人生、ことにそれを形成する生活の本質

何エーカーかの土地を相続した、ある知り合いの若者は、財産さえあれば自分もあんたのように暮らすんだが、と私に言った。だが私は、ひとさまに決して私流の暮らし方などまねてほしくない。そのひとが私の生活法をどうにか習いおぼえる前に、こちらは別のやり方を見つけてしまっているかもしれないということもあるが、世のなかにはなるべくいろいろな人間がいるほうがよいと思っているからだ。むしろめいめいが、父や母や隣人のではなく、自分自身の生き方を発見し、それをつらぬいてほしいものだ。青年は、家を建てるなり、木を植えるなり、海に乗り出すなり、好きにするがよい。ただ、本人がやりたいとこちらに言っていることが、さまたげられることのないようにしてあげたい。船乗りや逃亡奴隷が北極星から目を離さないでいるように、数学的な一点を目指すことによってのみ、われわれは賢くなるのだが、これは一生の指針としても十分に通用する。予定の期間内に目的港にたどり着くことはできないかもしれないが、正しい航路を進みつづけることはできるのである。   『森の生活』より


『森の生活』が教えてくれることは、「森で生活すること」であろうか?森での生活はあくまでソロー自身が自分の生き方の選択として採用したに過ぎない生活であって、その教えるところのものは、「人生、ことにそれを形成する生活」の本質なのである。私たちは主人に仕え、主君に仕え、国家に仕え、両親に仕え…というように歴史を歩んできた。現代の人には天皇万歳を叫んだ人や特攻隊で飛び立った若者たちの思想と気持ち、感情を理解することはできないだろう。人間の利己心はどんどん大きくなっていき、自分を第一に考えるようになってきた。それでも教育や慣習というものは常に一つ時代が遅れたままで存在するものであるから、そうしたエゴイズムのなかにあっても、おのずと時代風潮と強大な力へと人生の目的港が定められてしまっている。そうしてとうとは気づかずに私たちは歩みを続ける。そのように私たちの人生の目的というものは権力によって、あるいは信仰によって他から定められた一点、形式をも含めた限られた人生が求めるべきものとして教育され、奨励されている。画一的な生き方が結束による安心感とでもいうものをもたらし、安住の地の観を呈し、それにそぐわぬものに対しては厳しい批判と、排他運動がおのずと持ち上がってきた。そうした問題が起こるのも、理想は常に理想であるにもかかわらず、その時代の権力者や実力者が、その力を誇示しようと理想を現実へとすり替えることに懸命になるからなのだ。答えがないものに、答えが与えられることに人間は弱い。脆弱で表面的ななんの証明も伴っていない答えであっても、人々は飛びつき、どれが答えであると頑強になる。しかし答えなどないのだ。日々理想に近づこうと努力と思索を続けるよりほかない。そしてみながそれぞれの生き方を模索し、実践し、見つけ出していけばいい。そういう生き方をしていってこそ、社会の不備や倫理の誤謬、人間の本質、ひいては真理ということが徐々に明らかになっていくに違いない。時代には時代に合った生き方もあり、一人ひとりの個性に合った生き方というのがあるに違いないから、だれも生き方を強制してはならない。その生き方の一例として、しかも実践力と表現力、なにより人生に対する真摯な姿勢を持っていたソローの人生観とその記録は大きな意味を持つ。今一度、たとえわが人生に満足している人であっても、見なおしてみて、より高級で高尚な人間とその生活を送ってみようではないか。
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高級なもの、高尚なものは人を選ぶ


高級な種類の人間には栄養や清涼剤として役立つものも、それとは非常に違った劣等な種類の人間には殆んど毒に近い。通俗な人の美徳は、哲学者にあっては恐らく悪徳や弱点を意味するであろう。高貴な素質の人間が頽廃し破滅するとしたら、彼はこれによって始めて、彼が落ち込んだ低劣な世界のうちでいまや聖者の如く尊崇されるに必要な諸性質を所有するに至るということは、ありうべきことであろう。低劣な魂、劣弱な生命力が読むか、または高級な魂、強壮な生命力が読むかに応じて、魂と健康に逆の価値をもつ書物があるのだ。前の場合には、破壊的・解体的な危険な書物となるし後の場合には、最も勇敢な者たちを彼らの勇敢さへと励ます伝令官の叫び声である。万人向きの書物は常に悪臭を放つ書物である。民衆が飲み食いするところでは、崇敬するところでさえも、常に息が窒るものだ。清浄な空気を呼吸したい者は、教会へ入ってはならない――   『善悪の彼岸』ニーチェ著より


フリードリヒ・ニーチェは過激だ。しかしゆるぎない信念と力強さによって読む者は刺激を受け、触発され、生きる希望、人類愛、真の自己愛に目覚める。孤独や苦境に負けない強い意志、生命力、そうしたものこそが私たちを幸福へ導き高級で高貴な人間たらしめるのである。僕は思う、結局のところ、自分の哲学、思想を持とうとしない者は低劣であり、また哲学や思想ではなく、偏見や独りよがりに拘泥してしまっている者は劣弱であるといえるのだと。哲学や思想を発展させ、育て、力強く鍛えてくれるものこそが良い書物であり、良い師ということなのであろう。万人や民衆というものはそうした哲学や思想を欲しないから、当然の帰結としてそういったエッセンスの含まれていない書物や師、友人をもつ。だから世の中は哲学も思想もない、ただ快楽や面白みという仮面をかぶった滑稽さ、感覚器官を表面的に刺激する刺激物で構成されているものにあふれているのだろう。僕はそうした刺激物や臭気を帯びた趣味には我慢できない。出来の悪い人間には例えば里山は無駄な土地の利用法だと感じられ、家を建てるなり、削って投機に利用できるようにすればいいのにと考えるだろう。だが、優れた高貴な精神の持ち主ならば残されたあるがままの豊かな自然に言葉を失い、ただただ懐かしさと偉大さを感じるに違いない。人が踏み入ることすら畏れ多い、神々の宿る山というような里山を見たことがない人も多いかもしれないが、自然の偉大さに触れてみるといかに自分たちがちっぽけで無力な存在であるかがわかる。自然はいつでも私たちを鑑定し、力試しとでもいうような試練を与えてくる。それを私たちが力でねじ伏せようとしても無駄なことは経験的に生きれば生きるほどわかってくるはずなのだが、ずいぶんこの世に世話になっているいい年をした大人たちの多くが物わかりが悪く、まともな生き方を示せないというのはどういうことなのだろうか。しかし日々にうんざりしていても、ときどきこうした書物や師、友人に出会い、勇敢さへの励ましの号令を遠くに聞くような思いに至ると、改めて強く生き、日々に負けずに高いところで生きようという思いを新たにするのである。
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平穏主義、もっと自然なことをやろう


私には私なりの好みがあり、とくに自由ということがたいせつだったし、きりつめた生活をしてもうまくやっていけたので、いまのところは高価なカーペットとか、そのほかの立派な家具類とか、おいしい料理とか、ギリシアふう、もしくはゴシックふうの家などを手に入れるために時間を費やしたくはなかった。こういうものを獲得することが、自由な生き方のさまたげにならず、いったん獲得した場合にも、その利用法を心得ているひとがいるなら、そういった仕事はおまかせすることにしよう。なかには「勤勉」なひとがいて、労働をそれ自体として愛しているようであるが、あるいはもっとわるいことをしなくてすむから愛しているのかもしれない。こういうひとたちに対しては、さしあたりなにも言うことはない。いま以上に暇ができても、どうしていいかわからないというひとに対しては、いまの二倍働くようおすすめしたい。自分の身柄を買い戻し、自由の証書を手に入れる日まで働くことだ。一方、私のほうは、日雇い仕事こそ、とりわけ独立性の高い職業であることを知った。なにしろ、年に三、四十日も働けば暮らしていかれるのだから。労働者の一日は日没とともに終わり、あとは労働から解放されて、自分の好きな仕事に没頭できる。ところが雇い主のほうは、来る月も来る月も経営に腐心し、一年じゅう息つく暇もないのである。   『森の生活』より


人間の歴史は自由の獲得への道筋である。文明は生存のための利便性の追求であった。しかし今では欲望を満たし、助長するために文明は発展を続けている。すなわち、原始的な生活をしている少数民族と私たち現代人との文明の優劣というものは簡単には評価することができない。いずれにしても進化論と生存本能に基づいた人間の営みの結果である。

文明社会に生きている私たちはこのソローのように社会から外れて生きることが非常に難しくなっている。たとえば、池のほとりであれ、おそらく勝手に住居を建てたら法律に従って、壊されてしまうか、罰せられてしまうだろう。この日本の国土に誰のものでもない土地などどこを探しても見つからないのである。荒れ果てた裏山でさえ誰かの持ち物で木々を植えたりすることさえできないのだ。したがって土地を買うか、借りるかしなければ私たちは生きていかれない。それから年金を支払うのは本国では成人の義務とされているし、国民健康保険などは保険としてはもちろんのこと、市民としての保証書というような働きさえもしてしまう。保険証がないということは、社会人として認められないのである。そして、そうした一見すればホームレスと変わりのないソロー的生活を一度送るとなると、社会復帰ということは非常に難しいだろう。こうした想定をするのも、いつ体調を崩すかわからないし、食物の不作、あるいは天災によって住居や食料を奪われた場合に、どうしても社会や人の助けが必要にならなければならない場合がないとはいえないからである。けれども考えてみれば、そうした事態は決してこうした森の生活をしていなくとも陥ってしまう可能性があり、そのための対策を私たちは取っていないことが多い。とはいえ、社会に属しているということは最後の最後まで私たちを見捨てるようなことはしない。だからそもそも私たちは国家を作ったわけであるのだ。ただこうした国家、社会にあって、国民と契約関係にあるというのがどうしても腑に落ちない。インフラ整備やその他、国力、公務員の整備にあてるのではなく、社会保障一般に税金などの国費の大部分を当ててほしいものだ。私たちは第一に安心と自由を獲得したいのであって、国力と世界での地位を得たいのではない。ましてやこれ以上文明的快適さを求めてはいない。なぜならすでにその快適さは大きな危険を内包するものに変わってきてしまっているからだ。

飽食の時代、住居の飽和状態、理論上生きるために必要な材料はそろっているのだから、人々が苦しまなければならない状況など出てこないはずではないか。働くといったって実際のところそれほどしなければならないことなどないではないか。衣食住にかかわるものだけは必要であり、手間もかかることなのでそれに見合う報酬があってしかるべきだが―ところがこれらに関する仕事の賃金は安い―、社会上の手続きの仲介やら娯楽に供することなどは何時間も費やしてやるべき仕事でもない。生活ましてや命に係わることではないのだから、気休め程度にやっていればいいではないか。みんなが一生懸命働かなくなって、元気がなくなって、日本は衰退する?よいではないか。格差がなくなり、お金があってもできることがしれているなら犯罪も減るに違いない。それでも不自然な、高いところに登ってみたり、巨大なものを作ってみたりしたければ勝手にすればいい。

田舎に住んだことのない人間には田舎の良さがわからない。そして田舎に住んでいた人は都会に容易に進出できるが、都会から田舎に行くのは手間がかかるし、知恵もいるから容易でない。だから馬鹿で知恵のない働くことしか脳がない人間がたくさんできる。それで大変だの、その割に賃金が低いだのと言って、成功したい、経営者を目指す!と意気込んで、その実、経営者や金持ちというのはそれなりのリスクや犠牲を払っているのが、てんで見えていないのである。とてもじゃないが経営などしたくはないし―自分はおろか会社や社員の面倒までみるなんて御免だ―、金持ちになるころは少なからず人から知られるということだから、自由が急激に制限を受けて不自由になる。平穏主義、もっと自然なことをやろう。日本には日本のやり方、国家、国土にあった経済のありかたを考えよう。原発やらたくさんの空港やらがどうして必要か?山を削りダムを作って、狭い国土の小さな都市に人が集まり、コンクリートを塗り固めて不自然極まりない生活を送っている。日本は本来、素晴らしい自然と風土、それに伴う美意識を持った地域なのだが残念だ。
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哲学について 僕の読書遍歴と照らし合わせて


独立であるということは、極めて少数の者にしかできない事柄である。―それは強者の一つの特権なのだ。そして、そうするに極めて十分な資格があるにしても、そうしなければならないわけでもないのに、独立であろうと試みる者は、それによって彼が恐らく強いばかりでなく、むしろ放縦なまでに果敢であることを証拠立てる。彼は迷宮に入り込んでいく。彼は生そのものがすでに伴っている危険を千倍にもする。彼がどのように、またどこで道に迷い、孤独に陥り、良心という洞窟のミノータウロスが何かによって切れ切れに引き裂かれるのを誰も目撃しないということは、決してそうした危険のうちの最小のものではない。このような者が破滅するとしたら、それは人々の理解の及ばないほど遠いところで起こることであって、彼らはそれを感じもせず、それに共感することもない。―そして、その者はもはや帰って来ることができないのだ!彼がもはや帰りえないことを人々が同情しようとも!――   『善悪の彼岸』より


さすがニーチェ、語るべき何もない。これほどまでに「独立」ということをはっきりと明瞭に簡単に詩情を込めて表現できるとは、恐れ入った。彼は哲学者の域に収まらず、その文学的素養と詩情から一個人の人間としても大変に優れていたことがわかる。

哲学というとなんだか難しく、わかりにくいというイメージがある。僕もそうだ。哲学は敬遠しがちだし、理解力も乏しく、哲学書の読書量も心もとない。しかし、読んでおくべき人は読んでおきたいという気持ちは、一般人と同じく、それをいくらか実行に移せているとはいうことができそうだ。

読むべき哲学書とはどういったものであろう。ギリシャ哲学のソクラテス、プラトンに始まり、かつての学生の間では常識であったという「デカンショ」、身近でときどき話題にも上がる「論語」をはじめとする東洋思想、最近ではインド思想なども注目を集めていたりするそうであるが…。このように哲学にも体系があり、歴史がある。時代が進めば当然、多様化し、複雑になる。邪道がまかり通り、つまらない亜流が増え、正道が見えなくなる。つまり真理のための哲学ではなく、哲学のための哲学、もっと非道なものになると、生活のための哲学、私利私欲のための哲学が現に存在している。

このブログをお読みいただいてる方に、ぜひ指摘していただきたいのは、僕の読書遍歴やその価値基準に誤りがないかということであるが、実を云うとまず、「プラトン」の著作を一つもまだ読んだことがない。これには理由があって、かなり古いものであるし、それ以後のものを読むことでおのずとプラトンの説いた哲学がわかるに違いないと思っているし、現代にはあまりにそぐわない箇所が多く、また後に指摘され、否定されるような事柄も多分に含まれているだろうと考えているからだ。ゆえにギリシャ哲学ではその代表、ストア派のセネカと『自省録』を読むことにしたのである。それから、古典では『論語』、そのほかは「荘子、孟子、老子」はかじる程度、聖書、そして近代思想では「方法序説」デカルト著、「純粋理性批判」カント著、「意志と表象としての世界」ショーペンハウアー著、そして「ツァラトゥストラ」ニーチェ著などが主に読んできた哲学書である。「カンディード」ヴォルテール著や「エミール」ルソー著なども哲学に入るとしたらそういったもの。ドストエフスキーの著作などをみても哲学者よりもよっぽど哲学的であるというものもあるし、一概に哲学者の哲学書だけをもって哲学とはいえなさそうであるし、逆にウィトゲンシュタインなどはなんとなく哲学、社会思想というような感じがしないので敬遠しているが、実際は偏見でそうではないのかもしれない。
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商人は自然強盗 商売はあらゆるものに呪いをかける 地球という船を破壊し、乗客である私たちとともに沈む。


商売を手がけてみたこともあるが、軌道に乗せるには十年もかかることがわかったし、そのころには自分が悪魔の誘惑に屈してしまいそうだった。

(中略)

商売というものは、それが扱うすべてのものに呪いをかけることを知ったのだ。たとえ天からのお告げを商うにしても、商売につきものの呪いは、そっくりその仕事にふりかかるのである。   『森の生活』より


私にとってのお客さんは、私が作った商品を買ってくれる人。あなたにお金をくれる人を喜ばせるために、自分に投資する。商人にとってのお客さんは、商品を買ってくれる人。また、商人は買ってくれる人に喜んでいただくために、自分に投資する。「お金持ちになりたい」という種を植えてから、「お金持ち」という実がなるまでには十年かかります。「お金持ちになろう」と思って歩きはじめてから、お金持ちになるまでの期間が十年だということです。十年かかるものはかかるのだから、これはどうしようもないんです。   斉藤一人著『お金に愛される315の教え』より


まさかこの「孤独な放浪者の随想」で斉藤一人さんの著書を引用するとは思わなかったが、ソローの『森の生活』の信ぴょう性の高さの裏付けとして、また資本主義における生き方としての代表例、その言葉には合理性があり、道理にかなっていることから思想の参考にもなると思い、取り上げることにした。

斉藤一人さんといえば、知っている方も多いかもしれないが高額納税者日本一になったことがあるという実業家で、お金や経営に関する本をいくつか出しています。僕は特に興味がなかったのですが、一般的ではないめちゃくちゃな生き方をしようとしているから周りからそうした本を勧められるわけで、たまたま読みました。率直に言って、お金や商売は世間の人があくせくし、悩み苦しむほど複雑で難しいことではない。資本主義の原理、お金の働きを考えてみればよくわかることでそれを理解しようとせず、それこそ理にかなわないことを無鉄砲にしようとしているまでで、それを自分一人でやっていればいいものの周りまで巻き込んで不安をあおり、否定し、批判してくる。こちらとしては憐れとしか言いようがないわけで……。

商売の本質はお金であり、お金と商品のやりとりがなければ商売とは言いえないので、この一人さんの言葉がそっくりそのまま商売以外の類似の事柄に適応できるかはまだ、実際の結果データがないのでなんとも言いようがないわけだが、例えばブログについても言えるのではないかなぁと僕は考えている。幾分、縮小された規模で現れるように思う。すなわち、僕の思想であったり、それを記したこのブログがそれなりの評価を(例えば一日のアクセスが500とか)受けるようになるには10年とはいわないまでもやはり、8年くらいは必要ということになるのだろうかということだ。重要なことはそのくらいの予想をもとに、腐らずにコツコツと地道な作業を長く続けていくということだろう。実感として、こうした活動というのは加速度運動であり、最初は大きなエネルギーを必要としながらも、速度は遅く、ある程度加速がつけば力が小さくとも速度は速くなってゆく、そしてまたあるところまでいくと、E=mc^2に見られるように膨大なエネルギーを必要とするほど重さがどんどん感じられ、速度が遅くなるということになるだろう。そうしたことがわかっていれば、どんな活動もそれほど絶望することではなし、気長にやっていこうという気にもなるだろう。

加えて、ソローが言うように、商売は結局のところすべてのものに呪いをかける。その通りだ。私たちは肉体とその作用である言葉や動作によってしか何も創造することができず、ほとんどの商売は自然界に恩恵として与えられているものを強奪、強盗してきてそれに勝手な値をつけて我が物顔で売ったり、使ったりしているのである。石油などは限られた資源であるにもかかわらず、後世のことも配慮せず今にも汲みつくそうという勢いで掘り返している。感謝もなく、したり顔で金を手にする商人の顔が浮かぶ。地球という大きな船をどんどん破壊して、その乗客である私たちとともに沈むのか。
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「自然に従え」の誤謬 『善悪の彼岸』より

おお、諸君、高貴なストア派の人々よ、諸君は「自然に従って」生きようと欲するのであるか。それは何という言葉の欺瞞であろう!自然というものの本性を考えてみたまえ。節度もなく浪費し、限度もなく無頓着で、意図もなければ顧慮もなく、憐情もなければ正義もなく、豊饒で、不毛で、かつ同時に不確かなものだ。諸君はその無関心そのものが力としてであることを考えてみるがよい。―諸君はこの無関心に従って生きることがどうしてできようか。生きること、それはまさしくこの自然とは別様に存在しようと欲することではないのか。生きるとは評価すること、選び取ること、不正であり、制限されてあり、差別的(関心的)であろうと欲することではないのか。そして、「自然に従って生きる」という諸君の命法が根本において「生に従って生きる」というのと同じほどの意味であるとしたら、―諸君は一体どうしてそうでなくありうるというのか。諸君自らがそれであり、かつあらざるをえないものから、何のために一つの原理を作るのであるか。―実を言えば、事情は全く別なのだ。というのは、諸君は我を忘れて自分たちの掟の基準を自然から読み取ると称しているが、実は或る逆のことを欲しているのだ。つまり、諸君は奇妙な役者で、自己欺瞞者なのだ!諸君の誇負は自然に対して、自然に対してすらも、諸君の道徳、諸君の理想を指定し、呑み込ませようと欲している。諸君は自然が「ストアに従って」自然であるように求め、そして一切の現存をただ諸君自身の姿に準じて現存させようと望んでいる。―しかもストア主義の巨怪な永遠の讃美と普遍化としてなのだ!諸君の愛を悉く真理に捧げつつ、諸君はあれほど長く、あれほど執拗に、あれほど催眠術で動けなくされて、自然を誤って、すなわち自然をストア的に見るように自分たちに強いたので、ついに諸君は自然をもはや別様に見ることが不可能になった。

(中略)

哲学はいつも世界を自らの姿に擬して創造する。それよりほかの遣り方を知らない。哲学はこうした僭王的な衝動そのものにほかならず、力への、「世界の創造」への、《第一原因》へのもっとも精神的な意思なのだ。   『善悪の彼岸』ニーチェ著より


懐疑的に生きること、それが僕の信条であった。常識であれ慣習であれ、疑ってみること、それが幸福や正義、大きな意味での善につながると信じたのだ。そうした態度で日々を過ごし、思索と随想を重ねたわけだったが自分でも気づかずにいわゆるストア派哲学に大きく影響されていた。マルクス・アウレリウス著『自省録』は歴史上名高い哲学書であり、岩波文庫の人気図書でもあるから読む機会を得ることとなったし、セネカの『人生の短さについて』などもやはり僕の気を引くものだった。結果的に僕がそうした「自然に従え」という思想を好んでいたということもあるだろうが、そもそも、哲学がギリシャ哲学に始まり、プラトンのイデア論をはじめとする思想は後世に多大な影響を与えていて、歴史の歩みに適応したのはストア派の「自然に従え」の哲学であった。これは現代の民主主義の祖ともいうべきルソーの哲学にも及んでいるということができると思うが、それはキリスト教同様、大体において真理とまではいかないまでも、信頼できる思想というように私たちの世界では認識されているのである。僕も漠然と、自然こそが合理性と調和の完成であるというように思ってきた。自然の摂理は人間には揺るがしえない絶対なるもので、それゆえに神という概念が感得せられた。しかし、だれもが思うように僕自身も弱肉強食、劣等種や障害の出現、病気の存在など自然界には明らかな不具合がある。もちろん自然界にその先に意図や目的があり、そのための方法としてそれらは生み出されざるを得ないということであればまた少し様相が変わるが、いずれにせよそうした手順を取らざるを得ない時点で不完全であるということができると思う。にもかかわらず、そうした自然が絶対善だとして提唱するのはやはり、強い疑問を残す。しかも、私たち人間自体がどうしても自然界の最大の欠陥としか考えられない。私たち人間を自然界に存在するありとあらゆるものから区別するのはそれこそ不自然であり、「自然に従え」とは考えてみたらおかしな命題である。なぜなら私たちは私たちに従えばそれで足りるのであると主張していることになるからだ。そこをニーチェは鋭く指摘している。さて、これからニーチェはどのような思想を展開してくれるのだろうか、大いに楽しみである。
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孤独な放浪者の大きな一歩 拘束時間への抵抗と労働への意味について課題を抱きつつ就職活動 ハローワークへ

「僕は所謂処世上の経験程愚なものはないと思っている。苦痛があるだけじゃないか」

平岡は酔った眼を心持大きくした。

「大分考えが違って来た様だね。―けれどもその苦痛が後から薬になるんだって、もとは君の持説じゃなかったか」

「そりゃ不見識な青年が、流俗の諺に降参して、好加減な事を云っていた時分の持説だ。もう、とっくに撤回しちまった」

「だって、君だって、もう大抵世の中へ出なくっちゃなるまい。その時それじゃ困るよ」

「世の中へは昔から出ているさ。ことに君と分れてから、大変世の中が広くなった様な気がする。ただ君の出ている世の中とは種類が違うだけだ」

「そんな事を云って威張ったって、今に降参するだけだよ」

「無論食うに困る様になれば、何時でも降参するさ。然し今日に不自由のないものが、何を苦しんで劣等な経験を甞めるものか。印度人が外套を着て、冬の来た時の用心をすると同じ事だもの」

平岡の眉の間に、一寸不快の色が閃めいた。赤い眼を据えてぷかぷか烟草を吹かしている。代助は、ちと云い過ぎたと思って、少し調子を穏やかにした。―

「僕の知ったものに、まるで音楽の解らないものがある。学校の教師をして、一軒じゃ飯が食えないもんだから、三軒も四軒も懸け持をやっているが、そりゃ気の毒なもんで、下読をするのと、教場へ出て器械的に口を動かしているより外に全く暇がない。たまの日曜などは骨休めとか号して一日ぐうぐう寝ている。だから何所に音楽会があろうと、どんな名人が外国から来ようと聞きに行く機会がない。つまり楽という一種の美くしい世界にはまるで足を踏み込まないで死んでしまわなくっちゃならない。僕から云わせると、これ程憐れな無経験はないと思う。麺麭に関係した経験は、切実かもしれないが、要するに劣等だよ。麺麭を離れ水を離れた贅沢な経験をしなくっちゃ人間の甲斐はない。君は僕をまだ坊っちゃんだと考えてるらしいが、僕の住んでいる贅沢な世界では、君よりずっと年長者の積りだ」   『それから』夏目漱石著より


言わずと知れた、明治時代のニート小説、主人公の代助は一戸を構えながら定職に就かず、親の援助で気ままな生活をしているニートであり、物語はそうした状況にある彼を中心にしてすすんでいく。この境遇は実に僕に似ていた。働きたいときに働いて、旅に出たくなったら旅に出る。未来を担保に入れ、現在に投資するといったような賭け事まがいの生き方はスリリングではあるが、周りには心配と多大な迷惑をかけていた。この上なく身勝手で気ままな生き方であった。肯定できないが、否定もできない。それが僕には一番の気がかりであった。皆が苦労し、あくせく働く中、自分はのんびりと自然と人生に耳を傾けるという人間の甲斐ともいうべき与えられた財産に浴すことはなにか罪悪感を呼び覚ますのだった。

日々生き方を変えていくこと、それが僕の課題であり活力を与えるものだった。読書をはじめとする活動はそうした意欲と混ざり合うことで人を変えていく。そう僕は信じていたから、よりよい暮らしと人格のために歩を休めず歩みを続けた。働くことは人生そのものであることを見ないようにしても、それは必ず目に入る。生活が誰かの手によって支えられているということを感じない瞬間などない。よき人生はよき仕事ともにある。ということは真理であろう。心臓が私たちを生かすことが仕事なのだとしたら、心臓を動かすことが僕たちの仕事なのである。すなわち自分に物理的であれ、精神的であれエネルギーを与えるということがもっとも身近で重要な仕事といえる。「人生における拘束時間」という大きな制限に対しての課題と抵抗、労働の意味についての不透明さはあるものの、僕はとにかく一般的な雇用された労働者になってみるのも悪くないという気持ちになった。いろいろな体験と経験、思考の過程を経てたどり着いたのだろうが、今までになく社会的で健康的な思想である。一歩一歩着実に、納得しながら前進するというのが僕のポリシーなので、まず「ハローワーク」に足を運んでみることにした。社会から半ば切り離された、孤独な放浪者にとっては大きな一歩である。

しかし忘れてはいけない。雇用者と被雇用者というのはつまり資本家と労働者という関係であり、資本家はその資本の消費者を相手にお金を徴収する。いわば労働者はそのためのシステムの部品を自ら果たすのである。資本家は消費者のことを考え、労働者のことは考えなくてもよい。消費者は自らの欲する資本に対して関心を抱けばよい。では労働者は?お金のことを考えなければならず、すなわちそれを得るシステムを円滑にすることを考え、そのお金の分配者である資本家から贔屓してもらえるような努力もときには必要ということになる。そのためには消費者に対してももちろん努力することが必要になるだろう。あとは力のバランス次第で自分の思い通りになるはずである。まったく実情は難しいことではない、結局意味とかやり甲斐とかいうことになってゆくのだ。
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ライフスタイルの多様化と可能性 少しでも身軽にしてよりよい環境へ


哲学者でもないかぎり、自分の家具が荷車に山と積まれ、空き箱同然の無価値な姿を天の光とひとの目にさらしながら田舎へ運ばれていくところを見たならば、恥ずかしくてたまらなくなるのではあるまいか?それがスポールディング氏の家具なのだ。そういった積み荷をつぶさに調べてみても、それがいわゆる金持ちのものなのか貧乏人のものなのか、私にはまったく見分けがつかなかった。持ち主はいつだって貧しげにみえた。実際、こういうものを手に入れれば入れるほど、ひとはかえって貧しくなる。どの積み荷にも一ダースの仮小屋の中身が詰まっているようにみえる。だから一軒の仮小屋が貧しければ、積み荷は十二倍も貧しいことになるわけだ。家具、つまりわれわれの抜け殻を脱ぎ捨てるためでないとしたら、そもそもなんのために移転するのか?やがてこの世から新しい家具のあるあの世へと移り、この世は燃えるにまかせるためではないのか?家具をもつのは、ありったけの罠をベルトにくくりつけるようなものだ。この厄介物をひきずらなくては、われわれが生きてゆくことになっている、このでこぼこだらけの世間を渡ってはいかれないことになってしまう。罠にしっぽを残して逃げた、あのキツネはむしろ幸運だった。マスクラットなどは、自由になるためなら三本めの足を噛み切ってでも逃げるだろう。   『森の生活』より


僕は慎重に自室の家具と一々調べてみた。勉強机、デスクトップパソコン、本棚が二つ、レコードプレイヤーとスピーカー、テレビとDVDプレイヤー、空調設備(ストーブとクーラー)。これらはまず現状で必要最低限と僕が判断しているところのもので、さまでに自分自身の足かせとなりそうな厄介物ではないように思えた。これらでさえも、ソローのいう森の生活、理想の暮らしの中では不必要といえそうなものだ。これらを少し時間をかけて吟味する必要がある。しかも考えてみれば、アメリカ的な合理性に重きを置いた家具配置になっているように思う。絵画の一つ壁には掛かっていないし、花や植物が呼吸しているわけでもない。言い方によっては殺風景で皮相的なものに囲まれている。色味がなく、自然とは離れた空間だ。けれども、住んでいるところが住宅地で窓外を眺めても緑の山々など見えず、流れる川のせせらぎは聞こえない。飛び交う蝶々にお目にかかったこともない。それらをたとえ求めたとしても、今住んでいる家はどうする?引っ越してその先での仕事は?その前に今の仕事は?自由のようでまったく不自由だ。

贅沢とかみすぼらしさ、快適さや清潔さというものは単に新しかったり、飾り立てたりされていることによって実現できるものではない。なによりもまず、生活者の暮らしぶり、純粋な意味での立ち居振る舞いが優美で落ち着いたしなやかなものでなければ、結局のところどのようなものであれしっくりと本当の意味での似あう、扱うということにはならないだろうし、暮らしを向上することはできない。続いて、手入れ、片付け、整頓ということができていなければ、やはりやはり快適な空間というものを実現できないに違いない。どれだけ古い建物であっても、あるいは屋外の簡素な造りの住居であっても丁寧な手入れや使用がされていれば、おのずと美観を保ち、快適さも備わっている。ひいてはそこの住人の人柄と人格というものまで物語るということにもなる。

家具のみならず、「衣食住」と言われるように生活におけるこれらを形成する一つひとつのものを取捨選択しながら、よりよいものへの交換であったり、除去ということを徹底したいと思う。今の時代は特に、本はタブレット端末一つに収まり、音楽も携帯端末のデータとして持ち歩ける。ライフスタイルが多様化し、さまざまな選択とそれに伴う可能性が潜在している。よりよい環境、生活というものを本来人間は求める生き物であるから、その活動の足を引っ張ってしまうような状況に自分を置くことは避けたほうがよいだろう。少しでも身軽になっておくべきなのだ。
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人類愛と自己愛の矛盾

「あの婆さんと同じに、あたしももうおしまいなの……さあ、ほら、急いであんたの若さをさがしにゆきなさい。あんたの若さは、年増女たちにほんのちょっとすり減らされただけなんだわ。まだいっぱいのこっている。あんたを待っているあの娘にも、まだいっぱい若さがのこっているわ。あんたは味をおぼえたのよね、若さの味を!それはひとを満足させるものではないけれど、でもかならずひとはそこにもどってゆくものよ……ねえ、昨日の夜にはじまったことじゃないでしょ、あんたが比較してみるようになったのは……それにしてもあたしはなんでこんなことをしているの、こんなお説教をしたり、心が寛いところを見せようとしたり?わたしがあんたたちふたりについてなにを知っているっていうの?あのひとはあんたを愛している。今度はあのひとが心配して震えおののけばいいの。あのひとは苦しむだろうけれど、それは男を愛する女としてであって、道を踏みはずした母親として苦しむわけじゃない。あんたは主人としてあの娘に話すのよ、わがままな男妾としてではなくね……さあ、早く……」   『シェリ』より


若さとはなんであるか?考えればすぐに答えが導き出せる。そう、未熟と美しさ、そしてエネルギーである。すなわち若さは欲望と密接に関係しているようである。そして欲望は満足とは両立しない概念である。だから若さは人を満足させるものではないというのだ。

女性についての若さということに限定してみるとどうだろうか、とたんに若さが肉体と結合され、認識される。その意味するところは結局のところ、女性という「性」における若さというのは人間全体としての若さとギャップがあるということだ。人間として若くても、女性としてはもっともいい時期というのが一般に言われる「若い」ということであって、これはもっとも単純な男と女の関係性から導かれる、しかし人間は社会的動物であって、子孫繁栄が存在意義とは到底思えない。そのため、どうあっても結婚や家族制度、そういった中での社会との関わりあいというものにひずみが生じる。これらが現代の人間と社会における大きな問題を引き起こしているように思えてならない。人類としての個体が増加し、その中で優れた遺伝子が形成され、後継され、進化していくことが疑いをいれない至上命令とのことであれば―人間特有の「気持ち・感情」が入り込まなければ、なんの問題も起こらず、ただ本能の赴くままに、もっといえば自由に無思慮になすがままに、川の流れのように身を任せればすむのである。

してみると、男親と女親の存在意義、その働きということを考えてみると、現代では徐々に変わりつつあるものの、お金と子育てという二つを難なくクリアすることができればよく、もはや限定された子どもにとっては既存の父親と母親でなくてはならないということが次第に意味を持たなくなってくるように思える。愛を制限するための条件になって、かえって世界や社会の悲劇や軋轢を生んでいるのもこの事実であるように思う。当り前のことだ、なぜなら人類共存、共栄を目指し、そこへ向かおう、向かわせようとしながら、生存競争という枠組みにとらわれ、それを頑として貫き通そうとしているのである。この「シェリ」という物語の悲劇もとどのつまり、人類愛と自己愛(生存競争の根源)との矛盾によるのである。真の愛はこうした矛盾を許さない、人は孤独をもっとも恐れる、だからこそ人類愛からいつのまにか自己愛だけに執着するようになってしまうのだ。孤独が完全にありえないという事実があれば、人はもっと愛に身を注ぐことができるにちがいない。
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発見 世界を、自然を知りたい。芸術はそれらの導き手にすぎない。


諸国民は建築物によってではなく、抽象的思考能力によってこそ、その名を後世に伝えようとすべきではあるまいか?東洋のあらゆる遺跡よりも、『バガヴァッド・ギーター』のほうがどれほど讃嘆に値することか!塔や寺院は王侯の奢りである。簡素と独立を尊ぶ精神の持ち主は、王侯の言いなりに働くものではない。天才はどんな皇帝にも仕えず、彼が用いる素材は、ごく少量を除けば、銀でも金でも大理石でもない。そもそもなんのために、あれほど大量の石材が槌で叩かれるのか?私がアルカディアにありしころは、槌で大理石を叩いている人間など見かけなかったものだ。諸国民は、槌をふるった大量の石材を残すことによって、その名を永遠にとどめようという、狂気じみた野心にとりつかれている。それだけの労力があるなら、それを彼ら自身の態度物腰の洗練にふり向けたらどうだろうか?一片の良識のほうが、月の高さほどもある記念碑よりも後世に残す値打ちがある。私は、大理石が本来の場所にあるのを見るほうがよっぽど好きだ。テーベの都の壮麗さは俗悪なものだった。人生の真の目的からはるかに逸脱してしまった百の城門をそなえたテーベの都よりも、正直な人間の畑を囲む一ロッドの石垣のほうが、よほど良識にかなっている。   『森の生活』より


この記事を読んでくださった方の中には以前の記事の内容から僕が旅好きで、国内であれば一般に名所と呼ばれているところのいくつかに足を運んだことがあることをご存知のことと思います。というのも、非常に嬉しいことに―ブログを書くにあたり、アクセスがどのくらいかということを多少気にしているのだが(なるべく多くの人に読んで欲しいし、そのくらい意味のあることを書いているつもりである)、もっとも気にしていることは何度か訪問をしてくださる、このブログに関心を持ってくださる読者がどういった方たちで、どのくらいそういった方がいらっしゃるのかということだ。幸い、FC2ブログには訪問者リストという便利な機能があって、FC2ブログユーザーであればその筆者と書かれているブログがどのようなものかわかるようになっていて、そこをチェックすることでどういった方がいらっしゃって、どういった考えの持ち主であるのかということを知ることができる―わずかだけれど、言葉をやりとりし、気持ちや思想の共有や共感、教えと励ましを与えてくださる先輩方が訪問者の中にいらっしゃるのです。右のリンク欄に書かれているブログが並んでいるのですが、どうかそちらもチェックしていただけると、どれも素敵なブログばかりです。

さて、前置きが長かったですが、そう僕は旅好きなのですが、一つ疑念を自分自身に抱いておりました。なぜ旅が好きなのか?ということ、そして名所を深く考えもせず訪れて、そのなかには豪華絢爛な、あるいは壮麗優美な建造物の類があるわけですが、これらに対してなんとなく違和感を抱いていました。けれども好き好んで日本であれば日光東照宮や京都清水寺などに行くわけです。すると疑念がどんどん強くなってきて、いや、こうしたものは本来見るべき、そして感動すべきものではないという思いに至りました。

建築物は造形美も包含している、しかしそこにはデザインにもいえることだが、抽象的思考能力、および思想心情に基づく能動的活動が見えないのである。実に苦しみや労力、困憊が隠れている。そうしたものを喜ぶということへの違和感だったのだ。そして僕は労働の目的の一つに、自由であったり、旅の実現を掲げていたわけであったが、一つ矛盾点が解消された。エジプトへ行ってピラミッドを見る必要も、中国へ行って万里の長城を見に行く必要も、そうした願望も消え失せたのである。僕はそれよりも、エジプトの果てしなく続く砂漠、中国の切り立った山々、そこを縫うように流れる大河、そうしたものを見るべきだし、本当は見たいのである。つまり問題が一段階下がり、手軽なものになった。とうとう移動の問題のみに課題が縮小されたわけで、わずかにより物理的な問題に単純化された。

旅がビジネスに汚染されて、華やかで贅沢で文明・人類礼賛という方向を取り、僕もまんまと洗脳されてしまっていた。本来見るべきことを感じながらも、概念としてそうしたものまでも持ち合わせてしまっていた。文明や人類の営みを僕は見たいのではない。人類はいつも愚かだ。負の歴史を今まで多く積み上げてきた。むしろそれらは疎ましい、不快感を伴うものだ。そうではない、世界を、自然を、知りたいのだ。芸術もそれらを知るための導き手であるにすぎない。印象派はやはり、美しい自然の風景や、自然の一部分としての人間の暮らしを描いた。文明や華やかな貴族趣味を描いたものなど見ても心を落ち着かすことなどできない。世界と自然、それを映し出す人間の心、その中で生かされている人間の営み、こうしたものを僕は知りたいのであった。
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世界は若者のためにこそある、希望と共に。


近年に作られた(SF以外の)映画を見るたびに僕が思うこと、それはなにか「物語」をつくりたい、いやつくれるはずだということだ。というのはそれがそれほど難しいことには思えなくなるのである。普段多くの歴史的文学作品に触れていると、まったく自分の思想も技術も到底及ばないという思いに打ちのめされる。しかし映画となるとそのストーリーは大体陳腐なものが多く、しかもその制作に関わっている人の多さ―これは撮影技術も含めてだろうが、脚本も複数のブレインによってつくられているようだ―をあわせ考えてみるとそれほど難しいことに思えないのだ。無論文学作品は一人の思想、一人の手によってつくられるべきで、そうでなければならないが、思い切って描いてみればそれなりのおもしろいものができそうな感じがする。とにかく僕は描きたいし描かないではいられない。目的を持たず、ただ自分がおもしろそうだと思えるものを描いてみればいいのではないか、と最近では余裕を持って取り組むことができているようにも思う。

ところが、実生活ともなるとなんとも自分自身が頼りなく、まさに考える葦、社会の臭気に息が詰まってしまうのである。厚顔な自尊心と盲目的な自由の追求、社会に対する鼻持ちならない反抗心、理想の博愛主義、現実の厭世主義。そんな思想を心に秘めてひたむきに他者のための骨折りを笑顔でできるわけがない。ましてや先輩方にお追従の一つや二つのでるわけもなし。金のための争いを戦い抜く力なく、勝ちきるなんて夢のまた夢。貧乏よりも裕福がいいが、誰かを働かせるのなら、みずから働くことを選ぶ。けれども働かせられるのはごめんこうむりたい。だから今の状況があって、芸術の世界に安穏を見いだしたのだ。しかし、世の中甘くない。芸術の世界の視線は冷たい。というよりも冷ややかだ。ほとんどの活動は日の目を見ない。ただ労力のカスだけ残る。僕には闘うための爪がない。牙もないのだ。自分であえて誇るものはなし。僕はお客さんは恐れない。仲間を恐れる。頭の固い年長者をもっとも恐れる。主義主張の意味を成さないところにこそ悲惨がある。自分自身の正しさほど人間個人にとって強力なものはない。その前ではなにもかもが意味を変える。私は私で、私の信条はこうである。それに従って私は生きるのみである。この前で文学、意見、主張がなにになる?

「数学者は決して忘れてはならない。他のいかなる芸術や科学の分野にもまして、数学が若い人のものであることを。」(G・H・ハーディの言葉)  

 

というように、若い人の思想や思考こそ柔軟性があって、創造力があって、経験や役にたたぬ幻想の教訓が邪魔にならない純粋な混ざり物のないものだ。文学も世界の美しさも、若者にとってはそれは郷愁や懐古ではない。希望であり、夢であり、まだ見ぬ底知れぬ世界のエネルギーなのだ。自分を映す鏡だ。世界への愛着ではなく、世界への羨望である。
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真・人間宣言 よい一日はよい睡眠から


思想の進歩にようやく肉体が追いついてきたことを最近感じている。本を読む、人と交流する、世界を見る、思索する、そういうことで思想というものは深まり、広がり、鍛えられ、自由で強い、豊かなものになる。僕はこれを思想の進歩と呼んでいる。

肉体は思想を必要としない。エネルギーと自由をひたすら求める。私たちは肉体から離れることを許されないから誰もがこの条件に固く縛られている。これが苦痛や不満の生じる原因なのである。もし仮に思想とこの肉体の欲求が逆行しているとなると非常に苦しく、不幸であるといえる。そして多くの人びとがこの苦しみの中に陥ってしまっている。もちろん僕自身もこの苦しみの中でもがいている。そしてなんとか思想と欲求の統一を図ろうと努力しているのである。

芸術活動あるいは文学活動について、これを仕事としてではなく、生活の一部として組み込むべきだという結論を得、いよいよ仕事というものにより注目して自分の中の概念と観念を吟味し、決定する時期に至ったようだ。同時に少しずつ日々の生活を改め、意識を新たにしようとも思う。少しまともな人間になろうという宣言のようでもある。間違いが多くあった。そしてそれを少しずつ直していく必要を痛感している。

手近なところからまずはじめなければならないが、まず思いつくのは惰眠をむさぼっていないか?という疑念だ。まずいい睡眠を心がけ、さわやかな朝を迎えること。これは誰もが必要で大切なことだと知っていながら、実践できていない事柄である。いい一日はいい睡眠から。人生の3分の1を占める睡眠をよいものにしようという決意だ。単純で当たり前のことなのに僕はできていないのである。
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男性の心理と女性の心理の違い


「あちらの方にしたってよ、あんたの奥さんだってさ、あんたがひょっとして家に帰りたくなったときは、いつも家であんたを待っているとはかぎりませんからね!女ってのはね、いい、あんた、どうしてその気になるのかよくわからないんですけどさ、どうしてその気がなくなっちゃうのか、もっとわかんないものなのよ!……あんた、シャルロットに番をさせるつもりなんでしょ、自分の女房の?そりゃ、いい考えだわよ!でもさ、わたし笑ってやるわ、そのうちきっと……」   『シェリ』より


こうした女性の心理が多くの男性を困惑させ、絶望させたことだろう。それに比べ男性の心理というものは単純でただ形式的な反応を示すという以外にない。すなわち、第一に顔やスタイルが好みのタイプに合致しているかどうか、それはそのまま付き合えるか付き合えないかという結論に結びつくのである。正直なところ、日常ですれ違う一人ひとりの女性に対して男性は甲乙をつけているという驚くべき実情がある。女性たち、残念だが、男性のその選別に洩れた場合、どれだけ努力しようと、愛情や思いやりをそそいでも無意味で、ただ顔とスタイルを努力やなんらかの方法によって男性のその合格ラインを超えるレベルにまで上げるしか気にいられる術はない。やはりこういった動物的な要素に関しては、自然界の法則に従うよりほかないようである。実際に行動心理学で言われるように、女性ははじめから気にいられた男性の中からしか自分のパートナーを選ぶことしかできず、大多数の男性の中から好きなように選ぶということは許されていないというわけだ。求愛行動が動物界で存在するのはそうした本能によるものらしい。だから、女性はなんとか多くの男性に選ばれようと―選択肢を増やすために―化粧をしたり、着飾ったり、声やふるまいを魅力的にするのである。

少し話がずれてしまっているが、もう少し続けたい、男性ははっきりいってこの最初の好みのタイプかどうかということをクリアしている女性であれば、性格なんかはほとんどどうでもいいと考えているに違いない。それはその男性が若ければ若いほどその傾向にあるように思う。ただし、男性というのはプライドの高い生き物なので、それを傷つけられたり、目に見える形での―自分勝手な愛情だったとしても―見返りがなければ承知せず、そのうちに愛を与えるのを止め、なにもしてあげたくなくなり、最後には嫌悪感をさえ抱くようになるのである。

逆に女性の心理について考えてみると、男性ほどそうした明確な評価基準というものはもっておらず、このような形式的な手順を踏んで相手の男性を選別するということはないようである。むしろ、自分のその男性から受ける印象や引き起こされた感情を分析することでどちらかを選択するという方法をとるようである。だから、一緒にいると落ち着くとか、なんかおもしろいからまた会いたいというような感想を聞くことがあるのである。現に何もしていないのにもかかわらず、楽しそうにしていて何がそんなに楽しいのだろう?と疑問に思ったことが何度もある……。そこには理由なんてないのだから、考えたところで甲斐ない話で、一方でいくら僕が楽しいデートだったと思ったところで、それから3回目はないということもしばしばなのだった。男性にとって可愛い女の子が目の前にいて話を聞いてくれるだけで、またその話を聞いているだけで楽しいのである。ばかげた話だ。今考えてもなんという醜態だろう……。

またほかの場面も思い出される。何気ない一言に彼女は絶望し、僕との関係の解消に即座に踏み切ったということもあった。それは当然のことながらさまざまな原因が相まってこうした結果となったわけだが、それにしてもどうしてその気がなくなっちゃうのか、もっとわかんないものなのよ!ということらしかった。あるいは、たいして深い話もせず、互いのことをよく知りもしないのにもかかわらず、やっていけないと僕の前から去っていった女性もあった。興味深く、その都度僕はその不可思議さと奇妙さにますます引かれるのであるが、少しずつそうした真理を理解してきたということもあって、いくらか余裕と冷静さを保ちながら、女性に接することができるようになってきているように思う。
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弁解 現代の「士農工商」 「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ ブログ執筆」


昨日僕が書いたものを読んで僕のことをろくでなしだと思われる方がおそらくいらっしゃるであろうから少し弁解というか、実際的なところのことも書いておきたい。

まず仕事についてよく見てみると、職業従事者のほとんどが広い意味で彼らの両親の職業を踏襲しているといえると思う。今の日本で言えば、多くの日本人労働者はサラリーマンか公務員を職業としているはずである。これは当然のことながら僕自身がそういった両親の元で育ったのであり、環境も教育もそのようにされてきたから―結局、両親が経験してきたことによって教育されるわけだし、その事実こそもっとも意味と信頼性を持つと彼らも考える、周囲がそう見えるともいえる。けれども、メディアが報じる就職活動の話題であったり、失業率、僕たちの身のまわりの社会の動きを見ればおおよそこの見当は間違っていないようである。

この論理でいけば、サラリーマンや公務員ではない―今すぐに浮かぶのは農業や工業に携わる労働者もやはり跡継ぎという言葉があるように踏襲されることが多いと思うのであるが―周囲の人たちの助けやアドバイスがなければ、違う世界に踏み込むのは躊躇するのは当り前だ―、現代ではそうした職業の跡継ぎ問題、すなわち跡継ぎ不足と人手不足が深刻ということが久しく言われている。みんなそうした職業に就きたがらない。低賃金と重労働ということが主な原因なのだろうか、いかんせん僕はその世界についてほとんど何も知らない。なぜなら周りに従事者がおらず、また僕自身が関心が薄いからなのだが……。

しかし僕がそうした社会の一面のみしか知らないことは僕だけの問題ではない。日本は義務教育という制度をとっていて、学問を推奨し、そのための教育、先進国という国づくりのための教育を行なっていて、その教育の行き着くところは大学を経たところの就職、仕事というすり替えになっていて、システム上もやはりサラリーマン(企業戦士)と公務員になるようになっている。僕は戦時中をしらないが、こうした制度がまったく―戦士と書いたのはまさにこのためだが―軍人が信奉され、重宝された時代となんのちがいをもっていないと思えるのだ。現代の人から見ると、軍人という人は自分の身を犠牲にすることで、勇敢さや活躍を称えた勲章で名誉欲を満足させ、世間体を保つことになんの抵抗もなく凄いなあと思うと同時に、どうしてという気持ちにならざるを得ない。実際のところは、現代の人も生命の危険性がいくらか緩和しているだけだ。

「士農工商」という身分制度が存在した時代が日本にはあった―今の言葉で言えば、「官僚・農家・職人・サラリーマンと公務員」という感じになるのではないだろうか。この順番というのは道理にかなっているように誰もが思えるにちがいない。そして僕らは一生懸命になって商人になろうとし、人が殺到し、就職難やら晩婚化やら、少子化やら、なんやらの問題を引き起こし、あくせくし、自殺してみたり、失望してみたりしている。冷静に考えてみれば、どれだけでも選択肢はあるし、考え方一つでこの順位を見れば、それほど拘泥する必要もないと開き直れるはずなのにである。

さて、僕に限ってみれば、中庸というものを重んじていたいというのもあって、官僚やサラリーマン・公務員というものにはあまり惹かれない。農業や工業、すなわち日本の国力と直結する仕事というものを一番重要視している。大体今の日本はそうしたサラリーマンが多くて、サービスや営業といった手段ばかりに力を入れて、それらが用いる対象物の製造や生産を外国人―特にメイドインチャイナが目立つ―に任せ、日本人がつくるよりも劣った品質のものを―日本人が人種的に見ても器用で、仕事が細かいことは認められている―つくらせている。ただ単に人件費が安く、金がかからないという理由からだ。こうしたものをもう一度日本人の手に戻せばいいのにと僕は思わないのではいられないのだが、多くの人はどう考えているのだろうか?

不景気だとか、仕事がないとか、政治が悪い、消費税が、負担がとか騒いで、問題を直視している人間が大体どれだけいるのか、毎日に盲目的に必死で思考停止状態の主権だけを持って無意味に生きている人間がどれだけいるか!

僕はそうした問題を考えながら、実践的に仕事をしていかなければならないし、実際にこのブログによってなにか変化や人間関係を生み出そうという作業も僕にとっては意義のある働きと感じている。この答えはすぐに出るものではないが、僕にはどうしても無意味には思えないので、こうしてまともな仕事―結局サラリーマンや公務員が僕の周りではまともと呼ばれる―もせずに続けている次第である。

「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ ブログ執筆」
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犠牲にするなら今の自分か老後の自分か 満足感と幸福感 資本家と労働者 

こうして人生の価値が最低となる老年期に、あやふやな自由を楽しもうと、人生の最良の時期を金儲けに費やすひとびとを見ていると、まずインドへ出かけていってひと財産つくり、それからイギリスに戻って詩人の生活を送ろうとした、あるイギリス人のことを思い出す。この男はすぐさま屋根裏部屋へあがって詩人の生活をはじめるべきだったのだ。「なんだって!」と百万のアイルランド人が、この国のあらゆる仮小屋からとび出してきて叫ぶ。「おれたちがつくったこの鉄道が、ろくなものではないって言うのか?」そんなことはないさ、と私は答える。どちらかといえばいいほうだろうよ。だって、君たちはもっとろくでもないことを仕出かしていたかもしれないんだから。ただ、兄弟として言わせてもらうがね、こんな土くれを掘り返すよりも、もっとましな時間の使い方があったんじゃないかな。   『森の生活』より


僕は老後の自分に申し訳ない気持ちで日々を送っている。多くの人たちは年金を支払い、それぞれに未来を見据えた貯蓄をしているのに、僕は年金もなかなか十分に支払えず、ましてや老後のためのお金など預金口座にも家の金庫にも入っていない。若い自分を犠牲にすることよりも未来の老いた自分を犠牲にすることを選んだのである。そこにはわずかに可能性と希望のはいる余地がある―すなわち、若さを犠牲にせず、有効に有意義に使ったために老後にまでその効果と成果を持ち越すことになるかもしれない。僕は常に理想を追い求めていたい、なるべく犠牲なく、今をよく、そして未来もよくしていきたいのだ。みすみす今ある幸福と自由を手放す気にはなれない。リスクを負うだけの意義があるならば、いくらでもリスクを負おうと思うのである。

仕事の喜びというものを僕も知っているつもりである。「森の生活」では自給自足のような自分の手による生活を快適にするための労働を推奨し、実践していた。そこには想像するに満足感というものが多いように思う。ここでいう満足感は幸福感と区別して考えたい。人のために働いてこそ幸福感を得るというのは、アランの『幸福論』の中でも言及されていたと思うが、自由と満足感のある自分のための労働か幸福感のある他者のための労働、どちらかを選んで仕事とすることができたならば、暮らしはどれほど豊かなものになるであろうか。もし他者のための労働であれば、資本主義の原理に従い、金銭の報酬を得られるので生活を快適にすることもできるし、自分のための労働であれば生活を愛着に持つことができる。けれどもほとんどの人びとは、"資本主義の原理"に従って―資本家のための労働をしなければならない。そして法の下の自由と奉公に対する自己満足でなんとかやっていくわけである……。

資本家のことについて僕は何もいう言葉を持たない……彼らにはそもそも聞く耳というものがないのだから……。
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女性について 若さと老いによる感情のちがい 男の責務


「自業自得よ、この歳で六年も同じ男を囲ったりするものじゃないわ。六年ですからね!おかげでわたしにのこされていたものをつかいはたしてしまった。この六年を上手につかえば、大きな悔いをのこすかわりに手軽な恋の二つか三つを手に入れられたはずなのに……六年もつづく関係なんて、亭主について植民地に行くようなもんよ。もどってみたときには、だれも思い出してくれないし、お洒落の仕方も忘れているってわけ」   『シェリ』コレット著より


小説にはさまざまなジャンルがあり、その実体はあまりに奥深い。もっとも大きなジャンル分けとしては、純文学、大衆小説、ライトノベルといった具合に分けられるであろうか、僕はこの中の純文学に限定して小説というものを考えてきたし、またこの文学の底知れぬ魅力にとりつかれた人間である。

さて、この純文学というジャンルもまた細かく分類されていて―それこそ現代というのはあらゆるものが細分化されていく時代で、全てのものがこと細かく分けられ、いわゆる専門家やオタク、あるいは個性といった形で解釈されている―、はっきりとした定義で分けられるわけではないが、青春小説、恋愛小説、教養小説、冒険小説といった具合で、おそらくもう予想できるだろうが、これらもひとつひとつがまた細かく分けられていく。僕はもうこの辺でやめることにするが…。

なぜこのように細かく分類されるのかといえば、もちろん目的があってのことである。つまり僕たち読者がそれを求めているのである。何ゆえであるか?より自分の好みに合ったものを選ぶためである。(僕らはだんだんと妥協できなくなってきているのだ!)

僕はこの小説を選ぶという行為について少し考えていたことがあり、今回それについて進展があったのでここに記している次第なのであるが、それというのも、若者は青春小説や教養小説、恋愛小説ならば瑞々しい純愛ものを読まなければならないのであるか、あるいはそれらでなければ理解できず、あまり意味をなさないのであろうか?ということだ。小説は無論疑似体験を読者に授けてくれる。そのため、いくらか素材とできる実体験や経験がなければその恩恵に授かることは難しいといえるのだ。

この『シェリ』という小説は50歳を迎えようという元高級娼婦レアと親子ほども歳の違う(25歳)のシェリとの恋の物語で、瑞々しい純愛でもなく、どろどろの不倫でもない、切なく麗しい恋を描いている。

その歳の一般的な男子であれば、なかなかそうした経験のあるものは少ないであろうことは想像がつく。僕なんかはバイト先の気心の知れた人妻との関係に妄想を膨らました。カジュアルな恋というか、人に好意を持つ、好きになるということは悪いことではないはずであるし、線引きをしっかりしてさえいれば何の問題も起こらないはずである。妄想や想像の世界は楽しいものである。当然そこに配慮はあるし、気配りと思いやりは忘れない。

20代半ばの女性との付き合いを考えるとき、必ず結婚という二文字がのしかかってくる。あるいは彼女がそのくらいの年代に達するとあるときから結婚を男は意識させられることになる……。もちろん男もそろそろ結婚してもいい歳だと考えるのだが、女性は自身で若い時分はとりわけ若さは何にも代え難い美点であると認識しているし、男性は老若限らず若い女性に魅力を感じるだろう。

4年や6年の交際というのは20代半ばでは一回経験するかしないかというものであろうし、お互いに同年代であれば、ドキドキもぎこちなさも共有してきたことになろう。男性の20代半ばは結婚にはやや早く、女性にはちょうどいい―。そうこの時分は考えがちなのだ。女性は失望するだろうと男は考える、「ああ私は、この人に若さを費やしてしまった!」と。男の自惚れはいやはや見苦しい。彼女らはまだまだ己が若いということを自覚している。ただただすぐさま気持ちを切り替え、未来へ踏み出すだけである。老いを感じ、男からの視線が変わったことに気づいて初めて、彼女らは悔いることを知るのだろう。くよくよするのはいつも男だ。

彼女と結婚しようがしまいが、僕には彼女を楽しませ、綺麗にし、素敵な時間をすごさせるという義務がある。一度しかない青春に花を添える責務がある。
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ストレイシープ 学生よ、人生を真剣に生きるべきだ


私はむしろ、学生や、大学によって利益を得たいと考える者たちが、自分の手で基礎工事をしたほうがずっとうまくいくと思う。人間がしなくてはならないあらゆる労働から計画的にのがれることによって、ひたすら待ち望んでいた余暇とひき篭り生活とを確保した学生は、経験という、余暇を実りあるものにしてくれる唯一のものを愚かにもみずから放棄し、かわりにくだらない無益な余暇を手に入れるにすぎない。「けれども」とあるひとは言う。「まさか学生たちに、頭よりも手で働けと言うんじゃないでしょうね?」私だってそこまではっきり言いきるつもりはないが、ある程度はそう考えてもらってもかまわないと思っている。私が言いたいのは、学生諸君は社会がこの金のかかるお遊びの費用を出してくれるからといって、人生をただ遊んだり、学んだりしてすごすのではなく、終始一貫して、人生を真剣に生きるべきだ、ということである。いますぐ生きる実験に取り組む以外に、青年が生きることに習熟するよい方法があるだろうか?それは数学に劣らず知性の鍛錬になるはずだ。   『森の生活』より


僕は普通の大学生が在学4年間をどのようにすごしているかということに非常に興味がある。ほとんどの学生がたいして勉強をしていないことを知っているし、ただ課題をこなし、単位を取れるように準備するだけであって、それは学びの姿でもなければ学問ではさらさらない。かといって読書もしない。僕は在学当時、読書家という人間に出会ったことがなかった…。理系に所属していたから当然なのかも知れないが。

たしかに、研究室にこもっていたり、遅くまで実験に励む学生も多かったが、自己満足以外の意味を僕は見出せなかった。サークルはくだらない無益な活動だと思っていた。結果として僕は人並み以上に余暇を手に入れたわけだった。その時間を読書と旅を含めた見聞、人生について考え、悩むこと、そうしたことに使おうと思った。周囲の若者が人生を謳歌し、活力の浪費を楽しんでいる中、地味にコツコツと現実の陰で努力することが自分を強くたくましくしてくれることを信じた。バイトは時間と体力を切り売りしていくことだと不遜極まりない了見を持っていた。お金はいくらか必要だったがそれ以上に大切なことがあるような気がしていたのだ。

頭でっかちになってはいけない―これはもっとも博学ぶった若者が陥りやすい頑迷である。僕はまだ一度も生きていないような気がしている。親のお金で、誰かが建てた家に住み、誰かがが育てた食物を口にし、誰かが拵えた衣服を着ている。そして僕は誰の役にも立っていなければ、自分をさえ益することができないでいるではないか。それは非常に僕にはこたえている。しかし、多くの芸術家は実生活を犠牲にしながらも、芸術活動に邁進した。僕ははなはだ中途半端だ。ストレイシープ、ストレイシープ……。
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実生活の中で役だつ読書

本を読む理由は人それぞれであるが、ほとんどの本は目的を持って読まれることが多いように思う。つまり読者がなにかを知ろう、あるいは体験しようという意図のもとその条件を満たしそうな書物を手にする。そうした書物の中にあって小説はある意味で異質なのかもしれない。当然、物語を欲し、大筋は自分の好みに合うものを選ぶに違いないが、楽しみと期待を持って未知なる結末を楽しみとするのである。インターネットにしてもそうだが、僕たちは自分の予想できる、想定できることがらの中でしかほとんど生きることができない。自分で知りたいことや考えていることを探るにとどまり、新たな発想や感覚というものを得ることは困難なのだ。それを可能にできる数少ない方法の中に、小説を読むということがあると僕は考えている。

けれども、僕自身、小説の中でも文学というジャンルにこだわって読書をしている。これにはちゃんとした理由がある。上に書いたように、小説という大きな括りから一歩外にでも内にでも踏み出せば、そこには必ず目的意識というものが働いていることになる。僕の場合、それは「思想や真理」であった。人間とはなんであるか、善く生きること、社会のあるべきすがた、そういうものを求めて文学を読むというわけである。

そうした信念を持って文学作品を選ぶとまず「岩波文庫」が頼もしく感じられるし、恋愛小説や女性作家の手なる作品はやや敬遠しがちになる。今読んでいる「シェリ」コレット著はまさにそうした作品なのであるが、今日こんな箇所に遭遇した。

「ほんとにシックな連中はね、そうだよ、女でも男でも文句なしにエレガントな連中ってのは、目のまえに迫った季節のための装いってものがあって、それが待ちきれないで、じりじりするものなんだ」


「中年に達した男というものは、女から絶交を申しわたされることには耐えられても、身体を値踏みするある種の視線、自分をほかのだれか、自分の知らぬ男、目に見えぬ人物にひきくらべる女の視線だけは絶対に恕せない」


「困っているときは友達を悩まさない、ただ幸福だけを分ちなさい」

往々にして作家さんというのはお洒落であったり、美食家であったり、風流であったりと人として魅力的な人が多いというのは事実だと思う。それゆえに多くの人たちから関心を寄せられ、愛されるのだろうと思う。そうした彼らの言葉は思想以前に、実生活の中で役だつ処世術を示してくれたり、人間心理を暴いて見せ、人間理解を促してくれる。これからの読書ではこうした観点にも関心を広げていきたいと、この箇所に出会ったことで思ったわけだ。事実、精神生活よりも実生活に重きを置く多くの人たちにとっては、こうした情報のほうが重要であるのかも知れないし、こうして公に言葉を発している以上は、人の役にたつことも考えるべきだと思う。こうして少しずつブログの体裁や内容が柔軟性のある、多くの人たちにとって有益なものに成長していくよう努力したい。
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大学のあり方を考える 「森の生活」ソロー著

ケンブリッジその他にある大学では、必要な便宜を学生に与えるために、本人や経営者たちがうまくやりくりする場合の十倍も思い人生の犠牲を、彼ら双方に強いている。もっとも金のかかるものが、学生のもっとも切実に求めているものであるとは限らない。たとえば、授業料は学期ごとに支払わなくてはならない学費のなかでも重要な項目であるが、同時代のもっとも教養あるひとびとと交際することによって得られる、はるかに価値ある教育は無料である。大学を設立するには、ふつう、何ドル何セントかの寄付金をつのり、それから、十分慎重に扱わなくてはならないはずの分業の原理をとことんまで盲目的に推し進め、この事業を投機の対象と考える工事請負人を呼んでくる。すると彼はアイルランド人やそのほかの職人たちを雇って実際の基礎工事をやらせる。そのあいだに、これから大学に入学しようという若者たちは、そこの学生たるにふさわしい準備教育を受けるのだという。こうした過ちの代償は、のちの世代が支払うことになるのだ。   『森の生活』ヘンリー・ソロー著より


ヘンリー・ソローは200年ほど前に生きたアメリカ人で、この『森の生活』が書かれたのは1854年で、随分昔のことだ。現在とは環境も社会も文明も大きく違うであろう、それに国土も日本とアメリカで異なるし、時代も同じく異なっている。果してこうしたことから『森の生活』に書かれている指摘や問題、忠告は現代の日本にじゃ通用しないということになるだろうか?いいや、むしろ僕は効果的だとすら考えている。なぜなら、かつての状況や環境について言われたことや、そのときの解決策というのが、後の時代の状況や環境が驚くほど相似形になっていて、応用することによって大きな成果を生み出すということがありうると思うからだ。当時の状況や環境のわからない僕たちがそのときの書物を読むと、頭の中では自然に、自分の経験に基づく思想と思考のなかで構築されるため、なんの違和感もなく思いのほか楽に現代の問題に当てはめることができる。「歴史は繰返す」とも言われるではないか!

今後の日本を考える上で大きなテーマの一つは「大学のあり方」であると僕は考えている。もちろん文明の基礎ともいうべき教育こそがその大きなテーマであることにちがいはないのだが、大学と教育は分けて考えなければならないし、大学が国家においてどのような働きをするのかによって、その教育方針というのもの定まってくるわけだ。しかし、逆に教育がどのようなものであったとしても、大学の存在意義になにか一石を投じるというほどに力を持たないように思う。大学は国家のためであり、教育は国民のためという傾向が強いからであろうか。

進歩とはなんであるか?進歩はどこからやってくるのか?それは現状の否定である。現状に満足しないことこそが進歩の原動力となる。そして、問題を解決すること、または革新が進歩の内容である。

革新はとりあえず、優れた才能の出現を待ち、彼らに任せることにして、問題の解決について考えてみたい。「問題は山積している」という声が聞こえてきそうだ。たしかにそうだ。しかし、問題が多かろうが、少なかろうがそんなことは関係ない。取り組めることから着実に一つ一つ処理していくより仕方がないではないか。それが意味するところはつまり、時間がどれだけかかるかということに過ぎない。それらを全て僕らが解決できないことはわかりきっているから、量は問題ではないわけである。

さて、手近な問題を考えるということになるわけだが、ちょうどいま「大学のあり方」について書いたので、これについて考えてみる。いつでも問題は既に手元にあるものである。

たとえば、もっともわかりやすい「増えすぎた大学」の問題。

僕ら世代はちょうど大学全入時代といわれ始めた時期に重なると思うが、高度経済成長の後のバブル崩壊、その後の社会不安から学歴重視というよりも、学歴崇奉、そして安定度の高いビジネスと公務員の受け皿、そして学生という新たな都合のいい消費者を生み出すためのからくりとしての大学という色が濃くなっていったのではないかと思う。結果として少子化を招き、著しい質の低下が問題となっている。当然のことだ。みながみな大学に入って四年、年齢を重ねれば子どもが減るに決っている。住み分けと役割分担をせずに、平等だ秩序だといって互いをけん制しあうのはばかばかしい限りだ。いつから僕たちは自尊心のかたまりになったのだろう?「汝自身を知れ」である。

少子化を防ぎ、止まらせようと思うのならば、20歳前後で家族を養えるだけの賃金があたえられなければならない。学生をやっている暇はない。全員がそんなもの望んでいない。家族であったり、多くの賃金を求めている人間が多いに決っているのに、みんなが学生をやっている。不自然にもほどがある。人間は寂しい生き物だし、多くの人に囲まれていたいと思うのが人間の性だろう。一人で死を待つことほど辛いことはないように僕は想像する。放っておいても産めよ、増やせよとなるに違いない。だから、2年の短期大学を最高学府としてもっと認めるとか、会社との組織化、あるいは学生としてでも十分な労働参加の可能などに取り組んでいく必要があるのではないか。

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利害関係を経た後の愛 「シェリ」コレット著より


「あっちに行ってよ!あんたなんか大嫌い!あたしのこと愛してくれたことなんかないんだから!あたしがこの世にいなくたってどうってことないんでしょ!あたしのこと馬鹿にしてるんだわ、軽蔑しているんでしょ、下品な男よ、あんたは……あんたは……あの婆さんのことしか考えてないんだわ!あんたの好みって、病的なんじゃない、変質者みたいよ、それに……それに……あたしのこと愛してない!いったいなんで、ねえ、あたしと結婚したのよ……あんたって……あんたって……」

彼女は首筋をつかまれた獣のように頭をゆすっていた。むせびながら息を吸いこもうとしてあおむけにのけぞると、粒のそろった小さな乳色のパールが光って見えた。シェリは呆気にとられて、くねくねとゆれる愛らしい首の乱れた動き、よじられた両手の訴え、そしてとりわけその涙、あふれる涙に目をうばわれていた……。こんなにぽろぽろと流れ落ちる涙を彼は見たことがなかった……。彼のまえで、彼のために泣いたひとなどいただろうか?そんなひとはいやしない。マダム・プルーは?《だってさ》と彼は考えた。《マダム・プルーの涙なんか、気にする値打ちもないぜ……》レアはどうだったかしら?……いや。彼は記憶の奥底をさぐってみたが、思い出す誠実な青い目が潤んだ光をたたえるのは、快楽のためか、茶目っ気か、さもなくばちょっと皮肉っぽい情愛のためだった……。彼のまえで悶えているこの若い女がさめざめと流す涙の量ときたら!こんなにたくさんの涙をどうしろっていうんだ。彼にはわかるはずもなかった。それでも彼は腕を伸ばしたが、エドメは乱暴な仕打ちを恐れてか、あとずさりした。彼はよい匂いのするしなやかで綺麗な手を彼女の頭にのせ、彼自身が身をもってその効力を知ったあの声音、あの言葉を真似ようと努めながら、ふりみだした頭髪を撫でつけてやった。

「ほうら……ほうら……どうしたっていうの……どうしたっていうの……ほうら……」   『シェリ』コレット著より


女性が怒るとき、それは彼女らを愛さなければならない立場にある夫や彼が愛のない言動をしたときである。それを無関心といったりもする。そしてすぐに怒りは悲しみへ変わる。ましてやそれが嫉妬を掻き立てるものであれば、これほどたまらないものはない。けれども彼女らのものの考えは冷静で順序を追う思考回路ではないから、鬱憤を晴らしてしまったら、怒っても意味がないと悟り、行き場のない愛情が悲しみの感情を引き起こす。そしてしまいには残酷なるまでの無関心とつまらないひとという判断を下す。ここにきて互いの関係はもはや修復不能となる……。

しかし、本来愛情深い彼女らは愛想を尽かすというのは余程のことで、たとえ邪険にされても本能的な涙と甘えによって相手をコントロールしてしまう。そうしたものから僕たちが決然と脱するのは困難だ。女性の涙にはかなわない……。

女性から愛されること、それらが僕たち男性が求める最上のもので、一人の女性からも愛されない男などみじめで価値がないと思えてくる。どんなに悲惨な状況にあったとしても、自分を愛してくれる女性がいると思えば極度の悲観には陥らない。ただし僕たちは不完全だ、なぜなら一人でも多くの女性から愛されたいと思うからだ―僕たちは多くの女性を同時に愛せると勘違いしている…その実、愛しているのでもなんでもなく、ただ下心で好意を持っているだけなのだ―女性から愛するということはどういうことなのか教えてもらわなければならないだろう。そうでないと生涯で一度も人を愛したことがないということになってしまう。実際に人を愛せない、妻をも愛せない亭主、夫を僕は何人か見てきたように思う。そういう意味でも一度は女性から愛されなければならないと思う。親からの愛情ではなく、利害関係を経た後での愛を受ける経験は僕たち男性には必要不可欠だと思うのだ。
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作家業は生業の傍らですべきもの すべき仕事はなにか


気分だけではなく、思考も思想も日々変化する。だから絶望してはならないし、考えることをやめてはいけない。やがて答えはみつかるだろうし、いいアイデアも浮かぶはずだ。やがてすべては好転し、晴れやかな未来が開かれることと思う。

僕は僭越にも気持ちあるいはやる気の浮き沈みはあったけれど、読書を生活の一部としてきてからずっとなにかを書くことを仕事としたいと思ってきた。編集やライターというのではなくて、小説やコラムなど人生や暮らしに役にたちそうな分野での作家を志していたのだ。しかし、なんとなくひっかかりのような、抵抗を内心に感じていた。今日それがなんであるかはっきりしたように思う。それをここに書こうというのである。

ありていに言えば、作家業というのは生業としてやるべき事柄ではないということなのだ。作家業を営む方々には失礼千万な言い方ではあるが、三島由紀夫の言葉そのままに、偉大な作家というものは作家業を本業としていない―ゲーテが多方面で活躍し、宰相をも務めていたことは知られているし、また森鴎外は軍医であり、医者としての仕事の傍ら作家業に勤しむ作家は他にも多い―場合が多いのだ。そもそもものを書くという性質上なにか経験がその根本になければならず、作家業を営んでいては、その大事な経験が乏しくなること必定である。なので論理からいっても作家業を生業とすることはあまり正しいやり方とはいえないようだ。

しかも生業としてやるならば、もちろんそれで得た収入によって生活を維持しなければならないのであるが、活字離れが進んでいるといわれている昨今に文筆によってお金を得ようとすることは並々ならぬことであり、賢い選択とはいえそうにない。しかも文学をやろうというのであれば、仕事ではなく自己満足として趣味でいそいそとやってくれと世間から冷たい態度を取られても仕方がない。実際に僕もそうすべきであると同意するだろう。

僕の意志は決定した。このブログにしても制作中の小説にしても反響や今後の進展を期待することをやめたい。書きたいから書く、そして読んでくれる方がいらっしゃる限り、思想の発展と精神の向上に役立てんために努力するというスタイルにとどまろうと思う。そしてこの瞬間から僕は生涯にわたる生業を見つけるか、あるいは自らの手で拵えあげなければならないということになった。僕にできることはなにか?そしてその上、この社会に必要な仕事はなんであるか?こうした問いからはじめ、やがては人生をそのために捧げたいと思えるような生業を見つけ、あるいはつくりあげようと思うのである。「芸術は長く、人生は短し」と言われるが、「仕事は長く、人生は短し」ともいえるだろう。仕事も芸術と同じくらい、いやむしろそれが実用と密接に結びついているためにリアルでごまかしのきかないそれ以上のシビアさをもっているだろう。

幸福のための仕事とはなにか?そして僕はなにを仕事とすべきか?それが今新に僕に課された大きな命題である。
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彼女は喜び、僕は笑った。


「女ってやつは奇妙なやつですよ」と、彼はドクトルを顧みて言った。「まるで犬のように扱われ、両腕が痛くなるまで打たれて、それでまだ愛しつづけているんですからねえ」そして両肩をすくめた。「女に魂があるなんていうのは、もちろんキリスト教のもっとも愚劣なイリュージョンの一つですよ」

(中略)

「結局は彼女らの勝ちなんだ。一度彼女らの手に捉ってみたまえ、僕らはいっさいの力が脱けてしまうんだ。白人だろうが、原住民だろうが、同じことさ」   『月と六ペンス』より


小学校の敷地内から路上へ枝を伸ばしている桜や県道に影を落とす桜並木が満開に咲き誇っている姿を車に乗りながら目にして春の到来を感じる今日この頃。日差しは暖かく、ときどき吹く冷たい風がさわやかで日中はとても過ごしやすい。

当り前のように僕は20分も遅刻した。5分の遅刻は毎度のことで、むしろ遅刻を親切心から出るものと自分自身で解釈している。彼女にどう思われているか知らないがあまり気にしていないようであるし、向こうが遅れることもしばしばなのでお互いさまということで片付けている。しかし20分となれば怒りがこみ上げてきても仕方がないし、むしろこみ上げない方がおかしいだろう。あてなく待つことが好きな人間などそういるものではない。

しかし彼女は顔をしかめることもせず車に乗り込んできた。むしろ楽しそうに、うきうきしている様子だ。余程これからの花見が楽しみなのだろう。僕が遅刻してきたことなど気にもかけていず、早く出発しようと言わんばかりにすましている。

〔小言や恨み言の一つあってもいいのに、機嫌すら損ねていないとはどういうことだろう?いやはや奇妙だ。一体僕がどれだけ彼女を待たしているか気にしてみたことがないのだろうか〕

たしかに僕らにとって時間というものはほとんど意味を持たない。腹が減り、日が落ちて家に帰らなければならないという結果をもたらす条件に過ぎない。だから急くこともなければ、じりじりすることもない、気ままにのんきに時を過ごすだけだ。

彼女は欲望を感じているが、僕は寛容に構え、五感を解放するだけで十分なのだ。彼女がいて、美しい自然と世界が広がっていて、そこで憩う人々は背景となる。僕たちは二人の世界を楽しんでいる。

彼女は僕よりも食いしん坊で、子どものように遊びたがる。その遊びには道具がなければ気がすまない。ボールでもなんでもいい、とにかく二人が集中すべき対象が必要だ。

子どもたちでにぎわう広場はこれからの未来が広がっているようで神々しくさえあった。同時に僕とその時代とは隔たりがあることを知って心がしびれた。知らずに過ぎてしまった時代、そして戻らぬ時代。

ハナミヅキやモクレンは淡く色づき、ユキヤナギの芳香が風にのって鼻をくすぐった。足元の斜面には名を知らない花々が控えめに花弁を見せていた。子どもが吹いたしゃぼん玉が舞い上がる。彼女はカメラを一輪の桜に近づける。

君はどうしてそんなに楽しそうなんだ?俺はたいして話していないし、なにかをしてあげたわけでもないのに。

「ボートに乗ろ」と彼女はボート池を指差した。湖面にはアヒルやクジラをかたどったペダルボートと手漕ぎボートが不調和に幾艘もたたずんでいる。

湖上をさっと吹き渡る風がさざなみを立てると、ボートはコントロールを少し失う。重いペダルを懸命に踏み込んで、船体が激しい音を立てると彼女はきゃっきゃと喜んだ。それをみて僕も笑った。

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hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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