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読書と、執筆、それに加えて実践 世界はたしかに素晴らしいのだけれど、とても満足できるものではない


「なんのためにきみはいま酒を飲むのか、それはぼくたちふたりにはわからない。きみの生命を作っている、きみの内部のものには、それがわかっている。われわれの内部に、すべてを知り、すべてを欲し、すべてをわれわれ自身よりよくなすものがいる、ということを知るのはきわめてよいことだ」


「自分の夢や期待や内的な変化については、たとえ欲したとしても、だれのも一言も言うことはできなかったろう。

だが、どうしてそんなことを欲することができたろう?」


「十分強く欲することはうまくいく」


「まなざしと考えとで非常に多くのことをなしとげうる」


「われわれはあがめる神を持ってはいるが、その神は、かってに引き離された世界の半分(すなわち公認の「明るい」世界)にすぎない、人は世界全体をあがめることができなければならない、すなわち、悪魔をも兼ねる神を持つか、神の礼拝と並んで悪魔の礼拝をもはじめるかしなければならない」   『デミアン』 ヘルマン・ヘッセ著より


文学史上で名高い作品の数々、『デミアン』もその一つに数えられると思うが、そうした作品は注意深く読むと、実に多くの名言、名文によって構成されていることに気付く。僕も今まで、特に近年は読書を重ねてきたつもりであったが、そうしたものの皮相だけを学び、深みと真意を汲みつくすには到底及ばない姿勢で取り組んでいるにすぎなかったことを今痛感している。文学や哲学が求めるものを的確に言い表すことはできないが、おおよそその範疇にある思想の断片に触れればそれとわかるくらい、僕も感覚を磨いてきた。そこで、「もう読書はさほどしなくてもいいのかな」という思いにいたった。だが、思想という形で良心をかたどることができたとしても、それが行動規範まで有用性を持つようにするためには別に努力が必要である。「言うは易し、行うは難し」というように、例えば、「平和を願うことではなく、平和のために生き、行動することができるかが問題である」ことと同じだ。そうした、いわゆる人格を形成するために読書をしなければならない。それが今後の僕自身の課題だ。優れた書物とその思想の分別は心もとないものの、確かなものになりつつある。それを自分自身に定着させ、物にする訓練が必要だ。読書と、執筆、それに加えて実践ということをしていかなければいけない。

僕は以前から、この世界に二つの大きな不完全さがあることについて頭を悩ませていた。生き物が他の生き物の命によって生きることができるということと、人間という弱い存在は地球という自然を損なわずには生きながらえることができないということだ。だから、もし神がいるとするならば、とても崇め奉って、全幅の肯定と賞賛を与えるわけにはいかないと考えていた。真に力があり、善良なものならば、もっとよい世界が造りだされたはずなのだが、事実はそうではない。神に対するこのような不相応な価値観は持つべきではないのではなかろうか。悪魔と神は一体であるとするか、神についても、悪魔についても同様の経緯を持つか、どちらかでないといけないということになる、でなければ、現実を否定するしかないのであるが、生きるということをゆるぎない大前提にするのであれば、そうはいかない。つくづく思う、世界はたしかに素晴らしいのだけれど、とても満足できるものではない……。
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社会の中で生きるしかないのだ


自然的な技術は一人の人間で十分にできることだが、それをやっているうちに、多くの人の協力を必要とする工業的な技術がもとめられることになる。前者は孤独な人間でも、未開人でもできることだが、後者は社会においてのみ生じてくるもので、社会を必要なものとしている。肉体的な必要しか知らないかぎり、人はみな自分で自分の用を足すことができる。余分なものが取り入れられると、労働の分割と配分がぜひとも必要になる。つまり、ひとりで働いている人間は一人の人間の生活資料しか得る事ができないが、百人の人間が協力して働けば、二百人の人間の生活に必要なものが得られるのだ。そこで、一部の人間が働くことをやめてしまうと、働く人々が協力して何にもしない人間の有閑生活の埋め合わせをしなければならない。   『エミール』ルソー著より


社会を否定してはいけない。否定し、改善すべきは社会状況である。わたしたちはもっと、自分たちはみんなと一緒に生きているという実感と感覚をもって過ごさなければならない。まず自分自身を心身ともに養うこと、それがわたしたちが果たすべき大人としての義務である。僕はなんとか25歳にしてある程度の賃金を得る仕事の継続によって身体を養うことができ、同時に社会で生きる人間として、また未来の担い手として、人間を学び、歴史と社会を学び、その中における重大なルール、そして目には見えない真理、善というより高度な概念を探求し、概要の理解に達した。すなわち、ようやく社会人になる準備ができたのであった。詩人や哲学者のように孤独に、社会から脱して生きることも考えた。それも可能ではあるようだった。しかし、そうした社会というマジョリティに対してマイノリティとして生きる強さと高い能力があるのならば断然社会のために働きかけ、運動しなければ本当でないと思う。つまり、社会の中で生きるしかないのである。しかも、そちらの方が最終的には充実と幸福が与えられるのではないかという気がしている。ルソーは的確に社会の働きを説いている。さすがというほかない。

現代社会の歪み、不具合、不完全さ、それらはすべて社会に潜んでいる不真面目な人間によってもたらされている。ズルをし、嘘をつき、だまし、さぼる輩だ。わたしたちは社会を動かす小さな歯車の一つひとつに過ぎない。それらが正しくはまり、回転しなければ社会はうまく動いていかない。その歯車が回転することをやめたり、妨害するような運動をすると、そのロスを補うために、より大きなエネルギーが必要となるのだ。
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疲弊と多忙の中に穏やかな心と豊かな思想はなじまない


前回の記事を物してから少し期間が空いてしまった。とはいえ、無為に過ごしていたわけではない、大きな進歩と発見があり、充実の一週間というわけではなかったけれども、収穫のある一週間ではあった。

僕の読書のきっかけはといえば、「無知の知」、偏差値や物質的豊かさ、では測るのではない、違う次元の芸術であったり、思想、生き方というものがあるということに気づき、その導き手となるであろう書物がそこには付属しているということを発見したからだ。しかし、それ以上に、知的好奇心とでもいうような全く知らない、輝かしく、神々しい世界にたどり着き、その内部をとことんまで究めつくしたいというやむにやまれぬ欲求を感じたことだ。

世界文学というような、巨大で堅牢な作品群は尽きることない金の鉱脈のように、掘れば掘るほど金が―まさに読めば読むほど金言が―手にいっぱいになるくらい出てくるのだった。僕は夢中になってその鉱脈を掘り進んだ。なりふり構わず。その結果、学校は辞めてしまい、安定した仕事に就くことなく、遊び、恋愛にも熱中することなく、いわば青春をそのために消費してした。その結果、頭ばかりが重くなり、いざ立ち上がろうとするとクラクラと立ちくらみをして実生活になじむ事の出来ない自分を発見する始末となった。世界を知り、生き方を探るための読書が、いつのまにか読書の為の読書となり、ただ知識として脳内に刻まれるだけで、その先の人間形成や社会への働きかけというような出力へと、すなわち生きる養分とすることなく、ただ僕の元来の性情である怠惰と乱暴さを隠すための手段としていたにすぎなかった。他人と本心でかかわり合うことを避けるために、孤独を重んじ、学問にいそしんでいるふりをして、楽がしたいがためにもっともらしい格言を振り回し、懐疑的かつ批判的に周囲を見渡し、それでいて自分は何一つアクションらしいアクションをしないまま、ずるく過ごしてきた。

そんな僕も少しずつ考えが変わってきて―驚くべきことに、いや当然だという人の方が多いかもしれないが、人間の考えや者の見方というものは変わるもので―、あれほど自由と脱俗を求めてきた僕が、不自由や規則、俗事と向き合い、その中で自分というものの居場所を見つけていこうと思うようになった。文学をやるにしても、結局のところ共感と関心、啓発を呼ぶためには、受け手と体験や思いを共有しなければならない。僕は詩人ではなく、あくまで社会的な動物で、芸術家であるよりは考える葦というにぴったりなちょっぴり聡明な侏儒といったところなのだ。そういうわけで、僕は社会に対して一歩を踏み出そうと、そう心に決めた。

僕の大きな不安、それは一日最低八時間に及ぶ労働を、五日間立て続けに行なうに耐えうる集中力と体力を持ち合わせているか、それらが可能かどうかということであった。今のままでは厳しそうで、とても余暇を楽しむ力はなさそうであるし、体調不良か精神不安定になるのがおちだ。だからそれらに慣れていく必要がある。というわけで、この一週間、月並みな労働をしたのだが、案の定、ブログはおろか、読書もろくにできず、ただただ疲弊して一日一日を過ごしていた。今までどれだけ体力的に怠けていたのかということを痛感する結果となったが、やるべきことがはっきりとした。まず体力、および筋力をつける必要があるから、(その労働は立ち仕事で、足が柔らかさを失って、どうしようもないだるさに襲われ、集中力を欠き、しまいには頭痛を起こして、かなり堪えた)ランニングや筋トレをやっていこう。健全な肉体に健全な思想が宿るというが、やはり、疲弊と多忙の中に穏やかな心と豊かな思想はなじまない。わたしたちがどこか正道から外れたことにばかりぶつかるのは、疲弊と多忙が蔓延しているからに他ならないだろう。みんなが疲れ切り、忙しく動き回って、大事なことを見落とし、考えるべきことも考えず、ただただ目先にある利益と安逸のためにのみ暮らしている。何とも残念な限りだが、そうしたことに僕自身も逃げることなく、修行のつもりで身を投じなければならないのだ。それで始めて、僕が今までに読書によって学んだ、人の道を体現し、それを意味あることにできるのにちがいない。
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逆境に置かれて始めて人間の価値が表れる 恋は男のものでない

「或る人が何であるかは、彼の才能が衰えるときに、―彼が何を為しうるかを示すことを熄(や)めるときに、始めて暴露される。才能もまた一つの化粧である。化粧は一つの隠蔽である」


「両性は互いに騙し合う。彼らは根本において、ただ自分自身を(或いは、もっと耳触りのよい言い方をすれば、自分自身の理想を―)尊び、愛しているにすぎないからである。このようにして、男は女が和やかであることを望む。しかし、ほかならぬ女こそは、どんなに外見上の和やかさを練習したとしても、本質上は和やかなものでなく、さながら猫に似ている」   『善悪の彼岸』より


この言葉はいろいろなとらえ方ができるように思う。読む人の思想や環境によってどのようにでも変化しうる含蓄のある言葉だ。僕にとっては、逆境に置かれて始めて、その人の人間としての価値がわかるという意味で響いた。あるいは、衣服から始まり、肩書にいたるまで、私たちが身に着けているあらゆるものを脱ぎ去ったときに始めてその人の人間的価値が示されるということだと感じた。

僕は自分自身がなんであるかを知ろうとはせず、何者かであろうとしていたのであった。他者との差となりうる才能を駆使し、何かを世界に対して働きかけ、為し得ようとしていた。今思えば、傲慢でうぬぼれが強かった。なんであるかを知りもせず、露わにすることもしないで、あたかも真情と正直を誇りとして活動していたのであった。最近になって、傲慢とうぬぼれによる働きかけをやめることにした。するとなるほど、僕という存在がどういう好みと傾向を持っているのかということが明らかになってきた。行動、日々の生活がより意志ではなく欲求と気分に支配されるようになったのである。これは少なからず、大きな発見であった。

両性は互いに騙し合う、か。騙しているというよりも、自分自身の傾向に単に従っているというそんな気がする。男は自尊心が強く、性欲に従う。女は欲望そのものよりも、満足感を一層強く感じるため、求めるよりも、与えられることに関心があるのだと思う。同じ空腹であっても、男であれば空腹が満たされる”食べる”という行動自体に満足するのであるが、女の場合は自分の嗜好に合った満足感を得られるかどうかが問題になる。、あまい、おいしいなどの味、場所、料理の仕上がりによるのだ。そういう意味で男よりも女の方が貪欲だと僕は考えている。欲望に深みがあって、それを感じるだけの感官とでもいうものを持っているに違いない。男が単純といわれるのもそのためではなかろうか。男の場合、物質的欠乏による欲と表面的な優越で容易に自尊心を高められるのである。こうして分析してみると、両性はよくできていると思うし、やはり男の方が扱いは簡単だと思わざるを得ない。女にとって、自尊心をくすぐり、性欲を満たすことなどたやすい。ただし、一つだけ大きな課題があって、性欲を満たすための肉体的条件を満たさなければならない(外見のかわいさなど)。逆に男が女を扱うのは難しい、いや猫と同じくコントロールすることは不可能に近い。タイミングなどの偶然的要素を満たすことができなければ、都合のよい欲望を満たしてあげることなどできないのだ。いくらアピールを試みたところで相手にその気がなければ万事休す。しかし、女にたまたまその気や欲望を満たすようなことがあると、勝手に向こうから頼んでもいないのにやってくることもある。こんな具合だから恋にかかずらうのはどうしてもナンセンスと思えてならない。男にとってみれば恋は思うようにならない、偶然的な要素が多すぎるのだから。

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問題は解決するものでなく、理解するもの 問題の解決は後ではなく、先にある


問題解決のエキスパートは、相矛盾する二つの資質をそなえていなければならない―たえまなく湧きあがる想像力と、じっくり考えるしぶとさである。   (ハワード・W・イーヴスの言葉)


大事なのは、どれだけ考え抜けるかです。考えをはっきりさせようと紙に書く人もいますが、それは必ずしも必要ではありません。とくに、袋小路に入り込んでしまったり、未解決の問題にぶつかったりしたときには、定石になったような考え方は何の役にも立たないのです。新しいアイディアにたどりつくためには、長時間とてつもない集中力で問題に向わなければならない。その問題以外のことを考えてはいけない。ただそれだけを考えるのです。それから集中を解く、すると、ふっとリラックスした瞬間が訪れます。そのとき潜在意識が働いて、新しい洞察が得られるのです。   (アンドリュー・ワイルズの言葉)


数学の問題に限らず、人生における数々の壁、問題に対してもこのように言えると思う。壁を乗り越え、問題を解決していくこと、それは人生を成功させることを意味する。人生で幸福になることはある意味でたやすい。才能も苦しみも試練も必要ない。ただ考え方、それに尽きる。自分次第で幸福はいつでもわたしたちに微笑んでくれる。幸福はいつもわたしたちのそばにあるのだ。だが、成功となるとそうはいかない。ここで説かれているように、想像力と考え抜くことの精神力が必要となる。これらは誰もが与えられているものではないけれども、訓練によって獲得することのできるものと僕は考えている。この二つの力を有している者こそが、わたしたちが偉人や天才という名を冠している存在なのである。結局のところ多くの人々は、訓練や望み、期待を端からあきらめてしまうから、平凡とした毎日を送ってしまう―僕は平々凡々とした毎日とそうした人々を見下すものではない、むしろ彼らこそが愛すべき理想的な人間と考えている、僕もそうでありたいと願う―のだが、想像力は大人になってしまっては難しいかもしれないが、じっくりと考え抜くことくらいならだれでもできそうだ。僕も実際に、学問について、あるいは働くことなど、腰を据えてじっくりと考えてみた。生活のあらゆることを排除し、周囲の環境にさえ無関心となって、追求した。あるとき、自分が世界を以前とは違ったところから眺めていることに気付いた。視野は広がり、ゆったりとした心持になっていた。

問題は解決するものではなく、大体が理解するものなのである。問題を分解し、一つひとつの要素を定義し、分析していくと、だいたい不明なところや不確定なところが発見される。知らないうちにわたしたちはどのような問題に取り組むにしても、前提を持ち出して解決しようとしてしまうが、その前提がそもそも怪しい。~しなければならない、~でなければならないというのは危険だ。大きな誤りと未熟さを含んでいる。それを前提とした動機、すなわち問題に対する都合のよさを重視してしまってはいけない。一つひとつを確実かつ明瞭にしていく。疑問の余地を微塵も残してはいけない。それはすなわち、考えるしぶとさであり、問題理解の徹底ということである。問題の解決は問題の後にあるのではなく、先にあるのだ。
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頭を下げるか 他者への貢献を果たしておくか


「それ程偉い貴方でも、御金がないと、私みた様なものに頭を下げなけりゃならなくなる」

「然し誰も御金を貸し手がなくって、今の御友達を救って上げる事が出来なかったら、どうなさる。いくら偉くっても駄目じゃありませんか。無能力な事は車屋と同なしですもの」   『それから』(改)より


「お金だけでは幸福を手に入れることはできません。人間に必要なものは、お金のほかに、健康な身体と優しくて豊かな心です。この三つが揃うと、すべての願いが満たされるのです。

では、お金がないと人間はどうなるのでしょうか。お金がなければ人間は生きていけないのでしょうか―。

もちろん、そんなことはありません。

でも、現実には、お金がないと一つだけ困ったことがあります。それは、嫌な奴に頭を下げなければならないということです」   (斉藤一人の言葉)


お金が労働の対価であることは誰もが知っている。しかしその関係性ということになると、あまり考えたことはないのかもしれない。

所持金は、それまでに持ち主が果たしてきた他者への貢献度を表している。その貢献というのは当事者間で行われるものであるから、内容の善悪は問題にならない。実に、このことが大きな欠陥ではあるのだが、仕様がない。

一度このように貢献がお金の形に変わってしまえば、同意さえ得られれば、他者から手助けなどのような労働を同様に獲得することができる。どちらの場合でも善悪や公正さなどは問題にならない。まったくお金とは二面性を持っているのだ。悪いように利用しようとすれば容易に利用できてしまう。

このようにお金を巡って、とっかえひっかえ対象者が変化していく。労働あるいは貢献の保障であり、価値基準を定めてくれているのがお金である。だからお金がないと、「人のために労働あるいは貢献をしたことのない人のために、私は働くことも手助けすることもできません」という理屈になる。そこで、「どうか、この通り、頭を下げるから頼むよ」という行動をとらざるを得ない。説明するとすれば、これは借りを作るということであって、債権を与えるのと同じだ。借金ではなく労働を借りるというものであろう。親しい仲であればそうした借り、あるいは貸しも可能だろうが、全くの他人同士ではそうはいかない。やっぱりどこかへ行って働かしてくださいと頭を下げて、お金をもらうしか方法がないことになる。いっそのこと、他人に頼むということをやめてもいいわけだが。

安い頭ではないから、人生で必要以上に頭を下げないで済むように、それなりに他者への貢献と労働を果たしておくべきだ。できることならば、公正なやり方でお金をもらうといいのだが、現代の資本主義がそれを受容できるほど健全であるかどうかは疑わしい。
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私の存在は無に等しい


悪の枝を切ろうとする者が千人いるのに対して、悪の根を絶とうとする者はひとりしかいない。貧窮者に最大の時間と金を贈る者は、その生き方によって、そのひと自身がなくそうとしながら果たせないでいるあの不幸を生み出すのに、最善をつくしていることになるのかもしれない。十人の奴隷のうちのひとりがかせいだ利益を投げ出して、あとの九人に日曜日の自由を買ってやる奴隷の飼い主は信心深いとされる。貧乏人を台所で働かせ、彼らへの思いやりを誇示しようとするひともいる。それよりも、自分が台所で働いたほうがずっと思いやり深くはないだろうか?収入の十分の一を慈善事業に使っていると言って自慢する者もいるが、むしろ十分の九をそれに使い、そうしたことからはさっさと手をひくべきであろう。さもなければ、社会は財産の十分の一しか回収できないことになってしまう。これはたまたまその財産をもっている人間の気前のよさによるものだろうか、それとも司法官の怠慢によるものだろうか?   『森の生活』より


やっぱりこのくらい正直で真面目でなければならないのだ。僕も違いはあれ、多くの人たちと同様ずるして生きようとしていたにすぎなかった。自由は常に弱者を足元に踏みつけてではなければ実現できないものなのだ。世界に働き掛けて、少しでも良い方向に向かわせようとしたところで、一人ではなにもできない。では多くのひとと協力すれば?いいや、歴史が証明しているではないか、多くの力を必要とする作り上げるという作業と、それを壊すことな何倍もたやすいという自然の摂理よ。世界をよくしていこうという、意気込みと情熱はすっかり冷めてしまった。世界はよくならない。言葉は入るべき人の耳にははいらない。弱いものだけが、弱いものの声を聞く。所詮、僕も弱者であり、力を持たない、人としての欠陥品とでもいうべき存在に過ぎない。そんな僕が声を上げ、言葉をつづったからといって意味をもつとは思えぬ。実際的な意味で言っているのだ。弱いものは弱いから叫ぶのだ。強ければ叫ばない。自由を獲得したからとて、その足元を見ればたくさんの屍ともがくいている人たちがいるはずだ。ならば、僕はまだ踏みにじられる側の人間でありたい。だから、自由など求めるのをやめなければならない。自由を追うことを僕はやめた。同時に、世界をよくしたいとか、人のためにとかいうきれいごともやめにした。エネルギーがいるということは、不自然なことなのである。人のためというからには、自分を犠牲にしなければ嘘である。マザー・テレサの姿を知っているか?だが彼女のおかげで世界は変わったといえるのか?僕は弱い人間なのだ。人のためになどと、気安く言うべきではない。せめて、人生をまっとうに生きることくらいはできそうである。いや、それすらも難しそうだ。命をつなぐこと、人とつながり、支えあい、助け合うこと。労働、コミュニケーション。簡単そうで、正直に、真面目にやるのは難しいことばかりだ。

本を読むことは目的ではない。本を読んで、学んだことを現実の生活で活かし、役に立たなければならない。自分の考えと、相手への接し方。そのためには社会に出なければならない、人と現実社会を生きなければならない。それを避けて、理想ばかり追い求め、自由と愛を振りかざすのはエセ宗教と同じだ。中身がない。無だ。むしろ、悪だ。夢遊病者となんら変わりない。気をつけろ。

社会のルールにおとなしくしたがって、謙虚につましく生きていればいいのだ。静かに心穏やかに、ただ人生を過ごしていけばいいのだろう。なんだかさみしくなってきたが、もともと大きな人類という中の一人に過ぎない私であるのだから、存在が無に近く、さみしい感じがするのは当たり前である。私はいてもいなくても、実際のところ変わりがない。ただ、与えられた生を持てあますことなく、過ごすしかないのだ。そのことに感謝を忘れずに……。
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「生活の為の労力」か「労力の為の労力」か


「僕みた様に局部に当って、現実と悪闘しているものは、そんな事を考える余地がない。日本が貧弱だって、弱虫だって、働らいてるうちは、忘れているからね。世の中が堕落したって、世の中の堕落に気が付かないで、その中に活動するんだからね。君の様な暇人から見れば日本の貧乏や、僕等の堕落が気になるかも知れないが、それはこの社会に用のない傍観者にして始めて口にすべき事だ。つまり自分の顔を鏡で見る余裕があるから、そうなるんだ。忙がしい時は、自分の顔の事なんか、誰だって忘れているじゃないか」

「君は金に不自由しないから不可ない。生活に困らないから、働らく気にならないんだ。要するに坊ちゃんだから、品の好い様なことばっかり云っていて、―」

「働らくのも可いが、働らくなら、生活以上の働でなくっちゃ名誉にならない。あらゆる神聖な労力は、みんな麺麭を離れている」

「何故」

「何故って、生活の為めの労力は、労力の為めの労力でないもの」

「そんな論理学の命題みた様なものは分らないな。もう少し実際的の人間に通じる様な言葉で云ってくれ」

「つまり食う為めの職業は、誠実にゃ出来悪いと云う意味さ」

「僕の考えとはまるで反対だね。食う為めだから、猛烈に働らく気になるんだろう」

「猛烈には働らけるかも知れないが誠実には働らき悪いよ。食う為の働らきと云うと、つまり食うのと、働らくのと何方が目的だと思う」

「無論食う方さ」

「それ見給え。食う方が目的で働らく方が方便なら、食い易い様に、働らき方を合せて行くのが当然だろう。そうすりゃ、何を働らいたって、又どう働らいたって、構わない、只麺麭が得られれば好いと云う事に帰着してしまうじゃないか。労力の内容も方向も乃至順序も悉く他から制肘される以上は、その労力は堕落の労力だ」

「まだ理論的だね、どうも。それで一向差支ないじゃないか」

「では極上品な例で説明してやろう。古臭い話だが、ある本でこんな事を読んだ覚えがある。織田信長が、ある有名な料理人を抱えたところが、始めて、その料理人の拵えたものを食ってみると頗る不味かったんで、大変小言を云ったそうだ。料理人の方では最上の料理を食わして、叱られたものだから、その次からは二流もしくは三流の料理を主人にあてがって、始終褒められたそうだ。この料理人を見給え。生活の為に働らく事は抜目のない男だろうが、自分の技芸たる料理その物のために働らく点から云えば、頗る不誠実じゃないか、堕落料理人じゃないか」

「だってそうしなければ解雇されるんだから仕方があるまい」

「だからさ。衣食に不自由のない人が、云わば、物数寄にやる働らきでなくっちゃ、真面目な仕事は出来るものじゃないんだよ」

「そうすると、君の様な身分のものでなくっちゃ、神聖の労力は出来ない訳だ。じゃ益遣る義務がある。なあ三千代」   『それから』(会話抜粋 改)より


僕の現状は今、この問題の上に落ちている。ここでの代助は働く気はないのだが、持論を展開した結果、自分の働くべきことを裏付け、正当化することになってしまっている。だから単純におもしろい。けれども、この箇所は現実に十分応用できる含蓄を含んでいるから、精読すべきところでもある。

僕もずいぶん労働に前向きになってきた。ここで指摘されているように、それは金に不自由しているからともいえるが、思索を続けた末に形成された(進歩した)思想によるところが大きい。だからこそこの箇所はリアリティをもって労働の本質を僕に訴えかけてきた。そして僕は自分の労働観の決定を下さなければならないことに思い至った。

「生活の為の労力」か「労力の為の労力」か。僕は今後、どういった環境であろうとも、こうした啓蒙活動というか、人生と思想については探求していくつもりであるが、実際的なところでいう、労働からは離れることができないからどちらかを選択する必要がある。どちらにしても「金のための労力」が必要なのであって、それとは別に「労力の為の労力」と言えなくもない、こうした活動を続けていくわけだ。つまり、「完全に生活の為の労力」を選ぶか、あるいは「根本には生活の為という大義があるが、その最低限を満たす程度に労力の為の労力」を選ぶかということだ。努力せずとも、時間や義務というノルマをこなせばいい仕事か、自分から積極的に働きかけ、成長を伴うような仕事をするのか。前者でいえば、時間や労力は金以外の何ものも基本的には生まないと考えられる。もちろん、そうした組織に入れば人間関係はおのずと形成されるであろうし、その仕事に伴う何らかのスキルは身につくだろう。しかし、そこに努力や自主性がないのだから大したものではない。一方、努力と自主性を要する仕事を行えば、間違いなくそうした仕事の賃金は高いであろうし、そうでなくても、そのような姿勢で仕事をしていけば、必ずその見返りとして報酬が必ず得られる。金を得る額は後者の方が断然大きいということになる。さらに、スキルアップもするだろうし、意識の高いメンバーに恵まれるであろうから、人間性もそういう意味では磨かれるであろう。やりがいももちろんあるに違いない。ただし、重要なものが失われてしまう―、自由と時間だ。そうした仕事には責任と要求が多く発生してしまう。休みや疲労を考えていてはとてもやれる仕事ではないし、そうしたものを努力と自主性の仕事とは呼ばない。無論、僕が第一に考えている啓蒙活動と自己探求の比重が軽くなってしまう。これは本末転倒なのではないだろうか?けれども、その仕事による大きな報酬によってカバーできはしないだろうか?こうした疑問も浮かんでくる。ただ無為に時間を過ごす、生活の為の労働こそ無駄なのではないか?しかし、残った時間で自分自身を生きることができる。仕事のために自分を殺すようだと、仕事をやめたときでなければ、自分を生きることができないということになる―。

これは思いのほか難しい問題であるはずなのに、多くの人たちは泰然と決定を下し、平然と日々を暮らし、仕事にいそしんでいる。はたして、彼らは真に幸福になるつもりがあるのだろうか。そして人生をよりよく、この世界をよりよくするつもりははたしてあるのだろうか。
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「自分以上に相手を愛せ」、そして ~「自分を愛するように相手を愛せ」を超えて~


ひとからなされたいようにひとにもなせという、かのキリスト教の戒律も、自分がどうなされるかには無頓着で、新しい流儀で敵を愛し、敵がすることをほとんど全面的に気前よく許すところまでいっていたインディアンたちの耳には、たいした説得力をもたなかったのである。

貧しいひとびとには、ぜひ彼らがもっとも必要としているものを与えるようにしたまえ。ただし、諸君のそうした模範行為によって、彼らは、はるかうしろにとり残されるだろう。金を与えるなら、本気で、身を入れてすべきであり、ただ漫然と投げ与えるだけではいけない。われわれはときどき奇妙な過ちを犯す。貧しい者は不潔で、ぼろを着て、見てくれはわるいかもしれないが、そのわりにはたいして凍えても飢えてもいないことがよくあるのだ。それはある程度彼の趣味からきているのであって、不運とばかりはいえないのである。そういう男に金を与えれば、たぶんもっとたくさんのぼろを買いこむであろう。   『森の生活』より


子どもの頃、僕は「目には目を、歯には歯を」という教育を受けていた。「やられたらやりかえす」、それは子どもの世界では有効であり、弱虫とみなされないためには必要な律法であった。その結果、僕は傲慢で自己中で、優しさに欠ける、どうしようもない悪ガキのお山の大将になっていた。人としての分別がつきだしたころ、歴史の授業で「ハンムラビ法典」という世界最古の法典を学び、その主たる律法に「目には目を、歯には歯を」があることを知った。このときの紹介のされ方が、その律法の未熟さを批判するようなもので、その結果、僕自身はこの律法に対して嫌悪感を抱いた。平和が世界の歩むべき道であることは漠然としてはいたものの、明確に了解していたし、「やられたらやりかえす」という方式では平和でいられないということも理解した。そのうちに「ひとからされていやなことは、ひとにもするな。自分のしてほしいことを他人にもししてあげよ」という教訓に代わっていた。成功の黄金律とも呼ばれるそうだが、立身出世、成功することが人生の果たすべき目標という盲目な人生哲学から導き出された教育だったのだろうが、考える力のない僕はそれを鵜呑みにし、できるかぎり自分を分析し、自分を知り、嫌なことうれしいことを判然とさせ、その黄金律に従おうと努力した。ところが、僕は考え方や性格が、一般的ではなく、常識からも離れたところがあったため、自分の意図したこととは異なる結果や反応を受けることが多かった。僕が重視すべきと考えるものが、相手にとっては全く取るに足りないものであったりするのだ!一人ひとり人間には個性があり、好みも傾向も様々だから、自分自身を基準にした黄金律というものは結局のところ、統計や分布の問題となり、平和や幸福へ続くものではなかった、極端には格差や隔絶を生み、世界を小さく、狭いものにしてしまう危険な発想だとわかった。僕がおとなになる前のことだ。

たくさんのトラブルや他者との軋轢、誤解されることはまだしも、誤解することもまた多くあり、傷つけてしまうこともあった。エゴとエゴとのぶつかり合い、主義・主張の応酬、損得、利害関係、それらがからみあう複雑な社会を眺めたとき、他社を理解し、そのうえで「相手の必要としているものを与え、同時に責任を背負う覚悟をもたなければならない」、「人に善を成す時は謝りながらしなければいけない」ということにもつながってくるが、自分を感情にいれずに、最初から最後まで相手という存在に近似できるか。それが求められるのだ。

こうして僕自身の思想の変遷を見てくると、歴史と同じような動きをしていることがわかる。世界の幼少時代にはやはり「目には目を」の律法が採用されていたわけだし、2000年前から現在までは主にキリスト教でみられるような「自分を愛するように人を愛せ」ということが言われる。それでも現代はまだまだ未熟で大人になりきれていない。「自分以上に相手を愛すること」、どう考えてもこちらの方が高尚であるように思われる。事実、自分を愛するようにというのは、自分以上に相手を愛せということが理想で、こうした律法が順守されないことが前提とされているため、一段階前の次元の律法が定められてしまうのだ。皆が皆、他者を自分以上に愛することができるならば、これ以上のことはないだろう。自分を愛する愛は一つだが、他社から愛される愛は無限だ。そして、しまいには人間愛を超えて、世界を、宇宙全体を第一に考え、愛する時代が来るのではなかろうか。とにかく、現段階では、優れた人間であろうとするならば、自分以上に他者を愛する努力をする必要がある。
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何かを創造したことは否定できない。問題は、その価値である


ここではこう述べるにとどめておこう。もしもチェスの指し手の問題が大まかな意味で「役に立たない」とすれば、最高の数学もまたそのほとんどは「役に立たない」ということである。……私は何一つ「有用」なことはしてこなかった。私の発見は、直接的にも間接的にも、また良きにつけ悪しきにつけ、この世を住み良いものにするためにはいささかの寄与もしなかったし、今後もするとは思えない。……あらゆる実際的な基準で判断すれば、私の数学者人生の価値はゼロである。そして数学以外には、いずれにせよ大したことはしていない。まったく無意味な人生だという裁定からのがれる唯一のチャンスは、私が創造に値する何ものかを創造したと判断されることだ。そして、私が何かを創造したことは否定できない。問題は、その価値である。   (ハーディの言葉)


数学は知的好奇心をくすぐり、知識欲に満足を与えてくれる。数学には調和と美が隠されており、その向うところは真理と世界の解明である。僕は数学を学問の王様と考え、あらゆる学問は数学的知識なくして成り立たず、すなわち数学こそが人間の力による学問で、そのほかは所詮事象の解釈に過ぎず、この世界を離れれば意味を持たない可能性を秘めているが、数学だけは無からつくりあげられた特有の世界を持ったものなのである。

僕はこの世界の元凶が学問に関係していることは否定しないが、根本原因が学問にあるとは考えない。学問をしている学者、その他、知識人とでもいう人を僕は尊敬するし、彼らのやることに間違いがあろうはずがないと思っている。学問を究め、世界の理解を深めることに欠点などひとつもない。ただ、彼らは純粋で真面目であるから、その研究成果が結局悪事に利用されることを想像することができない。彼らは容易に悪の手が伸びている先に学問という大きな力を安易に差し出す。原発にしろ、公害をもたらす工業にしろ、その発端は科学技術の進歩に依っている。だが一方、戦争や公害、あるいは事故によって科学技術が発達するという側面があることもまた事実だ。歴史上、この科学技術の発展の舞台裏によって人類は苦しんできたのだが、表舞台では華やかな暮らしという幻想に惑わされて、だれも危機感を覚えていない。

どんな道具でもその使い手によって役立つ道具にもなれば、凶器にもなる。学問にも同じことが言えるわけで、扱う側、学問を利用するにあたっては世界に対する観念、思想を健全にしたうえでなければならないのだが、残念ながら人々はおもちゃを与えられた子どものように、無邪気に、時には乱暴にそれらを扱ってしまう。

考えてみれば、僕が世界を探求し、人生について思索し、世界のあり方を考えることは、数学者が数学をする以上にこの世に対してまったく実際的な利益をもたらさないだろう。僕が考えることなど、現在でも、今までも多くの人たちが考えてきたことに違いない。考えなければならないことを考えたという最低限の義務を―この義務すら果たしていない人間が多いわけだが―果たしただけだ。しかし、人間が一人ひとり違った個性をもつとしたならば、僕から新たな思想が一つでも創造されないとは限らないではないか?ハーディの場合、数学的な何かを創造したことは事実であり、そこから見出される社会的実際物の世間によって与えられる価値がどうであるかということなのだが、思想という点においても、じっくりと考えた結果得られた思想に基づいて生きるということは、自分なりの生き方を創造したという意味に他ならないし、それがまた何かを生み出すような社会的な価値があるものだとしたら、それこそ意味を持つことになり、そのためにも積極的な働きかけをしていく必要があるのだろう。
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自分で作って手に入れられるいいものを、お金を払って手に入る悪いものに


いろんな品物にまぜものをしてそれを実際のものよりよく見せかける、そういうことが行われている。そういうまぜものは人々の目と舌をだます。しかし、それは有害であって、まぜものをしたものを、見かけはよさそうでも、まえよりも悪いものにしている。

とくに飲みもの、そしてとくにぶどう酒にはまぜものをすることが多い。そのごまかしは見わけることがむずかしいし、にせものをつくる者にいっそう多くの利益をもたらすからでもある。   『エミール』ジャンジャック・ルソー著より


食事は人生の喜びのひとつである。人生の中であらゆることは省略することができるが、食事は省略することができない。贅沢にも質素にも、入念にも質素にもすることができる。現代は飽食の時代で、食うものに困るということは、普通に暮らしていれば縁のないことで、それどころか毎日多くの残飯と食料が廃棄されている。しかし、世界では飢餓で苦しむ人々が多く存在することを考えると、本当に由々しき事態でもある。

ところが、だ。

私たちが口にしている食品は安全で、なおかつ自然本来の味をもった本当の大地の恵みなのだろうか。都会に住む人々、都会ではなくとも、住宅地に住む僕のような人間もやはり、周りには大きな畑もなければ、きれいな海や川もないので食材は流通と加工を経た、まぜものや添加物を含むものを食べなければならない。その上、資本主義の原理に基づいて安さと利便性を重視した、不自然な小細工とごまかしを施された食事に甘んじなければならない。自然でまぜもののない食材は資本主義の原理とそれに伴う既成構造に邪魔されて、より一層手に入りづらくなり、不自然にも裕福な人々しかあり着けなくなってしまっている。いつの間にか逆転構造が出来上がってしまった。自分で作って手に入れられるいいものを、お金を払って手に入る悪いものに置き換えてしまった。

もしかすると、恐るべきことに僕は本当のお米のおいしさ、本当の野菜の味を知らないのではないだろうか?自分で作った食材で作った食事というものを僕はほんの一部でしか知っていない。家庭菜園で作った微々たる食材を食卓に並べたに過ぎないものだ。

労働もいいのだけれど、せっかくの労働も悪い食事のためにしなければならないとしたら、なんという悲劇であろう。
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人間が歴史から学んだことは、歴史から何も学んでないということだ


「何故働かないって、そりゃ僕が悪いんじゃない。つまり世の中が悪いのだ。もっと、大袈裟に云うと、日本対西洋の関係が駄目だから働かないのだ。第一、日本程借金を拵らえて、貧乏震いをしている国はありゃしない。この借金が君、何時になったら返せると思うか。そりゃ外債位は返せるだろう。けれども、そればかりが借金じゃありゃしない。日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでいて、一等国を以て任じている。そうして、無理にも一等国の仲間入をしようとする。だから、あらゆる方面に向って、奥行を削って、一等国だけの間口を張っちまった。なまじい張れるから、なお悲惨なものだ。牛と競争する蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。その影響はみんな我々個人の上に反射しているから見給え。こう西洋の圧迫を受けている国民は、頭に余裕がないから、碌な仕事は出来ない。悉く切り詰めた教育で、そうして目の廻るほどこき使われるから、揃って神経衰弱になっちまう。話をして見給え大抵は馬鹿だから。自分の事と、自分の今日の、只今の事より外に、何も考えてやしない。考えられない程疲労しているんだから仕方がない。精神の困憊と、身体の衰弱とは不幸にして伴なっている。のみならず、道徳の敗退も一所に来ている。日本国中何所を見渡したって、輝いてる断面は一寸四方も無いじゃないか。悉く暗黒だ。その間に立って僕一人が、何と云ったって、何を為たって、仕様がないさ。僕は元来怠けものだ。いや、君と一所に往来している時分から怠けものだ。あの時は強いて景気をつけていたから、君には有為多望の様に見えたんだろう。そりゃ今だって、日本の社会が精神的、徳義的、身体的に、大体の上に於て健全なら、僕は依然として有為多望なのさ。そうなれば遣る事はいくらでもあるからね。そうして僕の怠惰性に打ち勝つだけの刺激もまたいくらでも出来て来るだろうと思う。然しこれじゃ駄目だ。今の様なら僕は寧ろ自分だけになっている。そうして、君の所謂有のままの世界を、有のままで受取って、その中僕に尤も適したものに接触を保って満足する。進んで外の人を、此方の考え通りにするなんて、到底出来た話じゃありゃしないもの―」   『それから』より


夏目漱石の真骨頂、名文中の名文!これぞ文学と僕は言いたい。時代を映し、その鋭い観察による批判と問題の提議。社会のせいにするなという声が聞こえてきそうであるが、僕たちは生まれるやいなや社会に放り込まれ、その時代も風潮も、ルールも知らずに生きなければならない。社会はすでに厳然と存在していて、誰もが新参者というわけ。だからその社会に必然的に合わせなければいけないのであって、不満や不平の一つや、二つ言ってもいいだろう。社会が悪い。その通りだ。けれども、社会が悪かろうがなんだろうが、生きなければならないし、そのために多くのことを学び、知りらなければいけない。それが第一ステップ。そうして、その課題をクリアして余りある実力者と有能な人間が新たな文明、歴史を作り上げる。しかし、この部分を読んで多くの人が気づくだろうが、100年も前に書かれた小説「それから」が描く当時の日本と、現代日本と大きな違いがあるだろうか?借金が多くあって、皆が皆神経衰弱に陥っている…。こうした場合に社会や政治の細かい点を議論するのはナンセンスだと僕は考えている。借金や教育、労働という点においてすべて改善されているということは大きな意味を持たない。相対的なものを絶対的指標で計ろうとするのは無駄であり、誤りだ。歴史や社会が相似形で推移しているということには変わりないし、それが改善というにはあまりに人々の苦しみや不公平、不平等が日常でも目につく。

まさに、「人間が歴史から学んだことは、歴史から何も学んでないということだ」という言葉どおりなのだ。

必要以上に働こうが、頑張ろうが、努力しようが、つらい思いを重ねようが、結局のところ何も変わらず、労働に労働を重ね、苦しみに苦しみを重ね、つらい思いの上につらい思いを重ねていく…。僕たちはもはや何にも制限されなくていい。社会は悪い。僕らは悪くない。結局のところすべてが悪い。だから自分だけは正しくあろう!なんという素晴らしい思想であろう。すべては悪かった。けれども私はその中で正しいことをしてきたつもりだと言い切れることができたら!前世代の残した負の遺産は私たちは知らない。戦争時、日本がアジア諸国にもたらした多大な損害は許されるものではないし、野蛮で非道で、鬼畜の所業だ。僕はその細かいところを知らないが、これだけ連日、長い長い時間反日感情が報道されているところを見ると、そうしたことはあったのだろうと思わざるを得ないし、そう思わないのは馬鹿だ。歴史の流れや、相手の方にも非があろうが、こちらも損害を受けたとしても、問題ではない。矛盾するようだが、殺し合いを否定するつもりはない。子供を殺された親に、加害者に対する殺意を抑えろというのは酷であり、その義務もないと思う。ただし、その殺意の及ぶ範囲は限定するべきであるのに、それを際限なく、ある段階からリミッターが外れたように、ただ快感や悪徳のために殺意を抱くから、大事に至るのである。子供の世界と大人の世界の違いはここにあるのだろう。武器を持ち出したり、もろもろのルール違反をしでかすのだ。

自分の力の及ぶ範囲以上の理想を掲げることをやめ、前世代を意に介さず、次世代には迷惑をかけないという生き方を見出さなければならない。
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テレビCMの商品は買うな 広告が出ている商品でいいものなど一つもない


僕は最近、強く思うことがある。「テレビを見てはいけない」とまで過激に、極端になるつもりはないが、「テレビのコマーシャルで紹介される商品は買うべきでない」ということだ。民放はこのCMで成り立っているため、番組を作るにあたって、その根本にはスポンサーである企業の商品を広告するという目的がある。そのため当然のこと、番組は視聴者の興味を引くようなおもしろおかしい、または刺激的で、感情に訴えてくるような、それでいて手軽で扱いやすいものとなってしまう。なんとか視聴者を獲得しようとあの手、この手を使って、それぞれの放送局がしのぎを削っているのだが、そのやり方はとても気に入るものではない。デジタル放送の利点を使い、ある番組で放送中にじゃんけんを始めるとほかのところでもじゃんけんをやりだすし、中途半端なイベントなどが盛り込まれていて、そういうコーナーを設けている時間がもったいなく、ばかばかしい。ニュースは真実を伝えるといいながら、特に政治や社会に関する出来事は簡単に真意や真実を伝えることができないので、ある立場に立って伝えざるを得ない。自国贔屓になるのは当たり前のことではあるが、どうも国民が意見を持ちにくい問題について軽々しく、あるいはまったく問題に触れずにいる。原発問題は深刻さを伝えないし、靖国神社参拝の問題は複雑極まりないので、感情を揺さぶるだけであまり意味を持たないように感じる。わかった気にさせるニュースと喜びと憤慨、安心と危機感を呼び起こすような内容と構成は見る価値がないのではないかと考えさせる。結局、民放の根本にある商品を売るための方法としての番組だからそうなってしまうのだ。

だから自然とテレビも見ると害になるという結論を得るわけだが、すべての番組をそう結論するつもりはないが、ほとんどはそうだといえる。だが、それ以上にCMで紹介される商品は僕の感覚ではぼったくり商品でしかない。多額の金をかけて、スポンサーになり、広告料を支払っているのである。お茶の間をにぎわす有名人が多額のギャラによって贅沢な暮らしをして、成功者と紹介されたり、みなされているのを僕は見るたびにうんざりする。その商品の値段のどれだけが、その広告料を占めているか考えてみるとぞっとする。マクドナルドやコカ・コーラを筆頭に、これらの広告効果は絶大であるが―テレビに限らず、スポーツや街角、あらゆるところで広告になっている―商品自体の価値は全く話にもならないものだ。うまくもなければ、環境にも悪い。当たり前だ。粗悪な材料に、効率のみを重視(効率を重視することはごみや無駄を出すということと殆んど同等である)しているのだから。

こんなことを考えたのも、近所のパン屋でハンバーガーが売られていて、僕はそのお店のパンが好物なのだが、マクドナルドなどと値段は大差なく、断然おいしいのだ!広告など当然どこにも出していないし、CMに出ようはずがない。中部エリアに何店舗かあるようだが、既に高い人気があるからCMの必要はなし、ということなのだろうか、同じことがどのような商品についても起こっている。ラジオが視覚を喜ばせなかったために、テレビが受け入れられたように、その視覚情報が強すぎるために―つまり、買わせようという意図―やがてテレビもやや敬遠されるようになるのではなかろうか。

広告が出ている商品でよいものなど一つもない。
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私たちは何も否定できないし、批判することもできない


「僕は失敗したさ。けれども失敗しても働らいている。又これからも働らく積りだ。君は僕の失敗したのを見て笑っている。―笑わないたって、要するに笑ってると同じ事に帰着するんだから構わない。いいか、君は笑っている。笑っているが、その君は何も為ないじゃないか。君は世の中を、有のままで受け取る男だ。言葉を換えて云うと、意志を発展させる事の出来ない男だろう。意志がないと云うのは嘘だ。人間だもの。その証拠には、始終物足りないに違ない。僕は僕の意志を現実社会に働き掛けて、その現実社会が、僕の意志の為に、幾分でも、僕の思い通りになったと云う確証を握らなくっちゃ、生きていられないね。そこに僕と云うものの存在の価値を認めるんだ。君はただ考えている。考えてるだけだから、頭の中の世界と、頭の外の世界を別々に建立して生きている。この大不調和を忍んでいる所が、既に無形の大失敗じゃないか。何故と云って見給え。僕のはその不調和を外へ出したまでで、君のは内に押し込んで置くだけの話だから、外面に押し掛けただけ、僕の方が本当の失敗の度は少ないかも知れない。でも僕は君に笑われている。そうして僕は君を笑う事が出来ない。いや笑いたいんだが、世間から見ると、笑っちゃ不可ないんだろう」

「何笑っても構わない。君が僕を笑う前に、僕は既に自分を笑っているんだから」    『それから』より


僕もこの手の批判と誹謗を何度も受けたので痛切にこの言葉ともに相手の姿と表情が思い出される。甘いだのずるいだの、逃げているだのと我慢のならない言葉を幾度もかけられたが、僕はその都度もちろん相手を笑うことなく、ただ我慢と辛抱、そして失われた信頼を悔やんでいた。生き方が違うということが何よりもお互いを認め合うということに障害となるらしい。

「どうして私は頑張っているのに、あなたは頑張らないの?こんなに私はつらい思いをしているのに、あなたはちっともつらそうじゃない」というゆがんだ平等観と悲劇のヒロイン、あるいはヒーローぶりにイライラさせられる。日本人特有の美徳?とも思えるつらく、苦労している 人間はすばらしいという偏見。しなくてもいい苦労や辛さを肯定する必要がどこにあるのだろうか?僕から言わしてもらえば「そんなにつらいのならやめれば?がんばりたくないなら、がんばらなければいいじゃん。結局辛い思いをして、苦労している自分が気持ちいいだけで、それを強制するのはやめてもらえる?」となるわけだ。現に僕は表面的な物足りなさ、不足があるのかもしれない。買い物をするでも、何をするでも、常に頭の中のそろばんをはじいて、貯金額と、その月の出費の概算を出して生活をしなければならない。僕は別にそれを苦とも思わないし、節約や節制、無駄を省くということに誇りと楽しみをもっているからむしろ心地よい。大概、そうした相手を批判するような奴らは欲の塊で、独断的で、みんなが自分と同じだと勘違いしている。相手はあなたとは全く違った価値観と性格を持っているということを早く気付くべきだ。あなたは自分が最も優れていて、相手にもその優れた思想を教えてあげようとして、僕に痛切な言葉を浴びせているのだろうが、僕はそうしたことをわかっているから何も言わない。ただこうして、真実だと思うから、全く別の次元で語っているまでだ。だから、僕も強制も批判、否定をするつもりはないが、提案程度には発言したい。

「だって、必死に働かなければ食べていかれないもの」

そんなこと僕の知ったことではない。社会が悪いと思うなら社会を批判すればいい。それでもだめなら、社会に直接働きかければいい、それでもだめなら、黙っているしかないではないか。その矛先を僕に向けることはやめてもらいたい。僕だって同じだ。だから全く働いていないわけではない。それに、働かなくて食べていかれるなら、それはそれでいいではないか。文句を言われる筋合いではない。人生は幸福になるためにあるのであるから、その人が幸せに無事暮らせているなら何の批判の必要があるのか?しかも、そうして必死に働いているあなたは、十分いいものを着ていて、いい車に乗って、きれいな家に暮らしていて、食べていかれないも何もあったものではない。僕はブランドバックをたくさん買うことに生きがいを感じているらしい人に全然働かない、怠惰な人として批判されたが、僕はそんな虚栄心をひどく喜ばす持ち物の何一つとして持っていないのだが?それが見えないらしい。とにかく、自分の恵まれている部分やいわゆる世間的平均値を超えているものを自覚して、いろいろなものに判断を下すべきだ。結局自分がしたいようにやって、その通りになっているというのが現状なのだ。だから社会の何も否定できないし、批判することもできないはずなのだ。
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稀有なものは稀有なもののためにあるのだ


多数者と一致したいという悪趣味は棄てられなければならない。「よい」ということも、隣人がそれを口にするときには、もはや「よい」ではない。そこで、「共有のよいもの(共有財)」などというものがどうしてありえようか!この言葉は自己矛盾である。共有でありうるものは、殆んど常に価値のないものばかりである。結局、いまもそうであり、かつてもそうであったように、これからもそうでなければならない。偉大な物事は偉大な人間のために、深淵は深玄な人間のために、繊弱と戦慄は繊細な人間のために残っている。つまり要約して言えば、すべての稀有なものは稀有なもののためにあるのだ。


「私たちは何のために生きるのか」この問いは他者と自分という明確な区別、すなわち自我の芽生えとともに生まれ、だれもが一度は考えてみたことがあるだろう。一度きりでその問いを忘れてしまう楽観的で無分別な人間は幸いなるかな!その問いを一生をかけて問い続ける、一見すると、あるいは多くの人たちにとっては悲劇とも見える生き方をする天才、あるいは不撓不屈の精神の持ち主が世界には、歴史には存在した。僕は当然彼らほど卓越した才能も精神も力もなく、一生問い続けるだけの辛抱強さですらない。僕はとりあえず背負っていた荷物を一度おろすように、答えを提出し、人生に対して一歩を踏み出すことにする。人生に対する意味付けは自分自身ですることができるのだ。もちろん、真理のようにどこかにあるのかもしれないが、それを探し出し、発見することは生半可なことではない。人生は短い。途中式でもいいから解答用紙を埋めていくような作業をしていかなければならない。途中で書き換えたり、方向転換することも可能だ。しかし、筆を進めなければ、人生に何も残せなかったということにもなりかねないから危険である。

人生に何かを残す?具体的に何を?誰もが生きた証を、この世界に自分が生きたという証拠を、残したいのではないか、少なくとも本能としては種の保存に見えるように、自分の遺伝子、すなわち生きたという事実、痕跡を残そうとして生きているのだ。そして僕は遺伝子よりも優れていると思われる、人間特有の思考と思想、苦悩の跡と人生の足取りと運命の導きを残すためにこうしてブログを書いていくということをしているわけである。いかにも現代的でいいではないか。紙などのアナログではなく、デジタルに実体のないweb上にそれらを残す―というよりもとどめているのである。非常に不安定な状態で、残るかどうかも分からないところに書いているのだから、低姿勢で謙虚でなかなか僕には合っている。不必要であるなら―僕はもちろん価値を認めているのだが―誰にも読まれず、腐り、忘却されればよい。ただ僕はニーチェやショーペンハウアーの言うように、「稀有なものは稀有なもののためにあるのだ」ということで、自分のような人間、特に悩み多き青年、少年、そしてその時代を忘れてしまった大人たちに残すのである。励ましであり、参考になればいいくらいに思っている。人生の右左もわからない僕に分別をつけてくれたのは読書であり、先人の言葉であった。僕もどうか、せめて彼らの励みとなるような生き方をしたいと思う。
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理想と期待 自分の取るに足りなさ 自身を知れ


なにごともそうであるが、慈善にも天才が必要である。「善行」といえば、それだけでも手に余るほどの仕事だ。しかも、私は自分でもかなり熱心にそれを試してみた結果、奇妙に思われるかもしれないが、善行は自分の体質に合わない、との確信を得たのである。おそらく私は、社会がこちらに押しつけてくる善をなすために、いや、たとえ宇宙を破滅から救うためであろうと、自分に与えられたかけがえのない天職を意識的・意図的に捨て去るべきではないであろう。こうした精神に似てはいるが、比較を絶して偉大な、ある不動の精神がどこかに存在するからこそ、いまも宇宙は破滅をまぬがれているのだと私は信じている。かといって、ひとさまが天才を発揮するのを邪魔立てする気など毛頭ない。また、私が辞退するこの仕事に全身全霊を傾け、命懸けで取り組んでいるひとに対しては、たとえ世間が悪く言おうが(いかにもありそうなことだ)、「とことん、おやりなさい」と申し上げたい。   『森の生活』より


僕はまず、自分自身に対して自信を持ちすぎ、そして期待をし過ぎていた。文学に没頭すれば偉大な作品のひとつは書けそうに思えたし、物質的な富も努力と真面目さによって得ることができると考えていた。しかし、僕にはそのために必要な天才というものが欠けていたようである。小説を書いても、結局僕自身がそれをおもしろいと感じない。だから長続きせず、そのうちに頓挫してほっぽり出してしまう。こんなものつまらない駄作だといって闇に葬り去りたくなってしまう。結局飽きっぽく、それ以上に文学が真に深い心の内情としては好きではないのだろう。思えば、読書ということがずっと好きではなかった。文字を追って頭の中で形成されていく世界にはどこか刺激が足りないようであった。けれども、人間はなんであるか?どのように生きるべきかという哲学的な問いに対しては大きな興味を持っていたから、そうしたことに触れている、いわゆる文学作品には多少の興味をひかれていたのだ。哲学書を読むほど、学問を好まず、どのような小説も楽しめるというほどの読書家ではなかったわけである。そうしていま、僕は文学という道を自分の人生の側道ということにしようと考えている…。文学や詩に生きるにはあまりに僕は現実主義者でエゴイストであった。詩情やロマンに対してどこか冷めたところがある。旅愁や郷愁を思う心はあれど、この世界が輝かしいとは思えず、また厭世的にもなれないから、所詮人の心に感動を呼び起こす言葉を発することはできそうにない。それは現にこのブログで痛感している。ひたむきさと真面目さはあっても、情緒やおもしろみに欠けている。共感を呼ぶことを期待していないから当然だ。

自分という人間を理解せずに、世界に対してなにかを期待したり、憤慨したりするのはおかしいことだということになぜ気が付かなかったのだろうか。「自由であったら、自分は何をするか?」こうした単純な問いを自分自身にしてみなかったのはなぜだろう。答えは「特に、何もしたいことはない」なのだ。有り余るお金があったとしても僕がほしいものはしれているし、世界中を旅したところで結局はむなしい。僕が期待するほど素晴らしいものに出会えそうにないし、自由な状態にある上での旅になんの感慨があるだろう。すぐにそんな旅をやめて、仕事でもしそうである。結局はどこかに世間との一体感を求める自分を見出すだろう。といって仕事もまた、極端に僕を縛ることになろうからすぐに嫌になってしまうだろう。家族でもずっと一緒にいるとうんざりしてしまうのに、他人であったらうんざりせずにいられるだろうか。きっと僕には一人の時間が必要に違いない。それを埋め合わせる人がいないのではなく、僕自身の人間性がそれを許さないのだからどうしようもない。

気負わずに、理想を掲げずに、周りに自分に、期待せずに、自分を感情に入れずに過ごせないものかしらん。実現されない理想を求めて日々悩みもがくくらいなら、いっそのこと人生と世界に無頓着になって、ただただつましくひっそりと暮らしてみようか。それはそれでこんなに素晴らしい世界を知らずに生きるなんてという気がしてきてしまう。やっぱり中庸ということで、それを懸命に探し求めていかなければならないのかな。汝自身を知れとはよく言ったものだ。つまるところ僕がすっぽりとはまるような暮らしと生活、人生がどこかにあるはずで、それを見つけなければいけないのだ。理想も期待もそれは理性が導き、想定しているもので、僕自身はつまらない天才を与えられた人間であるかもしれないから、そういう人間には理想も周りの働きも必要ないということになる。自分を大きく見過ぎてはいけない。
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独立のために自らを保持する


人々は独立し命令するように予め定められているものだということに対して、自分自らに試煉を与えなければならない。しかも時を逸することなくそうしなければならない。その試煉が恐らく彼の賭しうる最も危険な賭事であろうとも、自分の試煉を回避してはならない。しかも結局において、それはわれわれ自身をのみ目撃者として行なわれ、いかなる他の裁判官の前にも持ち出されない試煉である。決して一人の人格に執着してはならない。それが最愛の人格であろうともだ。―あらゆる人格はそれぞれ一つの牢獄であり、また一つの片隅である。一つの祖国に執着してもならない。それがどんなに苦難に陥り、救いを渇望していようともだ。―勝利に輝く祖国から心を解き放すことは、大して困難なことではない。同情に囚われていてはならない。それが高級な人間の偶然に瞥見した稀有な殉教と絶望に寄せられたものであろうともだ。一つの学問に拘ずらっていてはならない。それが一見して全くわれわれに納っておかれた極めて貴重な発掘品をもって誘おうともだ。自分自らの解放に、ますます多くを眼下に見ようとして次第に高く飛び上がる鳥のあの遥遠と異様を求める欲情に心を懸けてはならない。―そこには飛翔するものの危険がある。われわれ自身の美徳に溺れていてはならないし、また全体としてわれわれの何か或る個々の徳、例えば、われわれの「賓客厚遇」の徳といったものの犠牲になってはならない。高貴な天性をもつ豊かな魂は濫費を事として、殆んど自分自らのことは顧みず、寛宏の徳を悪徳となるまで発揮するが、これこそは危険のうちの危険である。人々は自らを保持することを知らなければならない。これが独立についての最も峻烈な試煉である。   『善悪の彼岸』より


年齢のみを大人の条件と考え、大人は人格が出来上がっているものだから、自らを肯定するのになんの躊躇もないというような大人たち、彼らは決して自分自らに試煉を与えられない。読書の初心者、人格の未熟な若者は、触れた思想、聞いた言葉に強く影響され、すぐに信頼と信用を預けてしまう。今日は信仰心の厚い信者、明日は極端な無神論者、思想が弱く、人格が未熟なものはこのようになりやすい。けれども多読に時間を費やしたものでさえ、直近の思想にかぶれ、話頭と思考をそれらに支配され、一向思想の向上が期待できないということがほとんどだ。

最近ではカスタマイズということが流行り、いろいろなものを自分好みに仕上げることができる。人間は本来こうした自分好みにすることに特化してきたし、本能的に好むところであった。生活を自分に合ったものにしてきた。それを今ではなぜだかしらないが、ルールを作り―そこまではよかったのだが、ルールに縛られるようになってしまった。個性を持て、ということが言われるようになっていくらか時間も流れたが、結局わがままや自分勝手でいい、というように解釈されて、一層事態は深刻なものとなっている。互いが互いを邪魔しあい、阻害しあうという悲劇がいたるところで見受けられる。ニーチェは個性を持てなどというわかりにくい、相手に高いレベルを要求するような言葉を用いず、「自らを保持することを知れ」と言っている。そしてこれが独立に通じると。物事や他社の思想、暮らしぶり、思考に左右されず、惑わされずに、自らを保持するために利用する。いつでも自分に独立を命じる。誰かと同じであるということは決してありえない。皆が同一の人間であろうと欲したところで、やはり独自性というのはどうしても出てきてしまう。それが個体であり、対称性の破れにより生み出された世界の仕組みということになろうか。独立のために、自分を保持する。負けず、倒されず、まっすぐに自分であり続ける。難しいことだが、この人生でやろうとチャレンジする価値のあることだ。
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「善く生きること」、それは友情と愛情


ソクラテスが言ったとされる言葉、「大切なことは単に生きることではなくて、善く生きることである 」

哲学がここから始まったように、僕もまた「善く生きること」について考え、そのために生きるようになった。それは僕が高校生のときのことだった。

これはつまり「生きる」ことに目的を見出すということであって、人間には生きる意味があるのかもしれないと探ることだともいえるかもしれない。そしてその目的や意味として、神や良心、善や美という概念が生み出され、用いられてきたように思う。その過程には認識については「われ思う、ゆえにわれ在り」のような自我の発見、「純粋理性批判」における覚知と理性作用との隔絶の究明、「善悪の彼岸」に見るところの神や宗教、「自然に従え」や文明や時代を至上主義とするような既成概念に対する懐疑と批判、一方で「森の生活」に描かれる現代批判とストイックなまでのミニマリズム。

このように思索し、思考していくと矛盾するようで、それぞれがバランスよくはめこまれるような規範というものにいたれそうな気がしなくもない。すなわち、「善く生きる」ための指標はもう失われてしまったといっていい。宗教はもはや古いと僕は考える。「人を殺してはならない」と宗教が教えるから人を殺さないのではない。人を殺す理由がないから人を殺さないのである…では、その理由があるとしたら?もし愛する人を殺されたとしたら、その人を殺してはいけない理由が僕にはどうしてもみつけることができない。愛する人を失った後の人生がどれだけ悲痛なものであろうか。それの原因に対して何の感情も抱くなということは不可能である。けれども、愛は少なくとも愛でしか償うことができない尊いものだ。だから誰もが愛を知らなくてはならない。愛が世界にあふれなければならない。一人で生き、一人で死んでいくことを望んでいる人など一人もいない。みんな誰かから、できれば多くの人に愛されたいと思うし、自分も多くの人を愛したいと思うだろう。しかしながら、愛を持っている人でなければ、愛を感じることができない。たとえ僕がここで愛を語ろうとも、それを理解する人は少ないに違いない。僕はなるべく多くの素晴らしい言葉や考えをここに記してきた。だが、結局そうしたものを求め、知っている人がそうしたものに対する感覚を持っていて、このブログを訪れ、読み、少なからず心に響く何かを感じるのであって、愛や知識、探求心や世界に対する目を持つべき人間は永久にそうしたものを求めないから、触れる機会を得ず、ずっと世界におけるつまらない存在であり続ける。僕自身も矛盾を感じている。こうした言葉を連ね、記すことは実は、先人たちの思想を汚し、価値を貶めているのではないだろうかと。僭越にも僕は自分の思想を吐露している。貧弱で浅はかな思想だ。多くの先哲たちが残した言葉と思想に比べればそれは明らかだ。生きるための大義はなくなった。芸術や文学は気取らない程度にやるがいい。よき思想とよき友を持て。生きること、働くこと、旅すること、それらがつまらなくなるのは、そこに情がなくなったときだ。一緒に生きる人、一緒に働く人、一緒に旅する人、あるいは旅先で出会う人、そうした人たちとの間に愛情や友情や、そうした心のこもったやりとりがあれば、退屈ではないはずだ。

「善く生きること」、それは善き友人・仲間を持つこと、愛のやりとりを日常で行うこと。

ではそうしたことを実現するためには何をするべきであろうか?それを少し考えてみることにする。
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プロフィール

hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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