自分の行動に対する疑いについて


餓えたる行動は、一気に遂行する勇気と、興味に乏しいから、自らその行動の意義を中途で疑う様になる。   『それから』より


僕自身、たしかに何に取り組むにしても、どこか中途半端な気持ち、一歩引いて冷静かつ懐疑的にそれに対してしまう姿勢の持ち主であった。僕の性質は真面目でまっすぐ、完璧主義で負けず嫌い。何かを始めるとなったら徹底的に極めなければ承知しない。何かを始めることは僕にとって大きな覚悟を要するものであった。それでいて僕は、今、現実にやっていることに対して意味を求めないではいられなかった。なんのために?今までの僕は常に形を持った「ある何者か」になるという目的があったから、なんのために?という問題は起こりえなかった。そのためになることがやっていることの意味であり、その活動がそのためになるかどうかが大きな問題であった。それは理屈と理論、気持ちの問題でどうにでもなった。だが、何者になるべきなのか?という問題に立ち至ったとき、すべてが崩れ去った。人生がそれを求めるための思索と実践のフィールドとなったのだ。僕はおそらく深層心理のような、心の深い部分では自分自身がなにになるべきかということを感得している。誰もがおそらくそうであろうと思う。多くの人が日々を生き、自分なりの人生を歩んでいる。これはその証拠である。なにになるべきかということを知っている人はきわめて少ないが、仮に、その心の深い部分を良心といういえば、この良心の影響を少なからず受けながら、そうした人生の選択をしている。人を殺してはいけない、これはもっともわかりやすい例かもしれないが、現に人殺しが存在するのは、この良心に気付く機会が与えられなかった不幸な人間なのである。読書嫌いな人、古典を避け、大衆向けの軽い本を選ぶ人たちも、古典のすばらしさに気付いていないだけなのである。賢明に生きること、ただしく生きることがどれだけ気持ちがいいことなのかを知らないから、そのように生きることができないのである。神はどうにかして、そうした不幸な人たちが正しい道に戻っていけるように、さまざまな試練や課題、障害をこしらえることで僕たちの気を引こうとしてくれる。あらゆる失敗や誤りはそうした、自分の間違った歩みを直すチャンスなのだ。

もし、自分の行動に対して疑いが起こったら、それも一つの教示であり、誤りを含んでいると思った方がいい。単純に、第一の場合として、目的がない場合が多いので、今一度目的をはっきりさせる必要がある。第二に、行動自体が目的となる場合、やりたいからやる、というような場合は、疑いが入り込まぬほど熱心に、心の底からの切望を伴う、情熱的な行動ではないことになるから、より内なる声に従うような行動にシフトさせる必要がある。そして最後に、行動を起こす前に、自分は何をすべきであろうか?という疑問があったら、まさにそれを求めていくことこそが、行動であり、すでに疑いのない行動の中にいるということになる。
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社会の中で生きるとは


わたしたちを取り巻いているすべてのものを観察した後で、わたしたちはさらになにをしなければならないか。わたしたちが取り入れることができるすべてのものをわたしたちの役に立つように変えること、そして、わたしたちの好奇心を利用して快適な生活に役立てることだ。これまでにわたしたちはあらゆる種類の道具を手に入れたが、どれがわたしたちに必要になるのか知らなかった。あるいは、わたしたちの道具は、わたしたち自身には無用のもので、他人の役に立つのかもしれない。そして、たぶん、わたしたちもまた、他人の道具を必要とするのだろう。そこでわたしたちはみな、そういう交換によって得をすることになるだろう。しかし、交換をするためには、わたしたちはお互いの必要を知らなければならない。各人は他人が持っているもので自分の役に立つものを、そしてそのかわりに他人に提供できるものを知らなければならない。十人の人がいて、それぞれの人が十種類の必要を持つとしよう。それぞれの人は自分に必要なものを手に入れるために、十種類の仕事をしなければならない。しかし、天分と才能の違いを考えれば、ある人はその仕事のあるものがそれほどうまくできないだろうし、またある人は他の仕事がうまくできないだろう。それぞれ違ったことに向いているのに、みんなが同じ仕事をしては、十分なものが得られないことになる。この十人の人で一つの社会をつくることにしよう。そして各人が自分のために、そしてほかの九人のために、自分に一番適した種類の仕事をすることにしよう。各人は他の人々の才能から利益を得て、自分一人ですべての才能を持っているのと同じことになる。各人は自分の才能を絶えず磨くことによって、それを完全なものにすることになる。そこで、十人とも完全に必要なものを手に入れることができ、さらに余分なものを他人に与えることができるようになる。これがわたしたちの社会制度のすべての表面的な原則だ。   『エミール』より


僕は大学をドロップアウトして、にもかかわらず就職することなしに、日々を過ごしてきた。そこには怠けや甘えもあったに違いないが、僕なりの考えと思いがあった。やむにやまれぬ事情もあった。人にはそれぞれ天分と才能というものがある。みながみな一様に同じような人生の歩みができるわけではない。僕にとっては大学を卒業して、就職するということが難しかったし、現にできなかった。それだけのことだ。みんなと同じように生きようとして、努力もした。けれどうまくできなかった。人間一人ひとり少なからず違いがあるのは当たり前のことだけれど、ある面では大きな違いがあることだってある。社会の決められたルールが僕には厳しかったりする。ただ、社会の中での責任を果たし、他者の権利を尊重し、自然環境を守るということは、どんな理由があっても実行しなければならない。僕がどれほど弱い人間であれ、やらなくちゃならない。

社会の中で生きていける強い人間ではないし、腐りきった世の中で生きていける自信がなかったから、自分とわずかな人たちの中で生きていく方法はないか、ということをずっと考えてきた。いっそのこと世捨て人になるような生き方、そんなものを求めたりもした。だが、この長い人間の歴史の中で獲得してきた多くの道具、絆というものをやすやすと見捨てる気にはなれなかったし、それらを用いて実現できる快適な生活こそ求めるべき生活なのだと思った。原始生活―原住民がこの文明社会の中で細々と生きている現実がある―、それは大変魅力にあふれて見える。文明を完全に断ち切る、その覚悟はそう簡単にできるものではない。僕はすでに多くの甘い生活を知ってしまった。極端になる必要はない。文明を完全に断ち切る必要もなければ、腐りきった世の中の真っただ中で、まさに浮世で生きる必要もまたないのではないか。僕の世界は、僕が存在しうるかぎりにおいて存在する。世界各地で戦争が起きている、それは事実だ。けれど、僕が住む世界においては、とりあえずそうではない。それを一緒くたにしてはいけない。僕が住む世界、僕が感知し、想像しうる世界の中でいかに、理想を追求するか。まずやるべきことはここにあるのだ。世の中を憂いても現実は今ここにある。

とはいえ、現実は厳しかった!みなが早々に手を引いた悠々自適な生活にいつまでも手放さなかった僕にはそれ相応の罰が与えられなければならなかった。社会罰だ。集団の秩序を乱す行動は常にその集団からペナルティを受ける。僕に許される仕事はもはや、雑用や誰でもできる簡単で信頼や信用とは無縁の仕事ばかりである。スキルもなければ資格もない。学歴も職歴もないのだから当然なのだが、実際に直面してみるとなかなか身に染みる。そうした社会人のために身に着ける競争社会の鎧のようなものを僕は厭い、なるべく自分の心と体を鍛えて挑まんとした。周りのみんなはそうした身を飾るものにばかり気を取られ、心を失い、見栄えと肩書だけは立派になった。同時に話す内容や人格はさもしいものになっていったように感じる。鎧もなく武器ももたずに生存社会の中へ入っていけば当然、男女差別をするわけでも軽蔑する気持ちもないが女性が似合う仕事であったり、脳まで筋肉の力持ちや生活に喜びを感じる感性を持たないなんでもない仕事しか選べない。受付などはやはり美しい女性がやるべきだし、工夫はやはり男性がやるべきなのだが、体を悪くするような仕事を選ぶ、いや選ばなければならないとはどうしたことだろう。原発作業員が最も厳しい労働環境だと思うが、なぜそうした仕事を選ばざるを得ないのだろうか。誰かがやらなければならない仕事がある―はたしてそうだろうか?それは幻想でそれこそが恥ずべき概念なのではないだろうか。こうした現実が見えたことは本当に良かったと思うが、僕はその当事者になっている!自分らしく生きようとすることがこれほどの代償を払わなければならないことだったとは驚きだ。道路なんかつくってたまるか、使うやつが悪いんだ。原発作業員なんてやるもんか、電気を使うやつらが悪いんだ。とは言い切れないのも現実の事実なのだ。今日もまた僕は、だれかの心身の健康を損ねている。環境と自然を破壊している、それだけは事実である。
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しなやかな肉体とおだやかで活気ある生活にこそ豊かな思想が宿る 「訂正」

われわれの習俗は聖徒とのまじわりによって損なわれてきた。讃美歌集は、神への美しい呪いの歌と、神への永遠の忍耐に満ちている。予言者たちや贖罪者たちでさえ、人間の希望を強めてくれたというよりは、むしろ不安を慰めてくれたと言ったほうがよい。生命という贈り物への単純で抑えがたい満足感や、記憶に残るような神への讃歌は、まだどこにも記録されていない。あらゆる健康と成功は、どれほど遠く離れているようにみえても、私によい感化を与えてくれる。一方、あらゆる病気と失敗は、たとえどれほど深い同情が私と相手とのあいだで交わされようと、私に悲しみとわるい感化を与えるばかりだ。したがって、もしわれわれが真にインディアン的、植物的、磁力的、あるいは自然的な手段で人類を立派に蘇生させようと思うなら、まずわれわれ自身が「自然」そのもののように単純かつ健康になり、ひたいに垂れこめる暗雲を払いのけ、少しは毛穴から生命を呼吸するようにしようではないか。いつまでも民生委員のままではいないで、世界の価値ある人間のひとりとなるようにつとめようではないか。   『森の生活』より


今、人々の間で問題にされる神は、悲惨な時代にあってこその神である。そこには慰めと現実逃避があった。私たちは自己肯定を常にしなければ生きていけない。周りの環境や時代に対して肯定的な考えを持つ。そして宗教は現実の細かい問題について説くのではなく、理想郷や実践的ではないビジョンや教えをさずける。現実に立ち向かう力をそぎ、我慢や諦めをすすめる。徳を積む、天の国に富を築く、そうした動機は自己本位で美しくない。問題をすり替えている。善行に意味や理由ををもたせることがあやまっている。身体を健康に保つこと、日々に充実感と楽しみを、そして幸福を得ようとすることに、意味も理由もない。だが、私たちは真の健康と充実感と楽しみを知らない。多くの人間が自分の健康を損ない、充実感や楽しみを空虚感と退屈に刺激を加えることで誤認識し、幸福を相対的に他者の不幸によって得ようとしている。僕も最近になって、ようやく求めるべき真の健康がわかってきた。非常に愚かであった。思想を鍛えることと体調を整えることが対立するような間違った生活を送っていた。神経衰弱に陥ってしまった夏目漱石、自殺や家庭の不幸を招いた多くの文豪は花となることではなく、葉となって散り、後世の養分になることを欲したのか。いや、社会や周囲の人間どもがその花を窒息させてしまったに違いない。仕事に活力と生活に生命力を発揮することは、思いのほか難しい。天候に見られるように生成のリズムがある。「健全な肉体に、健全な思想が宿る」といわれるが、どうも健全な肉体というと、ヒトラーや三島由紀夫のような隆々たる筋肉が彷彿される。「しなやかな肉体とおだやかで活気ある生活にこそ豊かな思想が宿る」といいたい。この達成のための衣食住、仕事や仲間を獲得していく必要がある。

<追記:訂正>
社会を鋭く眺め、自分自身に対して驚くほど冷静で確かな頭脳と感情をもった、ブログ『アスペッ子愚考記』を書いていらっしゃるkenさんから記事の内容についてご指摘をいただいたので書き加え、訂正します。

「しなやかな肉体とおだやかで活気ある生活にこそ豊かな思想が宿る」。そのために衣食住、仕事や仲間を"獲得"しなければならないと僕は書いたが、精神がこの域に達していれば自ずと周囲の仲間にしろ、仕事にしろ、「類は友を呼ぶ」といわれるように、ふさわしいものになっていくだろうと思う。

意見をいただいて、考えが少し変わり、進んだことはとても収穫であった。
ブログを書くことはすばらしい。
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「ゆずる」、「ゆるす」、「あいする」

僕は自分が「人にゆずる」ということができることを誇りとしているし、美徳だと思っている。

僕は後回しでいいし、休憩やものの争奪など、あらゆる利害が生じる選択において他者にゆずる。「どちらか先にあがっていいよ」と言われれば、僕が「最後までやるからいいよ」とゆずる。「どちらでもいいから、好きな方選んでいいよ」とゆずる。仕事でいえば、雑用か平凡な仕事かで雑用を進んで選ぶ。そしたらほかの人が楽になるから。僕は人一倍、汚れや不合理に厳しいから結局やってしまうことになるからという理由も含んでいる。

だからといって、やってやったぞというような優越感やいい人らしさは出したくないから、なんとなく気づまりを感じる。むしろ彼らが気まずさを感じるべきだと思うが、得してラッキーくらいにしか感じないから話にならない。どういう顔をしていいのかわからず、僕は気づまりがする。恥ずかしがるか、ねぎらうかしてくれれば、僕もあっさりしていられるのだが、他者の働きについてみんな無頓着すぎる。今の立場や環境があるのは、いつなんどきでも自分以外の誰かが動いているからであり、それを意識して感じなければ人として情けない。

「人にゆずる」、これは僕にもできているようである。続いて、「人をゆるす」という高い徳を持たなければならない。これは世の中で最も難しい徳であるし、もし世界中の人がこの徳を持つことができたとしたら、世界には平和がもたらされる。最後に、「人を愛する」これは究極であり、徳を超え、最大のなにかである。これによってのみ世界は幸福になれる。これらがきれいごとであることは薄々感じている。大切な人を奪われて、相手を愛すことなどできない。その通りだ。しかし、これこそが争い、戦争の発端なのだ。歴史、先代、そうしたものに対して怒りと反抗心を起こして、相手に対峙していくのであれば、歴史は繰り返す。考えてみれば、僕の祖父を奪ったのは、ある意味医者であるということができると思うが、だからといって、僕たちは通常医者を恨みはしない。同じことだ。他国を恨むということは、変な誤解と偏見からくるにすぎない。当時の政治や情勢によるところがあって、つまり病気の具合も左右しているのであって、相手だけにその原因を求めることは道理に合わない。ちょっと見方と考え方を変えて、ゆるすという徳を身につけなければならない。
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走ること


走ると苦しいことが忘れられる。

走ると弱くて情けない自分に打ち勝てそうな気持ちになる。

走ることは僕を強くする。負けそうなとき、僕は走る。夢中になって、自分自身を超えていく。

辛くて、孤独で、誰もわかってくれないと思うときがある。そんな気分も走れば晴れる。

今日も僕は走った。あの頃の生き生きした自分を取り戻すため、今の自分に打ち勝つため、なにより自由を肌で感じるために。
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労働に対する幻想と教育

文化は富の土台の上にのみ栄え、富は資本の蓄積によってのみ増大し、資本は正当な報酬をうけない者の労働の蓄積からのみ生ずる、ゆえに、文化は不正から生ずる。


すべての人が正当に働くようになれば、いわゆる社会問題なるものは直ちに解決される、しかし、その他の方法では決して解決されないだろう、ということである。だが、このことは、ただ強制したからとて達成されるものではない。また、たとえ万人が相互に強制し合うことのできる物的手段があったとしても、そこから真に役立つ働きは生まれない。だから肝心なのは、人の心に働きのよろこびを呼びさますことであって、こうしてわれわれは、ふたたび、正しい「教育」の領土にもどってゆくことになる。   『幸福論』ヒルティ著より


「誰もかれもが理屈の上では称讃される勤労から、実際にはできるだけ逃れようとする」のは周囲を見たところ正しく思われる。「労働」はやはり辛いものだし、単調で極端に言えば、毎回同じことをしなければならない。どれだけ好きなことを仕事としていたとしても、客の要望に合わせて、毎度同じ仕事をこなすというのは退屈であるに違いない。そして多くの人はこの好きな仕事にすら就けず、ほとんど誰でもできるような仕事に従事しなければならない。自分の代わりはいくらでもいるという感覚をもって仕事に取り組むのはつまらないものだ。そして労働基準法という少し前の時代に定められた法律に則って、定時を迎えるのを待ち望むというのではあまりに味気ない。残業代を得るために、のんびりと自分の与えられた仕事を進めるというのもなんだかむなしい。

こうしたことが「当たり前」で報酬としての賃金がとてもありがたいということになれば、つまり、労働の評価が正しく報酬として表れれば、労働者はそうした冷遇にも耐えられるのかもしれない。しかし、時代は変わり、私たちはがめつく、貪欲になってしまった。賃金に不満を抱くようになってしまった。その結果、労働はますます質の悪いものになった。

学校という教育機関を経て、私たちは社会人、労働者として生きるために教育されてきた。経済や社会、伝統や文化を学びながら、人としての人格形成、他社とのコミュニケーション、組織や集団の中での行動とふるまい、そうしたものは身につけることができた。けれども、最も重要で大切な労働についての考え方と、労働の在り方、そもそも労働とはなんであるか、経済の仕組み、資本主義のなんたるか、もし、私たちが誰でも、そうしたすべての人から厭われる労働に宿命として就かなければならないのなら、立派な労働信仰のための洗脳を教育機関の中で行ってほしかった。自由や休息の幻想や、成功や富という幻夢を近づけないようにしてもらえたなら、僕自身も労働に対して疑うことなく、むしろ希望とやる気をもって取り組んで行けたと思う。しかし、疑う気持ちと理想やありえぬ幻想が眼前にちらつくからこうした釈然としない気持ちで今、労働の前でぼんやりと、過ぎし青春と子供時代を懐かしんでいるのだ。僕が僕自身を所有する期間は終わった。僕は社会の一人として、大きな社会という巨岩を支える一つの石塊とならなければならない。もうそろそろその覚悟ができそうだ。それに、少なからず喜びと希望をそこに見出せそうである。
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「どう生きるか」の前に「どう楽しむか」


「どうして私たちは生きているのだろうか?」

この問題は古くから、賢人の頭を悩まし、哲学を生み、文学を育て、芸術に花をもたらしてきた。

誰かは「人生は暇つぶしだ」と言い、かの哲人は「単に生きるのではなく、善く生きること」を説いた。

人生に意味がないとしても、人生に意味があるとしても、人生は時間によって定義され、その時間の中にはどうしたって「暇な時間」が存在する。僕はその「暇な時間」に対して強い嫌悪と烈しいストレスを感じていた。

なぜなら「暇な時間」の中にいることは、怠惰であり、浪費であると考えたからであった。「暇な時間」をどうにかしなければいけない、そして「暇な時間」をどう使うべきか、そうした「暇な時間」に満たされた日常をどのように生きるべきなのかという問題が自然に浮かんできた。「暇な時間」をどう使うかはそのまま、「人生はどう生きるべきか」という問題に直結するのであった。この人生の問題に対して、おおよその解答はおろか、見解ですら案出することができなかった僕は当然、日々の暇な時間を持て余した。そして気持ちは追い込まれ、気分が塞ぐことも多くなった。時間だけが無情に過ぎていき、無為徒食の中で日々を過ごすという感覚であった。生きようとして、生きていないという難しい状態だった。

ずっとそうした困難よりも、「どう生きるべきか」という命題を最上のものとして扱おうとしていた僕は、生活の質を結果的に落とすことになっていった。それでも執拗にその命題にすがり、読書の力を借りながら、理論をこねくり回してなんとか進歩しようとした。それでいて何の進展も呈さなかった。生活に限界が来した今になって、ようやく生活自体に重きをおいて、「どう生きるべきか」ということはその生活の質の向上の先に置いてみることにした。その瞬間、「暇な時間」に対する考え方が変わった。

「暇な時間」は「暇な時間」として扱ってもよい。そうした時間に対して、罪悪感や焦慮を起こすことはない。時間は有限でありながら、無限に分割することができるのでどうしたって「暇な時間」は生まれてくる。つまり、「暇な時間」の中にいくつか生産的な活動であったり、社会的、交友的活動があればそれでいい。あえて、徹底して「暇な時間」を重宝し、なんとか有効に使おうと躍起にならなくてもよいのである。

「どう生きるか」の前に「どう楽しむか」に向い、それを実現できなければ、喜びという幸福の中に人生を全うすることはできないはずである。日々を楽しみ、喜びのあふれるものにしていくこと。意味や義務以前に、生活を愛おしみ、生活の中から引き出せる多くの素晴らしいものを引き出すこと。そうしたライフスタイルに関心をシフトすることで、僕は急に肩の荷が下りた気がして、前向きになれたのである。
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日本国よ、もう大きくならなくともよい


代助は人類の一人として、互を腹の中で侮辱する事なしには、互に接触を敢てし得ぬ、現代の社会を、二十世紀の堕落と呼んでいた。そうして、これを、近来急に膨張した生活慾の高圧力が道義慾の崩壊を促がしたものと解釈していた。又これをこれ等新旧両慾の衝突と見做していた。最後に、この生活慾の目醒しい発展を、欧洲から押し寄せた海嘯と心得ていた。

この二つの因数は、何処かで平衡を得なければならない。けれども、貧弱な日本が、欧洲の最強国と、財力に於て肩を較べる日の来るまでは、この平衡は日本に於て得られないものと代助は信じていた。そうして、かかる日は、到底日本の上を照らさないものと諦めていた。だからこの窮地に陥った日本紳士の多数は、日毎に法律に触れない程度に於て、もしくはただ頭の中に於て、罪悪を犯さなければならない。そうして相手が今如何なる罪悪を犯しつつあるかを、互に黙知しつつ、談笑しなければならない。代助は人類の一人として、かかる侮辱を加うるにも、又加えらるるにも堪えなかった。   『それから』より


生活が多様化し、価値観が相対的になってきているとはいえ、僕たちにはまだ貧富、強弱、美醜など優劣の存在する世界に生きており、だからこそ僕たちは自分を本能的に守ろうとして、相手を侮辱したり、軽蔑したりしている。僕たちが生活していくということ、それは同時に誰かの世話にならなければならないという意味になる。そしてその誰かの世話になっていることをそのまた関係のない誰かや直接その相手が侮辱するのである。あるいは世話になるのではなく、逆に世話をかける、もっと悪い言い方をすれば罪を犯さなければならないのである。それが多くの人たちの中で、社会の中で生きていくということなのだ。僕たちが、僕自身をあるいは家族を他者とは特別に守ろうとすれば、役に立たないか彼らを養い、生活させなければならないとしたら、一人分の労力や働きなりを複数人分としなければならないのだが、物理的にそうしたことはできないから、どうしてもごまかさなければならない。人間の一人として数えられるくらいになったら、僕たちは自分自身を養っていかなければならない。今のような扶養や教育のために生きるための働きをなにもしなくてもよいというのはおかしなことである。子どもを守らなければいけない?その通りだ。しかし、あなたがたは思い違いをしている。子どもたちに重労働をさせ、粗悪な環境で働かせることをいうのではない。子どもは子どもらしく社会の一人として働きを任じればいいということなのだ。かつてはどこの家庭でも子どもがお手伝いといって、優れた子ならばお手伝いの域を大きく超えた働きをしていたに違いない。そうした働きが子どもの楽しさと成長を妨げるというのならば、その働かせ方がおかしいのだ。誰にでも程よい労働というのは身体に効果的なはたらきをする。

こうした誤った労働を強いらざるを得ないのは、そもそも日本のような小さな島国が、資源も居住面積も少ないのにもかかわらず、力と文明を発達させようと必死になって、それらが豊富な国々に負けずにやっていこうとするのだから当たり前に国民は苦しくなる。どうして僕たちは日本は優れている国で、一等国でなければならないというふうに教えられ、そのように思い込んでいるのであろうか。みじめで不憫な国である。石油もない、台風や地震が多くて食べ物を育てるのも難しい。にもかかわらず人口はとてつもなく多い。そりゃ一人ひとりが苦しくなるはずだ。少子化が進んで、国力が落ちてしまう?当然のことではないか。人口は多くなり過ぎ、自分たちで抱え込める以上に発展してしまったのだから、自ら進んで縮小する気にならなければ、どこかで限界が来て、少子化にしろ、電力供給にしろ、年金にしろ、致命的な事象が生じるのは見えている。

日本国よ、もう大きくならなくともよい。僕たちは小さな極東の島国なのだ。条件が違うのだから劣っているということにはならないであろうし、僕たちは僕たちらしく、身の丈に合った国際的な活動をしよう。お互いを大事にしながら、豊かな国になろうではないか。
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僕たちは僕たち自身をしか、ただしい道へ導くことができない


社会改革者をいたく悲しませているのは、困っている同胞への同情ではなく、たとえ彼が神聖このうえない神の子であるにしろ、本人の個人的な悩みなのだ。この悩みがとり除かれ、彼にも春が訪れ、朝日がそのベッドの上にさし昇れば、彼はひとことの弁解もせずに善良な改革者仲間を見捨てるだろう。

おぼれる者を救ったなら、自分の靴の紐を結ぼう。それからゆっくりと、なにか自由な仕事にとりかかるのだ。   『森の生活』より


人間はどこまでいったってわがままで自分勝手だ。僕のあらゆるアクションの動機はやはり自分自身にふりかかった出来事によって形成される。もっともらしい理由や体面をつくろって、自らの要望と欲望を果たそうという衝動に過ぎない。きれいごとはやめて自分がしたいことを率直に明らかにしたらどうか。人は愚かだから容易に騙され、政治家の美辞麗句、異性の甘言に心を動かされ、文字通り身を任せてしまうのだ。彼らも所詮は自らの要望と欲求を果たしたいにすぎないのだから、そのつもりでいることだ。それに憤懣や不満を抱くことの方が世間知らずで、お門違いだ。だったら自分でやってみろ、できないだろうと言われるだろうし、誰が自ら進んで無駄骨折りをするものかと叱責されるのがおちだ。自分だって、要望や欲望が満たされないからそのように思うだけで、まったく自分勝手、世界が自分の中心だと考える狂気と何ら変わりない。

他者の苦しみや不幸に遭遇したら、手を差し伸べて、お礼を期待することなくむしろ自分の足りなかったところの反省と一時的で偽善的な善行を謝りつつ立ち去ることだ。そして己がそうした苦しみや不幸に陥らないように、今一度自分を律するのだ。所詮僕らには人を完全に救うことなどできないし、そうしようとすることがおこがましく、身の程知らずの所業といえる。僕たちは僕たち自身をしか、正しい道へ導くことができない。このことですら非常に、非常に難しい。不幸や不運に見舞われた人たちからまず教訓と慰めをいただかなくてはならない。僕たちは無力である、だからといって、ただ手を差し伸べるだけでも僕は無意味だとは思わない。
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孤独な放浪者は無価値な労働者へ


翌年には私は高等中学を出て、大学にはいるはずだったが、どこにはいってなにをやるかはまだわからなかった。くちびるの上には小さいひげがはえた。わたしはすっかりおとなになっていたが、まったくなすところを知らず、目的が立たなかった。ただ一つのもの、すなわち心の中の声、幻像、それだけはしっかりきまっていた。私はこの導きに盲目的に従うべき使命を感じた。しかしそれは困難だった。毎日私は反抗した。おそらく自分は狂っているのか、ほかの人たちとは違うのか、と私はたびたび考えた。しかし、ほかの人たちのすることは、私にもなんでもできた。わずかの勉強と努力でプラトンを読むことも、三角の問題を解くことも、化学の分析にくっついていくこともできた。ただ一つのことだけができなかった。それは私のうちに暗く隠れている目標を摘出して、どこか自分の前に描き出すことだった。ほかのものたちは、自分は教授、あるいは判事、医者あるいは芸術家になるのだということを、またそれにはどのくらいかかるか、どんな得があるかということを、はっきり知っていたが、それは私にはできなかった。おそらく私もいつかそういうものになるだろうが、どうしてそれを知ることができるだろう。私は何年も試み続けねばならず、結局なんにもなれず、なんの目標にも達しなかったかもしれない。一つの目標に達したとしても、それは悪い危険な恐ろしい目標であったかもしれない。   『デミアン』より


現在の僕の苦しく、希望の薄れてしまった生活も、考えてみれば予期されていた、当然なるべくしてなった状況なのだ。見て見ぬようにしながら踏み出した一歩、その先はこの道に続いていた。常に目的ではなく、能力が僕の進路を方向づけた。ただただ見栄のために偏差値の高い高校に進学した。学校で習う勉強は僕に合っていて、苦も無く進学校へ、教師の勧めるままと成績が許したのでゆくことができた。この瞬間に僕が大学に入ることは決定していたようなものだった。教育は大学進学の準備として着々と進んでいった。僕はその画一的な教育に反抗したくて、授業はただただ寝てやることにした。先生は「これこそがスチューデントアパシーだ」と教室のみんなに冗談を飛ばした。なるほど、青年期特有の心理状態に僕も陥っているのかしらんと一人考えた。何を成し遂げることもなく、大きな成長と言えば自分と何度も対話を繰り返したことによる自己同一性のわずかな確立を得たことくらいだったかもしれないが、とにかく三年が過ぎて、周りのみんなは弁護士や教育者になろうという目標をもって受験勉強に励み、成績をどんどんあげていった。僕は侮辱されるのが気に食わないから成績を落とさないようにだましだまし試験をこなした。受験まで僕はごまかすことしか考えなかった。それで、試験の途中にたまらず会場から立ち去った。大学に行く意味もわからなかったし、だからといってこのまま職について仕事をするということはもっと僕には不安で不可解だった。一年僕は絶望と無為の中ですごし、現実から逃げるように大学に進学してしまった。それは単に四年間をごまかし、時間を稼いだ姑息な手段に過ぎなかった。大学は中途半端であった。形式としては職業訓練のためで、やっていることは学問の為の学問であった。社会貢献、学問の役割ということにはまったく触れず、淡々と講義が進み、単位を与えられた。単位を金で買っているんだと僕は思わないではいられなかった。金で買うべきものは体験であると僕の心の中の声は言った。大学をやめ、旅をし、読書をした。今までにない世界と生活が僕の眼前に開けた感動を今でも鮮明に覚えている。人生で初めてこの世界で生きているとの実感だった。ところが、本当の意味で生きるということ、自立して社会の中で労働と他者との交流に乗り出さなければならないことを知った。幻像の中で生きることは一層現実の中で生きることを難しくする。大人は仕事がないぞと戒めた。資格を取れ、働けるだけ御の字なのだから仕事を選ぶなと忠告した。大卒以上という条件を軽蔑するほど僕の心が卑屈になった。やりがいのありそうな仕事、お給料のいい仕事はそうした条件を提示していた。僕はだまってその募集要項を閉じた。僕は社会人としては限りなく無価値な労働者に違いなかった。一労働者だ。言葉を話す頼りない機械だ。せめて、文章を書き、出版という紙媒体を扱う仕事につけたらなあと考えたりもする。小さな出版社が募集をかけていたから、挑戦してみようかなという気になったが、面接までモチベーションと運が向くかはわからない。
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隣人愛とはなにか


私は博愛行為に対して与えられるべき讃辞を惜しんでいるわけではなく、その生涯と業績によって人類に恩恵を与えているすべてのひとびとを公正に扱うよう求めているだけである。人間の廉直さや善意ばかりを尊重するわけにはいかない。それらはいわば人間の茎であり葉であるにすぎない。(省略)私が求めるのは人間の花と果実だ。その人物から私のほうへと、えもいわれぬ香気がただよい、精神の成熟がふたりのまじわりに風味を添えることを望むのだ。彼の善良さは、部分的で一時的な行為としてあらわれるものではなく、労せずして無意識のうちに滾々とあふれ出る泉のようなものでなくてはならない。それこそ無数の罪をおおう慈愛というものだ。博愛主義者はあまりにしばしば、自分の脱ぎ捨てた悲しみの記憶で人類を大気のようにすっぽりと包み、それを同情と呼んでいる。われわれは絶望ではなく勇気を、病気ではなく健康とやすらぎを分かちあい、病気が感染によってひろまらないように用心すべきである。南部のどの平原から嘆きの声が聞こえてくるというのか?どんな緯度のもとに、われわれが光を送りたがっている異教徒が住んでいるというのか?われわれが救いたがっている、かの不節制で狂暴な男とはいったいだれのことなのか?   『森の生活』より


自分が他者よりも優れている能力を持っているという自覚を得たとき―それは虚栄心の始まりなのだが―、人は大きなことを、偉業とでもいうべきものをしたがる。実際的な能力であればある分野のプロフェッショナルになるということであろうし、いわゆる人間的外面、あるいは内面が優れているというのであれば、ある組織の中でのリーダー、もしくは凡人によって支援されるある分野の著名人となることがその目するところになるだろうと思う。

たとえば思慮深い学生や自己愛に満ちた大人が、キリスト教をかじって、逆に世界平和のためにキリスト教を学んで、自らが信仰する宗教の宣教を企てたり、そうした教えに影響されて、人類の幸福を考えなければならない!と想像をたくましくして、その反動で現在の世界情勢に失望を抱いたりすることが多い傾向があると思うのだが、僕自身かつて、学生諸君、キリスト教をもっと知らなければならない!とそうした半ば軽蔑した目で周りの学生や大人たちを見たこともあったが、自分自身がそうした偉大な思想を単にかぶっているにすぎず、むしろ優越感を得るためにそうした自負心を満足させて、実際に何の行動もしていないにもかかわらず、「知は力なり」という誤った解釈に安心して、さも優れた思想家ぶっていた。次第に僕は気付いていった。自分の周りで現実に起こっている悲劇に対して愛をもって接することができないことのごまかしとして、そうした見えない対象に対して愛を持とうとしていたのだと。救うべきはアフリカの貧困と飢餓に苦しむ子どもたちだろうか?なぜ人はそうした自分とは遠い人に対して慈悲をかけようとは呼びかけ、努力するのに、同じ町に住む、恵まれない人に対しては慈悲のことばすら発しないのだろうか。皆が皆偽善者であることは、もうみんながわかりきっている。宣教する資格もないのに宣教をしようとするエセ宗教家には腹が立つ。人のことはいいからまず自己の人格の形成に没頭し、勤しめ。世界や戦争を嘆く前に、身近な悲劇に目を向けよ。「隣人愛」の真の意味を知ったとき、これは真理だと思った。

僕と接した相手がどのように思うかということはどうがんばったって僕は知ることができない。不快に思うだろうか?それともやすらぎを感じるだろうか?もしも相手の気持ちがわかったとしたら、僕はなんとかより心地よくなれるように努力しようと思うのだが、そうはいかない。僕は善い人間になりたいと思うし、友人を多くもち、彼らと善い関係でありたいと思う。しかし残念ながらそのための説明書はない。現状の友人関係をはじめとした親しい人間関係のすべてに満足しているわけではないので考えていかなければならない。
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文明は我らをして孤立せしむるものだ

平岡はとうとう自分と離れてしまった。逢うたんびに、遠くにいて応対する様な気がする。実を云うと、平岡ばかりではない。誰に逢ってもそんな気がする。現代の社会は孤立した人間の集合体に過ぎなかった。大地は自然に続いているけれども、その上に家を建てたら、忽ち切れ切れになってしまった。家の中にいる人間もまた切れ切れになってしまった。文明は我等をして孤立せしむるものだと、代助は解釈した。   『それから』より


かつて共に学んだ旧友はとうとう自分と離れてしまった。久しぶりに会ったのだけれど、お互いに背を向けあって話しているように刺激し合うところも響き合うところもなかった。彼は人生を仕事と金だと解釈してしまった。生きるために金が必要で、金を得るために仕事をするというシンプルな二つの概念のみで日々を構成していた。その仕事は努力を要しない程度に能力を活かせる仕事であり、彼はもともと潜在能力が高かった。要するに、その能力に甘んじて人がうらやむような仕事についているわけだ。人間相手の仕事なのだが、彼らはお客であるのだが、彼の眼には面倒をかけるモノくらいにしか映らず、その扱い方は聞いていて、うんざりした。彼はすっかり変わってしまっていた。心を失わなければ社会でやっていけないのかしらん。僕は漠然たる不安を覚えた。実際、彼ばかりでない。家族に対しても組織を成す上で最も重要だと思われる絆が失われてしまっている気がする。現代の社会は孤立した人間の集合体であることは感じていたが、まさか家族という最小単位の社会まで崩壊してしまうとは考えていなかった。部屋はドアによって完全に仕切られ、一人ひとりのテリトリーが形成され、それと同時にお互いに侵しがたい、いやむしろ相手を許容しないバリアのようなものをつくってしまう結果となった。一つ屋根の下に家族が暮らしているのだけれど、その中で暮らす一人ひとりは切れ切れになって心通わず。ただ表面的なあいさつや自分の権利を主張をするときにコミュニケーションを図るだけで、用のないときは部屋にこもってそれぞれが好き勝手な時間を過ごしている。いい家族になろうとか、住み良い家庭、住居をつくっていこうという気はさらさらない。お互いのこころがどんどん離れていくばかりだ。文明は我らをして孤立せしむるものだ。そして個人個人にしてしまったあとは、個人の心と肉体をバラバラにして病んだり、不健全な人間を多く生み出すことになるのかしらん。ただただ将来が不安である。
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状況の中で能動的になるのでなく、状況の変化のために能動的に働きかける


「自己の理想への道を見いだしえない者は、理想をもたない人間よりも更に軽薄に、破廉恥に生きる」   『善悪の彼岸』より


これはまさに僕のこと。

理想への道を見いだそうとしてどれだけ今でさえ、無為に過ごしていることだろう。この時間と集中力と執着心を他ごとに向けたらどれだけ生産的で世の中、あるいは自分自身に有益な活動ができるだろう。堅固な思想がないから言葉には思慮も深みもない。周りからは怠け者で、意気地なしに見えることだろう。僕は何をしたらいいのかわからない。誰かに対して行われる悪や不正を正すことが、誰かの不幸を和らげることがすべきことだろうか。はたして悪にしても、不幸にしてもそれの入る余地があるから知らず知らずのうちにそれらに直面することになるのではなかろうか。悪を欲し、不正を行い、不幸を求めてはいやしないか?

みんなはビクビクしながらなんとか余暇を楽しむ余裕を持たず、あくせくと暮らしている。そんな中、目に見えぬ理想のために無為と思索の日々を送り、希望と幸福に満たされながら暮らしているように生きるのはなんとも破廉恥だ。

僕にもう少し、生きる気力と一日に対する十分な活力があったのならば、もっと毎日は充実するはずなのに、早くも肉体と思想の衰弱を感じている。理想は幻想で、ただ生きるために生きることが生きる意味なのかもしれない。もしかすると、思考力よりも肉体的精力が強くなれば、あらゆる悩みも苦しみもやわらぐのかもしれない。思うがままに、都合よく、置かれている状況の中で能動的になり、置かれる状況に対しては受動的になる。しかし僕がやっているのは、置かれる状況に対して能動的になり、抵抗しようとしている。状況を変えようと奮闘しているのである。そして変えられぬ今の状況にいやいや受動的態度をとっているのだ。満足のいかない状況に能動的になることは難しいから…。
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結婚について ある青年が考えること


生涯一人でいるか、或は妾を置いて暮すか、或は芸者と関係をつけるか、代助自身にも明瞭な計画はまるでなかった。只、今の彼は結婚というものに対して、他の独身者の様に、あまり興味を持てなかった事は慥である。これは、彼の性情が、一図に物に向って集注し得ないのと、彼の頭が普通以上に鋭どくって、しかもその鋭さが、日本現代の社会状況のために、幻像打破の方面に向って、今日まで多く費やされたのと、それから最後には、比較的金銭に不自由がないので、ある種類の女を大分多く知っているのとの三カ条に、帰着するのである。が大助は其処まで解剖して考える必要は認めていなかった。ただ結婚に興味がないと云う、自己に明らかな事実を握って、それに応じて未来を自然に延ばして行く気でいた。だから、結婚を必要事件と、初手から断定して、何時かこれを成立させようと喘る努力を、不自然であり、不合理であり、かつあまりに俗臭を帯びたものと解釈した。   『それから』より


少子化が長らく社会問題となっているが、晩婚化がそれに拍車をかけている。未婚率が増加しているみたいだが、結婚したくない人が多くなっているわけではないようだ。婚活という言葉が生まれ、結婚をしたいという若者は増えているといってもいいかもしれない。これからの社会には誰もが不安を抱いているだろうし、そうした中で生きていくにはやはり誰かと協力し合う必要を感じるのが人間なのであろう。結婚が家族ということよりも、不安定な未来を生きていくための方法としての形になりつつあるようだ。

僕の周りでも婚活に踏み切るまでは切羽詰まっていないにしても、出会いがないとか男女関係がうまくいかないということを嘆く友人がいくらかいる。僕はこうした問題は単に当人のコミュニケーションの不味さによって引き起こされていると思う。僕はこのコミュニケーションというものに真摯にとりくんできたので一般以上の能力を有していると自負しているわけだが、事実、大体の人間とはうまくやっていけるし、なおさら異性に対してはかなりうまくやっていけていると自覚する。

男女関係なんて端から利害関係に基づいているのだから、利己心をある程度まで捨て去ればむしろうまく取り入ることができるに違いない。下心なく、必要以上に意識することなく、心配りをもって接すれば同じ人間、なにもうまくいかない要素はない。異性は違う生き物だとして認識し、研究しながら、注意深く調査の目をもってふるまうことだ。相手を理解しようと努力し、少しでも理解すること、それが最もコミュニケーションで必要なことだ。

金銭に不自由がないから、女を大分多くを知っているのではなく、学生時代の場合、勉強と運動、そして容姿が平均以上であれば、あるいはこれらの勉強を除いた要素が秀でていれば大体のところそれなりに女性を知ることになるのではなかろうか。社会に出れば仕事であったり、金銭にこれらが変化するわけだが、おおよそ男性に必要な外面的条件はこうしたものだ。僕は金銭については全く駄目だが、コミュニケーション能力によってそのあたりをカバーし、己を知り、自分の置かれた状況で最善を尽くすというような、背伸びや無茶をしないことで、恋愛においてやってきたつもりである。恋愛をそれなりに重ねると結婚への決断が鈍くなる。一長一短、他者との生活を考えると、理想はどこまでも増幅し、妥協することがある程度まで結婚することと同等となるのかもしれないが、さてどうした結婚がよいのかということになると、一度もしたことがないからわからない。意志とは異なる違った動機でもって結婚を決意しなければこのままずっと結婚できないということになりそうだ。

僕自身を言えば、それに女性よりも人生をどう生きるかということに注意と時間、力を費やしてきたし、これからもそうするつもりだが、結婚が選択という概念になっていることにまず違和感を覚えないではいられない。どこまでも他人でいい。自分の事は自分でする。寂しさを紛らわしたり、より自分の生活を快適にするために伴侶を得る。それは契約ではなく、役割分担でもない。周りの環境に左右されることでもなければ、外野からうんぬんすべき事柄でもない。結婚がなにか人生のやるべき大きな仕事の一つで、それを形の上でだけでも達成すれば、まずひと段落というような安直な人生の考え方はいかがなものであろうか。
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やましい幸せを味わおうとのむなしい努力 幼き日々


私は、独得に自己の内にかいこのように閉じこもった生活を夢遊病者のように営んでいたが、いまその中に新しい形成が生じ始めた。生へのあこがれが私の中によみがえった。むしろ愛へのあこがれと、しばらくのあいだベアトリーチェ礼拝の中に溶かし去ることのできた性の衝動とが、新たな形と目標とを要求した。相変わらず実現にはいたらなかった。あこがれをまぎらすこと、―私の友だちたちは少女に幸福を求めたが―少女たちからなにかを期待することは、私にはいつよりも不可能だった。私はまたひどく夢を見た。しかも夜よりも昼しきりに夢を見た。さまざまの観念、形やあるいは願望が心にわいて来、私を外面的な世界から遠ざけたので、私は現実の環境とよりは、心の中のこれらの形や夢、あるいは幻と、より現実的により活発に交わり、かつ共に生きた。   『デミアン』より


僕には多くの人が持っているであろう生きるという本能的欲求が欠けていたから生きるための活力が必要で、自我が芽生えるまでは無意識にそれを有して事もなく生きて、過ごしていた。その生きる活力を失って初めて自我が生まれた。なんとかして生きる活力を見いだそうとしたのだけれど、ダメであった。生きる意味が解らなくなって、僕は内にこもるようになってしまった。人と接しても心が通う気がしなくて空虚感におそわれた。利己心が巣食う愛には嫌悪感を抱いた。人を愛するということを知らず、性を好んで、人間を好まなかった。そのことに強く自己嫌悪を感じた。愛や幸福が人間の精神や状態を高めるものだとするならば、なにゆえに未熟な同世代の少女にそれらが期待できるだろうか。利己心のぶつかり合いで、傷つけ合い、他者との埋めがたい隔絶があることを痛感する以外になんの得るものとてなかった。一時の自尊心の満足や恍惚があったとしても、夢と幻の中を行き来する僕にとってはそれはあまりに味気なかった。だからといって美しい大人はおらず、大人と言えば社会規範の権化でしかなく、手を差し伸べ、世界へと導く真の大人はいなかった。ましてや愛で包み込んでくれるような、美しき女性、未熟な少年を抱擁し、甘美な快楽のひとしずくを与えてくれる天使は現れてはくれなかった。思考力と想像の力は弱く、ロマンや小説はあまりに崇高で気高く、僕はひとり不完全な幻の中で、やましい幸せを味わおうとむなしい努力を続けていた。
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本当にいいものは大してお金はかからない


貴金属細工師の店に入るときには、錠前屋の店に入るときよりも敬意を示したとしたら、あなたがたの生徒はどうなる事だろう。どこへいっても気まぐれにつけられた価格が現実の効用から引き出される価値と矛盾しているのを見るとしたら、そして、ものの値段が高ければ高いほど価値がないとしたら、技術の本当の値打ちとものの正しい価値とについて生徒はどんな判断を下すことになるだろう。   『エミール』より


インターネットや端末機器の発達によって情報伝達が格段に速まり、消費者と提供者ともに情報を多く入手できるようになった。消費者は消費者間で評判や実体験を共有することができ、多店舗での価格などの提供者についても多くの情報を得ることができ、全体の相場を把握したり、比較し選択することができるようになった。提供者はそうした評判を知ることができるようになり、ライバル店の動向、他店舗のデータなどを得ることができるようになった。消費者は賢くなり、提供者は技巧家となった。その結果、ある程度目の肥えた消費者であれば商品などの原価や利益率がわかるようになり、提供者も賢い消費者を欺くためにさまざまに工夫して利益を出そうとしている。そして、あらゆるものの価格が画一的で適正なものになってきて、消費者がどこに価値基準を置いているかによって商品の売り上げが左右されるという現象が起きるようになった。提供者は消費者を見極めて商品を作る必要があり、消費者はそうした狙いを定められた消費者のために作られた商品の裏の存在とでもいうべき、価値基準の置きどころに変化を与えて、付加価値などの余分な利益が乗せられたものではなく、そうした余分を除いたものを購入すれば無駄なく、お金を余分に払うことなくほしいものを手に入れることができる。

僕は常々、思っているのだが、『本当にいいものは大してお金がかからない」。

その最たるものは「文庫本」に違いない。数百円でもしかしたら一生利益を引き出せることになるかもしれないものなのだ。柔らかな上質な下着というのも、思いのほか高価なものではない。高くていい服を買うのならば、例えば綿の上質な下着を買えばよっぽど快適に過ごすことができる。上質なものは長持ちするので、結局安くて粗悪なものよりも安くすむ。車で走るよりも、歩いて旅した方がぜったいに味わい深い。本当にいいものは最低限のお金しかかからない。もしあなたがやっていることが、多くの出費を要するものならば今すぐにやめたほうがいい。もっと手軽でお金をかけずにすむおもしろいことがあるはずだ。そうしたものは刺激と瞬時の楽しみはあるかもしれないが、なんだか味気ないものだ。

そうした賢い人たちが増えれば、もっともっといいものが安くなる。つまらない退屈なものが高くなってそのうち必要とされなくなる。にもかかわらず、今は活字離れに見られるように、そうした有用なものが不要とみなされ価格高騰の危険にさらされている。家屋や工場が壊されると、コンビニか月極駐車場ができる。市民憩いの場になればいいのに、利益にならず、人も利用しないからお金と便利という理由でそうしたつまらないものができる。民度がどんどん低くなっている。
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金を儲ける二つの方法


さまざまな技術にはそれらの現実の有用性に逆比例して一般の評価が与えられている。この評価はほかならぬそれらの無用性に正比例して決められるが、これは当然のことだ。もっとも有用な技術は最も儲けの少ないものだ。労働者の数は人間の必要に比例しているし、すべての人に必要な労働は必ず貧乏人が支払うことのできる価格しかもたないからだ。ところが、職人ではなく、芸術家と呼ばれ、有閑人や金持ちのためにだけ仕事をしているあの重要な人物たちは、かれらのつくりだすたわいのないものに勝手な価格をつけているし、そういうくだらない作品の値打ちは人々の意見によってのみ決まるので、価格そのものがその値打ちの一部をなすことになり、それが高価な ものであればあるほど評価も高まることになる。金持ちがそういうものを尊重するのは、その効用によるのではなく、貧乏人には手が出ないからなのだ。「民衆がうらやむようなものでなければわたしはほしくない」というわけだ。   『エミール』より


自給自足の生活をするのでなければ、食べ物を得るためのお金を稼ぐ必要があるわけだが、できるならばその方法は人の役に立つものであったり、社会や環境にプラスに働くようなものにしたい。例えばおいしいラーメンを食べて喜んでもらいたいとラーメン屋を始めるとする。なるべくおいしくするために技術を磨き、食材にもこだわる。すると原価が上がる。しかし、人に喜んでもらうためにはできるかぎり安くしなければならないから儲けは少なくならざるを得ない。国民が飢えに苦しまないようにお米をつくるとしたらどうだろうか?現在では減反政策は廃止された?ようだが、需要と供給のバランスが作為的にとれるようになっているので大きく儲けることなど不可能だ。儲けるためには結局、二つの方法しかない。すなわち、金持ち相手に商売をして、ぼったくりのような仕事をするか、逆に労働者をひどく扱い、お客に対して正当に商売をする、あるいはそうした本来儲けの少ない売買の仲介役となって手間賃という形で金をピンハネする仕事かだ。芸術はルソーが言うように金持ちに好まれるような作品を書くしかないのだ。しかも、それは大概がゴッホのように死後に高い金額がつけられるのだが、これだって見る目のない人間が趣味程度に金があるばかりに購入するに過ぎない。作家はどうだろうか。僕は思った。いい作品を書けば、いい言葉を連ねれば、真理に迫っていれば……第一、出版社に本にしてもらわなければどうしようもない。そのためには売れるような内容でなければならないが、僕はそんなもの書きたくない、だから書いたところでどうにもならない。本にさえすることができない。幸運にも時代に恵まれて、こうしてタダで世界に文字を体裁よく発信できるのだから感謝して、地道にこうした活動を続けるよりない。

僕はすべての人に必要な労働に近いといえるかもしれない、人々が生活の基盤をつくるための手伝いをするというような仕事につこうかなと考えている。もちろん賃金は高くはないが、抑圧や競争によって仕事が損なわれるということはなさそうだ。
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アムウェイは「金」と「信仰心の満足」が得られる破たんし、理想のない隠れた宗教


最近このブログのgoogle評価が上がったのか、検索によるアクセスが増えた。このブログへたどり着く方法は基本的には数多の検索結果の中から検索者に選ばれるか、リンクされているサイトおよびブログからジャンプするかしかない。そのため、検索上位に引っかかりやすくなったというのは喜ばしいことだ。しかし、このブログのメインテーマである思想あるいは文学に関しての検索ワードによってではなく、やはり旅に関するものが多く、残念ではある。その中でも「アムウェイ」についてのワードによって頻繁に訪問されるので、再び少し書いてみたいと思う。調べるということは不明な個所があるから検索して調べるのであろうから、そうしたニーズにこたえる形になればうれしい。

不幸にも?僕の周りに「アムウェイ」をやっているひとがいてその内情は聞き知っており、また何度か誘われ、ミーティングやマーケティング、デモンストレーションなどに付き合わされた経験があるので本質は理解できているように思う。ぜひ、参考にしてもらいたい。

「アムウェイ」に対して不信感や不安を抱いているから検索して情報を得ようとこのブログにたどり着いた方、あなたは向いていないので即やめましょう。出来心は誰にでも起こるものです。

感のいい人、あるいは明敏な人は「一連のSTAP細胞騒動」、「金儲けの話、および詐欺」、そして「アムウェイ」が同一の特性によって人々を困惑させていることを見抜くであろう。この特性を見抜けない人は残念ながら一生、世間に惑わされ、一杯食わされ続けることだろう。人間は末端まで注意深く調べることと、一つひとつ細かく分析することが苦手であるのだが、この弱点によってこの問題は生まれてくる。加えて、無限という概念はうまく扱うことができず、目に見えるものに対する高い信頼という性質も持ち合わせている。

「アムウェイ」が宗教に近いことはお気づきだろうか。細かい説明は省くが、アムウェイ信者という言葉はぴったりだ。信仰心を持てないような不信感と不安を持っている人はアムウェイをやる資格はないと思ったほうがいい。だから先ほどやめるようにとアドバイスした次第だ。

不信感と不安を持っている人は善良な人なのではないかなと僕は考える。その大部分は「金儲け」に対する抵抗であるのかもしれないし、ねずみ溝となんら変わらないビジネスモデルに対する嫌悪感、しかもそれを友人に対して行って、表面上は「仲間」とビジネスを!などといっているのだからたちが悪い。

ある信者は「このビジネスモデルはノーベル賞ものだそうだよ」と狂ったことを言っていた。そういうことは実際に取ってから言ってもらいたい。大概取れないからそう言うのに違いないのだが。

このビジネスモデルは端的に言うと、ねずみ溝のように先に契約した人間がより利益を得るという構造を弱めるようにつくられている。(上位者の還元高に制限がある、あるいはバックマージンを得るための条件など)しかしながら、弱めるのであって、まったく平等ではなく、マーケティングで話されるときは三人というネットワークビジネスではあるまじき規模で示されるので視覚的に完全に騙されてしまう。

もっとも僕がこのビジネスで気に入らない点は常に問題を先送りにし、末端に対する配慮を大きく欠いていることだ。成功ということにだけ目を向け、その実現のために常に不成功者を控えていなければならない。とはいえその不成功者もいずれ次の不成功者をつくっていくことで随時このビジネスモデルは成長していき、たくさんの成功者を生むことになるわけではあるが、同時にこのモデルが成り立つ根源である、「アムウェイ」が生産する資本を消費する義務にちかい使命が課せられる。資本主義、そして自由主義のなかに生きながら、同一の製品しか購入しないというのはまさに、信仰以外の何ものでもない。価値の多様化、価値の相対性というものに逆行する驚くべき事態といえる。僕はそんな生活はしたくないのだが、それが金儲け、信仰心の満足が得られるということになると人間は正気を失うようである。

「金儲け」と「信仰心の満足」のために、論理破たんしている理想のない「アムウェイ」をあなたはやりますか。
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プロフィール

hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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