スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

憧れの宿 上田・別所温泉「臨泉楼 柏屋別荘」


旅好きの私には憧れの宿がいくつかある。例えば、箱根「福住楼」、「環翠楼」、金沢「加賀屋」、京都「柊屋別館」、奈良「奈良ホテル」。どれも近場といえば近場の宿になるが、どうしても情報などに接する機会が多くなるのだから当然だろう。まだまだ知らない素敵な宿が全国にたくさんあるだろうし、少しずつ範囲を広げられればいいと思う。

今回の旅で訪れた「美ヶ原高原」を北へ、上田市街へ下りていくと「別所温泉」があり、そこに憧れの宿の一つ『柏屋別荘』があるので、これ幸いと今回は宿泊先は即決であった。

A0joxyh6sUL9xH1DaPQnENaDy5bbNnsC_convert_20140930111540.jpg

つつじを中心とした庭園が敷地内にあり、見ごろを迎えるとたいへん見事だと有名で、いつか見晴らしのいい客室から眺めたい。今回はつつじの季節ではなく、特別室に泊まれるほど金銭に余裕もないため一般の客室にした。また、古くより多くの文人墨客が訪れた気品と風格のある歴史と伝統をまとった老舗宿。ときには少し背伸びをして、現在の今の自分の目線から一つ上の価値観や景色を見てみることは刺激になり、いい影響をも与えてくれる。どれだけ身につけるものや、周囲の環境が秀でたものであったとしても、その当事者の身の丈にあっていなければ滑稽極まりない。あくまで自らの品や節度が問題であるのだ。

ss_4_convert_20140930113939.jpg

出迎えてくれたのは、女性の仲居さんではなく白髪の慇懃丁重なおじさまで、終始素晴らしいもてなしであった。ロビーでは夏らしいお茶と茶菓子でいたわっていただいた。女性の浴衣の貸出もあり、どれも優美で素敵なものだった。もともと、上田藩士の別荘として建てられ、後に酒蔵となり、今の旅館に至ったということで、独特のつくりと重厚感とモダンな雰囲気が心地いい空間をつくりあげていた。

歴史ある建物には必ず、ちゃんとしたしつらえとそれに適う風合いの調度品が置かれてあり、建てつけもよく見栄えがする。中には貴重な品々が館内で目にすることができるという楽しみもある。

「柏屋別荘」には僕が気づいた内でも、元横綱千代の富士・九重親方から贈られた相撲番付の立派な板や親方の手なる絵画があった。「柏屋別荘」は由緒正しきすばらしい宿であることが、早々に判明しここで過ごす一晩がただただ楽しみでならなかった。
関連記事
スポンサーサイト

「無事安泰、それはわれわれには終末だと思われるのだ」


快楽主義であれ、厭世主義であれ、功利主義であれ、幸福主義であれ、快と苦、換言すれば、随伴的な状態や副次的な条件によって事物の価値を測るこれらすべての考え方は、前景だけを見る考え方で素朴性を脱するものではなく、これらに対しては、形成的な力と芸術的な良心を自覚している者ならば誰でも、嘲笑なしには、更に同情なしには見下ろすことがないであろう。諸君自身に対する同情!それはもとより、諸君が考えるような同情ではない。それは「社会的困窮」に対する同情、「社会」とその病疾者や敗残者に対する同情でもなく、われわれの周囲の地上にごろごろしている生れながらの悪徳者や廃疾者に対する同情でもない。それはまして「自由」と呼ばれる支配権を――狙う不平を呟く抑圧された叛乱的な奴隷階層に対する同情でもない。われわれの同情は一層高次の、一層遠目のきく同情である。――われわれが見るのは、人間がいかに小さくされるか、諸君が人間をいかに小さくするかなのだ!――それで、われわれがまさに諸君の同情を単純に尽くしがたい不安をもって見る瞬間がある。それは、われわれがこの同情に対して抵抗を感じる瞬間であり、――われわれが諸君の真面目さをいかなる浮薄よりも危険だと見る瞬間である。諸君は、できうべくんば――そしてこれほど馬鹿げた「できうべくんば」はないが――苦悩を除去しようとしている。それでは、われわれは?思うに、実にわれわれは苦悩をかつてよりも一層高く、かつ一層酷くしたいと望んでいるのだ!諸君の解するような無事安泰、――それは無論、われわれの目標ではない。それはわれわれには終末だと思われるのだ。それは人間を直ちに笑うべきものとし、軽蔑すべきものとする状態であり、――人間の没落を望ましめるものなのだ!苦悩の、大いなる苦悩の訓練、――ただこの訓練のみが人間のすべての高昇を創り出したということを諸君は知らないのか。魂の強さを育て上げる不幸のうちにおける魂のあの緊張、大いなる破滅の瞬間における魂の戦慄、不幸を担い、辛抱し、解釈し、利用し尽くすときの魂の創意と果敢、またかつて深底・秘密・仮面・精神・狡智・偉大によってのみ魂に贈られたもの、――それはこれらの苦悩のもとで、大いなる苦悩の訓練のもとで魂に贈られたのではないのか。人間のうちでは被造物と創造主とが合一している。人間のうちには素材・破片・過剰・粘土・汚物・背理・混沌がある。しかも人間のうちには更に創造者・形成者・鉄槌の峻酷、傍観者の神性および第七日がある。――諸君にはこの対立が分かるか。そして、諸君の同情は「人間のうちの被造物」に、すなわち、形成され、破砕され、鍛造され、引き裂かれ、灼熱され、精煉されなければならないものに、――要するに、必然的に苦悩せざるをえず、また苦悩すべきものに向けられるのだということが分かるか。ところで、われわれの同情、――それがすべての柔弱化と虚弱化のうちでも最悪のものである諸君の同情に対抗するときに、われわれの逆の同情が誰に向けられるかを諸君は理解しないのか。――従ってこれは同情に対する同情なのだ!――しかし、もう一度言うが、すべての快・苦の問題や同情の問題よりも一層高い問題が存する。そして、単にこの同情の問題にのみ帰趨するようなあらゆる哲学は素朴性を脱しえないのだ。――   『善悪の彼岸』より


多くを語り、事細かに説明することは事実を歪ませ、誤解を招き、なにより意味をかえって曇らす。僕が思うに、この箇所についてなにか説明や解説を加えるとしたら、よほど地力があるか、ここに書かれている含蓄に富んだ内容を理解できていないのだろう。それほどまでに、鋭くかつ丁寧わかりやすく表現されている。

わたしたちは、自分自身のその状況における即座の、真っ先の感情というものを重んじる傾向が強い。悲しみや喜びという感情はまさに、そうした起こり来った事実に対しての即座の反応であるが、ニーチェはこうした反応について、「随伴的な状態や副次的な条件によって事物の価値を測るこれらすべての考え方は、前景だけを見る考え方で素朴性を脱するものではなく、これらに対しては、形成的な力と芸術的な良心を自覚している者ならば誰でも、嘲笑なしには、更に同情なしには見下ろすことがないであろう」と言っているのだ。こうしたわたしたちに影響を与える接触物、現象によってわたしたちがどのような行動的、思想的影響を受けるのか、そして特にわたしたちが避けようとする「苦悩」がどのように性格・性質に作用するのか――宗教の大きな役割の一つがこの「苦悩」を和らげるということにあるように思われる――、歴史あるいは経験からこの苦悩こそがわたしたちを進歩させていることをニーチェあるいは、優れた人間というものは見抜き、敢えてこの苦悩から逃げ、この苦悩を忌んだりしない。「実にわれわれは苦悩をかつてよりも一層高く、かつ一層酷くしたいと望んでいるのだ!諸君の解するような無事安泰、――それは無論、われわれの目標ではない。それはわれわれには終末だと思われるのだ」
関連記事

「美ヶ原高原」 人間の手が及ぶがゆえに整えられる高原

美ヶ原高原の象徴、「美しの塔」――一般的にはどうだかわからないが――にたどり着くことが、僕にとって美ヶ原高原に行ったことを意味していた。この「美しの塔」は、元々この一帯が濃霧になりやすく、遭難が多発したためその対策として建てられた霧鐘を備えた避難塔なのだそう。実用性を備えながら、建造物として高い造形美をも持ち合わせている素晴らしい塔だ。高山特有の岩石質に調和するように自然石を組んだのち切り出してつくったかのように表面が美しい石の目になっている。コンクリート打ちっぱなしにしないところに、高原という大きな美意識に包まれた領域の心意気を感じることができる。

128022700116416331975_s-IMG_2757_convert_20140923175457.jpg

美ヶ原高原美術館から「美しの塔」までハイキングコースが整備されているのだが、そのコースをたどった者ならばこの風景からある感情が思い起こされるにちがいない。

efeb849d07f71b0ba64f6042bde80811_convert_20140923182104.jpg

奥に見える山小屋のその先に、目的の「美しの塔」があり、その途中の風景を切り取ったのがこの写真。かなり山道を歩いてきて、疲労が蓄積されているのにまだまだ距離があるなーという感想がこの一本道の途上、自然と漏れるのだ。砂利道で足は重く、太陽が容赦なく射竦めるように照りつける。

20130901_757778_convert_20140923173342.jpg

驚いたことにハイキングコースが牧場を横切るようにつくられているため、こんな非日常的でおもしろい風景に出会うことができる。日本に高原は数多くあれど、「美ヶ原高原」は間違いなく、その代表的なものであるに違いない。日本のような島国の高原といってもスケール感はないのかもしれないが、人間の手が及ぶがゆえに、ありのままの自然とは少し違った整えられた高原が出来上がっている。
関連記事

「自己の発見」、「自然の偉大さの理解」、「われわれと世界との関係の無限のひろがりの認識」


したがってわれわれは、完全に迷子になるか、ぐるりとひとまわりするまでは――人間がこの世で迷子になるには、目を閉じてひとまわりするだけで十分だ――「自然」の広大さも、その不思議さや、よそよそしさも理解できないのである。人間はみな、眠りから、あるいは放心から覚めるたびに、あらためて羅針盤が示す方位を読み取らなくてはならない。迷子になってはじめて、つまりこの世界を見失ってはじめて、われわれは自己を発見しはじめるのであり、また、われわれの置かれた位置や、われわれと世界との関係の無限のひろがりを認識するようにもなるのである。   『森の生活』より


「自己を発見」し、「自然の偉大さを理解」し、そして「われわれと世界との関係の無限のひろがりを認識」すること、それが生きる上で重要なことではないかと思う。「自己を発見する」とは人間を解明していくことに他ならず、他人との関わり合いの中で、日常生活の中で、それは次第に明らかになっていく。生き方に迷うとき、目的や意味を見失ってしまったとき、つまり人生で迷子になってしまったとき、わたしたちは真に自分と向き合うことができ、普段見えない人間性の一面を見ることができる。「迷子になること」、それは決して悪いことではないと僕は考えている。例を挙げれば、道に迷うとき、それは道を知ることができる最大のチャンスであるようにだ。とことん迷えばいい。迷えば迷っただけ、いろいろな発見がある。それが充実へとつながっていく。

「自然の偉大さを理解」するためには自然を体験しなければならない。体験したことのない人には地震の恐ろしさは分らないだろうし、行ったことがなければ宇宙の神秘さなど分かりようがない。せっかくこの世界、この自然のなかに生まれたのだから、人生をめいっぱいつかって、自然を知り尽くそうと思う。まだまだ見たことのない景色が多く、触れたことのない文化、生活様式というものが計り知れないほど多く存在するはずだ。常識や習慣にとらわれないまま、それらを眺めることができるとするなら、自然の偉大さや、時間の悠久さ、人間の本質、そういったものがぼんやりと眼前に浮かぶだろう。読書、旅、芸術、仕事、親しい人たちとの交流、こうしたものは忘我や迷子、体験によって発見をもたらしてくれる人生に欠かせない要素である。
関連記事

『サモトラケのニケ』と『ミロのヴィーナス』 美ヶ原高原美術館


世界を代表する美術館であるルーブル美術館、その所蔵品の中でもとりわけ有名なものといったら、絵画の『モナ・リザ』、彫刻の『ミロのヴィーナス』と『サモトラケのニケ』の三作品を挙げる人は少なくないだろう。そしてこの二つの彫刻が、なんと美ヶ原高原美術館に展示されているのだ。もちろんレプリカだが、一見の価値は充分ある。僕のように本物を見たことがない者にとっては偽物とはいえ、感動ものであった。大理石の見た目の質感はいかにも偽物っぽく、本物には遠く及ばないのだろうなという気持ちを抱きながらまず、『ミロのヴィーナス』を鑑賞し、続いて――『ミロのヴィーナス』は屋内に展示され、『サモトラケのニケ』は屋外に展示されていた――『サモトラケのニケ』のところへいくと、思っていたのとだいぶ違っていた。立派な台座があり、大空をバックに力強く、勇壮な翼を広げたニケの彫刻があった。翼は物理的に相応しい程しっかりとした形状をしており、現実的である。決して、空想的な天使の翼という類ではない。そういえば、スポーツメーカー「ナイキ」は勝利の女神である『ニケ』からきているそうで、ひょっとしたらこの翼を抽象的にとらえてデザインしたのがあのロゴマークかもしれない。

2012110922030449d_convert_20140918223321.jpg

本物を見たことがないのでなんともいえないが、レプリカだからこそ野外に展示することができ、一層この彫刻にふさわしい場所に置かれていると思った。芸術作品というのは、展示の仕方によって大きくイメージが変わる。ルーブル美術館にある『サモトラケのニケ』も当然、工夫を凝らした展示をされているだろうが、屋外にあるはずはあるまい。美ヶ原美術館にある『サモトラケのニケ』はダイナミックで、高原特有の流れ、うずまく雲を背景にして、幻想的でさえあったのでレプリカということをふまえても僕は気に入った。

一方、『ミロのヴィーナス』の方はというと、僕はあまり関心をひかれなかったし、感動や興奮もあまり覚えなかった。時空を飛び越えて存在する、という雰囲気もなければ、造形もそれほど美しいとはいえないようだった。黄金比が用いられているとして引き合いに出される代表的な作品ではあるが、そのバランスや立ち方は美しさがあるにしても、彫刻として重要な肉体の造形美は、今一つ足りないような感じがした。もっと女性的であってしかるべきだと思うし、やわらかさや質感のリアルさに欠けるようにも思った。これは好みの問題もあろうし、造られた年代を考えれば、現実に存在すること自体が奇跡であるし、その時代に現代にあって違和感のない彫刻をつくっていたということだけで、信じられず、ただただ驚きである。
関連記事

一人でも鑑賞者がいれば、作品は成立する。その一人を大事にしたい。


できあがる作品については、<先行者>がプエルト・アヌンシアシオンへ行くときに、それを携行し、船便で送ってくれるだろう。その上演は、受け取り人となる、わたしの親しい指揮者や音楽家の判断にまかされるだろう。この点に関する虚栄心からは、すっかり解放されていた。もっとも、いまの自分には、理念を十全に表現し、今日の音楽のひずみを是正するような形式を創造することができる、と信じていたが。喝采のもたらすむなしい名声を求めるわけではなかったが、自分の知っていることをかくさねばならない理由は、なにもなかった。どこかで若者が、きっとわたしのメッセージを待っているだろう。そして、わたしの声をとおして、彼自身のなかに解放された世界を見出すだろう。作品は、他人がそれをみるまでは完成されたことにならない。しかし、それが存在し、真の創作となるためには――ちょうど、アダムが生き物にあたえた名が、その名となったように――ただ一人の人がそれをみることで充分だろう。   『失われた足跡』 カルペンティエル著より


このブログを書き始めた当初はアクセス数がとても気になったし、多くのアクセスを得るにはどうしたらいいのだろうかと考え、悩んだりもした。そして記事の内容が読者にどのように伝わり、あるいは響き、どう影響するかということが重要な問題であった。しかし、いまはアクセス数が多かろうが少なかろうがあまり気にならない。また、増えれば、うれしいに違いないが、増やそうと意気込んだり、そのための工夫を凝らすということもない。毎日、日本のどこかで少数ながらでもこのブログを訪問してくれる人がいるし、ありがたいことにブログ仲間との交流ができたことで、自然と互いのブログを訪問し合うという環境ができた。まだまだ日は浅いにしても、継続していることによる経験と鍛錬で内容や書き方にも自分なりの進歩と向上がみえる。そしてまたある意味の自分自身への満足もある。

今の自分には、「理念を十全に表現し、今日の社会のひずみを是正するような形式を創造することができる」とまで思うことはないが、少なからず社会のひずみを是正するための形式を創造するに必要な感覚と洞察を獲得しようとの努力をしているつもりだ。吟味した名著の読書によって得た知識や思想をかくさねばならない理由は、なにもなく、むしろ発信していかなければならないだろう。そして実際に発信と受信が、現実的な形として表れてはいないにしても、媒体を介して成立していることを考えれば、真の創作として、ブログという現代的な作品がが存在していることにもなるだろう。一人でも鑑賞者がいれば作品は存在し、完成する。その一人に感謝し、その一人を大事にしたい。
関連記事

不調和の調和 美ヶ原高原美術館「Gパン」

七月末に就職が決まった。時期が時期だけにお盆明けが仕事始めということになった。残されたなんの縛りも受けない限りなく自由な日々が、突如残り2週間余りの時間と制限されてしまった。僕の思考の流れとして当然旅に出ようということになった。今一度、夏の高原でこの世界の壮大さと広がり、豊かで心地よい自然を満喫し、温泉につかりながら心身を一体化し、高度な感覚で自分を保持し、統御する実感を得るべく旅に出た。

高原は「美ヶ原」。名称が素晴らしいではないか。こうしたセンス、好きだ。美しいものを美しいとし、古くより温泉で栄えたところには湯の字が含まれる。ヴィーナスラインで岡谷ICからつながっていてアクセスも抜群。だが、高原リゾートではなく、あくまで高原らしい高原を貫いていながらも、霧ヶ峰高原のように純粋に湿地や植物を存する自然のままというのでもない。美ヶ原の中心は「美ヶ原高原美術館」で、エンターテイメントとの融合に成功している。

33IMG_7192_convert_20140916223340.jpg

こちらの浦山一雄「Gパン」。賛否に分かれる作品だろう。しかし、この広大な野外美術館の作品群の中で特に僕の興味を引いた作品だった。衣服を身につけた銅像というのは、芸術としての彫刻作品としては少数派だろう。無機物である金属で如何に有機物の質感を表現するかに作家は情熱をそそぐのだが、このGパンを題材にしているところをみると、おそらくそのしわにも表れる、生地の質感の表現に芸術性を見出したのだろう。加えて、女体とGパンという柔と堅、の調和はとてもおもしろいし、エロスすら感じる。性的な魅力を超えた、両性具有の美しさにも似た、アウフヘーベン?とでもいおうか、不調和の調和が殊更すごい。きゃしゃでありながら、引き締まった女性的な肉体。残念なのは表情であり、頭部の配置だ。高原に堂々と勇ましくたくましくポージングする女性。銅像を配した絵画とみても素晴らしい。
関連記事

生活が富で満たされるために


ひとの求める休息は、まず第一に、肉体と精神とをまったく働かせず、あるいはなるべく怠けることによって得られるのではなく、むしろ反対に、心身の適度な、秩序ある活動によってのみ得られるものである。人間の本性は働くようにできている。だから、それを勝手に変えようとすれば、手ひどく復讐される。もちろん人間は、とうの昔に休息の楽園から追放されている。神は働くことを人間に命じたが、しかしまた否応ない働きにともなう慰めをも与えてくださった。だから、本当の休息はただ活動のさなかにのみあるのである。すなわちそれは、精神的には、仕事が着々とはかどり、課せられた任務がよく果たされていくのを見ることによって得られるし、また肉体的には、毎夜の睡眠や、毎日の食事など、自然に与えられる合い間の休みや、何物にもかえがたい日曜日の休養のオアシスの中に、真の休息は得られるのである。こうした自然の休憩によって中断されるだけの、絶え間ない有益な活動の状態こそが、この地上で許される最上の幸福な状態なのである。ひとはこれ以外にどのような外的な幸福をも望んではならない。いな、われわれはさらに一歩を進めて、こう言い添えることができる、そうなればもはや仕事の性質などは大した問題ではない、と。ただの遊戯でなく、真の仕事ならどんなものであっても必ず、真面目にそれに没頭すれば間もなく興味がわいてくるという性質を持っている。ひとを幸福にするのは仕事の種類ではなく、創造と成功とのよろこびである。この世の最大の不幸は、仕事を持たず、したがって一生の終わりにその成果を見ることのない生活である。それゆえ、この世には労働の権利というものがあり、また、なければならないわけだ。これは実にあらゆる人権の中の最も根本的な権利でさえある。「仕事を持たぬ人」は実際、この世における真の不幸者であるが、そのような不幸者が世には少なくないのである。しかも、それは下層社会よりも、むしろ上層社会の方にはるかに多い、というのは、下層社会では、生活の必要から仕事に駆り立てられるが、上層階級では、誤った教育や偏見のために、またある一部の階層では、人間らしい本当の仕事を一切排斥するきわめて頑固な因習のために、ほとんど絶望的に、親子代々、このような大きな不幸を負うべく運命づけられているのである。われわれは現に、彼等が毎年、精神の荒涼と退屈とをいだいて、わがスイスの山地や治療所にやって来るのを見るが、そんなことで元気をとりもどそうと望んでも、もちろん無駄である、以前は、ともかくもからだを動かして、少なくとも一時的でも、彼等の病気である怠惰から回復するのに、夏だけで充分であった。ところが今は、そのために冬をも費さねばならなくなった。こうしてすでに、わが国の美しい谷々には病院ばかりになったが、この病院もやがては、この安らぎを知らぬ多数の人々のために一年じゅう開業することになるであろう。彼等はここかしこと休息を求めて動きまわるが、どこにもそれを見出さない――なぜなら、仕事の中に休息を求めないからだ。「あなたは六日のあいだ働かねばならない。」(出エジプト記)それよりも多くても少なくてもいけない。この処方をもってすれば、現代のたいていの神経病は、それが仕事をもたぬ両親からの遺伝の呪いの結果ででもないかぎり、なおってしまうだろう。そして療養所の医師や、精神病医は大方みな、彼等の患者を失うだろう。人生はそもそも「享楽」すべきものではなく、必ず実を結ぶように営もうと心掛けねばならぬ。これを悟らぬ者は、すでに精神的健康を失っているのである。その彼が、なおよく肉体的健康を保っていようとは考えられない。肉体的健康は、その生来の体質に応じて、正しい生活の仕方をするときにのみ保たれうるからである。我等のよわいは七十年、あるいは健やかであっても八十年であるが、それは辛苦と勤労との生涯であっても、得がたく尊いものである。詩篇の句はまさにかくあるべきである。本来の意味はおそらくそうだったかも知れない。   『幸福論』 ヒルティ著より


「人間の本性は働くようにできている」これにもし疑いがあるならば、一度働いてみるがいい。そして働きの中にある休息と喜びを味わってみるといい。これは実際に体験してみなければわからないことだ。僕も以前は自分自身を維持していけるだけの賃金と結びつけた働きだけで満足して、日々を過ごしていたが、事実生活リズムが悪く、体調のすぐれないことが多かった。だが今、社会人として規則正しい生活をしながら、自分自身の生活の労働の割合が実生活を上回る状態でいると不思議なことに以前よりも断然快調なのだ。生活と労働は最低限1:1の割合でよいと僕は考えていた。三日働いて三日休むといった具合なのだが――自分を維持していくのならこれで十分なはずだし、でなければなんのために私たちは文明を発達させたのかと思わざるを得ない――、週休二日であるならば、五日働いて二日休み、ここでいっているように六日働いて一日休みという場合もあるだろうが、こうして私たちはいろいろな意味で理論上では豊かにならなければおかしい。僕はこの余剰の労働の対価を深い意味での富を生むために使いたいと考え、この社会人という道を選んだ。生活の場を快適なものにし、他者のために働き、それで得られた対価でまた、他者に対して施しをする、ここでようやく富というものが生まれる。かけがえのない富だ。これらは喜びや休息という名前をつけていいかもしれない。僕が求めるのはこうしたものだ。こうしたものが得られていないのであれば、間違った働きであり、間違った日々の過ごし方だから反省し、改善しなければならない。

その働くための仕事を選ぶ上で、僕はプロフェッショナルでありたいと思った。すなわち直接的なあるいは実際的な技術やその働きでお客さんからお金をいただくという関係性のある仕事だ。そこにこそ大きな喜びがあることを僕は理解していた。「創造と成功とのよろこび」とあるが、プロフェッショナルであるためには、不断の努力と創意工夫、そしてそれによる創造と成功がなければならない。この一連の達成を見た時、人間は至上のよろこびを得る。数字の勘定や労働者や仕事量の管理という仕事も悪くはないだろう。しかし、そこにモチベーションや達成感、幸福感をどのように見いだせばいいのか僕には想像することもできないし、わからない。そして、そうした仕事に従事する者たちが生産性も改善も進歩もない、彼等を専門に慰めるという労働を必要としてしまう。ここに社会に軋轢を生む労働というものが生まれる。どうか、それぞれの人が、自分なりのプロ意識と、プロと呼べるくらいの技術を持って仕事をしてほしい。誰にでもできる仕事ではなく、自分にしかできない仕事、それはきっと見つかると思う。

旅や読書、食事のひとときなどを安息を目的としてしないでほしい。これらは決して日常からの逃避でも、休息の時でもない。もっと前向きに、最上のよろこびであり、明日への活力の補充である。休息はどこか、消極的な意味を持ちはしないだろうか。文字どおり、息抜きが休息であって、旅や読書、食事は息抜きではなく、もっと生産性のある能動的なアクティブで実りある働きかけでなくてはならない。
関連記事

現代日本「小布施」 知られざる栗の魅力


湯田中・渋温泉郷は日本有数の温泉郷だと思う。横湯川と夜間瀬川に沿って宿や商店、共同浴場が並び、温泉街を形成、一帯が温泉地らしい雰囲気を醸していて、志賀高原の玄関口といえるような山間にあるため、風がさわやかだった。

温泉街散策は、次の渋温泉『金具屋』を宿泊したときに譲るとして、今回は少し足をのばして「小布施」で街歩きをすることにした。降雪によって歩道の状態も悪かったし、街へ出て穏やかに日中を過ごしたかったのだ。「小布施」は正直、僕の認識では主要な観光地とは呼べないようなこじんまりとした、控えめな隠れ家的な町だ。けれども、そのけばけばしくない、ぎらぎらした観光客呼び込みの必死さがあまりないのが、かえってうれしい。観光バスがやってくるにはやってくるが、あくまで付録のような、時間の埋め合わせのために使われるという役回りでがやがやしない。ゆったりと時間が流れている。そうした姿が現代人に受けるのだろうか、最近では観光客が増えているようだ。

500_22292517_convert_20140915134436.jpg

路地というものはどうして人をこうも楽しませてくれるのだろう。きっと人間が意外に縄張り意識の強い生き物だからなのだろう。己の存在を烈しく意識するためにはある程度世界との遮断が必要だ。「小布施」の高い塀と整えられた植込みは野路裏をいともたやすく風景美へと昇華してしまった。色調はモダンでありながら、どこか懐かしい故郷を思わせるもので、歩く人をリラックスさせるに違いない。町が観光事業の一環としてオープンガーデンという個人のお庭を開放し、生活文化に親しんでもらう取り組みをしていて、一般的ではない観光客へのアプローチがすばらしいと思った。私たちは何か事を目的を達するために、大掛かりにしてしまうが、小さな取り組みの積み重ねこそ、人の心を動かし、ひきつけるのだと改めて学ばしてもらった。「小布施」の中心地と思わしきこの一角は広くはないが栗菓子を扱うお店を中心に文化を今に伝える名店が点在していて、旅の街歩きにはぴったりの場所。

rst_02_main_convert_20140915141034.jpg

その栗菓子のお店「小布施堂」を入るとイタリアンレストラン「傘風楼」があった。

確かに「小布施」の町並みは日本的ではない。といって西洋風にできているのでもない。現代日本のあるべき姿という感じがする。西洋の形式や感覚を受けながら、洗練された日本的な美を持ち合わせる建築や構成であるように思う。だからイタリアンレストランもよくマッチしていた。優雅に窓辺の席でのイタリアンは味以上に楽しませてくれるものがあった。

02隴鯉ス・13隴弱・9陋サ繝サ6+by+DSC-RX100_convert_20140915142050

一方、こちらも栗菓子のお店「栗庵風味堂」ではモッフルというおもしろく、おいしい独自のスイーツが若者から支持を受けにぎわっていた。おそらく、「小布施」の栗は質がいいのだろう、おみやげにしろ、このスイーツにしろ、有名な栗おこわや栗かのこにしろ、どれも美味で印象深い味わいだった。なんせ、栗菓子の店が二、三軒あるので、どこのがおいしいのだろうかと迷ってしまうが、好みはそれぞれで、しかも味の遜色は大してないように思う。僕はそれぞれのお店をそれぞれの楽しみ方で満喫した。僕たちにとって栗は、調理法が少なく、下ごしらえも面倒で難しいというなかなか扱いづらくなじみのない食材だが、「小布施」では実に多彩な姿を見せている。
関連記事

理性の人 幸福は超感情的情感である


享楽主義者たるをも、イリュウジョンに没頭し得るロマンチストたるをも得なかった私には、如何にせばよき生が得らるるかが緊要な問題であり、また日々の空疎なる実生活が遣瀬なき苦悶であらねばならなかったし、現にあるのである。私は考えた。悶えた。而してどうしても人間の根本性情の発露に非んばよき生は得られないと思った。人性の曇らさるるところ、其所に憂鬱があり、倦怠がある。その発露の障害さるる所、其処に悲哀があり、寂愁がある。人性の燦として輝く所、其処に幸福があり、悦楽がある。人性の光輝を発揚せしめんとする所、其処に努力があり、希望がある。人性の内底に鏗鏘(こうそう)の音を傾聴する所、其処に漲る歓喜の声とともに詩は生れ、芸術は育つ。かるが故に我らは内面生活の貧弱と主観の空疎とを恐れねばならない。外界に対する感受性の麻痺を厭わねばならない。我らは徒に自然の前にひれ伏して恐れ縮んではならない。深き主観の奥底より、暖き息を吐き出して自然を柔かに包まねばならない。とは言うものの顧れば我らの主観の如何に空疎に外界の如何に雑駁なるよ。この中に処して蛆虫の如く喘ぎも掻くのが我らである。これをしも悲痛と言おう。されどされど悲痛と言う言葉の底には顫えるような喜びが萌してるではないか。悲痛に感じ得るものは充実せる生を開拓する大なる可能性を蔵してるという事は今の私には天堂の福音の如く響く。私はまだまだライフに絶望しない。冷たい傍観者ではあり得ない。   『愛と認識との出発』 倉田百三著より


「如何にすれば善き生が得られるか」などと考えるのは理性の人でなければあり得ない。理性の人とは感性や悟性から離れ、理性を第一の主体とする。通常、人間は肉体を備え、脳で全身をコントロールするようにつくられていると思われるから、感性が第一の主体でなければ自然的でない。感覚の心地よさを求め生きることが、人性に適った生き方というのが自然であり、尋常であると思う。しかし、中には悟性を第一の主体といる人もいるだろう。近年はこの悟性の人が増え、珍しいということもあって注目されているように思う。二次元に対して非常な関心を持ったり、スピリチュアルな世界について言動する人やあるいは、反社会的な多くの人間にもこの傾向が見えるような気がする。自然がつくるのとは異なる行動規範は悟性がつかさどっているように見える。感性に意味を持たせるのは悟性であり、感性は単に、物理的に感覚器官と対象物との相性が適合するとき心地よいという信号を発するという仕組みを持つにすぎない。享楽主義とロマン主義とはこのように説明ができ、理性を行動原理とするとき、理性の命令する所に適った言動が善き生を意味する。理性が感受することができるのは、感覚でもなければ、感情でもない。行動とそれにたいする周囲の反応の客観的な事象とそこに感じられる超感情的情感である。幸福や喜びは感性や悟性によって支配されている心情ではない。幸福や喜びは人間にそなわる特別な一等感覚で、痛みや苦しみなどの反対にあるものではないから注意してほしい。幸福や喜びに隠された人間理性の真実を発見しなければならない。幸福や喜びは単純ではない。理性の人は常にこの幸福と喜びの獲得に必死になっている。理性が求めているもの、それがなんであるのか、それに適うように言動と生活を実践できるのか、絶望は確かにある。幸福や喜びや探し求め、勝ち取らなければならない。感覚や感情によって与えられるものではなく、超感情的な情感、それがなんなのか、つきとめなければならない。
関連記事

人間とは排泄と生殖のための有機体


雨を忍ぶことは、勝負の掟の一つであり、出産には必然的に陣痛がともない、左手を毒蛇にかまれてその牙がくいこめば、右手で鉈をふるって左手を切りおとさなければならないのと同断であった。それは生前のためには必要なことであり、生存は愉快ではない多くのことを必要としたのである。これらの日々は一方で、腐植土を蓄積し、堆肥を発酵させ、落葉を腐らせていたが、これは、すべての生殖は老廃物の近くでおこなわれるという法則にもとづいていた。すなわち、生殖器官と排尿器官はからみあっており、生命は――ちょうど、無垢のアスパラガスやみずみずしいハッカが堆肥からはえでるように――粘液と漿液と血にまみれて誕生するのである。   『失われた足跡』より



私たち人間とは何かといえば、簡単に、排泄と生殖の働きを持つ有機体に過ぎず、その活動はすべてこれらの機能のために行なわれている。排泄にしろ生殖の結果の出産にしろ、やはり人間から出できたるものは汚くて醜いものである。人間の手に触れるとすべては悪くなるということをルソーは言ったが、当然その人間から出てくるものはろくなものではないのだろう。生命を軽んじ、さげすむつもりはないが、人間に備わるこの不愉快な生存条件というものが、どうしても僕に嫌悪感を抱かせる。世界、細かく言えば社会、を眺めればすべてのものはこの排泄と生殖のために用意周到に準備されている。これらは僕をいらつかせる。内臓に負担がかかろうとも、食欲の命ずるままに暴飲暴食を繰り返す。家畜を毎日何トンも屠っている。私たちは後始末のことを考えることが苦手だ。あらゆる問題はこの性質に帰結する。行動を起こすのは得意だが、後のことをその瞬間忘れてしまうのだ。出産という苦しみを考えたら、女性は妊娠に対して幾分躊躇しそうなものだが、決してそんなことはない。これは本能が強く働くからなのか、あるいは産むという現実よりも、子どもという己の分身ともいえる生命が己から誕生するという神秘と感動によって覆されるからかはわからないが、僕はいまだかつて、自分自身の遺伝子後継者という「子ども」をほしいと思ったことはない。生命というものが、殊更に美化されほめそやされる傾向が強い昨今だが、僕はまだその是非に明確な現実味や希望を見いだせてはいない。ただ、生殖に許される時間は限られている。僕のように、ある意味で本能を失ってしまった人間は、ならば生殖ではなく何に生きる活力と目的を見いだすべきなのだろうか。
関連記事

自然を益することで、人類に自然の恵みを


われわれは、太陽が自分たちの耕地や平原や森を分けへだてなく見おろしていることを、とかく忘れがちである。それらいっさいが日光を反射すると同時に吸収してもいるのであり、耕地は太陽が毎日の運航の途中で眺める壮麗な風景画のほんの一部分にすぎない。太陽から見れば、地球全体が菜園とおなじようにひとしく耕されているのだ。だからわれわれは、その光と熱の恩恵を、それにふさわしい信頼と雅量をもって受け入れなくてはならない。私が例のマメの種をたいせつにし、秋にそれを取り入れたからといって、どうだというのだ?これほど長いあいだ私が眺め暮してきたこの広い畑は、私をおもな耕作者だと思っているわけではなく、むしろこちらの存在などは無視して、みずからを雨でうるおし、緑豊かにしてくれる、ずっとやさしい自然の力を頼りにしている。これらのマメたちは、私には刈り取ることのできない実をみのらせているのである。マメの一部分はウッドチャックのために育つのではあるまいか?コムギの穂だけが農民の唯一の希望であってはならないし、その核、つまり粒だけがコムギの穂から生み出されるわけではないのだ。してみれば、われわれの収穫が失敗に終わるはずはないではないか?雑草の種は小鳥たちの穀物庫になるのだから、雑草が生い茂ることもよろこぶべきではないか?畑の作物が農夫の納屋をいっぱいにするかどうかは、あまり重要なことではない。リスたちが、今年は森がクリを実らせてくれるかどうかなど少しも気にしているそぶりを見せないように、まことの農夫は心を労することなくその日その日の労働をこなし、畑の産物に対するいっさいの請求権を棄てて、最初の実りだけではなく最後の実りも、心のなかで神々への生贄として捧げようとするだろう。   『森の生活』より



この世界のなかで、ただ人間だけがこの地球を高慢にも自分たちが自由に使うことのできるものだと思い込み、好き放題勝手に扱っている。都合のいい部分だけ吸い取り、搾取し、乱暴に始末もつけずに自然の恵みの資源を乱費している。私たちは自然に手を加えるということに全く抵抗を感じなくなってしまった。かつて信心深かった人類は神への冒涜をおそれ、むやみに神に逆らうような行動や技術を慎んだ。神が豊かさを与えてくれるのではないことを―人間は豊かさを物質的あるいは計量的概念と見誤っている―知ると神と自然は私たちから切り離され、資源と人類という相互関係のみが世界そのものとなった。私たちは一匹のアリの存在の意味を問う。だが、自然からみれば、私たち人類こそ地球にとって何を意味するというのか。意味どころかガンといわれても不思議ではない存在にまで堕落してしまっているではないか。なぜだかわからないが、自然には人体におけるガンのように、矛盾する傾向が包含されている。

今年の夏も各地で水難事故が相次ぎ、尋常でないゲリラ豪雨で日本中で河川の増水し、人々の生活に甚大な被害を与えた。だが本来、自然は恵み深い。私たちはただその恩恵に預かり、そこから産出されるものを工夫して利用し、生活を営んでいくことしかできない、ちっぽけな存在なのだ。謙虚になり、真摯に現実に起こる自然現象を受け止めなければならない。大きな視点で見れば、自然に無駄は存在しない。たしかに、多くは暗示の中に隠れているのかもしれない、ほとんどの人間にはもはやみえなくなってしまったわずかに残った痕跡にその秘密があるのかもしれない。そろそろ自然全体を人間が先頭に立って益する活動を始めていかなければいけないのではないだろうか。それはやがて、めぐりめぐって、私たち人類への恵みと姿を変えてもたらされるだろう。
関連記事
プロフィール

hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

無料メールマガジン
メルマガ購読・解除
 
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

twitter
月別アーカイブ
最新トラックバック
最新記事
最新コメント
リンク
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
QRコード
QR
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。