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愛着あるもので満たされた生活は幸福をもたらす


人間を社会的にするのはかれの弱さだ。わたしたちの心に人間愛を感じさせるのはわたしたちに共通のみじめさなのだ。人間でなかったらわたしたちは人間愛など感じる必要はまったくないのだ。愛着はすべて足りないものがある証拠だ。わたしたちのひとりひとりがほかの人間をぜんぜん必要としないなら、ほかの人間といっしょになろうなどとはだれも考えはしまい。こうしてわたしたちの弱さそのものからわたしたちのはかない幸福が生まれてくる。ほんとうに幸福な存在は孤独な存在だ。神だけが絶対的な幸福を楽しんでいる。といっても、わたしたちのだれがそういう幸福についての観念をもっていよう。何者か不完全な存在者が自分だけで満足できるとしたら、わたしたちの考えられるどんなことをかれは楽しむことになるのか。かれはひとりで、みじめな者になるにちがいない。なんにも必要としない者がなにものかを愛することができるとは考えられない。ところで、なにものも愛していない者が幸福でありうるとは考えられないのだ。   『エミール』より


もし僕が読書をしなかったとしたら、もっといえば『エミール』を読むことがなかったならば、きっと一生この「愛着はすべて足りないものがある証拠だ」という観念を持つことなく生涯を終えたことだろう。それほどこの観念は僕にとって大きな発見であった。

というのも、まず第一に「神だけが絶対的な幸福を楽しんでいる」というが、神が"楽しんでいる"という感覚、僕たちに持つことができるだろうか。そしてルソー自身もそういう幸福についての観念は持っていないといっている。つまり僕らは二重に神の存在の観念から遠ざかっているようにみえる。だがそんなことは置いておく。その特有の幸福があり、なんにも必要としない幸福から生まれてくる、特有の愛でもってわれわれ人類は神に愛されているということになりそうだ。神に関する細かいことや詳しいことは僕にはわからない。だから、僕なりの愛し方で神を愛したいと思う。僕たちが神を愛するという場合、神を信じると言い換えてもいいかもしれない。こちらの方がなんとなくしっくりくる。僕は僕なりの仕方で神を信じ、その存在を感じ、畏敬の念をもっている。

さて、「愛着はすべて足りないものがある証拠だ」とある。そして「なんにも必要としない者がなにものかを愛することができるとは考えられない」、「なにものも愛していない者が幸福でありうるとは考えられない」と結ばれている。世の中を見渡してみると幸福に見えないひとたち、幸福ではないと自ら告白しているひとたちであふれかえっている。彼らを僕がかわいそうだとか気の毒だと思うのは失礼であり、愚かなことだ。だいたい他人の幸不幸など分かりようがない。けれども幸不幸の違いは満たされているか満たされていないか、ということに帰着するに違いない。人に囲まれ、ものに囲まれ、お金に囲まれていたとしても、満たされない気持ちがあれば、幸福ではないだろう。多くの人が自分自身の求めるものと手にしている者とに差が生じてしまっている。その結果、幸福になりきれないのである。

僕は以前から、「生活をシンプルにする」ということをモットーにしてきた。それは今でも変わっていないが、漠然としたこのシンプルというところから一歩進んだ解釈を得ることができた。すなわち、「生活を愛着のあるもので満たすこと」、"愛"というものは無限であるようにみえて、有限である。"愛"は時間や労力という尺度で――目安程度ではあるが――計ることができると考えられ、ゆえに有限である。愛するもののためには時間と労力を惜しまない。だから、その対象はどうしても数が限られてしまう。たくさんの友を持ち、たくさんの友に愛をもって接する……可能だろうか?意図しなくともあるとき、自分の中で順位が決められていることに気が付くだろう。"愛"は無限ではない。強弱が存在するのだ。そこで、この愛着の強弱を正しく見極め、自分自身の生活を真に愛着を持っているものだけで構成する。これが今僕が求めるライフスタイルである。しかも、この愛着という関係は長持ちする特徴を有するため(愛着はすなわち労りや手入れという行動をもたらす)、幸福は続き、環境的に言えば非常にエコということになるのである。
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"お金"は人類史の一つの発明 徳はほのかな芳香のようなもの

もしすべての人間が、当時の私とおなじように簡素な生活を送るようになれば、盗みや強盗はなくなると、私は確信している。こうした事件は、必要以上に物をもっている人間がいる一方、必要な物さえもっていない人間がいる社会でのみ起こるのである。

「ひとは戦に苦しまずとよ。   
   ブナの木の椀のみ欲りしそのころは」

「政をおこなうのになぜ刑罰を用いる必要があろうか?徳を愛せ。さすれば民もまた徳を慕うであろう。君子の徳は風のごとくであり、小人の徳は草のごとくである。風が草の上を吹き渡れば草はなびく」   『森の生活』より


世の中の仕組み上、少なくとも所有権が認められている以上、格差はできてしまう。すでにこの世の中にあるモノや金は誰かの所有するところになっていて、その所有者は子であるとか、大金を積んで権利を譲ってもらうとか特別な条件を満たす者に受け継がれることになる。基本的には金持ちは最初から金持ちであり、貧乏は始めから貧乏なのだ。これは資本主義という仕組みだから納得できなくても従わなければならないし、挑戦によってわずかな人は貧乏から金持ちへ、逆に不運や失策によって金持ちから貧乏へなる場合もなくはない。だからといって僕はこの社会制度に対して反対をとなえるのではない。皆が平等に同じようなつましい生活を送るべきだというつもりもない。けれどもそれぞれが簡素な生活や金持ちは金持ちなりの役割を果たすということをすれば、格差は際立ったものではなくなり、事件という極端な事態を引き起こすきっかけを与えることはなくなるのではないかと考えている。

簡単にまとめると、すべての人は環境のために簡素で自然な生活をする。貧乏は貧乏の役割を、金持ちは金持ちの役割をきっちり果たす。ということだ。

貧乏の役割は、金持ちに頭を下げ、仕事をもらうことだ。金持ちはちゃんと貧乏とは限らないが、仕事をつくり、与え、その報酬として充分な賃金を払ってやることだ。これの繰り返しによっていずれ、格差は緩和されていくのではないかとも思える。

僕は金持ちを悪いとは思わないし、憎んでもいない。だが人間の性情に流されて、自分の役割を忘れている者が多いように思う。持っているモノは使い、利用し、分かちあわなければならない。金持ちは金を使い、利用し、時には余裕があれば、分かちあう必要があると思う。そして生産性のある、多くの者を益するような使い方をしなければならない。お金を持つにはそれなりの才能と技術がいるのだ。金をどれだけ持っているのかで豊かさを計ることは不可能だろう。金をどのように使えるかによって豊かさは初めて計りの上に載せられる。世の中は科学の発展と思想の進歩で便利に、豊かになってきたと僕は信じたいが、その世界を便利に住み良くしてきた発明や発見の一つが"お金"であることも忘れてはいけない。お金も道具であり、仕組みである。嘆いても批判しても仕様がない。付き合い方を考えなければならない。iPhoneを必要としない人のように、お金を必要としない人もいるだろう。それは大いに結構、むしろ大賛成ですらある。しかし、社会の中で生きていくのならば、その扱い方を知り、考えることは無駄ではないであろう。これも一つの世界を知るということになるのだから。


徳は難しい。すでに人間は増えすぎてしまった。小国寡民であればまだその望みはあったかもしれない。思うに徳はほのかな芳香のようなもので、目に見えず、伝わりにくいものなのだ。理想は刑罰などない世界であろうが、世界も広く、徳の芳香はすぐに霧散してしまうだろう。こうしたことはすべて、小さなところから始めていくより他ない。まず自分自身が、罰の有無に限らず、良心と善に則って行動できるようになる必要がある。
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「理解」という尊い慈しみ

「御前は平生から能く分らない男だった。それでも、いつか分る時機が来るだろうと思って今日まで交際(つきあ)っていた。然し今度と云う今度は、全く分らない人間だと、おれも諦めてしまった。世の中に分らない人間程危険なものはない。何を為るんだか、何を考えているんだか安心が出来ない。御前はそれが自分の勝手だから可かろうが、御父さんやおれの、社会上の地位を思ってみろ。御前だって家庭の名誉と云う観念は有っているだろう」

兄の言葉は、代助の耳を掠めて外へ零れた。彼はただ全身に苦痛を感じた。けれども兄の前に良心の鞭撻を蒙る程動揺してはいなかった。凡てを都合よく弁解して、世間的の兄から、今更同情を得ようと云う芝居気は固より起らなかった。彼は彼の頭の中に彼自身に正当な道を歩んだという自信があった。彼はそれで満足であった。その満足を理解してくれるものは三千代だけであった。三千代以外には、父も兄も社会も人間も悉く敵であった。彼等は赫赫たる炎火の裡に、二人を包んで焼き殺そうとしている。代助は無言のまま、三千代と抱き合って、この焔の風に早く己を焼き尽すのを、この上もない本望とした。彼は兄には何の答もしなかった。重い頭を支えて石の様に動かなかった。

(中略)

「貴様は馬鹿だ」と兄が大きな声を出した。代助は俯向いたまま顔を上げなかった。

「愚図だ」と兄が又云った。「不断は人並以上に減らず口を敲く癖に、いざと云う場合には、まるで唖の様に黙っている。そうして、陰で親の名誉に関わる様な悪戯をしている。今日まで何の為に教育を受けたのだ」   『それから』より


僕も散々身内から罵倒された人間である。共感すること少なく、同情を得ることもまれであった、一緒に過ごしながら気持ちの上では孤独という寂しさの中にあった。実際に「目が怖い」と直接言われ、「あいつは一体何を考えているのか」と言っていたということを伝え聞いたこともある。そうした心ない、何気なく口にしたであろう冷たい一言ひとことが、心の距離を遠ざけていった。冗談か何か知らないが、「オウム真理教」が取り上げられると――事件としてだが――以前から注意を受けた、「お前みたいな一見すると賢い奴がはまる活動や宗教の最たるものだ。大丈夫か心配だ」と。

親の愛というヴェールによって隠された(実際には僕に対する)不信が常に見え隠れしていた。古い親だったから仕方がない、そして祖父祖母は厳格であったから、猶更こうなってしかるべきなのだ。長らく彼女を紹介したことのない僕に「たとえゲイだとしても、今までと同じように愛する」と見当はずれな思いを抱いているのには戸惑った。僕はただ、自分以外の人間を肯定的に見ず、一方で自分のことよく見せようとばかりして、彼女に対しての配慮や親しみを持つことができないからそうしているのである。たしかにゲイに見えるほど、女性に対して淡白であるには違いないのだが男性を愛したことは一度もない。こうしたことを断らなければならない信頼関係というのはいかがなものだろうか。互いの不信感は歳を経るごとに積もるばかりだ。

仕事もプライベートも家族の社会上の地位を損なう結果となっているのはある意味で事実なのかもしれない。「何の為に教育を受けたのだ」との言葉も鮮明に覚えている。この結果が分っていたから僕は必死に教育を断った。社会的地位の為の教育に僕は価値を見いだせなかったのだ。しかし、その意志が通ることはなかった。そして、教育を必要としない仕事に就くことを残念がっている姿を見て、親不孝という言葉に押しつぶされそうな気持になった。なんとか定職に就いたから、結婚などの場合の最低限の世間体は保つことができるようになった。しかし、それを喜ぶどころか、不問に付すという気味で今に至っている。

減らず口、いつからか口を開けば理屈しか言わないと煙たがられるのを厭い、口を閉ざした。

僕は僕の頭の中に僕自身に正当な道を歩んだという自信があった。僕はそれで満足であった。だがせめて、この満足を理解してくれる誰かが欲しかった。僕はずっと「理解」という尊い慈しみにあこがれている。
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リアルな死の予感がもたらしたもの


僕がもし、もう少し健全で丈夫であったらひょっとしたら多くの人々を救うことになったかもしれない。金の為ではなく、人助けがしたくて医者になろうとしたこともある。でもおそらく物理的に不可能だった。すべての手段を講じ尽くしたわけではないけど、できるかぎりの手はうったけれどだめだったのだ。

ずっと運動も得意だったから、スポーツ選手にも憧れた。誰よりも努力したと思えるほど日々練習をした。それもいずれ限界に達し、ごまかしがきかなくなって、成長するにつれて下手になった。どうしようもなかった。辞めざるを得なかった。これもまた機能的な問題。こうして僕は単純に頭脳と肉体を駆使して活躍するプロフェッショナルになる道は閉ざされた。肉体的不健全。それは思った以上に重くのしかかり、人生に制限を与えた。遊びも勉強も仕事もなにもかもが制限された。それは当たり前のことだったから、不便や不満は感じなかったが単に生きづらさと判断するようになっていた。そうして制限された選択肢の中で運よく現在を過ごし、うまくやっていけている。運が良かったとただ感謝するばかりだ。

不健全もそうだが、不健康というか脆弱ということも最近気にかかる。

髪は少なめで細い。頭部を守る気があるのか?と自分の体に問いたい。目も耳も鼻も悪い。歯磨きは丁寧にやるが3か月に一度歯医者に行かなければすぐ虫歯になってしまう。皮膚は極度の敏感肌で年中かゆみになやまされる。原因は不明なのがまた厄介だ。胃腸が弱い。こんなものは健康のうちに入るとも言えるだろう。けれどタバコやカロリーの高い食事、運動不足など、健康によくないといわれることを本能的に避けているような生活を僕は送っている。おそらく身体が知っていて、そのように思考を導いているのだろう。防衛本能のようなものだ。不思議なことに、僕には三大欲求と呼ばれるものが見事に欠けている。これには誰もが驚く。生命力に欠けている。もちろん体格は生れてからずっとやせ型である。

そしてこの度、すさまじい直感を得た。

「僕が長生きする望みはない」

このことを実感として得ることはなかなかあることではないから少なからず衝撃であり、新たな視界をもたらしてくれた。

考えてみると僕の好みや傾向は、まるで人生を長く生きてきた年寄りのようだといわれるように、若者っぽさを微塵も感じさせない。古典に親しみ、芸術や風情を楽しむ――。若さの刺激や快感とは対極にあるものだ。それほど長くはない人生だから楽しみつくそうと本能的に考えて旅や世界のあらゆることを知ろうとしているのではないかと思う。

近いうちに死ぬかもしれない――というリアルな実感が生み出す価値観。それはすさまじいものだった。

「なんのために生まれて、なにをして生きるのか」、「なにが幸せ、なにをして喜ぶ」、こうした命題が目の前に大きく表れる。そして、信じられない程に、僕は生に執着している!近いうちに死ぬかもしれないという予感に対して死にたくないという強い反発が真底湧きあがってくる。究極の自己矛盾!

また少し、僕の生き方の指針が変わったようである。自然に?運命によって?変えられたように思う。現実的な感覚としての遠くはない将来に死ぬかもしれないという予感……。僕はどのように生きるべきであろうか?

「永遠に生きるかのように学べ。  明日死ぬかのように生きろ」というマハトマ・ガンジーの言葉が浮かんだが、死ぬとしたら、学びよりも、他者への何ができるか、自分が自分以外の世界に何ができるのかということになるだろう。
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文学における「友情」 なまじいに遣り遂げた義侠心


「その時の僕は、今の僕でなかった。君から話を聞いた時、僕の未来を犠牲にしても、君の望みを叶えるのが、友達の本分だと思った。それが悪かった。今位頭が熟していれば、まだ考え様があったのだが、惜しい事に若かったものだから、余りに自然を軽蔑し過ぎた。僕はあの時の事を思っては、非常な後悔の念に襲われている。自分の為ばかりじゃない。実際君の為に後悔している。僕が君に対して真に済まないと思うのは、今度の事件より寧ろあの時僕がなまじいに遣り遂げた義侠心だ。君、どうぞ勘弁してくれ。僕はこの通り自然に復讎(かたき)を取られて、君の前に手を突いて詫(あや)まっている」   『それから』より


文学は”情”を言葉に書き起こす活動のことを言うのだと僕は考えている。わたしたちの人生の中で感じ、心に映るところの「愛情」、「恋情」、「友情」、「旅情」、「風情」などを特別な才能と感性をもった、文豪と呼ぶに相応しい人間が言葉でもってわたしたちの眼前に浮かび上がらせてくれるのだ。”情”という漢字自体がもつ意味と、その成り立ちなどの深い知識に関して、Tさんからひょっとしたらご教授いただけるかもしれない。僕の感覚的な認識ではりっしんべん(心)に青であるから、”心に映る”という意味くらいだが、実際のところはどうであろうか。小説にしても映画にしても「ラブストーリー」(男女の恋愛)がなければ成り立たないということを聞いたことがあるが――現にハリウッド映画などは必ずといっていいほど長短、軽重の違いはあれどラブシーンが含まれる。僕は幼いころから、現在までこのなんともいえないこちらが気恥ずかしくなるような演出と絶妙な物語への挿入が好きではなかった。小説でもあまりに瑞々しく、露骨な恋愛が混入されると興ざめしてしまう。夏目漱石にしろ、ドストエフスキーにしろ、どこか男女に一定の距離感がある物語が好きなのだ。スタンダールやトーマス・マンもいい。

『それから』が単なる不倫という形の恋愛ものに収まっていないのは、この友情関係をうまく描き出しているからだろうと思う。「友情」を描いた作品というのは、誰も傷つけることなくさわやかであるから優れた題材であると思う。『ドン・キホーテ』のドン・キホーテとサンチョ・パンサ、『ハックルベリー・フィンの冒険』のハックルベリー・フィンとジム、『三四郎』の三四郎と与次郎。どの友情関係もとても美しく素晴らしいものだ。僕に「持つべきものは友だ」と教えてくれたのはこれらの文学作品なのだ。

「僕はあの時の事を思っては、非常な後悔の念に襲われている。自分の為ばかりじゃない。実際君の為に後悔している」この箇所は強く僕の心を打った。自分の為に後悔するのはよくわかる。自分の好きだった人を友人に譲ってしまったのだから後悔するのは当然だ。もっともこのとき代助はエゴより友情という徳を優先した。しかし、自由意志が文字どおり自らの自由となるのではないとは知らなかった。意図しない自然から出で来るものだとは知らなかった。友である君にすまなかったというのである。「なまじいに遣り遂げた義侠心」、これはあらゆる場面で当事者双方を苦境に陥れる善意の罠である。完全に正しくあることは難しい。しかし、正義であることが不可能であるにしても、正しくあることは不可能ではないように思われる。この場合でも代助が初志貫徹、黙ってエゴを是が非でも抑えて過ごすか、始めから中途半端に終わる義侠心など発揮しないかどちらかが実行できれば正しいということになるだろう。

それにしても「義侠心」などという言葉は聞かれないし、使われなくなった。素晴らしい言葉であり、美しい徳であるのに残念だ。日本人にはなくてはならない心、義侠心。忘れてはならない、いや日本人であるならばなおさら義侠心を持たなければならない。
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快眠のための条件が自然に揃う「柏屋別荘」


通された和室は老舗らしいくたびれ加減であったが、掃除はよく行き届いており、冷蔵庫には野沢菜づけが用意されていたのにはさすがという他なかった。のんびりできる温泉宿というのは案外少ない様な気がする。大型旅館やホテルでは周囲の物音や他の宿泊客がどうしても気になったり、デザインや装飾ばかり立派で実用性や使い勝手には配慮されていないというところも多いのだ。過度なサービスや演出も人気宿と呼ばれるところには多いように思う。別所温泉の中でも奥地に位置する「臨泉楼 柏屋別荘」は閑静であり、立地も非常によい。

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さて、お目当ての温泉に夕食前に入らせていただいたわけだが、脱衣所やシャワースペースの設備は明るく、清潔感があった。内風呂と露天風呂が一つずつあり、源泉掛け流しであることもあり小さ目の湯船にはなっているが、その分新鮮な温泉で満たされている感じがした。白色の硫黄分を含んだ湯の花が舞い、湯口から上る湯気からは硫黄臭がはっきりわかった。石組みの露天風呂、掘り切られたような内風呂は変哲もないようだが、浴場に畳が敷かれている!

ここで気が付く、そういえば館内全体が畳敷きでスリッパをはいていない!

くつろぎの秘密がここにもあったとは恐るべし「柏屋別荘」

食事は個室のお食事処でいただくのだが、その一室一室の入り口には数段の上がり階段がついていてプライベートな空間を一層引き立てる工夫がされていた。たしか掘りごたつにもなっていて、食事が順に運ばれる内にご飯を炊くための釜が用意され、頃よくその場で炊き立てのご飯が頂けるといううれしい計らいもあった。炊き立ての釜から直接頂くご飯は格別であった。和を中心に、仕事が丁寧でありながら品数が多い温泉旅館らしい夕食もうれしかった。消化によいものが多く、晩にぐっすりと眠るための条件が知らず知らずに整ってしまう素晴らしい宿であった。
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僕は僕自身を寸分の狂いなくコントロールし、マネジメントしなければならない。


こんなことを考えているうちにわたしは、断固とした人間と、思いがけないできごとと、いまだ過ぎ去っていない時間をもったジャングルが、わたしの芸術の本質や、ある種のテキストのもつ深い意味、また、ある種の傾向の知られざる偉大さについて、わたしの書斎にある、もはや永遠に死んだ多数の本の読書より、はるかに多くのことを教えてくれたことに気づいた。わたしは<先行者>から、人間がいどむことのできる最高の仕事が、自分の運命をつくりあげるそれであることを学んだ。というのも、この都市では、わたしの周囲で、必死であると同時に従順にかけまわっている群集のなかに、無数の顔はみるが、ほとんど運命をみることがないからである。つまり、それらの顔の背後にかくれているいかなる欲望も、反抗も、衝動も、恐怖によって抑圧されていて、けっしておもてに出ることがないのである。人は懲戒に対し、時間に対し、情報に対し、隷属を複数化する集団に対し恐怖を抱いている。種に対して開かれる子宮に対し、果物に対し、水に対し恐怖を抱いている。日付に対する恐怖、法律に対する恐怖、スローガンに対する恐怖、失敗に対する恐怖、封印された封筒に対する恐怖、起こるであろうことに対する恐怖。   『失われた足跡』より


読書が多くのことを教えてくれることは確かである。しかし本がすべてを教えてくれるわけではない。本では学べないことはたくさんある。けれども、読書せずに賢く正しくあることは不可能であるように思える。だから僕は読書しない人から賢く正しい言動がでてこようなどとは期待しない。本が、多くの場合、逃げ道となっていることに僕は薄々感づいていた。著者も読者も両者は本を手段として逃避を続けてきた。善を実践できず、実行できないから書物を記すことでごまかし、自分の性質を隠し、理想の空論をさも自らの思想のように言葉として残してきた著者がいる。読者も賢く、善い人間になろうとするふりのために本を手に取り、賢く優れた人間にみせかけるために、知識を得る。そうした逃避や格好つけをしなくなったのが現代人なのだろう。読書しないのは最高にカッコ悪いと僕は思っているので、そんなことアピールしないだろうが、世の人たちは平気で本を読まない、活字離れが当たり前、それで真剣には誰も何とも思っていない。最高にカッコ悪い。カッコ悪いというのを、僕は世間体を気にするから、自負心があるから言うのではない。誰もいなくても、自分自身をカッコ悪いと思うのだ。モラルにしろ、品位にしろ、優しさ、労り、これらは結局のところ自分自身に対する感覚で、自分に対して申し訳ないとか、カッコ悪い、気持ち悪い、そういう感覚によるのだと思う。この自分に対する感覚は、読書では得られないものの代表でもあろうかと思うが、ここで記されている最高の仕事、自分の運命をつくりあげる、ということでも自分に対してマネジメント、ある信念をもってコントロールするということと同じである。自分をコントロールし、マネジメントするというイメージと感覚は自分が肉体と精神であること、そしてそれらが世界に画然と存在し、それらを間違いなく過不足なく所有しているという認識がなければ持つことができない。この認識のためには、物質的世界における森羅万象と自分の区別、他者が持つ思考と思想、自分の思考と思想の隔たりと相違を体験、体感しなければならない。これを与えてくれるのが読書であり、それ以上に断固とした人間との接触、想像を超えた出来事との遭遇、原始的自然における人類の生活といったような雑味ない肉体による感知と認識なのだ。もっと本能と感覚を刺激するような出来事と書物にふれていかなければならない。僕が僕自身を寸分の狂いなく、完璧にコントロールしマネジメントするために……。
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プロフィール

hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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