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「無為」の先に、社会性と他者への意識の芽生え


そのころは、無為ということがもっとも魅力的で生産的な仕事だったのである。私はよく午前中にこっそりと村を抜け出しては、一日のうちでもっとも貴重な時間をそんなふうにしてすごすのが好きだった。金はなくても日のあたる時間と夏の日々はあり余るほどもっていたので、それらを惜しげもなく使ったのである。それに、私は仕事場や教師用の机の前でそうした時間をもっと費やさなかったことを、少しも悔やんではいない。   『森の生活』より


働きもせず、学校にも行っていなかったあの頃(実際に私たち庶民に与えられている生活様式は、働くか働くための準備期間として学校に通うかの二択しかない)、ということに僕の場合はなるのだろうが、当時「毎日なにをしているの?」と聞かれることがしばしばあった。みんなも学校へ行くか、働くか、しか日々の生活を過ごす方法はないと考えているようで、働くあるいは、何かに取り組んでいるから、怠けるまたは休むということが可能であって、同等であるにもかかわらず、意味を持たない無為ということは考えてみることさえできないようだった。当時も今も、答えは変わらず、何とも答えることができない。ただ他人が心配するほど退屈でもなく、不満や不服もなかった。むしろ非常に充実していて毎日がゆるやかな時間の流れの中で過ぎていった。たくさん本を読んで、このブログにもいろんなことを書いた。でもこれだけのことでは、一日は余りある。瞑想したり、夢想したり。自由に外へ出かけ、ときには旅と呼べるものをしたが、大体は散歩程度のものだった。金はバイトをしていたこともあって、ないこともなかったがあまり必要なかった。身体と自然、好奇心と想像力があるだけで十分楽しむことができた。その楽しみに飾りつけ、便利さを添えるためにお金も大いに役立った。ソローの『森の生活』に胸が高鳴ったのを今でも覚えている。こうして読み返してみても、当時ほどの感動や興奮は起こらない。「そのころは、無為ということがもっとも魅力的で生産的な仕事だったのである」、今はちょっぴり社会人という大人になった。大人とは他者を自分の人生の中に存在させている人のことなのだろう。子どもは他者を考えてみることはないが、大人は他者を意識している。無為ということに、なにか強迫じみた感覚が観念が添加されるようになってしまった。「こんなんでいいのだろうか?」と。人間性の中にある社会に働き掛けたいという社会性の衝動とでもいうものが芽生えてきたのだろうと思う。こうした『無為』の期間があって、社会性や他者への意識が培われたのかもしれない。現代では、このいわゆる「モラトリアム」が大学時代ということになっているようだが、現実には大学時代は就職準備期間となってしまっている。お金にならない、資本主義から離れた学問と利害関係の薄い仲間、そして無為との中で過ごす大学生活があるのだとしたら、どれだけ人間性にとって良い影響をもたらすであろうか。僕は、こうした舞台をなげうってしまったから、同等の思想的ステータスを持ちうる人間とかかわる機会を失ってしまったのを悔やんでいる。少しも悔やんではいないといえないのが残念でならない。「無為」はどうやら代償を要するようなのだ。それでも「無為」の期間は非常に有益であったと、振り返らないではいられない。あの頃はもう返らないのだと。少し大人になってはっきりわかった。
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コンピューターが人間の質を低下させる


人間の悲惨な光景によってかれの心を動かさなければならないが、冷酷にしてはいけない。長いあいだ同じような光景を目にしていると、人はその印象に無感覚になってくる。習慣はどんなことにも人をなれさせる。あまりひんぱんに見ていることは、人はもう思い浮かべることもなくなるものだが、わたしたちに他人の不幸を感じさせるのは想像にほかならない。だから、人が死んだり苦しんだりするのをたびたび見ているうちに坊主や医者は無慈悲な人間になってくる。そこで、あなたがたの生徒には、人間の運命と自分と同じ仲間の者のみじめさを知らせるがいい。けれども、あまりにもしばしばそういうことを目のあたりに見せないことだ。ただ一つのものでも、適当なものを選んで、適当な機会に見せることにすれば、一カ月のあいだかれを感動させ、反省させることになる。かれが見るものではなく、むしろ見たものについて自分で考えてみることが、それにたいするかれの判断を決定することになるのだ。そして、あるものからかれがうける永続的な印象は、もの自体から生ずるよりも、むしろそれをかれに思い出させる観点から生じるのだ。

(中略)

教師よ、ことばは少な目にするがいい。しかし、場所、時、人物を選ぶことを学ぶがいい。そして、あなたの教訓をすべて実例によってあたえるのだ。そうすれば効果は確実だと思っていい。   『エミール』より


今の社会はもはやネットなしで考えることは難しい。ネットは次第に人々の生活の一部となっていっている。未来はこれが、ロボットに代わり、人造人間、あるいは人工知能?この人工知能が人間を凌駕した瞬間が、人類の新たな瞬間となるであろうが、しばらくは人間とコンピューターという構図は変わらないであろうと思う。そしてこの関係が人間を無知で偏屈にし、社会性を低下させることであろう。というのは、人類の文明は簡潔に言うと自然への対抗であった。自然をなんとか手中におさめ、支配するための活動であった。自然の脅威にさらされるたびに人間の愚かさと弱さを痛感するわけだが、それでも懲りもせず戦いを止めない。今日も自然への反逆が続いている。おそらく自然にうまく順応して生きるのがもっとも賢い生き方なのだろうが、まだまだ自然界の中でも未熟な人間は他の生物に見習うことができないらしい。自然を支配することと並行して、今では社会や個人を支配し、コントロールすることにも尽力している。それがこのネット社会で実現されて始めている。コンピューターは人間の指示通りに動く。ネットもロボットもすべて人間の指示に従って従順である。こうしたコンピューターをつかって、知らず知らずの間に人間は自分の傾向や性向を強め視野や思考を限定し、窮屈にしていく。好きに自分の世界をつくりあげ、他人との隔たりを深め、自分の考えつくものの範囲に限られて生きていくことになる。心を動かされるような悲惨な光景に触れる機会が失われ、心地よいなじみの感覚に浸る機会が増える。ふと感動させられたり、とてつもない衝撃は予定調和の出来事にその席を譲ることとなる。ゆえに、ネットや単調で平凡な毎日からは人間の運命の悲惨さや心ゆさぶられる感動、人生の転機ともなりうる衝動は得られない。日常に変化を与える好奇心と、優れた教師によってのみ、これらは得られるに違いない。
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『哲学』とはなにか 『善の研究』より

主客の未だ分れざる独立自全の真実在は知情意を一にしたものである。真実在は普通に考えられているような冷静なる知識の対象ではない。我々の情意より成り立った者である。即ち単に存在ではなくして意味をもった者である。それでもしこの現実界から我々の情意を除き去ったならば、もはや具体的の事実ではなく、単に抽象的概念となる。物理学者のいう如き世界は、幅なき線、厚さなき平面と同じく実際に存在するものではない。この点より見て、学者よりも芸術家の方が実在の真相に達している。我々の見る者聞く者の中に皆我々の個性を含んでいる。同一の意識といっても決して真に同一でない。たとえば同一の牛を見るにしても、農夫、動物学者、美術家に由りて各その心象が異なっておらねばならぬ。同一の景色でも自分の心持に由って鮮明に美しく見ゆることもあれば、陰鬱にして悲しく見ゆることもある。仏教などにて自分の心持次第にてこの世界が天堂ともなり地獄ともなるというが如く、つまり我々の世は我々の情意を本として組み立てられたものである。いかに純知識の対象なる客観的世界であるといっても、この関係を免れることはできぬ。   『善の研究』 西田幾多郎著より


『哲学』や『思想」というワードは一般受けしない。忌まわしいという気持ちを起こさせるらしい。確かに日常において『哲学』に触れる機会というのが自然に与えられるということはない。そうした機会を与えるという意味でも大きな役割を担っている義務教育の中に『哲学』が含まれていないのは非常に疑問であり、違和感を覚える。国家はいろんな意味での「戦士」を育成することしか考えていないのではないか?と思えなくもない。国益をもたらす人材のために教育機関がある、ということは以前にも書いた覚えがあるが、『哲学』では飯は食えないし、直接科学の発展をもたらすこともない。ゆえに『哲学』は重宝されず正しい価値評価もされることなくただ人から遠ざけられ、避けられる存在となってしまっている。実際は『哲学』は煩雑で無益な屁理屈なんかではないし、理論のこねくり回しでもない。ソクラテスが「善く生きること」といったように、「善く生きる」ための活動がすなわち『哲学』であり、『思索・思想』の動機なのだ。

富を得ること、金をたくさん稼ぐこと、名声を得ること、これらを人生の目的とすることはとても簡単で、わかりやすく、誰にでも悩むことなく生きる意味として受け入れることができる。だから多くの支持を得ている。生きるために必要なことと、生きる意味を混同しているのだが、合理的で理に適っているのかもしれない。生きるために必要なことと、生きる意味を区別したとき、はじめて『哲学』がうまれ、その効果が表れる。多くの人たちはこの二要素が不和を起こすことによる悩みを抱えている。『哲学』が救いの手になるべきところで、宗教がそっと優しく手を差し伸べることになる。

『哲学』の中には、必ず『宗教』が含まれ、語られる。特にこの箇所はわかりやすく思うので、取り上げてみた。

肉体的に生きるために必要なことが、衣食住であるならば、精神的に生きるために必要なものが『哲学』なのではないかと思う。『善の研究』を読みながら、肉体と精神というように区別していることはナンセンスなのかもしれないが……
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人にしかできない仕事、できれば自分にしかできない仕事を持てるように努力し、人の手による仕事を正当に評価できるようになろう


どんな仕事もみな同じだというわけには行かない。見かけだけの仕事もある。つまり、単なる見かけが目的の仕事、または見かけだけのためにある仕事などである。たとえば、いわゆる「ご婦人がたの手芸」の一部分、特に以前によく見られた道楽半分の無意味な軍人生活、不充分で結局ものにならぬピアノの稽古のような「芸術」修行の大部分、狩猟その他のいわゆる「スポーツ」の大部分、それから自分の財産の単なる「管理」なども、要するにこれに属する。利口な活動的な人間なら、何かもう少し心の満足の得られる仕事を求めねばなるまい。

これがまた、なぜ機械を使用する仕事や、機械的で部分的な仕事が、総じて人を満足させること少なく、工場労働者に比べて、なぜ職人や農夫の方がはるかに多く満足を感じるか、ということの理由でもある。だから、社会的不安は、工場労働者によって初めて世に現われたのだ。工場労働者は、自分の労働の成果を見ることがあまりに少ない。仕事をするのは機械であって、彼はただこれに従属する道具にすぎない。あるいは、いつもただ小さな歯車か何かをつくる手伝いをするだけで、決して時計全体を作ることはない、しかも時計は楽しい芸術品で、人間らしい真実の仕事の成果なのに。このような機械的労働は、どんなつまらぬ者もみな持っている「人間の尊厳」の観念に反し、決してひとを満足させるものではない。

これに反して、我を忘れて自分の仕事に完全に没頭することのできる働きびとは、最も幸福である。たとえば、ある題材を得てこれを表現しようとする時、全精神をその対象に打ち込まずにはいられない芸術家や、自分の専門以外はほとんど何物も目に入らない学者や、いな、ときには最もせまい活動範囲に自己の小天地を築きあげている、いろんな種類の「変わり者」でさえ、この上なく幸福なのである。

彼等はすべて―客観的にいえばおそらく間違っているかもしれないが―仕事をしているのだ、真実の、有益な、社会のためになくてはならぬ仕事をしているので、決して遊戯にふけっているのではないのだ、と考えているのである。そればかりか、彼等の中には、このように不断の、骨の折れる、おそらくまた健康上もあまりよくない仕事をしながらも、非常な高齢に達する者も少なくない。ところが一方、なにも仕事をもたぬ貴族的な放蕩者や有閑夫人たち―現代社会の最も無用な、主義としてなるべく働くまいとする人種の、つい手近な例をあげたのだが―そういった連中は、たえず健康の修繕に追われているのである。

今日の社会ではまず第一に必要なことは、有益な仕事は、例外なく、すべての人々の心身の健康のために、従ってまた彼等の幸福のために、必要欠くべからざるものだ、という認識と経験とが広く世に普及することである。

以上のことから必然に次ぎのような結論が出てくる。すなわち、怠惰を業とする者はもはや優秀な「高い」階級とは認められず、その正体通りのもの、つまり、正しい処世の道を失った精神的に不完全な、不健康な人間とみなすべきである。こうした考え方が一度、社会全体のゆるがぬ確信の表現である風習となって現われるならば、そのとき初めて、この地上にも、より良い時代が到来するであろう。それまでは世界は、一方の人たちの過大の労働と、他方の人々の過小の働きとのために悩むのである。この両方は互いに因果をなして制約し合っているが、しかし、そのいずれが真実のところ、より不幸であるかははなはだ疑問である。

ところで、われわれのさらに疑問とするところは、この原則は、人類数千年来の経験に基づくものであり、また、誰もが働いたり働かなかったりして毎日自分でそれを試してみることができるし、その上、すべての宗教や哲学が常に教えることなのに、なぜそれが今なお広く世に行なわれないのか、ということである。たとえば、聖書を大いにありがたがっていながら、聖書にはさほど明らかに記されていない死刑をしごく熱心に弁護する一方、聖書のきわめて明白な命令にそむいて、もっとも全然働かないわけではないが、せいぜい一日くらい働いて、あとの六日は貴婦人業である怠惰のうちに日を送って、不思議なほど平気でいられる数千人の「貴夫人」たちがあるのは、なぜだろうか。こういうことになるのは、主に労働の分配と処理とが適当でないからで、そのために労働はしばしば、まったくの重荷となるのである。   『幸福論』 ヒルティ著より


労働についての自分なりの観念を形成するのに、この部分は非常に有益であるように思う。僕自身も学ぶところが大いにあった。人間にとって考えることが生命活動の根源的なものであるのと同じくらいに働くことは人間にとって欠くべからざるものである。ゆえに数文で説明がつくほど単純なものではないに違いないが、それでも自分の労働に対する考え方の誤りを正してくれるエッセンスが多く含まれていると思う。働くことを肯定しなくては始まらない。そのスタートに立たない人間は、人生の中で心の平衡をとることが難しくなるだろう。働くことは間違っているかもしれない、社会が間違っているかもしれない、そもそも人間が不完全な存在であるのかもしれない…けれども、現実の生活があって、多くの人間が労働し、悩み、誤った認識のもと労働を嫌悪している。そうした人たちに対して、「好きで働いているのだろう?自業自得さ」と横柄に構えていられるだろうか?

そして僕は労働から得られる幸福を一時的な感情だけのものでなく、納得に近い観念としての二次的な幸福まで考えたい。上にあげられた、芸術家や学者、変質者は人々の幸福、あるいは生活の向上のために働いていると言い切れるのだろうか?芸術はたしかに素晴らしい。科学の発展は人類にとってたいへんな恵みとなる。この種の変質者は…、少なくとも無害である。

さて、人間が仕事を厭うようになった一つの要因に、機械の道具になり下がったことをあげているが、この機械の導入は資本主義、いわゆる「儲け」を出そうとした結果である。労働は機械、その対価は機械ではなく管理者がせしめるというわけだ。どんどん仕事が人間の手から機械に移っていき、人々は仕事を失うか、機械の奴隷となってしまう。そうならないために、人にしかできない仕事、できれば自分にしかできない仕事を持てるように努力し、人の手による仕事を正当に評価できるようになろう。
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「メランコリーは快楽の友だ」 快楽を発見するには、孤独が必要であり、快楽に伴う不安によって幸福への道が示される。


わたしたちは表面的なことで幸福を判断していることがあまりにも多い。どこよりも幸福のみあたらないところにそれがあると考えている。幸福がありえないところにそれをもとめている。陽気な気分は幸福のごくあいまいなしるしにすぎない。陽気な人は他人をだまし、自分でも気をまぎらそうとしている不幸な人にすぎないことが多い。人の集まったところでは微笑をたたえ、快活で、朗らかな様子をしている人は、ほとんどみんな、自分の家では陰気な顔でどなりちらしていて、召使いたちは主人が世間でふりまいている愛嬌のために苦しむことになるのだ。ほんとうの満足感は、陽気でもなければ、ふざけちらしたりすることでもない。その快い感情をだいじにして、それを味わいながらよく考え、十分に楽しみ、それを発散させてしまうことを恐れている。ほんとうに幸福な人間というものは、あまりしゃべらないし、ほとんど笑わない。かれは幸福をいわば自分の心のまわりに集中させる。騒々しい楽しみごと、はねっかえるような喜びは、嫌悪と倦怠を覆いかくしている。一方、メランコリーは快楽の友だ。感動と涙がこのうえなく快い楽しみにともなう。そして、大きな喜びもまた、叫び声ではなく、むしろ涙をもたらすのだ。   『エミール』


「メランコリーは快楽の友だ」、この言葉に僕は学生時代、とても救われた。当時の僕はメランコリーと非常に仲が良かったように思う。僕の隣にはいつもメランコリーがいた。孤独の席にはすかさずメランコリーが入り込む。大学に入学した当初、僕はそれまでの人生の中で最大の孤独を味わっていたように思う。劣等感と絶望、不信感と自己嫌悪、そして運命的な手かせによって―まさに、手かせに!―心は荒んでいった。同級生とは疎遠になり、元来社交的であったにもかかわらず、人との付き合いに抵抗を感じるようになっていた。その孤独からくるメランコリーの先に扉が開かれていた。幸福と快楽は近いが同一でない。快楽はどこまでいっても自己本位であり、幸福は人類的な何かである。快楽を求めれば、幸福はそれだけ逃げていくし、幸福を求めれば、快楽は近づいてこない。僕はその孤独の内にあって多くの快楽の泉を見出した。読書、旅、瞑想、思索…これらから得られるものは快楽以外の何ものでもなかった。快楽を求めるあまり、僕は働くことをしなかったし、長い歴史が培ってきた社会制度からリタイアすることにした。快楽には不安が伴い、その不安は幸福を求める。人は快楽が幸福なのだとよく勘違いをする。快楽の泉を掘りまくって、一層不安を募らせる。いずれ立っている足元を自ら崩す。幸福は、人類的生存本能の満足のことなのかもしれない。快楽はきっと単なる生存本能の満足に過ぎない。他者と共に繁栄しているとの実感が幸福感を生むのではなかろうか。

快楽を発見するには、孤独が必要であり、快楽に伴う不安によって幸福への道が示される。
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hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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