スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

意見の総括が思想である 歴史は英雄ではなく大衆がつくりだす


「元来意見があって、人がそれに則るのじゃない。人があって、その人に適した様な意見が出て来るのだから、僕の説は僕に通用するだけだ」

「多くの場合に於て、英雄とはその時代に極めて大切な人という事で、名前だけは偉そうだけれども、本来は甚だ実際的なものである。だからその大切な時機を通り越すと、世間はその資格を段々奪いにかかる。 (中略) 世間は隣人に対して現金である如く、英雄に対しても現金である。だから、こう云う偶像にもまた常に新陳代謝や生存競争が行われている。そう云う訳で、代助は英雄なぞに担がれたい了見は更にない。が、もしここに野心があり覇気のある快男子があるとすれば、一時的の剣の力よりも、永久的の筆の力で、英雄になった方が長持がする。新聞はその方面の代表的事業である」   『それから』より



人にはそれぞれ、自己流の思想というものがある。この自己流の思想を不可分なく認識し、正義や善にそぐわない部分を少しずつ是正していく必要がある。けれども、実際この自己流の思想を自覚している者は多くはなく、自由気ままに己の思想を成長させていく。その思想は当然のことながら自然と時代の風潮の影響を受け、自分の体験によって形作られる。そこには善に向かおうという姿勢もなければ、正義と干渉し合うところもない。神のみぞ知る、といったものでこの場合、聖者といわれるまでの高尚な思想をもつに至るのはほとんど不可能だ。思想というと、多くの人が敬遠したくなる概念ではないかと思う。だが、率直に言えば、意見の総括であり、自分の持っている森羅万象に対する意見を分析してみれば、自分が何を重視し、何に価値を見いだしているのかということは容易に見えてくる。これは自分自身だけではなく、相手に対しても言える。相手が何を求めているのかということは、言葉の節々に表れている。「人があって、その人に適した様な意見しか出て来ない」のだから、心配しなくてもよい、実はいかに意見を引き出すかということに頭を悩まさなければならないのだ。


僕もかつて血気盛んで、野心を燃やしていたときには、ナポレオンに憧れ、父が崇奉した所謂、経済的成功者を軽んじていた。他者に対して物質的優越を持つことが人生の目的であることに首肯することはできなかった。なぜだかわからないが、世界を幸福へ向かうように改善させることよりも、家族を幸せへ向かわせることのほうが圧倒的に価値のあることだというのだ。大小の違いこそあれ、とんだナショナリズムだ!ナポレオンが歴史上もっともすぐれた人間の一人だと信じて疑わなかった僕に、トルストイの『戦争と平和』は歴史は英雄によって作られるのではなく、民衆の生活と活動によって作られるということを教えてくれた。ナポレオンが直接その権力で動かせるものは大衆の力と比べれば微々たるものだったのだ。歴史上の人物も所詮、たまたま大きな出来事の象徴として据えられた看板に過ぎず、大した働きさえしていないことがわかる。結果的に意味付けや動機付けの段階で拵えられた都合のよい存在で、運や偶然によるところが大きく、そんな英雄になろうとして尽力するのはいかにも馬鹿馬鹿しい。英雄になるのではなく、賢者になることのほうが尊い。努力で英雄になることは難しいかもしれないが、努力で賢者になることは可能だ。ゆえに、賢者になるための努力を惜しまずにしようではないか。
関連記事
スポンサーサイト

共同浴場の魅力 湯田中温泉『大湯』


『よろづや』の前に共同浴場『大湯』がある。

18007803_convert_20140826173028.jpg

別府や草津、城崎などの古くから湯治場として栄えていた温泉地には、往時をしのばせる共同浴場が必ずといっていいほど存在する。こうした共同浴場は人々に愛され、大事に守られて今に伝えられている。この『大湯』もそうした歴史を感じることのできる共同浴場だ。

yudanaka-ooyu02a_convert_20140826174232.jpg

『よろづや』のカウンターで従業員に声をかけると、『大湯』へ案内してくれた。身をちぢこませながら、雪駄で雪の上を歩いていく。そのときの足跡が戻るときには凍って形を保っていた。

温泉は熱めで、二つに浴槽を分けることで温度調節がされていて、豊富な湯量がなければできない、贅沢な浴槽となっている。『よろづや』のよりも泉質が上品な気がした。共同浴場らしい、簡素で使い勝手のいい造りは殊更素晴らしい。温泉に行くといつも宿の風呂にしか入らないが、こうした温泉文化と共にある共同浴場にも違った味わいがあり、おもしろい。

そこで地元の人と会話でもすれば、旅の醍醐味は一層深くなるに違いない。
関連記事

労働者としての社会人となった今、


働きのよろこびは、自分でよく考え、実際に経験することからしか生まれない。それは教訓からも、また、残念ながら、毎日証明されるように、実例からも、決して生まれはしない。   『幸福論』 ヒルティ著より



社会人として初めての会社勤務、一週間が終わった。覚悟はしていたが、ハローワークに提示されていた労働時間9:30~18:30というのは一日も守られることはなかった。最遅で退勤時間は午後9時を回っていた。苦ではなかったし、定時に帰れる仕事というものがどのような仕事なのかということを僕も分かっていたし、そうした仕事を避けて、あえて、残業を避けたかったのにもかかわらず、仕事量の決められていない仕事を選んだのだから当然のことと半ばあきらめの気持ちで帰途についたのだった。

僕がこの25歳という歳になるまで定職に就かなかった一番の理由は、若い時期に知るべき事柄を知らずに社会人としての大人になることを厭ったからであった。知るべき事柄?と人は怪訝な顔をするだろう。職場で僕のデスクの向いに座る中年社員は「きっと、いくらでももっといい会社に入れたのじゃないのか?」と僕に疑問を投げかけてきた。二言目には、文学的な読書の意味を「感動したか」という価値観で計り、それについて僕に意見を促した。若さの意味、それは確かに多様だ。仕事でいえば、体力、記憶力、あらゆる面において有利ともなり、武器ともなるだろう。それを活かすために、早くに自分の仕事を持つということは良策といえるのかもしれない。しかし、僕は若さの中に、十分に出来上がっていない価値観や物の見方、豊かな感受性、素直な心、まっすぐで熱い気持ち、という尊いものを見る。僕はこれらを大事にしたかったし、なんとか、一層これらを発展させたく思った。この発展を助けるものこそ、僕にとっての知るべき事柄だった。この時期を逃しては、名作文学も芸術も、一人旅もその意味を半減してしまうと考えた。老後の旅に僕は生産的意味を見いださない。社会に働き掛けるエネルギーを失っての芸術鑑賞が一体何を意味するのか僕にはわからない。そう、僕の思想の根本にはこの、「社会への働きかけ」というものがあった。自分の為ではなく、なにか広い意味での社会の為になるのかどうか?と考えることは、あまりひとはしないらしい。だから、一生若くあって、そうした知るべき事柄を知ることに費やすのは僕にとって間違いなのだ。若さを失ってしまう前に社会への働きかけはし始めなければならないという危機感と使命感は常に持っていた。周りの人は僕を怠惰で、自己中で、わがまま気ままの自由人だとみていたようだった。僕はなんとか真面目であろうと思ったが、それはいつでも誤解を招き、やがて批判めいた小言を浴びせられるようになっていた。

文学も芸術も日々の経験も、なにか世間や人の役に立たなければ意味がない。これだけは、どうしても譲ることができない。楽しければいいとか、自分だけがいい思いができればそれでいいというのは、低俗な人間の考えることで、僕は低俗で野蛮にはなりたくない。どうか、己の利益追求にまい進することから一歩引いて冷静に世の中を見てほしい。幸せはそんなところにはないのだから。

とはいえ、一日の大半を労働に捧げる生活を僕は送ったことがなかったのだから、働きのよろこびは知らなかった。これだけは、それだけ想像力を働かせようと、読書しようと労働者の絵を見ようともわからなかった。労働を知らない自分に幸福を語る権利のないことは重々承知していた。その意味で、このブログは大した意味を持っていなかった。気ままな自由人が、自称孤独な放浪者が、拙い机上の空論をこぼす、まゆつばものに過ぎなかった。こうして、労働者として社会に加わった今、少しはこのブログも社会のなかで息づくことができるのではないかと、喜びに似た期待に胸を躍らせている。
関連記事

「性」というタブーの先に幸福がある


彼女によれば、結婚、すなわち法的拘束は、女が男に対して自分をまもるすべての手段をうばいとるものだった。邪道にはしる相手から、女を守る武器は、いつでも好きなときに男を捨てることができ、それにかんして男がいかなる権利の行使もできないということだった。ロサリオにとって法律上の妻とは、夫が不義をはたらき、虐待し、酒におぼれていても、家を捨てれば、警察に追われ、さがしだされる女であった。結婚するということは、男がつくり、女がつくったのではない法律の重圧に屈することであった。それにひきかえ自由な結びつきでは、とロサリオはもったいぶった口調で言った、「男は、自分に肉体的な喜びをもたらし、なにかと世話をやいてくれる女を保持できるかどうかは、自分の彼女に対する態度しだいであることをわきまえているのです」   『失われた足跡』カルペンティエル著より  


社会のしくみや構造を考えるうえで、必ずぶち当たる壁、「結婚」。それは人間を考えるときに避けられない「男と女」をそのまま社会に落とし込んだものだから仕方がない。どういうわけか、この世界の生物には雌雄があり、この両存在なくしては、世界は立ち行かないであろう。たしかに「男と女」を理解し、説明することは限りなく困難だ。だが、「結婚」という社会的形式のことならば、解明し、改善していくことは可能と思う。経済を考えることに人はとらわれがちであるが、「結婚」などの実際的な人間関係の問題の方が一層重要なのである。今ある一般的な解釈や常識にとらわれないようにしよう。新たな在り方を探り、進んだ解釈を取り入れなければならない。社会とはそもそも、他者との人間関係を円滑にするための仕組みなのだ。

僕は人生が「結婚」ありきで語られることに違和感を覚えている。男と女の役割がなぜか決められていて、それにそった教育や指導を受ける。男は働く、女は世話をする(男がより働けるように)……。たしかにこうした教育と風潮のおかげで、めでたく毎日のように幸せな?カップルが誕生し、新たな人類の基盤がつくられていく。女はただ一人の男を愛し続けるべきで、男は多少の浮気という名の裏切りをしても許される……。このように、女に対して理想の押し付けであるような、概念を男が持っているのは笑止なことだ。女がきれいで、純粋で、素直な愛すべき存在だと定義するなら、それは大きな間違いだと思う。男も女も同じ人間という見地に立てば、こうした誤りには陥らないであろうに、馬鹿な男は勝手に女性像をつくりあげて苦しんでいる。結婚するということが、僕にはある部分では自分を損ねてしまうことではないかと思われる。結婚はお互いの欠点を補いあい、助け合って生きていく素晴らしい人生における選択だとされている。誰かにとってメリットであることは、その点についていえば、デメリットであることは疑いない。それが性差などの根源的な要素であるならば問題ないのだが、生活ということになると、やはり妥協や我慢、すなわちある部分での質の低下はまぬがれない。

この文章を読んで、僕は少なからず驚いた。「結婚」という社会制度はどちらかというと女性のためにつくられたと考えていたからだ。なぜなら、男が捨てられるか、女が捨てられるかといったら年取った女が捨てられるだろうと考えたからだ。なにゆえにか?ずばり、性的な意味からである。男女関係は、結局この「性」ということに帰着するのではなかろうか。男は若い女がいい。若い女は若い男がいい。これは自明と考える。つまり、「性」についてはある程度若いほど力を持つということになる。互いの要求が満たされない可能性があるのは、年老いた男女ということになるが、構造上、男は能動的に働くが、女は受動的に動くことしかできぬゆえに、欲求と満足との関連が単純ではない。男の場合、最低働きかける対象があれば、そこに何かしらの利害関係をもちこめば――金や恩などなんでもよいが――満足に結び付けることが難しくないようだ。「女にも風俗的なものがあってもいいのに」という女性の言葉を僕は聞いたことがあるし、男の理想の押し付けである女性像が女の働きかけに邪魔をしている面もある。こうした女の不利な面を考慮して、「結婚」という制度(契約)は意味のあるように僕は考えていた。離婚原因の大きな要因の一つに「性の不一致」があるそうだが、これも女性からの訴えが多いということである。明らかに性欲を満たす術は、男の方が充実していると僕は考えているがどうだろうか。「性」を議論し、考えることはいつの時代でも、もしかすると永遠にタブーであるのかもしれないが、人間と社会、人生を考えるとき、避けては通れない大きなテーマであり、ここにより深い理解があってこそ幸福はやってくるのだ。
関連記事

あの頃の僕は今の僕になんというだろうか 理想は向上心とともに


訪問者たちの特徴のいくつかが、否応なく目についた。男の子や女の子、それに若い女性たちは、たいていが森にやってくることがうれしそうだった。彼らは湖をのぞきこんだり、花を眺めたりして、時間を上手に使っていた。ところが商売をやっている人間――農民すらそうだ――は、孤独な暮らしとか仕事の内容、私の住まいといろんなものとのあいだにある大きな距離のことなどが、片時も念頭を去らない様子だった。彼らは、ときたま森のなかをぶらつくのが好きだ、などと言っていたが、そうでないことは明らかだった。生活費をかせぎ、生活を維持することにばかり汲々としている、おちつきのない束縛されたひとびと。それから、自分たちだけが神を独占してでもいるかのように、神についてしゃべりまくり、他人のいろいろな意見にはいっさい耳を貸さない牧師たち。また、医者や弁護士や、私の留守中に食器棚とベッドをのぞき見するおせっかいなかみさん連――いったい○○夫人は、私のシーツが彼女のほどきれいでないことを、どうして知っているのだろう?――、さらに、すっかり若さを失い、専門職という踏み均された道をたどるのがなにより安全だと思いこんでいる若者たち……こういう連中は、だいたい口をそろえて、私のような立場では、あまり立派なことはできないだろうと言った。なるほど!そこに問題があったわけか。

老人、病人、臆病者たちは、年齢や性別に関係なく、病気や突発事故や死のことで頭がいっぱいだった。彼らにとっては、人生は危険に満ちているようだった(危険など、考えないでいればどこにもありはしないのに)。したがって彼らの考えによると、用心深い人間なら、いざというときにドクターBがすぐにとんできてくれるような、いちばん安全な場所を慎重に選ぶはずだった。(中略)せんじつめれば、人間は生きているかぎり、死の危険につきまとわれているのだ。もっとも、はじめから死んだように生きているならば、その分だけ危険が少なくなることは確かである。人間は、座っていても、走るのとおなじくらい危険を冒しているのだ。

(中略)

この最後の面々とはちがって、ずっと楽しい訪問客もあった。イチゴを採りにやってくる子供たち、日曜日の朝になると清潔なシャツを着て散歩する鉄道員たち、釣りびとにハンターたち、詩人に哲学者たち、要するに、文字どおり村をあとにし、自由を求めて森にやってくる正直者の巡礼たちだった。   『森の生活』より


僕もお盆休みが明ければ晴れて社会人――落ち着きのない束縛された人となる。社会の中で生きるために、社会人となること、そのことに対して僕はネガティブな観念を持っているわけではない。だが、確実に自由な時間は減るわけだし、あらゆるものに対して利害関係や損得勘定を導入して、世界をつまらないものにしてしまうに違いない。文学の話などしなくなってしまうかもしれないし、ひょっとしたら自由や芸術、真理のために生きようとすることを、かつての若気の至りというような恥ずかしい思いをもって振り返ってしまうのかもしれない。

すでに僕は変わってしまった。大学受験のさなか孤独感のなかにあったとき、講義を休んで大学の図書館で一日中、読書に励んでいたころの自分。自分の生き方をしようとして、大学をドロップアウトしたこと。それらは何かに対する反抗だった。同時に自分に素直になろうという一生懸命さだった。あの頃の僕は今の僕になんというだろうか。意気地なしだろうか、立派な大人だろうか。社会に貢献したい、一社会人として役割を果たす、といえば聞こえはいいが、単にもっと金がほしかったのと、周りとの差異に我慢できなくなったのだ。世の中を金で計り、一人ひとり違う、人それぞれの人間存在をひとまとめにし、人間のあるべき形のようなものを勝手に拵え上げてしまっているのだ。あれほど、文学や自由に執着し、熱狂していた僕が、こうも簡単にそれらをある種の無頓着に照準を下げてしまったのはなぜだろう。働きだしたら、また考えてみたい。はたして僕は真には何を求めていたのかと。

死を恐れ、過剰に危険やリスクを想定することは、愚かな人間のやることだ。確かにこの世界にはありえないことのほうがありえることよりも少ないかも知れない。だから、極論をいったら、あらゆることが起こりうる。だから、理想はそれらのすべてをケアし、フォローできるような体制を敷いておくべきなのかもしれない。理想をこのように数学的に、数式として捉えてしまうと大きな過ちをおかしてしまう。理想?充実させるということに理想形は存在しない。理想は向上心とともになくてはならず、理想と目標を同一してはいけない。
関連記事

入るより、見て楽しむ稀有な風呂 よろづや『桃山風呂』

湯田中温泉「よろづや」の名物、桃山風呂は露天風呂のみならず、内湯、脱衣所まで魅力的な意匠をもっている。

f3252fe8_convert_20140801095924.jpg

まず脱衣所だが、御堂に間違って入ってしまったかと思うほど、まんま伽藍づくりになっている。内湯への入り口の上には大きな一枚板の額が掛けてあって、「酒心」(ブログを通して交流させていただいている漢詩をはじめ、深い文学知識をお持ちの先輩から誤りの指摘を頂戴し、訂正済み。恥をさらさずにすみました。ありがとうございました。)と勢いよい字体が載っている。天井も高く、広い上に、断熱のへの働きかけも乏しいため、冬の寒さはそのまま伝わりひどく底冷えしていた。裸になるのにいささか気が引けるほど、まさにがらんどうとしていた。

yudanaka-yorozuya04a_convert_20140810190114.jpg

戸を押して、中に入ると真ん中に美しい楕円の湯船があった。縁取る縁石と底石の彩色はプールを思わせる軽やかなものであり、それに対応するように湯質は肌に優しい感じであった。冬の内湯は体感温度がぴったりくるのでしっかり体を温めていざ、奥の原始的なサウナのような温泉蒸し風呂と露天風呂を堪能する。

30137_01_convert_20140801095750.jpg

一見すると桃山風呂を際立たせる庭園の池だが、これが立派な露天風呂となっていて、黒茶色の湯の花がゆらゆら舞っている源泉を豊富に含む温泉なのだ。これにはとても驚いた。先ほどの内湯、脱衣所にしてもそうだが、湯浴みのことを考えてつくったのではなく、あくまで古めかしい、日本建築を風呂に施そうという思いでつくられたに違いない。明り取りの窓が多かったり、露天風呂には石柱や立派な樹木、石組みがあってとても落ち着いて入るというのではなく、主体が入浴から空間所有の認識へと移ってしまう不思議な風呂だった。僕は最後まで自分でしっくりして落ち着けるスポットを見つけることができなかった。「桃山風呂」、それは入って楽しむより、見て楽しむことのできる稀有な風呂である。
関連記事

創造物をこの上なくよく理解すること


かねて読み掛けてある洋書を、栞の挟んである所で開けて見ると、前後の関係をまるで忘れていた。代助の記憶に取ってこう云う現象は寧ろ珍らしかった。彼は学校生活の時代から一種の読書家であった。卒業の後も、衣食の煩なしに、購読の利益を適意に収め得る身分を誇りにしていた。一頁も眼を通さないで、日を送ることがあると、習慣上何となく荒廃の感を催おした。だから大抵な事故があっても、なるべく都合して、活字に親しんだ。ある時は読書そのものが、唯一なる自己の本領の様な気がした。   『それから』より


かつて読書するということは大変貴重で、贅沢な体験であったにちがいない。出版物にあふれた現在でも、ほとんどの単行本といわれるような新刊本は2、3千円くらいするし、学術書などの専門書となれば1万円の大台に達するものも少なくない。一方で手軽に手に入る本というのが数多くある。文庫や新書、雑誌のようなものだ。現代はこれらの廉価本が非常に充実していると思う。漱石の時代では考えられなかったほど、手軽に情報を手に入れることができるようになっているのだ。紙の媒体を超えて、今では情報端末によってモニター画面に映し出される画像として情報を得ることさえできるようになった。にもかかわらず、現代は活字離れが進んでいるという。漱石などの優れた頭脳の持ち主たちが求め、研究した多くの傑作、古典が廉価本として手軽に手に入れられるようになっているのになぜなのか。もっと賢くなろうと思えば、すぐにそのための―古典を読むという―手段が得られるのに、人は賢くなろうとしない。読書しない一日は無為の一日に限りなく近いと僕は考えている。「わたしはときどき、美的感動の最高の形は、たんに、創造物をこのうえなくよく理解することにあるのではないかと自問するようになった。いずれ、人々が、玉髄の目のなかや、蛾の黄褐色のビロードのなかに、アルファベットを発見する日が来るであろうし、そのときには、斑点のあるカタツムリのそれぞれが、つねに詩であったことを知って驚くであろう。」(『失われた足跡』より)読書にしたところで、結局は人間とはなんであるかということへの探求に他ならないし、芸術や自然になじむことも創造物の本質に近づかんとする活動という断面をもっている。読書以上に、こうした肉体の感官に直結するような活動の方が、より一層有意であり、読書しなくとも、こうした充実の活動に日を送ることができたなら、それは人生として素晴らしいものとなろうと思う。けれども、本当の自然や、崇高美を持ち合わせた芸術、人間の本質に忠実に生きている人間というものを見極めるのはなかなか難しいと思う。そういうものを見極める力、判断力を身につけた上でなければ、僕たちが創造物をこのうえなくよく理解することなど不可能なのだ。賢くなること、それはすなわち、創造物をこの上なくよく理解することができるようになることなのである。
関連記事

愛されたい人に愛され、求められるために


「人は、自分の役にたつものはもとめるが、自分の役にたとうとするものは愛する。自分の害になるものはさけるが、自分に害をあたえようとするものは憎む」


「なごやかな、愛情にみちた情念は自分にたいする愛から生まれ、憎しみにみちた、いらだちやすい情念は自尊心から生まれるのだ。だから、人間を本質的に善良にするのは、多くの欲望をもたないこと、そして自分をあまり他人とくらべてみないことだ。人間を本質的に邪悪にするのは、多くの欲望をもつこと、そしてやたらに人々の意見を気にすることだ」   『エミール』より


その人の役に立つとは、その人が自力で実現できない何かを実現するために助力すること、あるいは満たすことのできない何かを補うことだ。すなわち、人の役に立つためには、何か技術や特性を持っていなければならないということになる。そしてその人の要望に応えるかたちで、それらを持ち合わせていないのであれば、愛される機会というのは残念ながら失われることになる。人は誰よりも、何よりも自分自身を愛している。親は子どものために死ねるし、最愛の人のためになら、自分は命を捨てることができるといったところでそれは反例とはならない。己を愛しているからこそ、そうした気持ちになっているに過ぎないからだ。では、なぜそもそもある特定の人の役に立ちたいと思うのだろうか?おそらく、その対象はすでに、なにかしら自分の役に立っており、もとめているのだ。そして役に立つことによって自分自身も愛され、求められたいのである。

こうして、図らずも人の役に立つことによって、役に立ちたい、役に立とうという人に囲まれるためには、さまざまな技術を身につけ、磨き、特性を活かし、伸ばすことだ。人の役に立つことは難しいことではない。他者より勝っているものでなくても、他者が持ち合わせない特徴を持っているだけでもときにはいい場合がある。できるだけ多くの人と関わり合いを持って、お互いに役に立ちあえるような関係が生まれたら信頼や喜びのような、自発的に生み出すことができる愛よりもある意味で尊い感情が生まれる。

ただし、なんの関わり合いもない人から求められることを、多くの人は喜ばしく思わない。愛されたいと思う人のために、まず役に立とうと働きかけること、そして、求められ、互いに信頼し必要とされるような関係になるために、実際に役に立つための技術や特性を身につけるという手順を取った方がよさそうである。不特定多数の人から求められる必要はない、自分が愛されたいと願う人からのみ、愛され求められればよいのではなかろうか?むやみに技術を磨いたり、多くの人と関わり合いを持つことはかえって、その人の個性や人としての深みを損ねてしまうことになりかねない。
関連記事

あらゆる生存の原則に対応するために、自分の中に予め見つけておく


「ぼくたちは自分の人格の限界をいつもあまり狭く限りすぎる。個人的に区別され異なっていると認めるものだけを、ぼくたちは常に自分の個人的存在の勘定に入れる。ところが、ぼくたちは、ぼくたちのだれもが、世界に存続するすべてのものから成り立っている。ぼくたちのからだが、魚まで、否、もっとさかのぼった所までの発展の系図を内に蔵しているように、ぼくたちは魂の中に、かつて人間の魂の中に生きたことのあるいっさいのものを持っているのだ。かつて存在したことのあるいっさいの神々と悪魔は、ギリシャ人や中国人のものであろうと、あるいはズールカッファー族のものであろうと、すべてぼくたちの中にある。可能性として、願望として、方便として存在している。人類が死滅して、なんの教育も受けなかった中ぐらいの天分の子どもがたったひとり残ったとすれば、この子どもは諸物の過程を見つけ出し、神々、悪魔、天国、おきて、禁制、旧約と新約聖書など、なんでもみんなふたたび造ることができるだろう」

「それはそうだとしても」と、私は異議ををはさんだ。「それじゃ、個人の価値はどこにあるんですか。ぼくたちの中にすべてがもうできあがっているとしたら、なぜぼくたちは努力するんですか」

「待った!」とピストーリウスは激しく叫んだ。「きみが世界を単に自分の中に持っているかどうかということと、きみがそれを実際知っているかどうかということとは、たいへんな違いだ。気ちがいだって、プラトンをしのばすような思想を生み出すことはできる。ヘルンフート派の学校の小さい信心深い生徒でも、グノスティック派の人々やゾロアスターに現われる深い神話学的な関連を創造的に考える。だが、彼はそれについてなにも知らない。それを知らないかぎり、彼は木か石か、最もよい場合でも動物にすぎない。この認識の最初の火花がほのめいて来るとき、彼は人間になる。往来を歩いている両足のものが直立して歩き、子どもを九か月間みごもるからと言って、ただそれだけで、きみは彼らをすべて人間だとは思わないだろう。それどころか、彼らの非常に多くが、魚か羊、虫けらかヒルであるのを、またアリでありミツバチであるのを、きみは知っている。彼らのすべての中に、人間になる可能性が存在しているが、それを察知し、そのうえその一部を意識的にすることを学んだときはじめて、この可能性は彼のものになるのだ」   『デミアン』ヘルマン・ヘッセ著より


僕たちが生きる目的はまず、この自分自身の肉体と魂に刻まれた、これまでに存在した生物の構造、進化をベースに人間たらしめる能力を認識し、それを最大限に活かし、伸ばすこと、そして魂については、人間を現在まで存続させた思想をひもとき、さかのぼり、人間が生み出しうる思考上の構成力を確認することだ。このためには古典を学ぶことは重要であるし、そもそも思想を学ぶことは古典を学ぶことにほかならない。すでに人間が生み出した思想は古典であり、新たな思想を生み出すのは自分自身以外にはありえない。発見以外のものは古典からの仕入れた情報にすぎない。僕たちはそうした受け継いだ能力や思想を伸ばし、発展させなければならない。生物は進化を遂げなければならない。肉体の進化に合わせて、思想も進化する。肉体は思想の条件であるから、いくら立派な思想があろうとも、それが現実味を帯びるためには肉体の制限をクリアしなければならない。加えて、自然を十分に活かすということにもつながっていく。人間は結局のところ、自然からしかなにものも手に入れることができない。ゆえに、自然の多様性を詳細に認識し、活用する術を常に考えだしていく必要がある。数学が古典に似ていることも、このとき気付く。自然の法則によってやがて答えが出るものを、それを待たずして明確に答えを出すのが数学だ。数学は時間を省き、犠牲を抑える魔法の手段だ。

もし古典を読んでいて、納得のできない、あるいは理解のできない箇所に出くわしたとしたら、自分の偏見や誤解を解かなければならない。時代が思想に適合しない場合はあっても、思想が誤りである場合はない。当然危険も伴う。思想は解釈によって違った意味をもちうるからだ。

古典を読むこと、それは自分の内にあって気付かぬ思想の萌芽に光を当てる。思想には誰もがたどる道順というのが必ずある。個人に執着し、他者に貢献し、自らに真実を見いだすというような。肉体は自然に立ち向かう力を得るために日々圧力が加えられていなければならない。最たるものは病気だが、病気に負けないことは、人類の存続そのものを意味する。

僕たちは人間という限られた条件の元で生み出しうるものしか生み出すことができない。最終的には自然の法則と、その淘汰によって、自ずと人間存在の思想や肉体の原則が決定される。その原則を自分の中に発見しておく必要がある。なぜなら、不可測の自然環境によって与えられざるをえぬ原則を自分のなかで持っていなかったとしたら、淘汰されるべき運命にあるということを意味するからなのだ。
関連記事
プロフィール

hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

無料メールマガジン
メルマガ購読・解除
 
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

twitter
月別アーカイブ
最新トラックバック
最新記事
最新コメント
リンク
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
QRコード
QR
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。