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日常に限りなく近い非日常 『柊屋別館』


最近、旅での嗜好が変わってきて、以前は名所を訪れることに重点を置いていたのに、宿にもこだわるようになってしまった。むしろ、宿に泊まることがメインといっても過言ではない。多少奮発してもいい宿に泊まりたいと思うようになったのだ。

名所はあまり人を選ばないが、宿は人を選ぶ。宿泊客を観察するとちゃんとその宿に似つかわしい人であることを発見する。気品ある、いい宿は子どものはしゃぐ声、おばさん連中の騒がしいおしゃべりなどとは無縁で、実に穏やかでゆっくりとくつろげる空間を建物全体でつくりあげられている。だから、そうしたところに身を置いてみると自分の粗相や不届きがはっきりと露呈する。ごまかしがきかないのだ。周りは整っていて、ある一部だけ崩れているとよく目立つ。作法への意識はそうしたところから生まれてくる。

京都には僕が知る限りでもいくつかの老舗高級旅館(野暮な言い方だが)があり、「俵屋」、「炭屋」、「柊屋」、「ぎおん畑中」が代表格であろうが、これらには到底身分が及ばず、なんとか背伸びをして「柊屋別館」の宿泊権を獲得できた次第だ。

物事には尺度というものがあって、しっかりした尺度で計ることができるのであれば、どんなものでも正しく認識し、体験することができる。ジーユーからユニクロを感じることはできるであろうし、セオリーの中にユニクロを感じることもできるだろう。要は、確かな知識と感覚があれば、錯覚や誤解を免れて、ただしき認識へと至ることができるというわけだ。さて、前置きが長かったが、今回の京都旅ではあこがれであった『柊屋別館』に宿泊した。

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華やかさとは無縁の門構え。神曲の「地獄の門」のように『この門をくぐるものは一切の虚栄は捨てよ』とメッセージを投げかけているかのようだった。本物に対したとき、付け焼刃は通用しない。そうしたものに常日頃から接していると自分自身は磨かれていく。自分はまだまだだなと思う。博学多識の人に知ったかぶりをしようものなら恥ずかしくってその場にいられない。ただ自分の無知をはじめっから恥じるだけだ。人はそうしたことから避けようとするが、敢えてそうした場に身を置くことこそが、自分磨きの第一歩となる。

門が凛々しく、出迎えの案内人は丁重でおもてなしの粋(すい)を知る。行き届いた掃除と無駄のない整頓、不自由を究極なまでに排除する旅館全体の空気。不快は一切感じない、ただ感じるのは己の品行の悪さ。きれいに拭き上げられた鏡に水滴を容赦なく飛ばしてしまうだらしなさ。滞在中に切に感じたのはいかに日々を横着に生きているのかという事。

柊の葉がいたるところに描かれていて、統一感がおりなす洒脱さはなんともいえずすばらしかった。料理や風呂、寝具にいたるまで、旅人の疲れを癒すというコンセプトが感じられた。強壮に働く旅館もあろうが、『柊屋別館』は癒しと寛ぎに全力を挙げて取り組んでいるという印象をもった。

目玉商品や目立った特徴はたしかにないが、日常に限りなく近い非日常は、僕をにはかえって精神的に価値のある経験であった。
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『人は家族をもつから利己心が強くなるのか、利己心が強くなると家族を持つのか』

誰もが「自分さえよければそれでいい」と心の底では思っている。私たちにとって、他者の存在は認識に過ぎない。その認識に対して直接の感情や思いを抱くことは不可能であり、自らを仮象ながらも反映し、それによってうまれる感情を思うだけだ。つまり、私たちは私たち自身を考え、感じることしかできない。にもかかわらず、世間でこの当たり前のことを口に出すことは忌み嫌われる。みんな口を閉じ、思いやりのあるようなそぶりを見せている。それでいて、「自分の家族さえよければそれでいい」という姿勢はかなりオープンにところどころで見られる。世間の目もこうした姿勢にはなぜか厳しくない。

『人は家族をもつから利己心が強くなるのか、利己心が強くなると家族を持つのか』

「自分はどうでもいいから、家族はよくあってほしい」という偽善ほど聞いていてうらめしいものはない。この、自分が属する限定された社会に対する利己心の変化した贔屓が、これまで多くの悪をうんできたのだと思う。利己心がなくなっていると錯覚するために、人はこの行動に対しては大胆になれる。自分を犠牲にして、社会のために貢献しているというような美談がひとりでに完成すると勘違いをする。人間が平和や平等を実現することなど、家族を持ちうる以上は不可能だ。家族を持つとは、そのまま同種の他存在との生存競争を挑んでいくことになるではないか。家族を持ちながら、ほかの家族をも利すると考えることができるとするのには非常な違和感を覚えるのも事実だ。血縁的な家族をもつ意味がそれこそなくなってしまうからだ。僕が抱く、家族に対する複雑な感情というのは、ここに起因しているのかもしれない。
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京都の印象


京都市内は車での観光に適さない。市も公共交通機関での観光を推奨しており、車に優しい街づくりを行っていない。けれども、車で2時間圏内に位置する京都は電車よりも車の方が行きやすく感じるので最盛期を外していつも車で訪れている。(花見・紅葉シーズンや大型連休のときは車ではとてもじゃないが観光することができないだろう。)

嵐山に駐車し、苔寺・鈴虫寺へは阪急電車に乗って松尾駅で下車、そこから歩いた。松尾大社の参道近くの小路に「松尾そば」という幟を立てた蕎麦屋があって、ふらっと立ち寄ってみた。そばは気分にあまり左右されず、いつでもおいしく食べられる。そしてなんとなく雰囲気のよさそうな蕎麦屋があったら入りたくなる。たしかにそばの味はピンきりだろうが―特別そばの味に通じているわけではない―唯一無二の食べ物、そばを食べるという行動が日本的というかなんというか好きなのだ。

以前は一般的であった日本家屋に欧米的合理性をくっつけた質素な外観に妙な不安を抱きながら暖簾をくぐった。テーブル席に窓・壁際はこ上がりとなっていて、ちゃぶ台に薄くて小さな座布団。花瓶に何輪かの草花が飾られていた。下町風情とはこうしたものかとなんとなく、「吾輩は猫である」とか、漱石の時代が頭に浮かんだ。テレビからは雑音に近い笑いが流されていた。

注文して、10分もたたないうちにそばが運ばれてきた。「にしんそば」だ。にしんの甘露煮、だし、そば、うまくまとまっていておいしかった。

前に書いた、記事はこのあとのできごとだ。参拝を終え、駐車場から車を出したときには、夕暮れが迫っていた。碁盤の目といわれる京都の町は、地元民でない者にとって実に走りづらい。タクシーや観光バスの多いこと。小路というような一方通行の筋が縦横に走っていて、一時停止と安全確認に余念なく車を走らせなければならない。行き交う地元の人の自転車や車は何食わぬ顔で躊躇なく通りゆく。彼等の生活の秩序を乱すのは、唯一僕の運転だった。そんな神経質にならざるを得ない、市内の中心地に今回宿泊した『柊屋別館』は門を構えていた…
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「人の役に立つ」とは


世の中で日々起こる、あらゆる出来事は僕にとってまったく別次元の別世界で起こっているように思われてならない。

真紅のスーツを着て空港に現われたサッカー日本代表の本田選手。その恰好と世間の取り沙汰され方はまさに僕の生きる世界から見れば常軌を逸したものだ。「住む世界が違うなー」と強いて思うならこんなことだろうか。僕の生きる世界は物理的に接触し得る、行動範囲で、あとそうしたメディアによって伝えられ、見ることのできる常軌を逸した世界だといえる。知らないことが多すぎるし、見たことのないことも多すぎる。そして地球に住んでいながら、そのほとんどを知らないわけだ。しかし、それが何だというのだ?たくさんの本を読み、たくさんの場所に旅をする。それが僕にとって人生の意味に思われた。けれども、わかったことは、世界は広く、人は数えきれないほど生きてきたし、また生きている。そのそれぞれに思想があって、常に時代は問題を抱えている。他者も自分も苦しむことなく生を全うできるように最善を尽くし、努力をする。これに勝る真理はない。理想は常に変わらない。本を読む意味も旅をする意味も薄らいだ。それらはエゴからでることで、私利私欲そのままであった。そうした時間も人生にはもちろん必要だろう。だが、それが生きる意味となってしまったら、生に申し訳ないではないか。あまりに、世界をむげにしてしまっているではないか。

考えてみると、本を読むにしろ、旅をするにしろ、その根本には人の役に立つことはできないかということがあった。だから、このブログにはこれらに関する記事が多く投稿されている。しかし、その内容は中途半端なものとなっていた。本当に人の役に立ちたいと思うのならば、もっとわかりやすく、もっと他者が求めるものを記さなければならないはずだ。けれども僕は自分の感性や思想に響き、それらを向上させんがために書いていた。だからわずかな共感者しか得られなかった。当たり前のことだ。

人の役に立つとはどういうことなのか?漠然と「人の役に立つ」という概念だけが賞賛されるが、実際の「人の役に立つ」とはどういうことなのかを、考えたことのある人は少ないのかもしれない。「人の役に立とう」と考える人がまず皆無だ。その内容を考える人は依然皆無に違いない。

「人の役に立つ」とはその人が欲するものを与えることだ。しかし、その人というのは僕が否定的にとらえている一般大衆ではないか。本も読まず、私利私欲を満たすことだけを考え、自己中心的な人々ではないか。そんな彼らが求める者が、僕が与えようとしているものと一致するはずがないではないか。こんなことに気づかなかった僕は馬鹿だ。そして情も湧かない他人に対して役に立とうとはどういう了見なのだろうか。それは主観(エゴ)の押し付けか偽善に過ぎない。自己満足を求めているのだ。

そうして日々の生活をどうしていけばいいのかわからなくなった。

とりあえず僕には仕事がある――それが正しいか、いいものなのかはっきり断じることはできないが――、それをむらなく、真面目に誠実にやれるよう、日々を過ごしていくことが、当面は目指すべきところなのではないかと考えている。

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「嬉しい」という素晴らしい感情


わたしたちが最も強く幸せを感じるとき、それは相手の嬉しそうな様子を見るときかもしれない。

「嬉しい」には、自分の思い通りになったときに感じる喜びと相手に何かをしてもらってありがたく思うと同時に湧きあがる充足感の二つの意味があるように思う。そしてこの後者の感情こそ、人間の感情の中でもとりわけ素晴らしいものなのじゃないだろうか。「嬉しい」という感情こそ、人と人を結び付け、愛をもたらすに違いない。
 
「たとえ脳に重度の障害があっても、喜びや嬉しさを人間は感じるんです。」とある医師か、その障害を持つ人の家族がいっていた。喜びや嬉しさはなんと尊い感情だろう。生きていることが嬉しい、喜び、生きているという実感が喜びや嬉しさの源なのかもしれない。

人の喜ぶ顔、人の嬉しそうな顔、それをたくさん見られるように日々を過ごそう。自分のしたことで相手が喜んでくれたり、嬉しがってくれたら、自分もやっぱり嬉しいし、喜びである。どうして人はこんなことに気づかず、気づいても実行することができないのだろう。「一日一善」というから難しいのだ。「一日一喜」、一日一回は、他者を喜ばせることができるように行動しよう。これは絶対に、幸福への一歩だ。そして純粋に「嬉しい」という感情が沸き起こり、純粋な「嬉しい」様子に出会ったとき、人間という生き物の尊さと素晴らしさがわかるのだとおもう。

人に喜んでもらう、嬉しいと感じさせる、そのためには、何か行動を起こさなければならない。
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「苔寺」がつくりだす静謐

京都嵐山に「鈴虫寺」というお寺がある。正式名称は「妙徳山 華厳寺」であるが、書院にて大切に飼育されている鈴虫の音色が年中聞かれることからこのように呼ばれている。その数、3~4000(位だったと思うが記憶があいまいで正確でない)匹ほどで長年の研究と努力の結果、寿命が短く、鳴く時期も秋と限定されるにもかかわらず、年中鈴虫を鳴かせることができるようになったそうである。

さて、この「鈴虫寺」、その魅力は年中聞かれる鈴虫の鳴き声だけではない。以前記事にしたが、わらじを履いたおじぞうさまがいらっしゃり、願いを叶えに来てくれるという嬉しい霊験がある。この度、前回願った「自分にふさわしい仕事がみつかりますように」というお願いが叶えられたので――まさに現在の仕事に就職という形で――そのお礼参りに「鈴虫寺」を訪れた。そしてまた新たに一つお願い事をしてきたので、また叶った暁には、再び訪れることとなると思う。

前回「鈴虫寺」を参拝した際、近くに、というか隣に「苔寺」を発見して、世界遺産としても有名なお寺、参拝しないわけにはいかない!と興奮したのだが、あいにく予約制であったため断念した、その「苔寺」に今回やってくることができた。参拝料として3000円以上納めなければならないが、写経と庭園観覧ができることを考えれば、高額どころか手軽に宗教体験ができてよいのではないかと思う。往復はがきによる事前予約が必要なのだが、僕は楽しみでならなかった。

堂内では写真撮影禁止であったため、写経の様子を画で伝えることはできないのだが、三度般若心経を唱えた後、般若心経がうっすら印刷されている半紙に細筆を滑らしていく。一心に集中して行っていると心は静まり、なるほど、悟りとはこんなものかしらんと気楽な思いさえしてきた。ただ、僕は元来、集中力が長続きしないため、よくいわれる4、50分を経過するとたちまち作業に対する集中力が切れてしまうのだが、やはり正座で――僕はほとんど正座を崩して取り組んだが――書いているうちに投げ出したくなってしまい、白状すると途中から捨て鉢にやってしまった。辛抱が足りないのか、信仰心が足りないのか、どちらでもいいことだが、向かないなあと思ったから今度からはやめることにする。一度やってみるのはいいことだ。

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かわって、こちら「苔寺」(西芳寺)と呼ばれる所以となっている庭園についてだが、まず観覧者はどこで写真を撮ろうか悩むであろうと思われるほど、これといった撮影スポットというのがない。大体どの観光スポットにもお決まりの画があって、そこで観光客は思い思いにシャッターを切るわけだが、「苔寺」には決まったポイントというのがないように思う。たんに、シーンとして捉えれば、苔むす森の中と何ら変わりがない。池に配されている島に石橋が架けられてあり、回遊できるように小径がつくられているのみだ。何種類もの苔によって全体を隈なくおおわれている様は独得ではあるが、美しいかといわれると、それとは違うものだと感じた。たしかに、全体として大きな盆栽を見ているような錯覚に陥らないでもない。けれども、やはり苔はわき役であって、主役ではないというのが僕の主張だ。思うに、苔寺は眺めて楽しむために造られたのではなく、静謐を実現させるために造られたのだ。目には緑が心地よく映り、苔と木々によって雑音は消され、ひんやりとした湿気が体を包む。水で洗われたような清らかな空間が「苔寺」にはある。「苔寺」の魅力はこの空気にあるに違いない。
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「これでよかったのだろうか」 どんな人生も、その人にとってはかけがえのない、素晴らしいものだ


誰もが今を懸命に生きている。つまり現在を見ている。そして私たちの人生には未来と現在と過去があり、ときには未来を空想したり夢見てみたり、過去を振り返ったりする。そのきっかけとなるのはいわゆる「人生の節目」と呼ばれるときではないだろうか。卒業、就職、結婚……、その時々に私たちはそれぞれに、さまざまなことを考える。「こんなことやあんなことがあった」と思い出に浸ることもあれば、「これでよかったのだろうか」と過去の自分に問うこともある。

僕自身が今の仕事に就いて、「これでよかったのだろうか」と過去を振り返っている。あくまでこの問いは、現状の否定ではない。しかし、もっと最善が、あるいはどこかに誤りがあったのではないか、という前向きな姿勢からでてくる問いだ。
現在の結果に結び付く過去の時間の過ごし方が、動機として繋がっていないのだ。すなわち何の役にも立っていない如く見えるのだ。
スポーツに打ち込み、勉強に励んできた、多くの時間が今の生活の何にも役立っていないという現実がある。たしかに、これらは人間性の成長を助けてくれた。しかし、これらによって得られた技術や知識、体面は現実に何の役にも立たないところに今の僕はいる。
時間だけではない、親にたくさんお金も使わせた、それに労力だって。楽しみや、友人との時間も犠牲にしてきた、その結果がこの現在という違和感。これに対して、「これでよかったのだろうか」という言葉がこぼれる。

しかし、「これが人生なのだ。」

このように肯定してみるとどうだろう。はたからみたら平凡な、僕の現状と人生にもこうした、ちょっとしたドラマがあるわけである。何気なく日々交流し、言葉を交わし、顔を合わせる人たちの一人ひとりが、こうしたドラマを経て、現在を生きているのだ。僕には僕の人生があるように、彼女には彼女の人生がある。見知らぬおじさんにも、それはそれは素敵な青春もあったのかもしれない。私たちは自分の人生のことには関心を持ち、考えてみるけれども、他人の人生にはえてして無関心だ。他者の人生をも愛せとは言わないが、他者の人生にも関心を持ち、尊重することはしなければならないことと思う。そして他者の人生を豊かにすることができれば素晴らしいし、他者の人生を台無しにしたり、損なうようなことは、何人もしてはいけないし、その権利は決してない。それぞれの人が、自分に与えられた人生をそれぞれの歩幅で歩んでいる。どんな人生も、その人にとってはかけがえのない、素晴らしいものだ。そんなことにさえ、気づいていなかった自分自身がいた。

自分の人生を素晴らしく、それと同じく他者の人生も素晴らしいものであることを願うこと、それは人として大切なことなんじゃないかと思う。
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プロフィール

hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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