦点を当ててみたい。すなわち、まずは僕自身についての研究を始めてみたい。なにがよいのか、ではなく僕がどう思うのか?そして、僕自身とはなんであるのか?そうしたものを、文学を通じて明らかにできるのではないかと考えた。これは会話の中では難しいことだ。自分自身の話をするというのはコミュニケーションにおいてあまり上等なやりかたではないようにおもう。会話の場合、内容ではなく、言葉のやりとりの質が重要であると考えるからだ。とにかく僕はどう思うのか、それをうまく表現できたらいいと思う。

ドストエフスキー著『悪霊』の中に連載当時、発禁扱いとなり、長く封印されていたといういわくつきの「スタヴローギンの告白」があるのだが、『悪霊』を読んでいてようやくその章へたどりついた。読んだのが1回目ということもあり、理解は当然浅い。しかし、それでもその衝撃を記さないではいられないほど、すさまじいものであった。

また次の機会にでも詳しく、研究と解剖をしてみたいのだが、書く意味も必要もあまり感じられないので、メモ程度に記すことにする。

スタヴローギンの人間性とその行動、加えてマトリョーシャの行動について、スタヴローギンの「感情がいまだかつて私を全的に征服しつくしたことがなく、常に意識が全きままに残っていた」、「ときに分別を失うほどまで、いや、というより、滅茶苦茶なほどにその感情に支配されることはあったが、われを忘れるということは一度もなかった」(これには快感が伴っていた)、「私は善悪の別を知りもしないし、感じてもいない男である、たんにその感覚を失ってしまったばかりでなく、善も悪もない男なのだ、あるのは一つの偏見だけ。私はすべての偏見から自由になりうるのだが、その自由を手に入れた瞬間、私は破滅する」、ある程度この言葉の中にスタヴローギンの人間性というものは帰着できそうだ。そして僕自身がどうであるかと考えると、スタヴローギン的であると言える。スタヴローギンの大きな問題は悪を感じながら、それを犯すことに対する快感を得ていたことだ。常に意識が全きままに残っているからこそ、どんな場合でも善を選択できるということもいえるのだが、スタヴローギンはあえて悪を(優越感に似た感情?)選択している。何も感じていないと言いながら、進んで悪を行うところに胸糞悪さを感じた。単に、これが発禁扱いであったことも読んでみれば誰もが納得せざるを得ない。なんとも後味の悪い章だ。こうしたことが書けるドストエフスキーは素晴らしいと思う。しかしあまりにひどい。人間の恐ろしさすら感じさせる。そしてこれが真に懺悔であるかどうかが疑わしいというのも非常に興味深いところだった。偏見から自由になりうるから、あえて強烈な偏見に挑んだ、生存本能であったのかもしれない。偏見、宗教というものを持つからこそ人間は生きられるに違いない。これらがなければ人生における足取りの方角が定まらないだろう。それと、マトリョーシャ。僕はどうしても彼女の「両手で私の首にしがみつく」、「顎をしゃくる」が気に入らなかった。しがみつくのもはじめはおべっかか、卑屈さから出るものかと思った。そして顎をしゃくるのは無力な正義感か悪に対する痛烈な批判だと考えた。しかし、好意と嫉妬であろうと判断する方が自然であった。そう考えると、このマトリョーシャ自体が低劣な人間くささを持っていてどうしても受け入れることができなかった。だとすると自殺したのはなぜ?という疑問が残るには残った。この低劣な人間くささを自覚して、一抹の高潔さによって自殺したのだろうか?

感情を入れずに、理論と経験則によって単純にものごとを推測すればおおよそ成り行きと結果は導き出すことができる。たしかに、感情をいれず、明晰な頭脳によって推測することは難しいに違いない。
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出発


ここには本当に多くのことを書いてきた。書きながら成長した。書き始めた当初はとても未熟だった。その時に比べれば大分一人前になったような気がする。ひとにはそれぞれ区切りのつくときがある。ちょうど一年くらい前、社会人になろうという気持ちが強くなり、結果、就職し、今に至る。紛れもなく一つの区切りであった。納得や決意によって、新たな一歩が踏み出され、それが区切りとなる。そのときに就職しよう、という気持ちにさせたものはなんであったか、簡単に説明することは難しい。僕自身は、長い間、ソロー『森の生活』に強く共感し、賛同していた。以前も現在も、アメリカ文学に対する信頼と尊敬はあまりない。未熟で思想としては劣っているし、作品などの深みが足りないと思っている。にもかかわらず、『森の生活』を肯定的に見ていたというのは、考えてみると矛盾であった。『森の生活』に共感しながら、心の底ではトルストイの諭すような声が響いていた。「働かざる者食うべからず」、『イワンのバカ』の「頭をつかって働くと楽して儲かる」というおもしろい例があるのだが、そのシーンが強烈に何度も心の中によみがえっていた。この二つの労働についてのスタンスによって止揚がうまれたのかもしれない。そして、アランの『幸福論』が絶対的な裏付けとなった。実際のところ、このブログに僕は真になにを求めていたのかわからない。アクセス数か、何かしら金につなげようとでも思ったのか、それとも他者とのつながりを持とうとしたのか……。どれもおそらくあてはまらない。なぜなら、そのための努力や、こうした意図にのっとって書いてはいなかったからだ。だから未だにアクセス数はさみしい数字を安定的にたたき出しているし、当然広告やなにかなんてのは論外であるし、他者とのつながりも感情よりも論理が先立ってしまって余計に距離を感じてしまうところもあった。ブログを書くやつで、身近な人ともっと話し合おう。人間を理解しよう。社会学ではなく人間学を修めよう。学問ではなく、人の気持ちを研究する。言葉ではなく、気持ちを理解する。人間は機械ではなく、感情をもった生き物なのだから、モニターに映された味気のない言葉を読んでも心はなかなか反応しない。でも、僕の口から発せられた言葉はその時点で力を持っている。それを伝えたほうが何倍も意味がある。どうしてそんなことに気づかなかったのか。今こそ、僕という人間を全面に出す必要があるのではなかろうか?「僕はこう生きる、君はどう生きるのだ?」と生き方で迫ってみようではないか。こうした味気ない言葉だけでも深い理解と同情を示してくれた、sakiさん、玄さん、神戸さん、そういちさん、山村さん、SAKAUEさん、ウォーリックさん、星狩人さん、RFAJ運営委員会さん、感謝しています。ありがとうございました。多くの尊敬できる大人たちが日本にはまだまだいるということがわかりました。本当に素晴らしい大人たち、先輩であり先生。この方たちとの交流のほうがよっぽど意味がある。ここに書いているよりも、僕の成長を助けてくれる。ここに書くべきことは、かなり多く書いたように思う。理想がなく、エゴを去れば幸福は訪れる。労働が社会において大きな価値を持っていて、お金が誰かを喜ばせ、力になる。こうしたことは現状の社会の中では、真実だ。理想がなくとも、真だ。これ以上書くことは、ただ繰り返しに過ぎない。いみじくも玄さんはおっしゃった。「中身は古代の人が言い尽くして目新しいことなどもはやない」、まさにその通りだと思います。そして言い尽くされたことのほとんどに納得、首肯することができる。これで十分なのではないだろうか。そこまで進歩できたということだ。「愛こそすべてだ」は僕にはまだきれいごとのように聞こえる。だからこういうことはよしておく。僕と云う人間を、大方ここに記すことができただろう。すくなくとも、交流するか否かの判断材料は十分に用意されているように思う。コメントはどんどん希望したい。このブログを持ちものではなく、場、あるいは窓口のようなものにしていきたいと考えている。新しい日々が僕を待っている。家族、恋人、友人、仲間。こうした人たちと幸せを共有し、つくりあげていく。
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hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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