「苦しみ」と「悩み」 「理想」がなければ「悩み」もない

実在には種々の体系がある、即ち種々の統一がある、この体系的統一が相衝突し相矛盾した時、この統一が明に意識の上に現われてくるのである。衝突矛盾のある処に精神あり、精神のある処には矛盾衝突がある。たとえば我々の意志活動について見ても、動機の衝突のない時には無意識である、即ちいわゆる客観的自然に近いのである。しかし動機の衝突が著しくなるに従って意志が明瞭に意識せられ、自己の心なる者を自覚することができる。然らばどこよりこの体系の矛盾衝突が起るか、こは実在その物の性質より起るのである。かつていったように、実在は一方において無限の衝突であると共に、一方においてまた無限の統一である。衝突は統一に欠くべからざる反面である。衝突に由って我々は更に一層大なる統一に進むのである。実在の統一作用なる我々の精神が自分を意識するのは、その統一が活動し居る時ではなく、この衝突の際においてである。

我々が或一芸に熟した時、即ち実在の統一を得た時はかえって無意識である、即ちこの自家の統一を知らない。しかし更に深く進まんとする時、已に得た所の者と衝突を起し、ここにまた意識的となる、意識はいつも此の如き衝突より生ずるのである。また精神のある処には必ず衝突のあることは、精神には理想を伴うことを考えてみるがよい。理想は現実との矛盾衝突を意味している(かく我々の精神は衝突によりて現ずるが故に、精神には必ず苦悶がある、厭世論者が世界は苦の世界であるというのは一面の真理をふくんでいる)。   『善の研究』より


ブログ『楞伽案前,楚辭肘後』ほど読者を選ぶ読み物を僕は他に知らない。ブログはネット上に公になっている、公にするという意識をもって書くものだから、他者に興味をもってもらい、思わずクリックして開いてしまうようなキャッチーな名前を作者はふつう付ける。表題というのはもっともその作者の意図が端的に表れているので、作者が求めているものがなんであるかということは表題を見ればおおよそ見当がつくのだ。ではこのブログはどうかというと、『楞伽案前,楚辭肘後』という題をついているのだが、一語目から僕は読めない。もちろん、題の意味が分らない。実はこういうのはとても失礼なのだ。なぜなら、玄さんからはよく意見や指摘を頂戴していて、大変お世話になっているからだ。つまり僕のような漢字や東洋に通じていない者はお呼びでないわけである。そうまではいわなくとも、すなわち読者を考慮せず、文学的・芸術的志向で書かれているということもあるが、この場合にしてもやっぱり僕は読者となる権利がないというわけなのだ。一方、どんな読み物にも大抵、特に一般的に商品化されているようなものは、親切な説明や、誘導の工夫がされていて、多数の読者のニーズを満たすようになっている。そして事実、ブログ『楞伽案前,楚辭肘後』の充実ぶりは目を見張るものがある―…。

玄さんの影響で、僕も漢字というものを以前よりも意識するようになった。「苦しみ」と「悩み」これについて考えてみることにしたのだが、「悩み」は理想と現実との矛盾衝突によって生じる感情で、「苦しみ」は身体的抵抗によって生じる感情のことではないだろうか。これの裏付けの一つで「苦痛」という言葉を想起した。「痛み」とは、感覚神経が傷つくことによる現象であるから、「悩痛」と言わないのはそのためだろうと、合点したのだ。

精神に伴う、「理想」そしてそれに矛盾衝突する「現実」。しかし、すでに「理想」というものが相対的なもので立脚点によっていかようにも「理想」は定まる。理想中の「理想」というものが存在するのか?それも結局は宗教的な論点となるだけで、なにを信じるか、あるいはなにを重視するかという問題なのだ。「理想」は存在しない。一般的に「理想」といわれるものも、偏りにすぎない。思想の偏りにすぎない「理想」を唯一無二の「理想」と人々は思い込むから、悩み、争うのだ。僕に「理想」などない。人類がどうあるべきか、どう歩むべきかという問いに答えはない。「理想」がなければ、「悩み」もない。僕にある負の感情は、ただ「苦しみ」である。「死」も僕自身の個人的な問題に限定すれば、「痛み」と「想像」によって拵えられる不安や恐れであり、「悪」や「好ましくないもの」には結びつかない。だから、「理想」というものはないのだけれど、「苦しみ」が少なければ少ないだけ、状況は好ましいということはできると考えている。人を殺していいか悪いかの答えはないが、苦しみを与えて殺してはいけないというのが僕の答えである。苦しみを与えずに殺すことはいいかもしれない。だが、苦しみを与えず殺すということは事実上不可能である。苦しみは非常に個人的な感情であるため、何人も他者に対してその判断をすることは不可能なのだ。

自分の「苦しみ」をやわらげ、他者に対して「悩み」が虚構であるということを伝え、理解させること、合わせて他者の「苦しみ」をもやわらげること、これによって誰かが不幸に陥るということはないのではなかろうか。
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私たちは隷従を強いられる 個人が国家的でなければならない

通常の人間は今日なお相変らずまず自分についての世評を期待し、またやがてはそれに本能的に屈服する。しかも、単に「よい」評判に対してのみでなく、わるい不当な評判に対しても全くそうである。

(中略)

虚栄的な者は自分について耳にするあらゆる好評について喜ぶと同じく、あらゆる悪評に心を悩ませる。彼はその双方に屈服し、自分のうちに突発して来るあの隷従という最も古い本能から、自分がその双方に屈伏していることを感じる。

(中略)

この奴隷が自分についての好評を誘き寄せようと努めるのだ。後になって直ちに、自分で呼び起こしたものでないかのようにこの好評の前に自ら跪くのもまた同様にこの奴隷なのだ。   『善悪の彼岸』より


私たちのほとんどは生れてからひたすら隷従を強いられる。親に隷従し、習慣に隷従し、社会のルールに隷従し、金持ちあるいは資本持ち(資本家というと、企業単位の大きなものになるためこのような表現にした)に隷従する。他にもあげればあるかもしれない。とにかくこのようにして卑屈になり、知恵の芽を摘まれ、自立し、自律するための牙を抜かれる。そしてやがては自分自身に隷従することになってしまう。非常に恐ろしいことだ。

この隷従から脱するためには、自らが国家的でなければならない。隷従するのは弱い証だ。その対象はすなわち強いものである。逆に言えば、正しい用い方をすれば守ってくれる胸壁となってくれる。私たちが隷従を余儀なくされているものは強く存立し続けるものであるから、私たちも国家的に強くならなければならない。国家的とは何か?国際社会における国家のように、現実社会の中で国家のような働きを自らで形成することである。家庭はある意味では国家であり、また僕自身、健全に国家的でなければならないと考えている。そしてそれをすすめて、自分自身が国家的である必要があると思うのだ。家庭の中にありながら国家的であることは、必ずしも矛盾しないし、齟齬を起こさない。個性、個人主義の時代と言われるのだから、言動だけでなく土台と立場もしっかりとしたものを確保しなければずるく卑怯だ。
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賢人ならば今をどう生きるか


この世界には二種の万物創造がある。すなわち、神的なものと阿修羅的なものである。神的なものはすでに詳しく説かれた。アルジュナよ、阿修羅的なものを私から聞け。

阿修羅的な人は、〔正しい〕活動とその停止を知らない。彼らには、清浄さも、正しい行動様式も、真実も存在しない。

彼らは言う。―「世界は不真実であり、根底がなく、主宰神もない。相互関係によって生じないものが別にあるはずはない。だからそれは欲望を原因とする。」

彼らはこの見解に依存し、自己を失い、小知であり、非常に残酷な行為をし、有害であり、世界を滅ぼすために出生する。

彼らは満たし難い欲望にふけり、偽善と慢心と酔いに満ち、迷妄のために誤った見解に固執し、不浄の信条を抱いて行動する。

彼らは、限りない、死ぬまで続く思惑にふけり、欲望の享受に没頭し、「これがすべてだ」と確信する。

彼らは幾百の希望の罠に縛られ、欲望と怒りに没頭し、欲望を享受するために、不正な手段によって富を蓄積しようと望む。

「私は今日これを得た。私はこの願望を達成するであろう。この財産は私のものだ。この財産もまた私のものとなろう。

私はあの敵を倒した。他の敵も倒してやろう。私は支配者である。享受者である。私は成功し、有力者で、幸福である。

私は富み、高貴な生れである。他の誰が私に匹敵するか。私は祭祀を行おう。布施をしよう。大いに楽しもう。」

彼らは無知に迷わされてこのように言う。

彼らは様々に心迷い、迷妄の網に覆われ、欲望の享受に執着して、不浄の地獄に堕ちる。

彼らは自惚れ、頑固で、財産に驕り酔いしれる。偽善的に、〔正しい〕教令によらず、名前だけの祭祀を行う。

彼らは我執、暴力、尊大さ、欲望、怒りを拠り所とする。妬み深い彼らは、自己と他者の身体に宿るこの私を憎んでいる。

憎悪する彼らは、残酷で最低の人であり、不浄である。私は彼らを、輪廻において、絶えず阿修羅的な胎内に投げ込む。

彼らは阿修羅的な胎に入り、生まれるごとに迷妄に陥り、私に達することができず、それから最低の帰趨に赴く。

欲望、怒り、貪欲。これは自己を破滅させる、三種の地獄の門である。それ故、この三つを捨てるべきである。

アルジュナよ、この三種の暗黒の門から解放された人は、自己にとって最善のことを行い、それから最高の帰趨【解脱)に達する。

教典の教令を無視し、欲望のままに生活する者は、成就に達しない。幸福にも、最高の帰趨にも達しない。

それ故、なすべきこととなすべきでないことを決定する場合に、教典はあなたの典拠である。教典の教令に説かれた行為を知って、あなたはこの世で行為をなすべきである。   『バガヴァッド・ギーター』より


世の中には善人と悪人がいる―。

この分け方を人は嫌う。正義感なのか人類愛なのか、それとも自己肯定なのかわからないがタブーとされていて、こんなことを言おうものなら世間の批判を浴びるに違いない。だが実際には、この大別は性善説や性悪説などのように人間性をひとまとめにしたものに比べ実態をよく表しているように思える。どうであろう、ひょっとしたら―最近では「サイコパス」という言葉をよく耳にするのだが―そうした考え方のほうが主流になっているのかもしれない。逆に個人主義から発展して、十人十色的な皆それぞれに個性という異常性を持っているという考え方が自然であろうか。

この大別が示されることで、宗教の雰囲気が一気に強まる。善と悪を明らかにすることが、宗教の一義であるかもしれない。善とは何か?に偏りがちな哲学とちがって、悪についてもはっきりとした表現を用いていることがとても気が利いているなと思った。誰もが自分の心に潜む悪には覆いをかぶせて気づかないでいる。悪は観察者による判定によって初めて明らかになる類のもので、皆自分は悪い人間だとは考えない。だが、バガヴァッド・ギーターが示すところによると、生きている人間のほとんどが悪人であるように僕には思える。

美しい水がすぐに濁ってしまうように、池の濁りはたちまち全体へと広がるように、美しい言動、人の心を潤し、満たす言動はなかなか伝わらず、現われず、それでいてすぐにかき消されてしまう。だが、調子のいい、軽率で、人の心を堕落へ導く言動は驚くべきスピードで伝わり、人々の反響と好感さえも獲得してしまう。この現象が、ネットの普及によって一層加速してしまっているように思う。最近ひどく憂慮していることは、このことだ。民度を低下させる話や思想が広まって―しかもそれは、劣化し貧弱になりながら伝わっていく―、なおさら真理を含む、高尚な、やや咀嚼を必要とする話や思想は埋もれていく。

もし賢人が現代にいるとするなら、どのように生きるのであろうか?道義心をもたぬ、真実を伝えるでも、優れた思想を広めるでもない、ただ自らがおいしい思いをするためだけに存在しているマスメディア。市民総ジャーナリスト。発言の自由に則り、好き放題に幼稚な考えを披露する演説者。治安維持のための監視社会…

かつての賢人ならばどう生きるのだろう?そして、新たな賢人はどのように、今を生きているのだろうか―?
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「学習能力の向上」と「後始末の習慣」 原発はもう古い


昨日で東日本大震災から4年。お亡くなりになられた方々にご冥福を祈るとともに、被災され未だに仮設住宅での生活を余儀なくされている方々、癒えぬ心の傷を抱えた方々、日常を失い、不自由の生活を強いられている方々の毎日が少しずつ好転していくことを心から願います。

被災者でない私たちは、徐々に強い感情に惑わされず冷静な分析と判断ができるようになってきたかもしれない。この未曾有の大災害は、結果として三重苦という形を日本にもたらした。地震・津波・原発事故。東日本大震災に起因する死者・行方不明者は2万人を超えているそうだ。現代の日本社会においてこれだけの死者・行方不明者が生じる災害や病気の蔓延などの事象が考えられただろうか?考えてみれば、災害にしろ、感染症などの病気、戦争などの人類に対する破壊力をもった事象は文明が発展した現代でも起こりうるのだ。私たちはこの震災で意表を突かれたという面もあったかもしれない。すくなくとも地震、特にそれに伴う津波への危機意識は格段に上がった。だが、私たちが起ってしまった惨事から学ぶのでは遅すぎるのだ。歴史から学び、備え、惨事を防がなければならない。まったく残念であった。歴史は繰り返すのだ。

大きな爪痕を残したのは、津波であった。町を飲み込み、がれきで埋め尽くした。けれど、津波は去り、地震は余震という悪あがきを続けているにすぎないが、原発は違った。町を、日本を、地球をむしばみ続けている。特効薬のない、日本が患った病、それは死に至る病のような恐ろしいもの。かつて、原爆を落とされた敗戦国、日本を見て「戦争は悲惨で、愚かだ」と世界中の人々は感じたことだろう。だが、日本だけは唯一その当事者で、学ぶ教材ではなく、体験だった。ゆえに、客観的に、分析・判断することはできなかった。私にもわからないが、ナチスドイツから受ける印象は私たちと世界とでは異なるに違いない。客観的にナチスドイツと大日本帝国との間には大きな隔たりがあり、区別された認識のもと存在しているはずだ。

私が言いたいのは、日本に原爆が落とされたことで、原爆の持つ意味が国際的に、国家間の抑止力となり、兵器ではなくなったように、原発がまた新たな意味を持つようになることを期待したいということだ。第二次世界大戦後の主要国における世界情勢は冷戦という形をとった。これは私は進歩だと思う。原爆を使用することは非道であるということが世界共通に認められたのだと思う。どうであれ、長崎に原爆が投下されてから今まで、人間に対して原爆が落とされたことはない。人間が殺し合うのは野蛮で、幼稚だ。人類は高貴になり、成長した。世界の未熟さが、戦争を引き起こした。この見方は徐々に世界に浸透していっているに違いない。同様に、福島第一原発事故が―チェルノブイリ原発事故は世界にとっては決定的な出来事ではなかったようだ!―新たな人類史の始まりであってほしい。チェルノブイリと福島はナチスドイツと大日本帝国のように違った意味を持っているのではなかろうか?当事者である私たちには世界に福島第一原発事故がどのように映り、どう受け取られたかというのは想像するしかないのだが、私たちが感じる以上に大きな意味を持ったことだろうと思う。原発もまた、人類の愚かさと未熟さが招いた過ちであり、古く廃れたものとならなくてはならない。北朝鮮やイランが核開発を進めるだろう、その後、多くの国が開発しようとし、続いて原発建設を試みることだろう、仕方のないことだ。人間は学習能力の低い生物であるようだから。

自然は循環させる能力を持つが、人間は後始末が不得手である。後始末の巧みさに自然の偉大さを感じる。人間に知恵がつき、工夫を凝らし、構造が複雑になればなるほど、後始末もそれだけ複雑かつ困難になる。

どうか人間に、「学習能力の向上」と「後始末の習慣」がもたらされることを切に願う。

「原発はもう古い」と言われるような、そんな時代に早くなってほしいものだ。
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恩恵について 「一日一善」ではなく「一日一施」


高利で恩を売るようなことがそれほど知られていなければ、恩知らずな行為ももっと少なくなるにちがいない。人は自分によいことをしてくれる者を愛する。これはまったく自然な感情だ。忘恩は人間の心には存在しない。しかし、そこには利害の念がある。だから、利害を考えて恩恵をほどこす者よりも、恩をうけてそれを忘れる者のほうが少ない。あなたが贈り物をわたしに売りつけようとすれば、わたしは値段をまけろと言うだろう。しかし、くれるようなふりをしていて、あとで高い値段で売りつけようとするなら、あなたは詐欺をはたらいているのだ。無償であればこそ贈り物にははかりしれないねうちがあるのだ。人の心は自分の掟のほかには掟をみとめない。人の心はつなぎとめようとすればはなれていき、自由にさせておけばつなぎとめられる。

漁夫が撒き餌をすると、魚はやってきて、警戒もせずにそのまわりを泳いでいる。しかし、餌の下に隠された針にひっかかって、糸がたぐられるのを感じると、魚は逃げだそうとする。漁夫は恩恵をほどこしているのだろうか。魚は恩知らずなのだろうか。恩人に忘れられた人がその恩人を忘れるようなことがあるだろうか。はんたいに、その人はいつも喜んで恩人のことを語り、恩人のことを考えるたびに感動せずにはいられない。たまたまなにか思いがけない奉仕をすることによってその人がしてくれたことを忘れないでいる証拠を見せる機会がみつかれば、どれほど大きな心の満足を感じながら感謝の念を示すことだろう。どんなに快い喜びをもって自分はだれであるかを知らせることだろう。どんなに大きな感激をもってその人に言うことだろう。やっとわたしの番になりました、と。これこそほんとうの自然の声だ。ほんとうの恩恵はけっして恩知らずをつくりはしなかった。   『エミール』より


教育の最大の誤り、多くの親切に隠された実態が示されている。

人間だから利害の念は生じるのはやむを得ないかもしれない。しかし、期待し、求めることをしないように努めなければならない。私たちが最も欲しているものはお金でも、利益でも、独占でも、得した気分でもない。他者によって与えられる愛なのだ。

恩を受けたら、それに報おうとする。いつか恩返しをしようと思う。そこに動機がうまれ、活力がうまれる。恩恵を施すことは計り知れないパワーと思いと意志を生む。一日一善という言葉があるが、もっと具体的に一日一施というのはどうだろうか。善いことをするというのは、やや独善に陥ってはいないか?施しをするというのは、必ず相手がある。他者に対する気持ちがあり、何か目に見えないエネルギーがその場に産出される。善行では生まれないものが、施しからは生れるような、そんな気はする。「善悪の彼岸」ではないけれど、「善」というのが難しくて、「善を行え」と言われても正直、難しい。でも、施しなさいならばどうだろう?力を貸す、与える、これは誰にでもできることだ。だが、条件はその相手がその施しを受ける態勢でいるかどうかということがある。誰でも彼でもというわけにはいかないだろう。それに、施しといっても、恩恵と呼べるものを施さなければならないのだから、ただ金をあげれば、あるいは余計なお世話をしろというのではない。自分が正しい恩恵を与えることができたかどうかは、しばらくしてからたまたま戻ってきて初めてわかるというものであるから、なかなか難しいかもしれない。だが「一日一施」の姿勢は悪くないのではないかと思う。
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他者への意識の発展、社会貢献を考える


たとえば今、社会に出て行く青年に最初の忠告を与えようとすれば、まず次ぎのようなものになろう。諸君は、ある事柄、またある特定の人々に対する愛と義務感情から働きなさい。何らかの人類社会の大問題に参加するがよい。たとえば、諸民族の政治的解放、キリスト教の伝道、放置されている下層階級の向上、飲酒の習慣の廃止、またわが田に水を引くようだが、国際間の永久平和の確立、社会改革、選挙法の改良、刑罰および刑務所の改善など、今日このような目的は実にありあまるほどあるのであるが、諸君もそのいずれかに参加するがいい。そうすれば、諸君は、最も手軽に、絶えず外から働きかける刺激が得られ、また最初の間はとくに大切な仕事仲間が得られるであろう。今日は、文明諸国民の間において、このような進歩のいずれかの陣営に積極的に参加しない青年が、男女を問わず、一人でもあってはならないのである。早くから自分自身をこえて、自分だけのために生活しないということが、青年を向上させ、強健にして、事に屈せぬ力を与える唯一の道である。利己主義は常に一つの弱点であり、ただかずかずの弱点を生みだすのみである。   『幸福論』 ヒルティ著より


時代が下るにつれて、当然のことながら万象は細分化されていく。社会における風潮でいえば個人主義が強まっていく。現代に生きている私たちにとって、現在が最終到着点のような気がして―錯覚が起こって―今以上に社会における個人の存在感が強い状態は考えにくいが、確実にそうした時代が後に到来するのであろう。

個人主義が強まることは忌むべきことだとは私は思わない。しかし、個人主義を利己主義と混同して、自分勝手やわがままが許されるのが現代社会の風潮であるという誤解が生まれているように思う。自分の好きなように生きればよい、というのは個人主義ではない。ただ、国家や権力のために、国民や民衆の生活が犠牲になることがない社会というのは個人主義の一つの解釈として正しいと思う。尊重は犠牲を強いるのではなく、あくまで保護するくらいの意味で、優先させるというのではない。

「人々に対する愛と義務感情」、はたしてこれらが、一生のうちで僕自身の心の内に芽生えるかどうか、非常に疑わしい。愛と義務、この二つは近いようで遠い。どちらも伝えられるものではなく、自ら生み出し、育てなければならないものである。

誰でも若いときは、大きなことがやりたいものだ。コツコツと地道な努力は怠り、大きな成果のみ求めるものだ。人類社会の大問題に参加しようと意気込む若者はごまんといるだろう。彼らは何もはじめないうちから挫折する。自分の無力と意気地なさと怠惰を悟る。自分だけのために生活するだけで精一杯なのだ。こうして一人の利己主義者が誕生する。この現実と誘惑、弱さに打ち勝って、使命感も伴って、利己主義から抜け出た者が、始めて役立つ人間になるというわけだ。

僕は社会のために、世界のために、という大きな希望は捨て、野心は消えた。あまりに無力だったし、なにより気力が到底及ばなかった。貧弱で怠惰な僕には―情けないことだが―他者に対して肉体労働によって貢献するという働きが精一杯のところだった。それで心底満足していた。しかし、これでは社会のためにはなんにもなっていないのだった。

とはいうものの、正直なところ社会に役立つといっても、何を始め、何に取り組んだらいいのかわからなかった。深く考えもしなかったのは事実だが。例えば、福島第一原発の汚染水漏れは深刻な問題だと思う。そして現実には多くの人がそれぞれの仕方で問題に向き合い、様々な取り組みをしている。本当のところをいうと、原発の問題に関して僕は見て見ぬふりをしている。予断を許さない危機的状況であることを知りながら、遠い土地での出来事、誰かがなんとかしてくれるだろう、多少の影響はあっても、大きな影響はないだろう、くらいにしか―多くの人たちがきっとこのように感じているに違いない―考えていないのだ。しかもどこかで、「一人の力では何も変わらない」と思ってもいる。けれども、考えれば考えるほど、この「一人の力では何も変わらない」という思考は危険だ。成果や結果を求めすぎてはいけない、とにかく行動を、理念ある小さな取り組みをしなければ。

とりあえず小さなことからまず、始めることとしよう。

では、僕が現実的に取り組むことのできる社会問題はなんであろう?(こうした考えを持てたことは大きな成長である。)
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「意志」と「脳」・「肉体」のせめぎあい

実に、知識は常修より優れ、瞑想(禅定)は知識より優れ、行為の結果の捨離は瞑想より優れている。捨離により直ちに寂静がある。

すべてのものに敵意を抱かず、友愛あり、哀れみ深く、「私のもの」という思いなく、我執なく、苦楽を平等に見て、忍耐あり、常に満足し、自己を制御し、決意も堅く、私に意と知性を捧げ、私を信愛するヨーギン、彼は私にとって愛しい。

世間が彼を恐れず、彼も世間を恐れない、喜怒や恐怖や不安を離れた人、彼は私にとって愛しい。

何ごとも期待せず、清浄で有能、中立を守り、動揺を離れ、すべての企図を捨て、私を信愛する人、彼は私にとって愛しい。

喜ばず、憎まず、悲しまず、望まず、好悪を捨て、信愛を抱く人、彼が私にとって愛しい。

敵と味方に対して平等であり、また尊敬と軽蔑に対しても平等であり、寒暑や苦楽に対しても平等であり、執着を離れた人、毀誉褒貶を等しく見て、沈黙し、いかなるものにも満足し、住処なく、心が確定し、信愛に満ちた人、彼は私にとって愛しい。

しかし、以上述べた、この正しい甘露(不死)〔の教え〕を念想し、信仰し、私に専念する信者たち、彼らは私にとってこよなく愛しい。   『バガヴァッド・ギーター』より


なんと美しい、神の詩。人間には必ず宗教がある。人間の営みは宗教と共にある。あらゆる行動は宗教に根ざしていて、己の存在を肯定し、認識するのに用いるのが宗教ともいえるのかもしれない。

これは感覚の問題なので伝わるかどうかわからないのだが、近頃、一体という感覚でしかなかった(一体であったと感じられるのは、一体でなくなったときに初めてわかる)精神と肉体との距離が少し離れている感じがある。意志と肉体との分離といったほうがいいかもしれないが、意志を脳と体をつかって限定的に表現し、世界に働き掛けることができるという発見だ。意志はあるのだけれども、脳の容量や仕組みに制限されて、意志の実現は理想からやや減じられてしまうし、肉体的な活動はより一層、意志とはかけ離れたものとなってしまっている。考えてみれば当然のことであるが、通常脳や、肉体を前提あるいは根本と考えてしまうのだが、「意志」が最も根源的なものであるという確信が得られたのである。意志も脳の働きであると考えられなくもない。確かにそうだ。しかし、どうしても、意志を脳という道具をつかって表現し、理解しているにすぎないという実感があって、つまり脳を起動させる何か―地球を回転させ始めた何かのように―が意志であると思う。

人間は「意志」対「脳」・「肉体」のせめぎあいであって、この戦いの歴史が人生なのである。意志の実現を制限された「脳」と「肉体」で少しでも鮮明にする努力、そのために知性を磨き、自身を知らなければならない。脳の特性や、肉体の神秘に迫らなければならない。

意志がなにを表現しようとしているのか?それを解き明かすには脳の性能を向上させる必要があり、実際のところ肉体はそのための手段となるのである。
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プロフィール

hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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