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京都 白川沿いの先の物語のある名店 LA VOITURE(ラ・ヴァチュール)


古くから人々の暮らしは川と共にあった。現代では水道、下水道のインフラも進み、川がなくても人々は暮らしていけるようになっている。けれど、川の場所は昔からそれほど変わるものではなく、その証拠に都市には今でもとどまることなく流れている。東京の隅田川、大阪の道頓堀川、名古屋の堀川など、旅をしながら川に風情を感じることもよくあることで、特に都会にありながら自然を感じられる都市河川はより魅力がある。そんな河川が京都にもある。京都の見どころは寺院ばかりではないのだ。

祇園、京都らしい屋並みの裏に白川が流れている。そこに小路へ通じる巽橋が架かっている。小規模な石橋ながら場をわきまえたたたずまいで存在感があった。

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白川沿いを平安神宮の方へ行くと途中に知恩院前あたりに風変わりな一本橋があった。生活のために架けられたのではないことがうかがわれるその姿、風変わりな橋であった。岸辺では鴨が戯れていた。わたってみると少し不安を感じないでもない程の幅であった。無論てすりなどない。

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平安神宮方面へ歩いて行ったのには理由があった。以前放送されていた「グレーテルのかまど」のタルトタタンの回で紹介された、タルトタタン発祥の地でその味を認められた松永ユリさんのお店、LA VOITURE(ラ・ヴァチュール)があるのだ。タルトタタンはリンゴのタルトのようなスイーツで僕は食べたことがなかったからぜひ、有名なところで食べてみたいと思ったのだ。しかし、結果をいうとすでに売り切れで目的のタルトタタンにありつくことはできなかった。

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それでも、やはりケーキは風味豊かで幸せの味がした。甘さは幸福に近い感覚だということを思わないではいられなかった。店内はそれほど広くなく、レトロな仏風サロン?のような雰囲気で居心地もよかった。店内の一隅に「YURI’S RESERVED 」と書かれたカードの置いてある席があって、松永ユリさんの特等席となっている。こうした背景に、物語を持っているお店というのは少なくないのかもしれない。いわゆるそうした名店に実際に足を運んでみるのも旅の楽しみの一つとしていいのではないかと思う。
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僕が自分の境遇において見出した三つの真理


人はそれぞれ異なる境遇で生きている。だから一人ひとりに違った答えや成功・勝利、考え方、悩みなどがある。競い合い、比べ合うのは勝利や自尊心の為ではなく、自分自身の向上の為になのである。他者ではなく、自分自身への挑戦ともいえる。僕は自分の境遇において、だいたいの真理をつかんだように考えている。ここに少し、表してみたい。

人生において、進む道や選択を決定するのは自分自身だ。人間は結局のところ自分のやりたいことしかやらない。そしてなりたい自分になっている。今の現状は自分が望んだものであり、過去の選択の結果である。誰もが心のどこかで自分自身に満足している。満足していないから、向上心を持つわけではない。向上心を持つ人間は、現状に満足、あるいは納得しながら次のステップをたゆまず踏み出せる勇敢な者なのだ。そして、この選択について一つ、自分の親しい周囲の人、特に両親が反対するような選択はすべきではないということ。これは僕の真理の一つである。なぜなら、愛する人、あるいは愛してくれる人の反対を、一時でも不安にさせたり残念がらせるような選択はすべきではないと思うからだ。人生は短く、選択など大した問題ではない。よく、親の反対、あるいは周囲の反対を押し切って、結果成功したというような美談を耳にするが、だからなに?と思わざるを得ない。その成功が金だか名誉だか知らないが、反対の結果それを得たからどうだというのだろう?反対した彼らにそれらをもたらしたからといって、「ほら、よかったでしょ」ということなのだろうか。そんなことよりも、僕は反対してくれる周囲の親しい人たちとのより深い人間関係を築くよう努力する方がよいのではないかと思う。もしなにか成功したいという人があるならば、周囲に反対する者がいた場合、運が悪かったのだと思うがいい。成功した人たちは周りにそうした心配や反対をしてくれる人のいない孤独な人たちだったのかもしれない。とにかく、自分が偉大だなんて、成功できるだろうなんて思わないことだ。真に偉大で、成功できるような人は反対を受けないようなスマートな方法で思いを実現させるに違いない。物事の流れや自然に起こったことに抵抗するような、不自然なことはやらないほうがいい。それが、僕が見いだした真理の一つである。

続いての真理は、「労働はすべきである」ということである。労働しないことよりも労働することの方が、僕に多くのことを教えてくれた。労働をしない期間はたしかにすばらしいものであった。とはいえ、労働もそれに劣らない程に多くのことを教えてくれる。そして、それが自分以外にとって、お客さんや会社に役に立ったり、意味や利益をもたらすことであるのであるから、労働の方を選ぶべきだと思うのである。これはもちろん、僕のように資産家でもなく、自分自身に貯蓄がなく、金を得る力もなく、生きる術のない人間の場合である。貯蓄が多くあるのであれば、それをうまく運営して社会のためになるようにしたらいいし、それで悠々自適に暮らすのもいいだろう。生きる術があれば、自給自足で生きていけばいいだろう。僕にはいずれもできないから、お金があって、会社を持っている社長さんにアピールして頭を下げて雇ってもらい、労働の代償として賃金をいただくしかないのである。だから、会社にも感謝、お客様にも感謝している。どちらがかけても僕は生きてゆかれないのだ。境遇を恨んだって仕方がない。自分の境遇の中で最善の道を見いだすしかないのである。賃金や労働環境に不満をいう人々の声が日々きこえてくるが、自分自身に対する不満と憤りであることに気が付かないのであろうか?自分を高く見るクセがついてしまっているのだ。自分という人間はそれほど優れてはいない。今の状況は、自分の最高で最善の道だったのだ。過去の選択を恨め。そして反省し、次のステップを踏み出すしかないのだ。

最後に、自分自身の為の働きや、プレゼントよりも他者の為の働きやプレゼントの方が喜びが大きいということ。あらゆる行動は自分自身の喜びのためにしているという原則を忘れてはならない。人は誰も不幸になろうと生きているのではなく、幸せに楽しくなりたいと思い生きているのである。そのための手段にお金があり、趣味があり、友人があり、家族があるのである。身の回りのものは、すべて自分自身のためにこしらえたものだ。そしてそれらが喜んでいたり、きれいであるというような喜ばしい状況にあるとき、私たちは自分にも喜びを感じる。「幸福は香水のようなものである。人に振りかけると自分にも必ずかかる。」という名言があるが、そのとおりで人を幸せな気分にしたとき、人はこの上ない幸せを見出すことができる。それを簡単に実現させてくれるのが、自分が労働によって手に入れたお金によってプレゼントをすることである。これはその人のために働いたことにも同等であるし、相手を喜ばせることになる。これでも十分幸せを感じることができる。

周囲に反対されないような生き方をすること、労働することによっても学ぶことが多いということ、他者の喜びは自分の喜びにもなるということ、これらは僕が自分の境遇の中で見出した真理である。
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東京とは異なるベクトルで成長していく京都

四条通を少し歩くと「花見小路」という町屋の並ぶ路がある。金沢の茶屋街と似た風景ではあるが、やや現代的というかモダンな色調を持っている。思い出してみると、犬山城や岐阜城の城下町、それと高山の古い町並み(高山の古い町並みも城下町であったらしい)もどこか似通ったところがあるが、前者の城下町はさほど洗練された雰囲気はないし、後者は雪に映えるためであろうか黒色でもって統一されておりまた異なったかんじである。

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突き当たると臨済宗総本山建仁寺の境内になっていて、そこを折れてしばらく行くと、今度は「石塀小路」という小道に入り込む。

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石塀が織りなす別世界が広がる。土塀と違ってなんとなくよそよそしさがあって、静寂を楽しむことができる。幼少のころ、薄暗い裏道を発見すると心躍らせて入ってみたものだが、大人の裏道、そんな感じがする。特に見るものも取り立てるものもないから観光客も少なく、住人も多くない。ひっそりとしている。今回の京都旅で印象に残った風景の一つ。たしか、ねねの道まで続いていて、石畳と石塀からなる小路が続くだけではなく、高級旅館やみやげ屋の脇を抜ける道もあってなかなか楽しかった。漱石ならばどんなふうに表現するのだろうか、僕には表現すべき言葉がみつけられずただただ嘆かわしい。

そういえば、祇園といったらその中心に楼門を構える有名な「八坂神社」があるのだが、僕は記事にするほどの感銘は受けなかった。最近塗り替えられたという、その楼門は存在感満点であったが、京都らしい趣や小粋さに欠けるような気がした。といって、伏見稲荷や金閣のようなおもしろさもなかったように思う。ただただ、飾らずそっと京都の祇園の町にあるならばよかったのだが、周辺が活気づいてしまって興ざめなのである。そういえば、ニュースで京都に高級ホテルが乱立するということが報じられていたが、観光業と密接な関わり合いを持つ京都がこれからどのように発展していくのか、伝統や文化を守りながら、いかに観光業によって利潤を生みだすのか、今後の日本の生き方の一つである観光での集客、経済成長のリーダーとしてその動向に注目と期待が集まるのではないだろうか。


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人間と人間との間には一つの位階秩序があり、従って道徳と道徳との間にもそれが存する


或る者にとって正当なことが、全くなお他の者にとって正当なことではありえないということ、一つの道徳を万人に対して要求するのはまさに高級な人間に対する侵害であるということ、要するに、人間と人間との間には一つの位階秩序があり、従って道徳と道徳との間にもそれが存するということについて、知りもせず嗅ぎつけもしないのだ。   『善悪の彼岸』より



これはどんな社会においてもみられる問題である。そしてこれは不確定さに対する安全策というようなものである。破壊はたやすく、進歩は難しいということは、人間が人生で学ぶ一つの真理である。故におのずと保身や現状維持を望む傾向を人は持つようになる。しかしわたしたちが望むのは一人の英雄であり、天才なのである。勘違いしてはいけない、無秩序、混沌の中から秩序や統一を期待するのではなく、逆に秩序と統制の中から生まれる次の秩序、統制のための過渡期、相対的無秩序をわたしたちは求めているのである。

国家でいえば憲法、どんな社会においてもみられるルール、これらはまさに秩序と統制であり、これらは常に改められるための作業台に上せられなければならない。思考力と論理構築が弱いと新たなルールをどんどんつくり複雑化し、結果自らを束縛し、制限することとなる。新しいこと、新たなルールを議論するよりも現状のルールを見直し、検討することのほうが先決なのである。

話はもどって、学校にしろ会社にしろ、もっとも組織やグループに迷惑をかける人員を監視、統御するための方策がなぜか、全体のルールとして用いられるという暴挙がまかり通っている。名指しでその個人にだけそのルールを課せばいいのに、なぜか真面目で組織やグループにしっかりと貢献している者に対してまでそうした審査がかけられるのだから、彼等の効率やモチベーションがそがれてしまう。ただ問題は、その対象者の選別法だ。前科のある者に対してルールを課すのでは手遅れということが往々にして起こりうる。そうした悪事を起こす前に未然にそうした傾向を判断するにはどうしたらよいのだろうか。ましてや道徳という目に見えない指標における、高級、下級という判別をいかに行いうるのだろうか?その人にはその人に合った、現在達し得る最高の道徳の実践を自分自身に強いて、徐々に精神の発展を遂げ、少しでも早く高級な人間となるよう努力と思索を続けていかなければならないのだろう。
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プロフィール

hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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