正しい判断力をつける方法 古典を学ぶ


かれがつくるものは、作者からではなく、作品からその値うちをひきだすようにしよう。かれのつくったものは、すぐれた親方のつくったものとくらべてみなければ、けっして判断させないことにしよう。かれの仕事が仕事そのものによって評価され、かれがしたことだからといって評価されないようにしよう。よくできたものについては、「これはよくできている」と言うがいい。しかしそれにつけくわえて、「だれがこてをつくったのか」と言ってはならない。満足して得意そうに、かれが自分から「ぼくがそれをつくったのです」と言ったら、冷ややかにこうつけくわえるがいい。「あなたでもほかの人でも、それはどうでもいい。とにかくこの仕事はよくできている。」   『エミール』より


あらゆる物事に対して評価する力のない者ほど得意顔に評価したがり、もっともらしい理屈を展開し、博学ぶっている。美術館へ行けば、モネの作品だと分かった途端、「いやあ、この絵は素晴らしい。」と感心する客を目にするし、行列のできているラーメン屋に行けば、そこで長らく並び、ようやくありつけたラーメンのスープを一杯すすり、「このラーメンめちゃくちゃうまい!」と感動しながら一心に食べる客を発見できる。食べログの評価が高ければ、おいしいといい、評価が低ければ行かないか、行って「やっぱりおいしくなかった」という多くのバカ舌の持ち主がいるに違いない。

僕もこうして、最初に名著の抜粋を掲げるというブログのスタイルをとっているのも、結局名著の言葉にしか説得力を与えることができず、真理の言葉を見分けることのできる人間が数少ないからなのだ。こうした言葉から想起させられた思想は少なからず真理を含んでいるに違いないのだが、おそらくそんなものを記事にしたところで、ほとんど見向きもされないに違いない。今だって、見向きされているのかと言われれば、見向きされていないと言わざるを得ない、寂しい現実であるが……。何を歌っているかではなく、誰が歌っているかが重要で、大きな関心事という風潮が音楽界を覆っているし、すでにこの世にいない偉人の書いた作品よりも、有名人が書いたしょうもない本の方が売れる時代、正当に仕事の価値を判断できる人はどのくらいいるだろうか?僕はなんとかして懸命に努力して、そうした判断力と価値基準をもった人になりたい。世の中が少しずつ、正当で真っ当な方向に進んでいくためには、こうした賢人が増えていかなければならない。だが、本当に判断力のある人は安易に判断したり、批判することはなく、大した知識も判断力もない人こそ判断を、しかも大きな声で、してしまう。そうすると、それにつられるように真理の盲人は次々に偽りの真理を唱える。ゴッホの絵はなにゆえに素晴らしいのか?その絵に彼の絵や世界を捉えるということに対する情熱が表れており、そこに感動が生まれるからである。その情熱を感じ取ることは並大抵のことではないのかもしれない。少なからず知識と、美に対する感覚、情熱のなんたるかの理解がなければならない。楽することが好きな人間にとっては遠く及ばない領域のことだ。つまらない人間はつまらない絵でも言葉でも好めばいい。もし、つまらない人間ではなく、少しでも賢い人間になろうと思うのならば、わからないならわからないなりに判断力をつけようと努力しなければならない。そのために最適な方法は歴史的評価、時間による淘汰によって残った古典を学ぶことである。
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「さびしさ」と「絆」 余暇の過ごし方

ひとはよく、こんなことを私に言う。「ああいうところに住んでいると、さぞさびしいでしょうね。とくに雨や雪の降る日とか、夜などは、もっとひと里近くにいたくなるでしょう」。それに対して、私はこう答えたくなる。われわれが住んでいるこの地球にしても、宇宙のなかではほんの一点にすぎないのです。われわれの測量器具では正確に直径も測れないほど遠くにある星の上で、最大の距離をへだてて住んでいるふたりの住人のあいだには、どれほど大きなへだたりがあることでしょう?私など、どうしてさびしいはずがあるものですか?地球という惑星は、銀河のなかにあるではありませんか?あなたの質問はあまり重要とは思えませんね。ある人間を同胞からひき離して、ひとりぼっちにしてしまう空間とは、いったいどんな種類の空間だと思います?いくらせっせと足を運んでみたところで、二つの心をたがいに近づけるわけにはいかないということが、私にはわかったのです。私たちが、ぜひその近くに住みたいと望んでいるのはどんなところでしょうか?どうみてもおおぜいの群集の近くじゃありませんね。たとえば、ひとがいっぱい集まる駅とか郵便局、酒場、教会堂、学校、食料品店、ビーコン・ヒル、ファイヴ・ポイントなんかの近くではなく、われわれの経験からして、永遠の生命の泉があふれ出ていることがわかっている場所の近くです。言ってみれば、ヤナギの木が水のほとりに立ち、水の方向に根を伸ばすようなものです。ひとの性質はさまざまですから、いちがいにはいえませんが、賢いひとが自分の地下室を掘るのはそういう場所ですよ……。   『森の生活』より


このことは物理的な距離や場所においてのみではなく、時間に関しても言えそうである。この『森の生活』を読むうえで注意しなければならない点は「アメリカ」と「日本」という社会構造の違いと時代の違いがあり、そしてその中における「ウォールデン池」での2年間の記録であるということ。その生活自体の意味よりも、その生活によって得られた疑問や発見、真理によって、読者が想起せられる自分自身の生活と思想に対する不自然や違和感を是正する意気を促すことに意味がある。

同世代が自立し、多くのものが社会人となって今までとは全く異なる生活を始め、ある者は遠方へその居住を移し、ある者は多忙な生活を送っている。僕の友人とても例外ではなく、そうした物理的なへだたりというものは以前よりも大きくなった。とはいえ、さびしさというものに関していえば、ほとんどの友人が国内にとどまっているわけだし、現代ならば連絡のひとつでその日にでも会うことができることもあるし、最低でも一か月以内には会話の機会が得られるのだからさびしいわけがない。しかも、友人はひとりではなく多くいるのだ。現代ではさびしさというものは人々にとって疎遠な概念なのかもしれない。けれども、その他者との結びつきを容易にする手段としてのツールが、目的に替わってしまう時、さびしさは一層強くなってしまう。現代人が陥る危険というものはこういうところにひそんでいる。

ここまで話しておきながら、僕は人との絆というものにまで考えを広げてみたい。ここに至って、物理的な距離というものはそれだけ心と心の距離ということができるのではなかろうか。多くの時間、多くの思い出を共有する者たちだけが感じることのできる絆や愛着というものは、いかなる方法によっても短縮し、省略することができない。絆や愛着に純然たる理想をもたせるつもりはない。不完全で都合のいいものでかまわない。自分の自由や日々の充実のためにこう言ってよければ、健全な人付き合いというものは不可欠であろう。仕事にも意味をもたらしてくれるし、慈愛という本能をも満たしてくれるのだ。人間とは本来わがままな存在なのだ。

僕の多くの友人は、四年制大学を卒業し、会社の未来の担い手として入社した結果、土、日が休日となっている。ところが、僕は残念ながら?会社のためよりも、顧客のための労働者として入社したから、結果として土、日は原則出勤ということになった。すなわち、彼らとは休みが合わなくなってしまった。同じくこのことは「さびしい」だろうか?いや、僕はそうは思わなかったから、こうした決断をしたわけだし、永久に休みが合わないというわけでもなさそうだし、仕事後に会うことは当然可能なのだから、大した意味は持たなかった。かえって自分自身の時間を確保することができ、その中で永遠の生命の泉を掘ることができるだろうと思う。読書や音楽、自然の中での活動など、考えてみるだけでわくわくする。運よく、友人と予定が合えば、日ごろ身につけたそれらの知識や準備を活かすこともできようと思う。どうしても時間に限りはある。だからその余暇の趣味を何にし、どの程度にするのかということも探りながらしぼっていかなければならない。それもまた充実のためには必要な作業である。
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選ぶべき仕事について

男子にはその性にふさわしい職業を、そして若者にはその年齢にふさわしい職業をあたえることだ。家に閉じこもって腰をかけてする職業、体を柔弱にするような職業はすべての若い男の好むことではないし、かれにふさわしくもない。

わたしは生徒が不健康な職業にたずさわることはとめるが、骨の折れる職業にたずさわることはとめない。危険をともなう職業でもかまわない。そういう職業は同時に体力と勇気を養う。

若者よ、きみの仕事に男子の手の刻印をあたえるのだ。たくましい腕で斧や鋸をつかうことを学ぶがいい。

どんな人だろうと、みんなが見ているところで、手斧をもち、革の前だれをして働くのを恥ずかしがるとしたら、わたしはもうその人のうちに、ちゃんとした人が笑われることになると、よいことをしながらもすぐに顔を赤らめるような世論の奴隷を見るだけだ。有益な職業はすべて尊敬するからといってそれらをすべてやってみる必要はない。どんな職業でも自分より低いところにあるものと考えさえしなければいい。選択することができて、しかも決定的な理由がないばあいには、同列の職業をくらべて、快適さ、好み、便宜を考えることになるのではないのか。どんな職業でもそれをやる人がいなければならない。しかし、選ぶことができる者は清潔ということを考えてもいい。これは臆見によることではない。この点については感覚がわたしたちの考えをきめてくれる。さらにまた、働く者が技能を必要とせず、ほとんど自動的に、いつも同じ作業に手をつかっているだけの愚劣な職業もわたしは好まない。

すべてをよく考えてみると、わたしがいちばん好ましく思う職業で、わたしの生徒の好みに合っていると思われるのは、指物師の職業だ。それは清潔で、有益で、家のなかで仕事をすることができる。それは十分に体をはたらかせ、職人の器用さと工夫を必要とし、用途によって決定される作品の形には、優美さと趣味も排除されてはいない。
 
もし、たまたまあなたの生徒の天分が決定的に理論的な学問にむいているなら、そのばあいには、かれの好みに一致した職業をあたえることをわたしも非難しはしない。たとえば数学器械、眼鏡、望遠鏡などを製作することを学んだらいい。   『エミール』抜粋


僕が自分自身の職業について考えた時も、おおよそこういった論理的分析による段階をふんで少しずつ無数にある職業を絞り込んでいった。社会のなかでの一労働力としての僕と独立した存在としての僕が同時に存在する必要がある。だからこそ、僕らは職業を選ぶし、慎重になる。まだまだ僕は若い。肉体的力もある、考える力もある。単なる労力として用いるにはもったいないし、とはいえ、社会や自分の生活をよりよくするために用いないのはもっと無責任だ。充実とは、肉体を動かすことと同義だと僕は考えているから、この余りある若き力を活かさない手はない。力、それは男、を意味し、優しさはその反作用として表れる。力を発揮し、優しさを用いなければならないと僕は自分自身に課している。

男性の仕事と女性の仕事を分けると、今の時代では叱りを受けそうだが―いつの時代でもこうした錯誤が見られる―、男と女の性差を認めないようなものであり、それはむしろ不自然だ。男に力があるとするならば、女にはしなやかさや美しさがある。結局のところ、これらを活かすことが直接仕事を意味するようになるのが理想ということになりそうだ。だから、受付や色味を施すような仕事は男向きではないし、力仕事は女向きではない。互いに仕事の取り合いをするのはやめなければならない。女性が社会に進出してきて男の仕事が少なくなってきているという話を聞くが、それはこうしたところからきているように見える。男は男に向いた仕事をするしかない。それは宿命のようなものなのだ。

女性化しつつある男性を僕は軽蔑せざるを得ないし、けっして正しい方向だとは思わない。男が肌を気遣い、スマートな立ち居振る舞いを身に着けようと躍起になる―健康や礼儀と取り違えてしまっているにすぎない。

いくら人のためになるからといって、原発で作業する気にはなれないし、夜勤があるような不規則な仕事もするべきではないと思う。金がほしいのではなくて、快適な暮らしがほしいのだ。僕の限定的な意見を言えば、クールビズがすすめられているとはいえ、やはりスーツを基調としたスタイルは日本の気候にあっておらず、無駄に暑さを感じなければならないから僕はスーツを着る仕事は嫌であった。また真夏に長袖を着なければいけない仕事も嫌であった。僕は生来汗っかきなので、自分よりも周りの人間に迷惑がかかる。運動しているわけでもないのに多くの汗をかいている人を見るのは不快だ。夏に快適な服装で、屋内でできる仕事を選ぶことができたのは満足している。

技能と自由は比例するから、それほど高度な技術を要する仕事は選びたくはなかった。たとえば僕にしか作れないものを売るということになると、お金は稼げるだろうし、多くの人に気に入られることになるだろうが、当然の反動として自由や休みは少なくなってしまう。多少の代わりはいるくらいの仕事を選んだ方が、自由度という意味では賢明という気がする。少なくとも、僕はそういった職業を選んだ。専門職でありながらそれほど高度ではないものだ。もちろん賛否あるであろうし、誇りややりがいというものには不満が残るかも知れないが、僕は快適な暮らしを目指しているのだから問題ない。

いくら学問的にしろ、技能的にしろ能力があったところで、そういったものは低能な大衆の要望に応えるような形でしか使われないのだから、暮らしを快適にはできない。あらゆる発明は人間を堕落させた。僕はその一端を担いたくない。
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欠点のない人間などいない、大事なのは戦い続けること


あるスポーツ選手は言った。「どこも痛くない選手などいない。大なり小なり怪我を抱えてどの選手もがんばっている」と。

同様に心身ともに健康な人は少ない。いないとはいわない。なぜなら、スポーツ選手の如く、生活に必死になっているからこそ、心身にダメージを受けることになるのだから。つまり、毎日を懸命に生きている人が心身に不調を抱えているといえるのかもしれない。少なからず、僕はそう自分自身に言い聞かせている。頭がぼーっとする、だるい、疲れが取れない、やる気が起きない、元気がない。一方で高揚感や幸福感に満たされることもないわけではない。一種の軽い躁鬱病ということにでもなるのだろうが、僕はなにか実際の症状に病名を与えることに意味を感じない。治療として薬を用いることも肯定しない。薬は根本原因を見えにくくする。遺伝子的あるいは先天的な病気だとしても、それは自然界に生きる以上仕方のないことだ。もちろん生活が一定の水準以下にならざるを得ない状態であるならば、薬を用いることで改善させる必要があるが、もし人とは違って大変だという程度なら違う方法を考えた方がいいのではないかと僕は考えている。

僕自身について言えば、働くことやこれからの人生に不安を感じる。体調がもっとよくなり、健全でいきいきした生活が送れるようになればいいと思う。その希望を捨てていないからこそ、現在に前向きになれるのかもしれない。文学や自然を好む人というのは少なからずそうした社会や人生に対するコンプレックスや弱みを持っているのかもしれない。だから、そうしたものからエネルギーや希望を得るために、好むのではないだろうか。

誰だってどこかしら不調を抱えている。自分に与えられた心と体をよく知って、上手にいたわりながら生きていくことだ。そこには平等など存在しない。自然界の掟によって、能力などの個体差は必ずある。遺伝的な優劣があるのは当然だ。けれども、幸福になれる道は平等に存在している。だから僕たちはどうすれば幸福になれるのだろうかということを考える必要がある。そして、そうした不調や欠点のある人間こそ、幸福を感じる機会に恵まれるというのが僕の持論だ。素晴らしい音楽や物語、詩、景色に感動するのは、悲しみや苦しみが癒されるからだと思う。たしかに、ある日とても憂鬱になってしまうことがある。なにもかもが嫌になる、そんな気持ちだ。ところが、そうした絶望的な気持ちがあったからこそ、小さな喜びに、幸せを感じることができるのだ。普通に友達と楽しく過ごせた一時、それにえも言われぬ幸福を感じることができる。たとえうんざりした日が続いても、ある素晴らしい一日によってすべてが打ち消されてしまう。悲しいことに、幸福は常に、不幸をその栄養源にする。

そして、進化論によれば、そうした環境に対する不利な点というのは、それを克服しようと努力することによって、遺伝子的に少しずつ改善されるということだ。キリンが首が長くなったように。だから、薬であったり、諦めによって、その進化や成長の道を閉ざさないことだ。自分自身に打ち勝とうとすれば、必ず自然の法則に従って僕たちは、今よりも強く、たくましくなれるのだ。
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就職活動 品のいい仕事 採用通知


わたしはどうしてもエミールになにか職業を学ばせることにしたい。少なくともなにか品のいい職業を、とあなたがたは言うのだろうか。品のいいとはどういう意味か。公衆の役にたつ職業はどんなことでも品がいいのではなかろうか。ロックの貴公子のようにかれが刺繍師や金箔師や塗師になることをわたしは望まない。音楽家や俳優や書物をかく人間になることも望まない。そういう職業やそれに類似したほかの職業を除いて、かれは好きな職業をえらぶがいい。わたしはなにごとにおいてもかれを拘束するようなことはしない。かれが靴屋になったほうが詩人になるより好ましいとわたしは思う。道路の舗装をするほうが陶器の花を描くより好ましいと思う。あなたがたは言うだろう。しかし、警官、スパイ、死刑執行人も有用な人たちだ、と。そういう人間が有用でなくなるのは政府しだいだ。しかし、そういう話はしないことにしよう。わたしはまちがっていた。有用な職業をえらぶというだけではたりない。さらにいえば、それにたずさわる人がいとうべき素質や、人間性と両立しない素質をもつことを必要としない仕事でなければならない。そこで、さっきのことばをくりかえすことになるが、品のいい職業をえらぶことにしよう。それにしても、有用性のないところには品もないということをいつも忘れないでおくことにしよう。   『エミール』より


前回宣言したように、僕のブログに対する姿勢が転換期を迎え、より一層充実したものになることを自分自身で期待している。僕の思想や現実問題に対する考えを効果的にするために優れた文学作品からの抜粋を引用するのであって、文学作品によって引き出され、僕自身の思想からつむぎだされた考えは書かないことにする。それは一貫性を持たないし、内容の質の低下にもつながる。僕自身から自発的に出るものだけを書こうと思う。

就活を始めたことを記事にしたのはどのくらい前であろうか。僕が社会人として生きてみようという気になったのは人生においても大きな一歩であった。以前は孤独と自給・自足、こうしたものに憧れ、社会に抗い、自然をいつくしむ生活を欲し、それにまい進し、そのかたわら、文学をものし、芸術のありかたとそれへの自分自身の取り組みについて考え、努力する、そうした生活を送っていたのである。僕なりに、あらゆる宗教に共通していると思われる真理、文学や芸術が求めるところのもの、人生、そして生きる意味。そうしたものに答えを出した。出すことができたのだ。それは年齢が手伝ったのかもしれない、社会情勢がそうさせたのかもしれない、はたまた多読を重ねた結果、身についた考え方の習慣によるのかもしれない。僕の思想はある意味で「岩波文庫」でできているのかもしれない。「岩波文庫」には大変お世話になったし、これからもお世話になるだろうが、これが意味するところは、「岩波文庫」が重んずるべきと考える思想や文学観、社会観が僕のそれと大方一致しているということだろう。僕が気を付けなければならないのは、「岩波文庫」をむやみに信奉して信頼を置きすぎないようにすることだ。「岩波文庫」だから頭から良書だと思い込まないようにする必要がある。もっとも、「岩波文庫」は素晴らしい書物がほとんどという実感を持ってはいるが。

仕事を探すにあたって、誰もがするように、僕は「自分が好きな仕事」を探してみることにした。すなわち出版に携わる仕事である。もちろん懸念がなかったわけではない―商売である以上いい書物ではなく、売れる書物を世に送り出さなければならないこと、仕事が多忙を極めることは容易に頭によぎり、僕を躊躇させた。それに僕は書きたいのであって、売りたいのではない。そういった意味では出版社やそういった出版関係の会社は理想とのギャップがありそうに見えた。仔細に想像を働かせたところで詮ないので履歴書を送ったが、面接を受けることなく不採用の通知が数週間後に届いた。就活始まって最初の挫折ともいうべき出来事であったが、内心ほっとした気持ちの方が強かった。前述以外の重大な不安要素もあったし、活字離れという時代背景もあって応募してからもなんとなく前向きにはなれていなかったのだ。そしてなにより、当然の結果という思いが強くあった。大学中退、その後数年間フリーターというブランクをもつ、社会に出たことのない大人を一般業務で採用しようとはだれも思わないに違いないと僕も覚悟していた。ましてや、大学が理系ときているから、なにゆえに出版社?という思いが採用担当者側もあったにちがいない。結果的に双方にとってよかったので賢明な判断に拍手を送りたい気持ちだ。

日に日に就職して働きたいという気持ちが、どういうわけか強くなり、真剣に探し出したのはつい最近の事。あらゆる好条件の仕事には非大卒ということではじかれてしまい、給料がそれなり(並か並以下)の仕事は汚れ仕事か専門職しかないといった状態だった。並以下の給料(実際には15万前後)の仕事は誰にでもできるような事務仕事や配達、販売などで男性が不利というか不適なものが多かった。残すところ、男性の仕事は力仕事になるという当たり前と言えば当たり前の現状に行き当たるだけであった。

だが、考えてみるとこうして残った仕事がルソーがいうように、「品のいい」仕事であることに僕は気が付いた。なにせ口八丁手八丁なイメージの営業などやりたくはなかったし、なんの役に立っているのかわからない、事務や管理の仕事は就きたくなかった。といって、何かをつくるということが、仕事として捉えた場合非常に、つらいものだということは察しがついた。つまり作業の繰り返しであったり場所の限定など拘束度が高いのだ。

「自由度」、「給料」、「仕事の価値」を総合的に見たとき、「汚れ仕事」の中でも比較的自然現象を社会制度によって仕事に組み入れられたもの―死や汚物、ほこりなどの自然現象の処理―よりも、人工的、社会的現象を一個人的観点で仕事に組み入れられたもの―これはなかなか見当たらないが、車などの機械のメンテナンスなどの生活の質を高めてくれるものに付随する仕事―の方が不快感がないという事実があるので、「汚れ仕事」の中でも後者を選ぶことにした。「汚れ仕事」は本来であれば当事者がやるべきことなのだが、あらゆる理由によってそれができない場合に発生する仕事なのだが、金を払ってでもやりたくないくらいの仕事ともいえる。しかしながら、自分が金を払ってでもやりたくないことを人にやらせるという気には僕はどうしてもならないし、そうした仕事を金がもらえるからということでやるのもなんとなく違和感を覚えるが、人の役に立つ仕事であることに変わりないので選ぶことにした次第だ。

見渡したところ、「品のいい」仕事はなかなか見当たらなかったが、たしかにあることはある。現に僕は今回無事、仕事に就くことができたわけだが、「品のいい」仕事でありながら、自分の希望も大方満たすことができるものであったので、満足している。実際に幾日か働いてみてわかることもあるだろうが、第一印象としての実感を記すことにした。
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読書について


ながらくブログを書き続けてきて、僕なりに真剣に文学として、また思想の発展を第一の目的として、かつ文学であるがゆえに社会といっては大袈裟な気がするが、人々の間に、形はどうであれ発信するために、努力と工夫を続けてきた。得るものは、それはそれは多く、たくさんの出会いと発見、自らを鏡に映すように、文字によって映された自分の心の姿を確かめることもできた。この収穫が、活動に対する報酬ということができるのであれば、この撒いた種子は多くの実を結んだのであろうか、あるいはその割には不十分な実りであったのだろうか。いずれにしても種をまき、芽が出て、果実ができた。それは確かだ。それだけで満足だし、自分自身にも、読者による見返りも求めて書いてきたわけではないので、いまさらそうしたことに頭を悩ませるつもりはない。いささか、頭の中が混乱しているようだ。言葉にまとまりがない。年齢的なものであろうか、言葉にしても考え方にしても、粘着性を持ち始めていて、新たな思想であったり、幅広いものの見方、柔軟な知識の出し入れが以前ほど大胆に、あるいはてきぱきとできなくなっている気がする。恋に恋する時代が終わるように、思想を追うことに満足する時代が終わりを告げたのかもしれない。僕がゴールではないにしても、現時点で安住の地、そして満足を覚える日々の過ごし方や考え方というのは、豊かさということであった。そしてその豊かさは量ではなく、質で計られる、自分自身で価値を発見し、質を見抜く力を要する、幾分難易度が高い生活の向上ということであった。そのためには仕事も必要であり、余暇ももちろん必要、体を動かし、鍛え、家族との時間、友との語らい、異性との心地いい接触……。文学や思想の入る余地は余暇を彩る風味であって、僕がどうこう手を付けるべきものではなく、ここに思想の発信と文学の紹介を終えようと思う。メインは僕自身であって、文学作品でもなければ、特筆すべき文言でもない。無理に関連付けられて導き出す思想はどこか、形式ばって堅苦しさがあった。人間を真面目にすること、謙虚にすることは容易ではない。僕はできれば、次第にこのインターネットの世界から離れていこうと考えている。テレビの内容の大部分が僕にとって有益であるどころか、害であるように、インターネットを利用することは僕の生活を豊かにするどころか、質を悪くしているところが大いにある。ブログにしても、なんとなく趣や風味が足りないのだ。文字は軽く、反応は味気ない。世界とつながれる?そうかもしれない。けれども僕は以前より友人とつながっていないことを感じている―いずれ僕はこうした違和感をまとめることに労力を注ぐかもしれない。読書し、その内容を頭の中で整理し、まとめ、文字に書き表す。たしかにこれらは有意義な活動だ。しかし、もはや僕にとっては理屈で頭の中に取り込み、論理として思想を構築することは無意味だ。善や美、人生の意義や幸福のあらゆる考え方と理想は知識としてだいぶ蓄積された。しかし、それを心にしみこませるためには、体験と反復による刷り込みが必要になってくる。日々の中で、活字の波に心を開放して、ただようのだ。習うより慣れろ、作者から一方的に受けるような読み方はやめて、会話をするような読書だ。それなのに、ブログの読者を考えながら読んでいては、まったく本末転倒、読書の醍醐味を僕は自ら損なっていたとは、愚かだった。もうアクセス数も気にならなければ、ブログ記事のテーマに頭を悩ませることもない。素晴らしい思想と情感に触れながら日々の日常の中で豊かな読書体験をし、心にそのエッセンスをしみこませていく……。次第に僕はそうした詩人や哲人の仲間入りをしていくことだろう。インターネットで文学や作品のあらすじを論じたり調べたりするのはナンセンスであるし、そうした人たちのために真面目に文学を論じるのも馬鹿馬鹿しい。だから、文学や思想を論じることも終わりにする。ただ僕自身からあふれでるものを書けるのなら、ひきつづき書いていきたいと思っている。
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役人のいない国家という理想


私が森へ行ったのは、思慮深く生き、人生の本質的な事実のみに直面し、人生が教えてくれるものを自分が学び取れるかどうか確かめてみたかったからであり、死ぬときになって、自分が生きてはいなかったことを発見するようなはめにおちいりたくなかったからである。人生とはいえないような人生は生きたくなかった。生きるということはそんなにもたいせつなのだから。また、よほどのことがないかぎり、あきらめるのもいやだった。私は深く生きて、人生の精髄をことごとく吸いつくし、人生といえないものはすべて壊滅させるほどたくましく、スパルタ人のように生き、幅広く、しかも根元まで草を刈り取って、生活を隅まで追いこみ、最低の限界まできりつめてみて、もし人生がつまらないものであることがわかったなら、かまうことはない、その真のつまらなさをそっくり手に入れて、世間に公表してやろうと考えたのである。また、もし人生が厳粛なものであるとしたら、身をもってそれを体験し、次の旅行記にありのままを書き記すつもりだった。それというのも、たいていのひとは人生が悪魔のものか神のものか不思議なほど確信がもてないらしく、「神をほめ称え、永遠に受け入れる」ことが地上の人間の主目的だと、いくぶん性急に結論をくだしてきたように思われてならないからである。   『森の生活』より


もし真剣に読書をしようという人がいたら、『森の生活』は絶対に外してはならない。真剣に読書をするとは、真剣に人生を生きようと志を立てることだからだ。そして人生に真剣に向き合って生きた人こそソローなのだ。このソローが書いた『森の生活』は人生を真剣に生きる疑似体験を与えてくれる。人生は一度きりであり、ほとんどの人は人生を何にも賭すことができずに死んでゆく。それはただ、一度しかない人生の意味を誤解しているからなのだ。死ぬときになって、自分が生きてはいなかったことを発見できるほど鋭敏で冷静な頭脳を持っている人は数少なく、多くは幸福にもあまりに短い栄光の日々を思い浮かべながら自己肯定の幸せの中で世を去るにちがいない。いい人生だったと、後悔のひとつもせず、未来を憂うこともなく死んでゆくめでたい人がほとんどだろう。逆に、人生をただ絶望の中に沈むことで、真剣に生きることから目をそむける人も多い。受け売りや鵜呑みを人は好む。思考停止することで、厄介なストレスを紛らわそうというのだ。なんでもかでも神のせいか、社会のせいだ。人生の真実を解き明かすために戦っている者はどれだけいることだろうか。まず、「生きるか」、「死ぬか」の選択ぐらいしてみたらどうだ。「生きているから生きる」、「みんながやっているからやる」、「こういうものだから、こういうものなのだろう」、そんなめくらめっぽうはやめたがいい。人間の主目的が、子孫繁栄だの、金儲けだの、わかったように、えらそうに言っている社会で生きる人たち、それを受け売りだというのだ。自然界の成り立ちと生れた社会構造が資本主義だったというだけで、さもそれが目的だというように性急に結論するのはいかがなものか。

では、僕にとって「森の生活」とはどういう生活であるべきなのであろうか。ソローは森へ行った。それを必ずしもまねる必要はない。「思慮深く生き、人生の本質的な事実のみに直面し、人生が教えてくれるものを自分が学び取れるかどうか確かめる」ためにどういった生活を、日々を過ごしていくべきだろうかということなのだ。そういった意味で僕はまず、一般的な労働というものに着手する必要を感じている。約八時間、月二十日間を社会のルールに従って労働にあてることは何を意味し、何を感じさせてくれるだろうか。実際のところ、このルールは形式的に定められたものであって、労働条件ではない。本来は人それぞれにあった労働条件があるべきであり、一様にこのように定められては、仕事や労働者がそれぞれであるのに、時間だけが(時間というもの自体も形式的に定められた尺度に過ぎない)最低限のラインとしてきっちりと決められているのは不自然だ。批判や抵抗するのではなく、労働者の一人ひとりが疑問と不自然さを感じていなければならない。「集団的自衛権」の行使が容認されたことは批判しようが抵抗しようが、今の社会ではどうにもならない。だが、疑問と不自然さ、アクションの意味での批判と抵抗をしなければ、そもそも私たちの存在意義がなくなり、国家が意味をもたなくなるではないか。国家が、役人のために存在するという国になりつつあるではないか?日本は?国民があって、国家がある。国民と国家の間に役人がある。役人なんて誰もやりたくない仕事だ。金がもらえて、公務という大義のもと自由にいろいろできるからみんなやるのだ。国民性がもっと高くなり、役人が必要ない国家がいつか実現するであろうか……。若者が政治に興味がないというが、ある意味でこれはいい傾向ではなかろうかという見方もできなくはない。ただ、現実に役人がいて、政治が存在しているのだから当然無視することはできない。
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「差異」ではなく「豊かな多様性」


富める者は貧しい者よりも大きい胃袋をもっているわけではなく、いっそうよく消化するわけでもない。主人は奴隷よりも長くて強い腕をもっているわけではない。高貴の人は人民に属する人よりも背が高いわけではない。そして、結局のところ、自然の必要はすべての人にとって同じなのだから、それをみたす手段はすべての人にとって同じであるはずだ。人間の教育を人間にとってふさわしいものにするがいい。人間でないものにふさわしいものにしてはいけない。あなたがたは、ある身分だけにふさわしい人間をつくろうと努力して、その人をほかの身分にあってはぜんぜん役にたたない人間にしていること、そして運命の女神の気が変われば、その人を不幸な人間にするために努力しただけになることがわからないのだろうか。大貴族が乞食になって、みじめな状態におちいりながら、その生まれからくる偏見をもちつづけていることくらいこっけいなことがあろうか。貧しくなった金持ちが、貧しい者にあたえられる軽蔑を思って、このうえないみじめな人間になったとみずから感じることくらい卑しむべきことがあろうか。生活の道としては、一方には公然の悪者という職業があるだけで、他方には「わたしは生きていかなければならない」というすばらしいことばを口にしながら卑屈なことをする下僕の仕事があるだけだ。   『エミール』


私たちは日常において他者との差異を感じないときはない。子どものときは今よりも周りの友人にしろ、先生、大人たち、すべての人たちに対して何か特別な差異というものを感じなかったように思う。単純にあった差異は「女の子」と「男の子」、「大人」と「子ども」、すなわち性差と年齢差だけであった。たしかにクラス内にハーフの子や外国の子がいたら敏感にそれを感じとり違うなという認識は持っていたので、厳密に言えば人種も差異に加えられるかもしれない。けれども、この人種的な差異に関しては明らかに大人の方が敏感に反応している。これは僕にとっては大きな衝撃だったのだが、近頃とくに――ネットの普及もあってか、在日やコリアンというような同人種での国籍、あるいは微妙な違いというものに対して非常に強い反応を示しているように思う。しかもそれは、侮蔑や見下すニュアンスを含んだものである。こうした差異について私たちは小さい時から慣習的に「違い」を認知し、対応するクセがついている。ところが、その差異がどういった事情から生じ、なにゆえにそういった具体的な対応をとらなければならないのかということについては理解していることはほとんどない。「女の子には優しくしなさい」、「大人は敬いなさい」、「人種差別はいけません」、もっといえば「いじめはいけません」こういったことは何度となく言い聞かされ、口にすることを強制された。だが、中身が伴わない皮相の思想であり、教訓であったから、行動規範とはなりえなかった。納得しないままに強制されることは、えてして反抗心を芽生えさせる。知らぬ間に優劣や差別がその命題の存在理由となり、やがて「女の子には優しくしなさい」、「大人は敬いなさい」、「人種差別はいけません」、「いじめはいけません」が絶対的な存在でなければならない錯覚となり、ゆえに「女は劣っていなければならない」、「年長者は優れていなければならない」、「異なる人種は異なる人間でなければならない」、「人間には強弱や優劣がなければならない」という前提をつくりあげてしまう。そもそも優しくすることや、差別をしないことについて性差や人種に限定することは誤りであると思う。「差別をなくそう」ではなく、「個人差」というあらゆる差異を小さく平等な要素に落とし込めないものだろうか。自然の掟から人類が脱却しようというのであれば、生存競争に端を発する優劣、強弱という尺度を廃し、豊かな多様性という発想に向わなければならない。
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所有欲と所有の効果 天からの恩恵


やや長いが許してほしい。そして辛抱して読んでもらいたい。

人間の差異は、単に彼らの財産目録の差異に示されているのみではない。すなわち、彼らがそれぞれ異なる財を追求に値すると考え、また共通に承認する財の価値の多少、その順位について互いに意見を異にする、という点に見られるのみではない。――人間の差異は更にむしろ、何が彼らにとって財の真の所有であり占有であると見なされるか、ということにおいて示される。例えば、女について言えば、比較的に控え目な者は、肉体を自由にし、性的享楽を味わうだけですでに、その所有・占有の十分な満足すべき徴と認める。他の者はもっと邪推深く、もっと要求が多い占有欲をもっていて、そうした所有は「疑問符」を伴うもの、単に外見上のものであると見て、一層精細な試験をしようとし、わけても、女が彼に身を任せるだけではなく、さらに彼女の持っているものや持ちたがっているものをも彼のために手放すかどうかを知ろうとする。――そのようにして始めて、彼は女を「占有した」と認めるのである。しかし、それだけではまだ彼の不信と所有欲に結末をつけない者もある。彼は自ら女が一切を彼のために棄てても、言ってみれば彼の幻影のためにそうしているのではなかろうか、と疑う。彼はおよそ愛されうるためには、まず徹底的に、いな、どん底までよく知られたいものだと望む。彼は敢えて自分の正体を覗かせるのだ。――彼女がもはや彼について錯覚をもたず、彼の親切や忍耐や聡明のためにと全く同じく、彼の魔性やひそかな貪婪のためにも彼を愛するとき、始めて彼は愛人を完全に自分が占有したと感じる。また、或る者は国民を占有したいと思う。そして、その目的のためには、あらゆるカリョストロ的、カティリーナ的な術策を弄してもよい、と彼には思われる。更に他の者は、もっと繊細な占有欲をもっていて、「所有せんと欲すれば、欺くべからず」と自分に言って聞かせる。――彼は自分の仮面が民衆の心を支配しているのだと考え、そのため苛立って耐え切れなくなり、「故にわれを知らしめざるべからず。かつまた、まずもって、われ自らを知らざるべからず!」と思う。世話好きな慈善家の間には、彼らが助けてやるはずの者をまずもって支度してかかるといったあの愚かしい奸智が見いだされるのが殆んど通例である。例えば、あたかもその者が助けられるに「値し」ており、まさしく彼らの助けを求めていて、すべての助力に対して彼らに深い感謝と帰服と恭順を示すかの如く思ってそうするのだ。――このような自惚れをもって、彼らは困窮者を所有物を処理するが如くに取り扱う。彼らは所有物に対する欲求からして一般に慈善的で世話好きな人間なのだからである。彼らは助力が妨げられたり、出し抜かれたりすると嫉妬する。両親は識らず知らずに子供を自分たちに似たものにする――彼らはこれを「教育」と名づける。――子供を産んで一つの所有物を産んだのだと心の底で信じない母親は一人もいないし、子供を自分の概念や評価に従わせる権利があることを疑う父親は一人もいない。それどころか、以前には新しく生れた子供の生殺の権を思うがままに揮うことが(古代のドイツ人の間でそうであったように)、父親たちには当然のことと思われていた。そして、父親がそうであったように、今日でもなお教師・階級・僧職・君主などがあらゆる新しい人間において、躊躇なく新しい占有への機会を見るのである。そこから出る結果は……   『善悪の彼岸』より


「占有欲」や「所有欲」、これらは自尊心を満足させるものであり、人間本来の生存本能と関係があるに違いない。所有や占有は直接、自らの存在価値の高さを示す役割を果たすため、人はそれぞれの生存意義に合った対象物と欲求の度合いをもつ。逆を返せば、自らの存在価値に自信や確信がない、あるいは弱いためにそうした欲求は一層強められると言えるだろう。何かを所有するということは自己顕示であり、存在条件ともなるので、人は安心や自信をそれによって与えられる。自分を一個人として捉えることができぬから、周りの人間を物として捉え、相対的に物を所有する何か、すなわち意志をもつ存在という認識に至るわけだが、――力のないやつに限って喧嘩を売ってみたり、弱く縄張り意識が強い犬ほど吠えるように――「所有欲」、「占有欲」は自分が自分自身をどう評価しているかを表す尺度と言える。しかし、誤解してならないのは、そうした自分を人間性でも、外見上でも装飾する意味をもつ「所有」であるが、あえて自分の価値や本来の姿を損なうような「所有」をすべきではなく、「所有」といってはおかしい、相互に活かしあえる関係(他者はもちろんのこと、物についてもこういってよいと思う。)を持つべきということだ。

身のまわりにあるもの、日々関係する人々、それらは所有の対象ではない。

僕たちはそれらを互いに活かしあうことで、生活をより充実させ、喜びと心地よさを実現することができる。それらは天から与えられた恩恵である。
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自然と社会 社会と個人


自分を孤立した存在とみなして、まったくなにものにもとらわれず、自分だけでたりる生活をしようとするような人は、みじめな者にしかなれない。生きていくことさえ不可能になる。土地はすべて人の所有になっているし、かれは自分の体しかもたないから、どこから必要なものを手に入れることができるのか。自然の状態から抜けでることによって、わたしたちは仲間の者にも自然の状態から抜けでることを強制しているのだ。他の人々の意志を無視して自然の状態にとどまっていることはだれにもできない。それに、生きることも不可能なのにそこにとどまっていようとするのは、じっさいにはそこから出てしまうことになる。自然の第一の法則は自己保存を心がけることにあるからだ。   『エミール』


我ながら絶妙なタイミングで『森の生活』と『エミール』を併読している。『森の生活』は自然の状態で生きることについて書かれ、『エミール』は社会の中で生きることについて書かれている。確かにこの二つの生き方は矛盾している。正しいか正しくないか、という極論を言えば、人間は社会の中で生きていかざるを得ないということはソロー自身も森の生活を一生続けたわけでもないところや、ルソーの言う、論理的に導き出された社会の原則を考えてみればわかることであり、もはや私たちは自然の状態で生き抜くことは許されていない。労働や税、契約や助け合いというものから逃れることはできないのだ。

とはいえ、『森の生活』は社会生活の中では気付くことができない社会から断絶された本来の自然であったり、社会の歯車としての人間ではなく、自然界における生物としての単純な個体、人間の一面に気付かせてくれる。現代の社会において、こうした自然の状態と社会の一員としての状態が行き来できるような自由が与えられば、より充実した生活が見いだすことができるのだが、まだこの実現には至りそうにない。「わたしたちは仲間の者にも自然の状態から抜けでることを強制している」からであり、「社会の歯車として働いている以上、脱却することを許さない」のである。誰かが許してくれないというよりは、社会の構造がそれを許していないという側面がある。金さえあれば、この脱却も可能であるといえそうであるが、金はよほどの資源や資産を有していない限りは、他者との隷属関係に陥らざるを得ず、いずれ束の間の自由から説かれてしまうことになる。

夏目漱石がかつて、予見したように、時代が下るにつれて、人間は社会をつくり、徐々に個人個人へと社会というまとまりの中で分裂する過程をたどってきた。すでにこれには矛盾が生じているのだから、いずれまた個人個人が小さなまとまりをつくって社会の中で生きていくことになると思う。ネットの発達によりSNSなどによる個人間での結び付きにも考えを進めていって、個人としての在り方を模索していく必要がありそうだ。
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人生の選択に伴う、不可抗的制限と条件


意識的な努力によって自分の生活を高める能力が、まちがいなく人間にはそなわっているという事実ほど、われわれを奮起させてくれるものはあるまい。なにか特定の絵を描いたり彫像を刻んだりして、二、三の美しいものを生み出せるということは、確かにすばらしいことである。しかし、われわれが透かして見ている大気という媒体そのものを彫ったり描いたりするのは、さらに立派なことだ。それを可能にするのはわれわれの徳性である。その日の生活を質的に高めることこそ、最高の芸術にほかならない。すべての人間は自己の生活を細部に至るまで、精神がもっとも高められ研ぎすまされた瞬間の観照にも堪えられるものにしておくべきである。   『森の生活』より


今日の自分は明日の自分とは違う。今日の自分より明日の自分がある一点でも上回っていなければ、今日の一日は善く生きたことにならない。僕は実感する、人間の肉体や精神、思考は一進一退の攻防であると。僕はいつか、この地上に楽園を見いだしたい。それができると信じているし、そのために日々努力と研究を続けている。

もしも、僕の生活を全くの無からつくりあげることができたとしたら、生活の質を高め、精神がもっとも高められ研ぎすまされた瞬間の観照に堪えられるものにすることは現状よりも難しくないにちがいない。つまり、僕の生活はすでに始まっていて、今までに不可抗的要素によって大部分がつくりあげられてしまっているから、それを壊し、改善しながらつくりあげていかなければならないのだ。僕の慣れ親しんでしまった生活の不十分なところを注意深く探し出し、取り除き、あるいは改良していくことはとても難しい。今まで僕は自分自身の生活しか経験したことがないし、新たな生活を始めてみることはリスクも伴う。また、これだけ長い時間を生きてきたことによって、動かすことのできない多くの事実にも縛られている。「海の近くで営む生活はどんなものだろう?」、「自然に囲まれた山の中での生活はどんなふうだろう?」ということを思ってみても、まったく想像することができない。生まれてこの方、そうした実際的な生活をそうした環境で送ったことがないから当然のことだ。今から始めてみるとしたところで、やはり故郷が移り変わるわけでもなし、愛着、郷愁は変わらず地元にあるにちがいない。慣れ親しんだ土地、いつでも優しく迎えてくれ、語らいあえる友達が多くいる地元を離れて、そうした単なる環境としての意味で質を高めるために居住地を変えることはどうであろう?その土地、その場所でまた新たな人との出会いがあり、違った生活ができるに違いない。こう考えてみると、いくら人間が自由だからといっても、人それぞれに大きな制限と条件がかけられていて、なかなかよりよい人生の選択をしていくということは難しいようだ。
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hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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