知らないことの幸福と知ることの中には改ざんされた情報もある


『人間を統べおさめたもうにあたって、神が、人間のものをみ、ものを知る能力に狭い枠しかあたえたまわなかったということこそ、じつに神の恵みの深さを示すものにほかならないということであった。

したがって人間はおびただしい危険のただなかを歩いていても、事態の成行きをみることもできず、自分を取りまく危険を知ることもできないために、じつに平静な気持でいることができるのである。

これに反して、もし危険が知らされていたら、それこそ心乱れ、意気沮喪してどうにもならないことは明らかなのだ』   『ロビンソン・クルーソー』より


いつからか世間は物騒になったと人は言う。

それは半分は事実で、半分は虚構であるように思う。

というのは、私たちはあまりに情報が氾濫する世界に住んでいる。

ほとんど関係のないようなことや、本来であれば知る由もないことが自然に耳や眼を通して入ってくる。

それは元来備わっているべき自分からの実質的距離に関しては無責任である。

混同してはいけないし、自分自身で情報を取捨選択するということも進んでやっていかなければ、心乱れ、意気沮喪してしまう。

あらかじめ危険を知ることは一見、重要であるように思うのだが、その実、守るべきルールや常識に適うふるまいということがなされないために降りかかる危険も多いということを認識しなければならないのではないだろうか。

しかも、今となっては特にそうした情報が改ざんされていないとは言い切れないではないか。

たとえば、放射線量が本当に正しく伝えられているのだろうか?

国が定める放射線量基準値とはいったい、どう基準値なのだろうか?

私たちにわかる範囲のことではないし、ひょっとしたらまだ誰にもわからないことなのかもしれない。

現に私たちは、そうしたことを知らないから日々、僕もそうだが平静のまま暮らしている。

実はこの身に危険が迫っているのかもしれないのにだ。

私たちは危険を回避して暮らすことも重要であるが、それ以上に幸福に暮らすことが重要なのである。
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二つの道のどれを選ぶべきかというさいに、微妙な暗示か予感を心に感じればそれに従うべきである。賢くなるのに遅すぎることはない。


『なんか事がおきてそれをやるかやらないか、あるいは二つの道のどれを選ぶべきかというさいに、微妙な暗示か予感を心に感じれば、たとえこういう予感がする、暗示が感じられるという以外になにも理由がなくても、私はためらうことなくその不可思議な指示に従うことにした。

今までの私の生涯のうちでこのような処置をして成功した例はたくさんあげることができるが、この寂しい島での生活の後半においてとくにその例は多いのだった。

もちろん、このほかに、今のようなはっきりものを見る眼がなかったために、おそらくは見逃した場合も多かったろうと思われる。

しかし、賢くなるのに遅すぎるということはないのだ。

私はすべての分別のある人々で、私と同じ、もしくはそれに近い、異常な経験にみちた生活をおくっている人々に忠告したい。

どのようなみえざる知的霊性からくるにもせよ、神のひそかなる告示を軽視してはいけない、と』   『ロビンソン・クルーソー』より


人生にはさまざまな岐路があり、その時々にあわせて、相応の決断を要する選択を余儀なくされる。

そのとき人は悩む、大いに悩み、苦しむ。

逃げたしたくなるときも、負けたくなるときもある。

そのときやるべきことは、「自分を知る」ということだ。

深い意味での「自分を知る」ということ。

もっというと、ここでいうところの神の知られざる力を知るということだ。

僕たちに備わっている「神の知られざる力」とはなにかというと、僕はこう考えている。

「良心」であると。

良心の呵責というのはまさに、神の意思に対する躊躇に他ならないと僕は考えている。

だから、選択を迫られた場合に、良心に代表されるような、暗示、予感は何を示しているのかを読み取る必要があるのだ。

僕はあるとき、ブルーハーツの『英雄にあこがれて』の1フレーズ、

『荊(いばら)の道を見つけ出し、靴を脱ぎ捨てる』

がぴったり、その予感を表しているように思えて、それに従ったことがある。

現在はその延長にあるのだが、まだそれが誤りであったか、成功であったか結果は出ていないが、おそらく成功を見るであろう。

なぜならば、僕は少なくとも、理屈や推測によってではなく、予感のようなものから判断したからである。


『賢くなるのに遅すぎるということはない』

と言い表されるように、ある価値観に立てば―それは幸福の根本原理をなす―、なにをするにしても遅すぎることはないと言えるだろう。

『いつやるの?今でしょ!』が巷では流行っているようだが、なかなか当を得た言葉で感心する。

やるべきときがきたら、遅すぎることはないとの気持ちを胸に取り組むときっと成功するはずだ。
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「絶望は不信仰を意味しているが、信仰のきっかけを与えてくれるものである」

『私はこんなわけで、前にふれた、聖書の「我をよべ、さらば我なんぢを援けん」という言葉をそれまでとはちがった意味に解釈するようになった。

以前には、自分がこうやって苦しんでいるとらわれの境涯から援けられる以外には、救いの名に値するものはなにもないと思っていた。

いかにも島のなかを私は自由に歩きまわることはできた。

けれども、島そのものが私にとっては牢獄であり、しかももっと悪い意味での牢獄であることは明らかであった。

ところが今ではそれをちがった意味にとるようになっていた。

自分の過去の生活をふりかえるときに、そこにはただ恐ろしさだけが感じられた。

身慄いするほど恐ろしい罪の恐ろしさが感じられた。

私の魂は喜びをすべておし殺してしまう罪の重荷から救われることだけを、ただひたすら神に求めた。

孤独な生活はもう問題ではなかった。

そのような生活から救われたいと祈りもしなかったし、第一考えもしなかった。

そんなことは、魂の問題に比べたら、まったく問題にもならないことであった。

私がここにこういうことをつけ加えておくのも、もし読者にして、ものごとの真実に徹した場合、その人は罪から救われることが苦痛から救われること以上に大きな祝福だということがわかろう、といいたいからにほかならない』   『ロビンソン・クルーソー』より


苦境に陥ってしまったとき、その考えられうる第一の原因についてひたすらに、固執して絶望してしまうものだ。

「僕は○○だから、もう希望がない」と。

しかしその○○はきっと、自分自身に目を向けることを教え、そして自分自身に目を向けることで初めて、その○○自体にも目を向けることが出来るようになる。

それらはそれまでの生き方では目に入らなかった事柄である。

その○○がどこからもたらされたのだろう?

と考えるとき、自分の考え及ばない、何か大きなエネルギー、神によって与えられたと考えざるを得ないし、そう得心するはずである。

私たちに絶望や苦痛を与えることというのは、実はたやすいことではない。

人力を超えた大きな力が加えられなければ、私たちを絶望に追いやることは難しいのだ。

絶望は限りなく不信仰、神やそのような世界をつくりたまいし偉大なる力を認めていないということを意味しているのではなかろうか?

絶望に陥ったのならば、それまでの罪深き不信仰を悔い改め、そしてそれによって真実に徹する信仰を得ることができるのだ。

人生や思想を間違ったものだと受け入れることは簡単なことではない、しかし信じることを知った人生のどれほど実り多いことであろう。

その瞬間から世界も人生も変るのだ。

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運命に反抗すること

『「父の予言がついにあたったのだ。

神の裁きがくだったのだ。

みろ、私を助けてくれる者も話をきいてくれる者も一人もいないではないか。

恵み深い神のおかげで私は幸福に安らかに生きてゆける身分に生まれついたはずではなかったか。

それなのに、私はその神の思し召しを聞こうとはしなかったのだ。

私はそういう生活を自ら知ろうともしなかったし、またその祝福をいくら両親がいってきかせても聞こうとはしなかった。

私の愚かさを悲しむ両親を私は少しも意に介さなかった。

その報いで、私は今誰からもみすてられてただもう悲しみのどん底にいるのだ。

私を世のなかにだしてやり、安らかな生活をおくらせてやろうと苦心した両親の援助の手を私はにべもなくはねのけた。

ところで今の自分はどうなのか。

ほとんど人間の肉体では堪ええられないような苦境にあえいでいるではないか。

しかも助けも、慰めも、助言もないままに」

それから私は叫んだ。

「主よ、私を助けて下さい。

はげしい苦しみにさいなまれている私を助けて下さい」』   『ロビンソン・クルーソー』より


僕はあの春のことを思い出す。

恵み深い神のおかげで僕は何不自由なく幸福に生きていける家庭で育った。

両親には十分すぎるほどの学もつけてもらった。

待っているのは、安らかで外聞も実情もこの上ない生活であるはずだったのだ。

しかし僕はそれをにべもなくはねのけてしまったのだ。

与えられた環境を素直に受け入れ、それに見合った言動を心がけるべきではなかったか。

僕は運命や宿命といったものに反抗することこそが美徳であるとわけのわからない理屈を持ち出した。

それは僕にとってはまじめで正直ということであった。

どちらにしろ両親を裏切ることになっただろうし、それまでの自分を―知らず知らずのうちに欺いてきたのだが―かつてのものとして割り切らなければならないことを意味した。

宿命や運命というのはただでさえ都合のいい言葉だ。

人間がつかうとき、それは結論のために姿をかえる。

まだ僕は神の恵みの只中にあって、まだ見放されていはいないとみえる。

しかしここに書かれていることが数年後の自分の姿ではないだろうかと内心、不安を感じ、恐怖さえ覚えたのだ。

どうか、神さま、僕を光ある道へお導きください。

わが行く道に幸あれ。


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『どんな悲境にあってもそこにはわれわれの心を励ましてくれるなにかがある』 『良いことと悪いこととの貸借勘定ではけっきょく貸し方のほうに歩がある』


『要するに、この世のなかでまたとないと思われるほど痛ましい境涯にあっても、そこには多かれ少なかれ感謝に値するなにものかがあるということを、私の対照表(自分がめぐまれている有利な点と苦しんでいる不利な点との比較を表したもの)は明らかに示していた。

世界じゅうで最悪の悲境に苦しんだ者として、私が人々にいいたいことは、どんな悲境にあってもそこにはわれわれの心を励ましてくれるなにかがあるということ、良いことと悪いこととの貸借勘定ではけっきょく貸し方のほうに歩があるということ、これである』   『ロビンソン・クルーソー』より


前回と似通った内容の一節であるが、ブログというものがその性質上、一過性であり、またその記事自体にたどり着く方法は様々なので、それが重要度のある事柄であれば、差支えがないと考えたので記すことにした。

当然、その日その日に書く文章というのは違ってくるので、昨日書いたことと今日書いたことが異なる様相を示すということも多分にある。

したがって、かいてみると思いのほか内容を持つものができあがるかもしれない。


なぜ「貸借勘定ではけっきょく貸し方のほうに歩がある」のであろう?

それは、前回の『存在自体に属する正義』が保証されているからである。

こればかりは何人も否定しえない、絶対真理としたい。

なぜならば、誰もが認める意思と自己と肉体を有していることとそれが同義であるからである。

だから、自分の存在に作用している物事は良いことであるといえるわけで、それは日常や思想の中からいくらでも見出せることができるのである。
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『どんな悪いことでもそのなかに含まれている良いことを除外して考えてはいけない。またより悪いこともそれに伴っていることをも忘れてはいけないのだ』

『「お前がみじめな境遇にあることはいかにも事実だ。

しかし考えてみるがよい。

いったいほかの乗組員たちは今どこにいるのか。

ボートに乗ったのはお前たち十一名ではなかったのか。

その十人、今どこにいるのか。

なぜその十人が助かり、お前が死ぬということにはならなかったのか。

なぜお前だけが選ばれたのか。

ここにいるほうがよいのか、それともあそこのほうがよいというのか」

私はそのとき海のほうを指さしていたのだった。

どんな悪いことでもそのなかに含まれている良いことを除外して考えてはいけない。

またより悪いこともそれに伴っていることをも忘れてはいけないのだ』   『ロビンソン・クルーソー』デフォー著より


生きているということは何よりも強くて自明な自己肯定である。

その事実自体が善で正義で奇跡である。

それを思うとき、人はおのずと世界を包含する絶対存在を意識せざるを得ない。

それをあえて神といっても当然よいし、信仰とでも、宗教のはじまりと言ってもよい。

それはあまり重要なことではないからだ。

『どんな悪いことでもそのなかに含まれている良いことを除外して考えてはいけない。

またより悪いこともそれに伴っていることをも忘れてはいけないのだ』

なんと美しく、真をついた言葉であろうか。

ここから感謝も許しも、希望も、そうした明るい光をたくさん引き出せるのだ。

たしかに比較や記憶によって身にふりかかった悪いことや不幸が際立つことがある。

しかし、この言葉は現在を完璧なまでに肯定しきるのことを教える。

今の自分があるのはそうした悪いことを除いては存在し得ない、つまりそれを仮定したり、想定することは自滅行為であることを知らなければならない。

現在を完全に肯定しきる真の強さ、生命の輝きをもてるようになるべきなのだ。
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『真に不幸を救いうる人間は、同等の不幸を耐え、乗り越えた人間である』  『自己実現に包含されている葛藤と悩み』 

先日、その豊かな感性に基づく、洗練された文章で僕の知らない世界、そしてその奥深さを教えてくださるブログ『エストリルのクリスマスローズ』にて「有島理論」が展開されていました。

僕は文学が好きで、興味があるのですが、専門的に学んだという経験は皆無で、またそうした論文および、解説書の類も手に取ったことがないので、文学論などにはまったく疎いのです。

そして脈絡なく、思いつきで文学作品を手にとって、そのときの気分に合っていたら読むといった具合の読書法なので書かれた年代や文学上の役割なども加味せずに読んでしまう現状があります。

ですから、その弊害として世間一般的な、名の知れた文豪と呼ばれる人たちの作品しか知らず、どんな世界にも素人好みと玄人好みというものはあるもので、その前者にばかり関心が向いてしまいます―ここでいう名の知れた文豪の中に、これはまったく僕の独断と偏見なのですが、有島武郎の名は入っていなかったわけです。

それがこのたび、そうしたきっかけで新たな発見をもたらす機会を得ることが出来たのです。

さっそく有島武郎の著作を最寄の紀伊国屋書店(最寄といっても1時間以上かかってしまう)で探してみました。

すると―岩波文庫の書棚で有島武郎の作家名を探しました―、日本文学のところに一冊、薄めの小冊子ともいうべき、『小さき者へ・生れ出ずる悩み』がありました。

さきほど記しましたブログ記事にあげられていたものとは見たところ共通点がないようにも思われましたが、とにかく読んでみよう―表題に付せられた紹介文が興味を引きました―と買って帰りました。


『小さき者へ』は僕の現状よりも2段階進んだところに展開される人間性に訴えかけるものであるように思われました。

というのは、段階というのは人間的経験―生や死、窮乏や成功など―に比例するものだと思うのですが、僕は幸せなことに、両親が健在なので、そのままの意味ではなく、自分の中で相似形に変化させることで実感を得る、意味をつかむという読み方に、実質的にはなりました。

また、同時にPの身の上を思ったりもしました。

彼は、20歳の夏に母を亡くしたのです。

体験に基づく想像、理解ではなかったので、自分を子供の身においてみたり―作者の言葉を父の言葉として読むわけです―、作者本人においてみるということが案外、容易にでき、妻を懐かしむ場面では感極まるほど痛切に感じました。

『真に不幸を救いうる人間は、同等の不幸を耐え、乗り越えた人間である』

そんなメッセージが強く印象に残りました。


『生れ出ずる悩み』は文学者としての私、画家志望ではあるが二重生活に苦しむ君、そして君がその二重生活を送る漁港の町に生きる人々、そしてその自然というように色分けされた作品でした。

一切の落ち着きなく、話が進められていく……そんな印象を与えます。

悩みこそが文学の源泉であるように、僕は思うのですが―その悩みというのは恋であったり、罪であったりするわけですが、ここに描かれる、芸術に関する悩み、葛藤というのが特に僕の好むところなので、感銘を受けるところが多々ありました。

それはいくつか記事に記したとおりです。

作家は常に、前向きです、いやむしろ未来的ですらあります。

生に満ち溢れ、人生をまっすぐに眺めているような、そんな姿が目に浮かびました。

若き日に、誰もが経験するあの、自己実現に包含されている葛藤と悩み。

それを外部から文字として、励ましをもって語られることは意味のないことではないはずです。
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人間として生きるか、二足歩行の動物として生きるか

君の心の中には苦い灰汁のようなものが湧き出てくるのだ、漁にこそ出ないが、本統をいうと漁夫の家には一日として安閑としていい日とてはないのだ。

今日も、君が一日を画に暮していた間に、君の家では家中で忙わしく働いていたのに違いないのだ。

建網に損じのある無し、網をおろす場所の海底の模様、大釜を据えるべき位置、桟橋の改造、薪炭の買入れ、米塩の運搬、仲買人との契約、肥料会社との交渉……その外鰊漁の始まる前に漁場の持主がしておかなければならない事はあり余るほどあるのだ。


君は自分が画に親しむ事を道楽だとは思っていない。

いないどころか、君に取ってはそれは生活よりも更らに厳粛な仕事であるのだ。

しかし自然と抱き合い、自然を画の上に活かすという事は、君の住む所では君一人だけが知っている喜びであり悲しみであるのだ。

外の人たちは―君の父上でも、兄妹でも、隣近所の人でも―ただ不思議な小供じみた戯れとよりそれを見ていないのだ。

君の考え通りをその人たちの頭の中にたんのうができるように打ちこむというのは思いも及ばぬ事だ。

君は理屈では何ら恥ずべき事がないと思っている。

しかし実際では決してそうは行かない。

芸術の神聖を信じ、芸術が実生活の上に玉座を占むべきものであるのを疑わない君も、その事柄が君自身に関係して来ると、思わず知らず足許がぐらついてくるのだ。

「俺れが芸術家であり得る自信さえ出来れば、俺れは一刻の躊躇もなく実生活を踏みにじっても親しいものを犠牲にしても、歩みだす方向に歩みだすのだが……家の者どもの実生活の真剣さを見ると、俺れは自分の天才をそうやすやすと信ずることが出来なくなってしまうんだ。

俺れのようなものを描いていながら彼らに芸術家顔をする事が恐ろしいばかりでなく、僭越な事に考えられる。

俺れはこんな自分が恨めしい。

そして恐ろしい。

みんなはあれほど心から満足して今日今日を暮しているのに、俺れだけはまるで陰謀でも企んでいるように始終暗い心をしていなければならないのだ。

どうすればこの苦しさこの淋しさから救われるのだろう」   『生れ出ずる悩み』より


おそらく誰もが実生活を生きられるように教育されてきているだろう。

食い扶持を確保し、安定と安心の上に豊かで平穏な日常と一家の繁栄を託されている。

はたして芸術はこれらの諸条件に当てはめることが出来ようか。

答えは、否。

なぜならば芸術はいかにも人間的だからだ。

人間として生きるか、二足歩行の動物として生きるか、これは難しい問題なのだ。

個人として存在するのか、種として存在を裏付けるのか―。

人間は協力し合って生きていかなければならないといいながら、自分は芸術というわけのわからない仕事にいそしみ、人々の苦労による恩恵を受けているというのはいささかアンフェアである。

一体芸術家とはなんであるか?

周囲が認める芸術家、すなわち、仕事としてその緩慢を―決して緩慢ではない、いたってまじめである―許してくれる条件というのはんであろう?

それに対して十分な報酬が与えられるかどうかである。

芸術をやるのであれば、少なくとも金銭的報酬を得なければならないという道理になる。

しかし、これらが芸術といえるのだろうか?

そうして得られた作品というのは、生み出すに値する代物であろうか?

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どっちつかずの二重生活

『なんというだらしのない二重生活だ。

俺れは一体俺れに与えられた』運命の生活に男らしく服従する覚悟でいるんじゃないか。

それだのにまだ小っぽけな才能に未練を残して、柄にもない野心を捨てかねていると見える。

俺れはどっちの生活にも真剣にはなれないのだ。

俺れの画に対する熱心だけからいうと、画かきになるためには十分過ぎるほどなのだが、それだけの才能があるかどうかという事になると判断のしようが無くなる。

勿論俺れに画の描き方を教えてくれた人もなければ、俺れの画を見てくれる人もない。

岩内の町でのたった一人の話し相手Kは、俺れの画を見る度毎に感心してくれる。

そしてどんな苦しみを経ても画かきになれと勧めてくれる。

しかしKは第一俺れの友達だし、第二に画が俺れ以上に判るとは思われぬ。

Kの言葉はいつでも俺れを励まし鞭(むちう)ってくれる。

しかし、俺れはいつでもその後ろに自惚れさせられているのではないかという疑いを持たずにはいない。

どうすればこの二重生活を突き抜ける事ができるのだろう。

生れからいっても、今までの運命からいっても、俺れは漁夫で一生を終えるのが相当しているらしい。

Kもあの気むずかしい父の下で調剤師で一生を送る決心を悲しくもしてしまったらしい。

俺れから見るとKこそは立派な文学者になれそうな男だけれども、Kは誇張なく自分の運命を諦めている。

悲しくも諦めている。

待てよ、悲しいというのはほんとうはKの事ではない。

そう思っている俺れ自身の事だ。

俺れはほんとうに悲しい男だ。

親父にも済まない。

兄や妹にも済まない。

この一生をどんな風に過したら、俺れはほんとうに俺れらしい生き方ができるのだろう』   『生れ出ずる悩み』より


芸術家を志す者は誰もがこのような葛藤に悩まされることと思う。

芸術の道は険しく、孤独で、不可解だといわれる。

そこにロマンこそあれ、幻想に近しく、ある種の人間をひきつけるものであるようだ。

家族や生活、人生、あらゆるものに対して犠牲と弊害をもたらす。

そして得られるものは「生き方」である。

たしかに、世間に受け入れられる芸術家ともなれば世界のあらゆるものを獲得することができると僕は信じている。

僕はどうしても芸術がやりたかった。

しかし、絵筆を握ったこともなければ、音符を読むこともできずに人生の旅路に出たので、せめて文字による芸術―文学がやりたいと切に思った。

そうした野心と熱意は人並み以上に持っているつもりだが、しかし、これもいわば生活の余剰で始めた習慣に過ぎず、性質として持ち合わせたものではないのであってみれば、自己満足以外に意味があろうとはどうも思えぬ。

いずれにせよ、どっちつかずの今の生活は忌まわしい。

幸い、周囲に芸術家志望や野心家をもっているため刺激と励ましを受けることには事欠かない。

彼らは、そんな中にあってステディな選択をしながら着実に地位と食い扶持を得そうである。

のんきでまたしたたかなのだ。

真の芸術家や野心家は冒険心に富み、賭博者気質で、放埓で、果敢でなければならぬ。

脆く、そして美しくあらねばならぬ。

また大きな野望を抱いた旧友は、後継の者の教育者となり、彼らにそのイズムをたくさんがための生活を過している。

そうした、かつての若き志を持ち続けることすら難しいのだ、この人生を生き抜くためには。

早く、この二重生活に見切りをつけなければ、取り返しのつかぬ不幸に陥ってしまいそうである。
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理想と自己実現のための犠牲と害悪

『その人たちは他人目(よそめ)にはどうしても不幸な人たちといわなければならない。

しかし君自身の不幸に比べてみると、遥かに幸福だと君は思い入るのだ。

彼らにはとにかくそういう生活をする事がそのまま生きる事なのだ。

彼らは奇麗さっぱりと諦めをつけて、そういう生活の中に頭からはまり込んでいる。

少しも疑ってはいない。

それなのに君は絶えずいらいらして、目前の生活を疑い、それに安住する事ができないでいる。

君は喜んで君の両親のために、君の家の苦しい生活のために、君の頑丈な力強い肉体と精力とを提供している。

君の父上の仮初めの風邪が癒って、暫らくぶりで一緒に漁に出て、夕方になって家に帰って来てから、一家が睦まじくちゃぶ台のまわりを囲んで、暗い五燭の電燈の下で箸を取上げる時、父上が珍らしく木彫のような固い顔に微笑を湛えて、「今夜ははあおまんまが甘(うめ)えぞ」といって、飯茶碗をちょっと押しいただくように眼八分に持ち上げるのを見る時なぞは、君はなんといっても心から幸福を感ぜずにはいられない。

君は目前の生活を決して悔んでいる訳ではないのだ。

それにもかかわらず、君は何かにつけてすぐ暗い心になってしまう。

「画が描きたい」

君は寝ても起きても祈りのようにこの一つの望みを胸の奥深く大事にかき抱いているのだ。

その望みをふり捨ててしまえることなら世の中は簡単なのだ。   『生れ出ずる悩み』有島武郎著より


僕は両親の安心のために、自分の夢も挑戦もあきらめて、今まで自ら鍛え、獲得した知力と勢力とを提供することに不満を感じていたわけではなかった。

親孝行ということが常に頭に浮かび、機会があればそれを果たさなければならぬと自分に課したのだ。

大学でただ単位を取るという大義をふりかざして、怠慢と放埓に身を投じ、平然としているやつらを幸福だと思った。

彼らにとってはそれは当然のことで、大学は社会人になる前の最期の遊べる期間だと勘違いをしている。

人間としての成長段階ではなく、社会的地位としての段階を、しかも準備されたまま甘受し、それに対して諦めどころか、疑いすらはさんでいない。

しかし、僕は常に疑問に思った。

「これが大人になるということなのか、社会で生きるために必要なことなのか?

人格や思想といったものはどうしたものだろう?

このままではいけないぞ」

仕事でもまた同じような壁が僕の前に厳然と立ちはだかっていた。

「生活のための仕事なのか、それとも仕事のための生活なのか…」

周りの人たちは「考えないことだ」、「世の中は厳しいから―」と慰めを与えた。

たしかに、物質的豊かさを得ることができ、悔やんだことはなかったのだが―

肉体と精神をただ労働力だけとみるのはもったいないし、いたたまれない。

自分を磨き、そのエネルギーで社会へ働きかけたいという欲求がだんだん僕の中で大きくなっていった。

「世界を知りたい。のびやかな心で人間を見てみたい。自分を高めていきたい。

そして社会に対する自分のあり方とは?」

同時に、そうした既成の段階を踏むことこそが、平凡であることが両親に安心を与え、ひいては親孝行になるということも思った。

僕が自分の欲求を実現し、喜びや幸せを感じたとしても、それは表面的なものではなく、それを誰が知りえよう?

表向きに難のないことを人は望むのだ。

理想や自己実現という思いを捨てることができたのなら、きれいさっぱり脳内に浮かぶこともない生活が送れたら、どれだけの人を幸せにできたことだろう。

自分の喜びと幸せのために、どれだけの犠牲と害悪を僕はもたらしてしまうのだろう…

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女性に対する愛は唯一無二なものでなくてはならないのか? 『白痴』のテーマから


『これはダイヤモンドだ。その値打ちを知っているものにとっては何千というダイヤモンドに匹敵する』

と世界を代表する文豪トルストイに言わしめたドストエフスキーの作品『白痴』。

3度目の挑戦でやっと、その大意をつかめたように思う。

1度目はその独特の描写方法にとても苦戦し、登場人物を把握し、表立った彼らの行動を読み取るので精一杯であった。

その描写というのは、小説ではどうしても一場面ずつを書くことになるのでその裏で起こっている動きなどの時間的前後関係やその及ぼす影響などを理解するのが難しいということがいえると思うが、それが特にこの作品では登場人物の多さと説明ではなく会話によるところが多いので際立っていた。

2度目では主人公ムイシュキン公爵の心情の変化と彼の性格、それによる行動を分析し、その人間性から得るところのものが多く、またナスターシヤとアグラーヤに対する愛の種類の差を考えさせられたという段階まで進めることができた。

そして3度目である今回、自分としても大きな飛躍をもってこの物語を読めたように実感する。

その要因としては、大方の主人公の性格や物語の大筋を知っていたことが大きかった。

それによって言葉と行動がその人物と性格に付随したものとして認識でき、理解を助けることになったのだ。

物語中心はムイシュキン公爵のナスターシヤとアグラーヤという二人の女性に対する異なる愛を実現する過程で起こるいざこざである。

ナスターシヤの愛に関してはラゴージンという競争者が存在する(一般的解釈でいえば競争者であるが、作品中ではそのように捉えないように読者に気づかせるという意をもって書かれている)。

アグラーヤは良家の娘さんで、その母親はこの物語の中でもっとも"まとも"な人間として書かれている。(と僕は感じた)

イッポリートは死に対して存在しており、彼を通して死生観が少しばかり語られるがあまりうがった見方というものではなかった。

冒頭に紹介した言葉のとおり、ムイシュキン公爵の口からでる言葉やその相手に対する態度はいくつかのダイヤモンドを提供してくれたし、輝く黄金のごとき人間像を見せてくれた。

このブログでいくらか紹介したように、とても充実したものであった。

ここで物語られるムイシュキン公爵の二つの愛が両立しないことをみるに、この社会ではこうした愛を認めないということがわかる。

しかし、親が複数の子をそれぞれ同じように愛するように、女性に対する愛も独立的でないのも不自然でないように思う。

ましてや、その愛が「憐憫」と「思惑」によるものならばますますありうべきであるようにもおもえる。

ここでアグラーヤに対する愛を「思惑」と書いたのは、ムイシュキン公爵は結論すると「誰でも一様に愛せる」のだ。

だから、アグラーヤでなくとも同じように深く愛することができるに違いない。

とすると、彼女やその家族の意思の働きによってそうした流れに乗る形で彼の愛が示されたに過ぎないように思えるのだ。

僕はこのことに大いに賛成する。

なぜなら、僕は美しく、かわいらしい女性が好きで、愛してさえいるのだが、その一定値を満たしていれば誰でも愛せるという気になってしまう。

この一定値というのは重要で、これをなくしてしまうと、すべての人を本当に一様に愛せてしまうことになる―という点で僕はまったく不義な人間といわなくてはならないが、この社会にあって多少の不義がなくてなぜ生きていかれよう、多少の区別のようなものは必要なのだ。

彼女も好きだけど、あの女の子も好きだというのはムイシュキン公爵のとはまったく違うのだろうか?

ここには決してやましいものはないのだから、違いはないといってもいいのではないだろうか?

すばらしい女性はたくさんいる、それをひとつだけの愛に昇華させるというのはすごく難しいのではないかと僕は悩むのだ。
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栄の街歩き


「とりあえず、ラシックにいこう」

栄が久しぶりだというPは階段を上がりきって地上にでると、こう口を切った。

その方へ向かって横断歩道を渡り、いわゆる栄のメイン通りに行き着くとホコ天が実施されていた。

以前、テレビで名古屋・栄で歩行者天国が復活するというニュースがやっていたのを思い出し、偶然にもそれに出くわしたことを少なからずうれしく思った。

Pは「今日はポロシャツがほしいなー。

それと、万年筆も見たいから文具店にいきたいが…」と思案顔につぶやいた。

「ポロシャツならUNITED ARROWSかNANO UNIVERSEとか見る?

文具店なら確か上のほうにあったと思ったけど」と割合、栄に出向く僕はPの要望に答えるため案内係を辞さない構えをした。

「いやー、UNITED ARROWSにしてもNANO UNIVERSEにしてもいかなくていいよ、だってあの辺のブランドってユニクロと大差のないブランドだからね。

フレッド・ペリーが見たいな」

そういうPはユニクロの濃緑色のポロシャツにデニムを合わした出で立ちであった。

「フレッド・ペリー高いじゃん。セレブだなぁ」と先日ギャンブルで1万円すっている僕は今日そんな1万もするような買い物はしないつもりであったので少しばかり不満をもらした。

「上質のものは実際、長持ちするから、何年も着ることを思えば高くもないよ。

それにそうした輸入セレクトショップにあるものではなくて、自分の主観によって品質に満足した上でそのオリジナルのものを買うっていうのに一つの求めるべきものがあると思うんだ、ファッションにおいてはね」

僕はNANO UNIVERSEもUNITED ARROWSもお気に入りのお店で、よく服も買っていたのでちょっと肯んぜなかったものの、たしかに考えてみればどこかでダサいなーと思っていた事実をも確かめることになった。

「じゃあ、フレッド・ペリーは栄のパルコにあるから、そこでみよう。

ほかの専門店もそろっているからいろいろ見れるしね、文具店はもっと上だったはずだよ」

そこは最上階のレストラン街の下のフロアの角であった。

店先にケースに入った何種類かの筆記具がそろっていたが、万年筆はないようであった。

PARKERのボールペンやシャープペンが金の装具を光らせてひときわ目を引き、PはPARKERいいねとつぶやいた。

僕はプレゼントにもらったPARKERのボールペンを一本持っているので、いいよねと返した。

「万年筆だったら、三越とか百貨店のほうがよさそうだよ。

実際、三越にいくつか万年筆があったからいってみる?」

「いや、万年筆はいいよ、ちょっと気になってただけだから。

もういいから、パルコにいこうパルコに」

Pはなかなかさっぱりした男だから気兼ねしなくてよくて楽だ。

そんなことを考えていると、Pはこんなことを言い出した。

「いやあ、服はプレシーズンに買わなくちゃいけないよね、そのときが一番その夏なら夏に向けたデザインの商品が並ぶわけだから、いま並んでいるのはいってみれば、やや遅れたものなんだよね」

なるほど、彼は結構ファッションにこだわり―実際的こだわりではなく、理屈的こだわりを見せている―をもっていて、参考になることがいくつかある。

フレッド・ペリーでPはサーモンピンクのポロシャツを気に入り、サイズについて店員に質問していた。

下着を着ていなかった彼は試着することができなかったので幾分サイズ感に不安を持っていたのだ。

ポロシャツはサイズ感が命だといっても過言ではない。

半分一か八かの気味でPはそのポロシャツをほぼ買う体ということで試着をさせてもらった。

肩まわりとその袖口にやや窮屈さを感じたようだったが、シルエットは好みにあったらしく、やや恥ずかしげに購入の旨を店員に伝えた。

さわやかな印象をあたえるサーモンピンクとデニムとの相性もよく似合っていた。

彼がとりあえずひとつの目的を達成したので、僕が今度は主導権を得ることとなった。

今年の夏に欲しいと思っているのは、念願のRay-Banのサングラスと淡い赤のカラーデニム、かわいい印象を与える白Tシャツと着心地のよいポロシャツであったから、それらを順に好みのお店を回りながら物色した。

JOUNAL STANDARDで鴨のワッペンのかわいらしい淡い赤のポロシャツを発見し、一目ぼれしてしまった。

それを体に合わしている姿をみたPはそれはカーハートっていうブランドでなかなかいいみたいだよと教えてくれた。

色味のあるものに最近興味のある僕はそれを今日の成果とすることに決めて、家へと帰った。


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現実を、そしてそこに芽吹く生と自然を愛おしむ気持ちと人を愛し、愛されているという自覚によって、世界はどれだけでもすばらしいものになる。

『みなさん!

ぼくも言説のよくないことは知っています。

むしろ単に実例を示したほうがいいです。

単に着手したほうがいいのです……ぼくはもう着手しました……それに……それに、不幸におちいるなんて、はたしてありうることでしょうか。

おお、もしぼくに幸福になりうる力があれば、今の悲しみや禍なぞはなんでもありません!

ぼくは一本の木のそばを通り過ぎただけで、それをみることによって、自分を幸福にするすべを知っています。

人と話をしただけで、自分はその人を愛しているという念によって、幸福を感じずにいられましょうか!

おお、ぼくはただうまく言い表すことはできませんが……じっさい、すっかりとほうにくれてしまった人でさえ、きれいだなと思うような美しいものが、一歩ごとにいくらでもあります。

赤ん坊をごらんなさい、朝焼けの色をごらんなさい、のび行くひともとの草をごらんなさい、あなたがたを見つめ、あなたがたを愛する目をごらんなさい……』   『白痴』より



この言葉の意味と価値を理解し、認めることができる人は少ないに違いない。

おそらく震災で家族を失った人、家もなにもかも失ってしまった人、家族、愛する人を失った人、そうした人々には「不幸はありえる!」と叫ぶだろう。

しかし、不幸を不幸とのみ捉え、そこに悲しみだけを見出すのはやめよう。

死に先立って生が存在し、また生は次から次へと訪れる……

人間は本性的に生を象徴するものに幸せや喜びを見出すものなんだ。

生命の誕生、植物の萌芽……

そして、過去よりも現在を強く知覚することができる。

かつての愛よりも、現在の愛を強く感じることによって、失った愛を少なからず補完できるはず。

だが、人々は未来よりも過去のほうが実感できるからといって、そうした当たり前のことには見向きもせずに、嘆いてばかりいる。

現実を、そしてそこに芽吹く生と自然を愛おしむ気持ちと人を愛し、愛されているという自覚によって、世界はどれだけでもすばらしいものになる。

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男性にとっての女性、それに伴う意欲と活力 サッカー日本代表、W杯決定の瞬間

先日、サッカー日本代表が世界で最も早くワールドカップ出場を決めた。

史上初のホームでの出場決定に日本中が歓喜に沸いた。

中でも熱狂的なファンは歴史的瞬間を目撃しようとスタジアムにつめかけたり、テレビにかじりついて声援を送ったり、スポーツバーやパブリックビューイングで日本代表と一体となっていた。

そうした中、僕もその歓喜の渦にあり、歴史の目撃者となったのだ。

Sが行きつけのスポーツバーにワールドカップ予選を見に行こうとTと僕とを誘った。

TとSは2年前のワールドカップのときも一緒にいったようだが―僕もそのとき何度か誘われたが、深夜のキックオフであったため、行くことができなかった。

そう僕は彼らからするとやや田舎に住んでいるのである―、僕は今回初参加ということになった。

前日の段階ですでにテーブルとカウンターが埋まってしまっていたのでスタンディングでの観戦であった。

アリーナと観客席といった具合にテーブル席とスタンディング席がわけられており、人が通り抜けられぬほど密集しているスタンディング席に案内されたときには「まるでホロコーストじゃないか―かなり不謹慎ではあるが、独特の疎外感を感じたのだ―、テーブル席には十分ゆとりがあるのに」と思わずにはいられなかった。

準備されているモニターも小さめのものになっており、やや不満ではあったが、すぐに僕たちは注意されない程度にテーブル席の方へポジションを移し、それなりの快適さで観戦することができた。

入場料2,500円で4枚のクーポンが配られ、それでビールやフライドポテトといった軽食が食べられる仕組みになっており、開始前に一杯交わすことにした。

「Hさん、こんな窮屈なところ、ひとまず打ちやっておいて一杯やりましょう」と僕たちの切り込み隊長ともいうべきTが顔を少ししかめながら、勢いよく叫んだ。

すみません、と声を出しながら人ごみをかきわけ、カウンターでビールを注文。

こういった場合にワイルド感を見せるSは「俺はいつもハイネケンを飲むけど、それでいい?」と二人に尋ねた。

「飲みやすくって、いいよ」というSは妙にボトルが似合う。


空腹に飲むビールはじんわりと体内に染み渡り、顔がすぐに高潮しはじめた。

と同時に、ややけだるい感じが体を包み、右手にはボトルの重みを感じていた。

試合開始間際になって、僕たちはもう一度ビールと、ピザを注文した。

バーの中はすでに何百人と人が集まっており、熱気と混合された臭気で満たされていて、ウェイターが食べ物やらアルコールやらを配るのに忙しく動き回っていた。

「おにいさん、こちら頼まれましたか?」と入店直後から視界に入っては僕の注意を引いていた女性店員が―それまでに何度か視線が合っていた―僕に甘ったるい声で問いかけた。

やや最近の流行となっている眉毛を濃くするメイクを施し、肩くらいまである下ろされたつやのある髪と透明感のある肌に僕は魅力を感じたのであった。

中性的な容姿をしていて、Tシャツ一枚で働く姿はその女性の面を引き出しながら、男性的でありことさら僕には素敵に感じられた。

「いいや、頼んでないです」と起こってくる喜びの感情を押さえつけながら、冷静に答え、試合に見入った。

その後も何度か目が合い、そのうち2度注文とその確認のため声を交わしたが、息をのむ試合展開と会場の緊張の中にあってはどうという感情もわきあがってこなかった。

バーの中心にある大きなモニターにほとんどの観客の注意が向けられていて、その視界に入るバーカウンターに代表のユニフォームを着、女友達と楽しくお酒を飲みながら観戦しているかわいい女の子を見つけた。

ふとしたとき不意に目が合い、またしても僕は動揺した。

好意を持っていながら不意にこうした視線に出くわすのは慣れるものではないが、なぜ自ら視線を反射的に逸らしたのか内心不満であった。

その彼女はしばらくすると席を立ち、僕の脇を通って外へと出て行った。

茶髪に濃い目のメイクであり、活発でノリのよい、だがギャルまでいかないお姉さんであると僕は確認した。

相容れないものがあると自覚しながらも好きな、そんな種類の女性である。

数分するとまた戻ってきて、今度は先ほどよりもだいぶ近く、というよりすぐ脇を通った彼女は僕に体を押し付けながら自席へ向かっていった。

もちろん通路なんてものは原形をとどめていなかったので、人ごみを分けていかなければならなかったために、体を押し付けるようにして通るよりほかなかったのであるが、僕は試合に熱中していたためにそんなことはつゆ知らず、右腕にやわらかいふくらみが押し付けられ形を変えた感触があり、脳内でその事実を理解した。

「ああ、彼女の胸か」、危険な妄想である。

男性であればこのくらいのことは感じて責められるところはないだろうし、これくらいの幸福は許してほしいものだ。

それっきり何か妙な満足を得た僕は彼女への興味を少しずつ減らしていってしまった、いやむしろそうした妄想への罪悪感から、その埋め合わせのつもりであったのかもしれない。

ボルテージがどんどん高まってくると人頭が前後左右に入り乱れ、僕の視界を妨げるようになったので、仕方なく後方にある小さめのモニターで観戦することに変更した。

みなが前方を向いているのに自分だけ反対を向いているのはややおかしなかんじがしたが、僕は応援よりも試合をきっちり観戦したいというある種のスポーツ精神を持っていたので気にはならなかった。

するとそのモニターの下には女性二人がテーブルに向かって腰掛けており、前方のモニターで観戦していた、つまり僕とは向かい合わせのような状態になっていたのである。

右側の女性は目鼻立ちのはっきりし、メイクもばっちり決め、元来は夜のお仕事の人だろうか思えるほどであったが、ややあごが突き出ていて、それほど僕の興味を引かなかった。

だが、美形だとは感じていた―あとになってTが気になっていたとこぼしていたところを見るとやはり美形であるようだ。

もう一人のほうは典型的なしょうゆ顔ではっきりしない顔立ちではあったが、それゆえにかわいらしい、愛嬌のある感じを与えた。

名の知れたバーであったから、テレビ局も取材に来ており、そのクルーの一人が彼女をずっと口説いているのか、機嫌を取っているのかわからなかったが、最終的に連絡先として名刺を渡していた。

僕はなんだかいやな感じがした。

職権の乱用だが、まあいいだろう、確かに人に誇れる仕事には違いないし、それで美女を落とせたとしたらもうけものといっていいかもしれない。

驚くことに、試合終了後には彼女にインタビューを行い、地上波にそれが流れていた。

僕も容易にそのインタビューを受ける権利を得られそうであったが、僕はつまらない、口端の立たない男なので自重しておいた。

結局、注文したピザもビールも僕たちに届けられることはなく、試合終了とともに、ワールドカップの決定に沸く会場は暴徒なみのすさまじき人間にあふれ、それに圧倒されて会場外へと出た。


僕がなぜ今回このことを書いたのかというと、この出来事がある大きな意味を僕にとって持っていたからである。

それは僕たちにとって意欲、あるいは活力というものがどういう性質のものであるかという気づきを与えたのだ。

僕は理性的、あるいは感情的に女性を好んでいる―あえて、このような言い方をするのは、僕が本能的には、つまり性として好んでいるとはすこしニュアンスが異なるからだ。

つまり、自らの状態向上―それは精神的にも感情的にも―のために脳がそのように思わせていると感じられたのだ。

貧弱な男はどうだろうか?いずれかの形をもつ権力、権威を持たない男はどうだろうか?

―魅力的に見えないだろう。

という直覚的な認識を僕は得ることができたのである。

このことはなによりもまず、僕のこうした物を書くという意欲にも少なからず影響を与えた。

なぜなら、これが意味のあるという自覚が得られるとするならば、権威という意味合いの自信となって―女性に対する自信というのは少なからず大きいことに思われる―意欲、活力に置き換えられていくからだ。

ファッションにしろ、肉体にしろ、それに努力が向けられているのはもちろん自己確立、自己同一ということもあるにはちがいないが、また同等に男性という認識を助けるためでもあり、その限りでは女性という存在を無視することはできない、いや大いに意識する方がかえって効果が得やすいのではないか。

もう少し考えがまとまれば、こうした対女性に関する認識ということにも踏み込んでみたいが、現状では実感を得たところから、考えを引き出すという方法より以上は難しい。
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『直接に関係しないところへの無関心や無責任は許すべからざる愚行である』

『ぼくの考えでは、こっけいに見えるということは、ときとして結構なくらいですよ、かえってよりいいくらいですよ、なぜって、おたがいに早くゆるし合って、早く和睦ができますからね。

だって、一時になにもかも理解することはできませんし、またいきなり完全からはじめることもできませんものね!

完全に到達するためには、その前に多くのものを理解しないことが必要です!

あまり早く理解しすぎると、あるいは間違った理解をしないとも限りませんからね。

ぼくがみなさまにこんなことをいうのは、みなさんが多くのものを理解し、かつ……理解しないことに成功されたからです。


おお、あなたがたは自分を侮辱したものも、また侮辱しないものをも、忘れてゆるすことのできる人です。

じっさい何よりも困難なのは、侮辱しないものをゆるすことです。

なぜというに、侮辱しないものに対する不満は、根拠のないものだからです。

つまり、こういうことをぼくは上流の人々から期待したので、ここへ着てからも、それをいおうと思ってあせりましたが、どういっていいかわからなかったのです……』   『白痴』より



善良な市民、これこそがまず僕たちの意識すべき到達点であるように思う。

現代では市民という考え方、概念は影をひそめ、個人的経済活動という一面が色濃く僕たちの目に映る。

こっけいという言葉が特に日本ではなじまれないものという気がしてならない。

言語の意味としては、こっけい=ユーモラスとなると思うのだが、微妙な違いを感じるようである。

もうすこし負のイメージが含まれているのであるが、これがかえってとてもよく、この場面のいわんとしていることを表わしているように思い、訳者の力量かドストエフスキーの表現によるのかそれはわからないが、新たな人間のもちあわすべき感情を示してくれたように思う。

そういう意味で、この物語中でムイシュキン公爵はこっけいそのものであり、数々の困惑と情感をかもすわけであるがいかにも優れているではないか。


僕たちが例えば『光』を想像した場合、必ず暗闇の中に一筋か、あるいは一点の光を描くのではないだろうか、しかし、本来『光』とはそういうべきものではないということ。

これを完全になぞらえて考えてみることで僕は自分なりに解釈してみた。

「光あるうち光の中をすすめ」ではないが、光は対照として見出すものでもなければ、なにかの反作用として考えるべきものでもない。

ただあるべきもので、闇と光を同質に見出すとするならば、これは間違った理解である。

善や真理、美しさなどはそのまま『光』といっていい。

悪の反対に善を見出す、醜悪さの反作用として美を感じるというのは誤った認識である。


『じっさい何よりも困難なのは、侮辱しないものをゆるすことです』

いじめがなくならないのはまさにこの一点に帰着していくように思われる。

逆に言えば「いじめ」という語句自体がそうした独特の響きをもっていないだろうか?

反抗でもなく、仕返しでもない、根拠のない、あるいはよくわからぬ精神作用によって突如引き起こされる暴力的感情である。

匿名性に安心するがごとく、侮辱などの根拠なきところに攻撃するという快さが人間の醜悪さのなかに含まれているとしたらこれはなんとしても克服しなければならない!

どれだけこの世界で根拠なき争い、実質なき惨劇が繰り広げられていることだろう。

直接に関係しないところへの無関心や無責任は許すべからざる愚行である。
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『烈しい闘いの終り』 祖父と肺がん

『お前たちの頑是ない、驚きの眼は大きな自動車にばかり向けられていた。

お前たちの母上はさびしくそれを見やっていた。

自動車が動き出すとお前たちは女中に勧められて兵隊のように挙手の礼をした。

母上は笑って軽く頭を下げていた。

お前たちは母上がその瞬間から永久にお前たちを離れてしまうとは思わなかったろう。

不幸なものたちよ。


それからお前たちの母上が最後の息気を引きとるまでの一年と七ヶ月の間、私たちの間には烈しい戦が闘われた。

母上は死に対して最上の態度を取るために、お前たちに最大の愛を遺すために、私を加減なしに理解するために、私は母上を病魔から救うために、自分に迫る運命を男らしく肩に担いあげるために、お前たちは不思議な運命から自分を解放するために、身にふさわない境遇の中に自分をはめ込むために、闘った。

血まぶれになって闘ったといっていい。

私も母上もお前たちも幾度弾丸を受け、刀創を受け、倒れ、起上り、また倒れたろう。


お前たちが六つと五つと四つになった年の八月の二日に死が殺到した。

死が凡てを圧倒した。

そして死が凡てを救った』   有島武郎著『小さきものへ』より



今となってはずいぶん昔のことのような気がする。

僕は幸いにも物心のつくまでどころか、ものの分別がつく年頃まで親、兄弟、祖父母が健在であった。

そんな光に包まれた日々を送っていたある日、祖父に癌が見つかった。

それはまったく予期していない出来事で、その診断が下された検査というのも、祖父の持病である耳の不調のために行われたものだったのだ。

当時は祖父もまだ若いおじいちゃんに入る年齢であったため、それほど心配をされなかった―早期発見であったことも医師から伝えられた。

肺がんであった。

タバコを吸い、酒も飲み、美食家であった祖父は癌になる人の典型とも言えるのかもしれない。

癌には口が三つある、それはこうした意味を案じているというのだ。

当時は―といっても10年ほど前だが、切除手術が一般的であったので(今も通常はそうであるに違いない)すぐに手術が施された。

結果は成功で家族は胸をなでおろした。

僕ひとりをとってみれば、大した心配も、実際的意味合いも理解ができていなかったので、胸をなでおろすほど不安を抱いてはいなかったことを覚えている。

しかし2,3年も経たぬ内に病魔は再び、今度は確実にその仕事を成し遂げんとするかのごとく襲い掛かったのだった。

それからの2年くらい―そうであったか定かではないが―の闘病生活はそれぞれに当人に近ければ近いほど辛く苦しいものになっていった。

母の泊り込みでの看病の日には兄弟で家事分担しながら、寂しい夜も過ごした。

学校から帰り、宿題などの生活の合間には回復を祈る千羽鶴も少しずつ折ったものだった。

その当時のなんと健気で、頑是無かったことだろう。

「祖父危篤」の知らせを聞いて、僕は枕を涙でぬらしたことを今でもはっきりと覚えている。

その前日、僕は学校のキャンプに参加していたのだが、その日にも危険な状態に陥ったということを帰ってきてから聞いた。

楽しんでいる僕を引き戻すことは忍びなかったのと、いくらか余裕もあったのでそうしたのだそうだ。

車中で祖父の死を知らせる電話が鳴り、その内容を聞かずとも誰もがそのことを悟った。

深夜1時になる少し前であった―……

僕は人生で初めて慟哭した。

胸が苦しく、一緒に過ごしたわずかな時間が美しき思い出となって脳裏に鮮やかに浮かび上がった。

そしてそれが完全に隔絶されたありえない現象として理解されたとき、人生の恐ろしさと悲しさを深く味わったのだった。

いつもは冷静な父も少しばかり動揺しているように見えた。

病院は暗闇の中に粛然とそびえていた。

病室は重篤患者であることを意味する個室であり、その付近は独特のあわただしさに包まれていた。

ベッドの周りをはすでに家族、親戚の何人かが囲んでおり、その状況とそぐわない静けさが悲しさよりも不気味さを少年の心に醸させた。

初めての死顔であった。

温かみのある人ではなく、単なる有機体の物質となったその肉体にぼう然と向き合うことしかできなかった。

怖気をふるう程冷たかったあの感触は生涯忘れられぬ。

好きだった祖父であるにもかかわらず、その額に触れることに不安と穢れを痛烈に感じた。

そしてはっきりとこんな自覚が脳内を占領した。

「がんとの長かった闘いが終った。

それは死という形でもたらされたのだ。

こうなるよりなかったろう、これ以上なにができたというのか。

望まない結果であるが、望ましい結果なのかもしれない」

少年にはこう感じるよりほかなかったのかもしれない。

看病に熱心であった母は人一倍、いやはかりしれぬほどの悲しさと無念を感じていたようだった。

祖父の兄弟が、そうした母の働きをよく理解し、

「本当によくやってくれたよ、すごく喜んでいたし、喜んでいるに違いない。

こればっかりは仕様のないことだからね。

ありがとうな」

という言葉をかけていた。

母はしばらく顔を上げることができなかった。
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ギャンブルでの敗北

僕はギャンブルが好きではないので、ほとんど全くといっていいほどやらないのであるが、今ちょうどギャンブル好きとして知られ、そのせいで生活は貧しいものだったというドストエフスキーの作品―彼は『賭博者』という作品まで書いている―を読んでいて、また先輩が「6月6日だから今日は勝てるかもしれない」といって意気込んでいたので社会勉強と違う価値観をもった人間との交流という意味合いをもってスロットに挑戦した。

自分でも不思議なのだが、ギャンブルに限らず、じゃんけんやくじなど運によるところが大きい物事に対して、異常なまでの自信を僕はもっているのだ。

じゃんけんをすれば、勝つに違いないと思うし、くじを引くときは当たることしか頭に浮ばない。

だからといって、結果はおそらく常人と一緒で、数学的確率のそのままの反映したものと大差はないだろう。

こういった確率、運次第の勝負ではプラス思考であることは効を奏しないらしい。

さて、先輩の隣のスロット台で始めたわけだが初めてだからシステムがまずわからない。

ためしに1,000円くらいでやろうと思っていたけれど、彼の話ではせめて5,000円くらいはやらないと当たる確率はなかなかないようだ。

考えてみれば、損と得の差が大きい、いってみればギャンブル性の高いものらしいので、それも当然だという思いに至り、まあ5,000円くらいいれるかと決断した。

所作も当たり前に不慣れなので順番を誤るペナルティを何度かやってしまってもったいなかった。

大きなチャンスが一度訪れたものの、残念ながら不運のためそれを逃してしまったので、もう望みはあまりないという忠告から一度そこでやめにした。

すると隣で打っていた先輩は中当たりくらい―掛け金を倍で取り返すぐらいの勝ちを収めていたので、僕も台を変えてもう5,000円でチャレンジすることにした。

……

本当に小さな当たり―軍資金程度―が数回あったのみでなんらの快感も喜びもなく所持金は0になった。

幸か不幸か、僕は手元に10,000円札一枚より持っていなかったのでどうしようもない。

金銭を失うという負けは独特の敗北感を残すことに気づき、また心のさまざまな動きが感じられた。

その負けをどうとらえるのか、この10,000円をもっと有効に使うべきではなかったか?

いや、ギャンブルとはそういうものだから、善意や論理というのを持ち出すのはお門違いだ、おととい来やがれってもんだ。

しかもおもしろいことに、僕はあるいみ大きなお金を失ったことをあまり後悔していない。

だから平気で10,000円つっこめたし、なんの苦もなく切り上げることができた。

悔しくもなければ、リベンジしようという気もさらにない。

率直な感想はあの騒音と社会から切り離された独立性みたいなものによる疲労を感じたということだ。

いい経験ではあったが、僕の性質には向いていないということが改めて分ったのは大きな収穫であった。

『勝つことばかり知りて 負くることを知らざれば 害その身に至る』   『徳川家康遺訓』


この言葉をあらためて胸に刻んで、また明日から地道な活動を続ける次第だ。
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『われわれはこっけいで、軽薄で、悪い習慣だらけで、ものを見透かすことも理解することもできないで、ただぼんやりしている』

『ぼくはときおりきたない根性になることがあります。

それは信仰を失うからです。

さっきもここへ来る途中、こんなことを考えました。

「さあ、あの人たちに向かって、どんな具合にきりだそうかしら?

どんな言葉からはじめたら、あの人たちがせめてすこしでも理解してくれるだろう?」

ぼく自分のことも心配でしたが、なによりも一番にあなたがたのことを心配しました。

おそろしく、おそろしく心配しました!

ところが、ぼくにそんなことを心配する資格がありましたか、よくまあ恥ずかしくなかったことです。

ひとりの卓越した人物に対して、無数の不良な人間がいるからって、それがいったい何でしょう?

いや、これらは無数などというべきでなく、ことごとく生ける素材であると確信しているので、ぼくは嬉しくてたまらないのです!

われわれはこっけいだからって、きまり悪がることはすこしもありません、そうじゃないですか?

それはまったくほんとうです、われわれはこっけいで、軽薄で、悪い習慣だらけで、ものを見透かすことも理解することもできないで、ただぼんやりしている。

われわれはみんなこんな人間なのです、あなたがたも、ぼくも、世間の人たちも!

ほらね、いまぼくが面と向かって、あなたがたはこっけいですといっても、あなたがたはほんとうに腹をお立てにならないでしょう?

してみると、つまり、みなさんはその素材じゃないでしょうか?』   『白痴』より


僕自身も少なからずこのブログを書くということについて、こうした心境に陥るのである。

「どんな具合に書いたら読む人に文学のすばらしさや優れた思想、感情を伝えることができるのだろう?

どのようにすればたくさんの人に読んでいただけるのだろう?」

自分の文章力や構成、そして概念の理解、解釈、なにより自分自身の持っている思想が正しく、美しきものかどうかということを心配しながらも、それ以上にこうした環境と活字離れや社会情勢といったものに伴う世間の要求や、その価値観とのズレを心配した。

分析してみれば、書いているものについて一定の価値を自分なりには認めているので一般的に通用するのかどうか、そうしたことが気がかりであるということなのだろう。


『われわれはこっけいで、軽薄で、悪い習慣だらけで、ものを見透かすことも理解することもできないで、ただぼんやりしている』

そうした存在であるのだから、

「もっとたくさんの人に読んでもらうにはどうしたらいいのだろう?

文章や構成が誤っているのだろうか?内容が的を外れたものだからだろうか?読み手の理解力の乏しさからだろうか?

と考えることがそもそもの間違いであり、僕たちはそうであって当たり前なのだ。

ここでいう、素材であるわけだから、その自分という素材、世間という素材を共に少しでも幸福・平和という次元にステップアップできるように文章もうまくなるように努力する、鍛える。

つねに懐疑的になり、思想と感情を見直し、分析し、より高邁なものに触れる機会を得るために働きかける。

世間や接点を持つ人びとに対しては共に成長するという感覚をしっかりともち、価値観の共有と相違の認識と理解、発展。

いずれにしても、『自分が素材であり、こっけいで、軽薄で、悪い習慣だらけでものを見透かすことも理解することもできないぼんやりとした存在』

という考えは幾分気持ちを軽くし、思想を柔軟にしたように思う。

文学に親しみ、見聞を広め、思想の充実をはかるということだけで、自分をなにか価値のある、優れたものだというどこかそうした自尊心をもっているというのは見当違いだということを肝に銘じておかなければならない。
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『ぼくのゼスチュアは観念を卑しいものにする』

『きのうアグラーヤさんが、ぼくにものをいうことを禁じて、話してはならないテーマさえ指定されました。

そんなテーマに触れると、ぼくがこっけいに見えるということを、よく知ってらっしゃるからです!

ぼく二十七ですが、まるで子供のようだってことは、自分でも承知しています。

ぼくは自分の思想を語る権利を持っていません。

これはずっと前からいってることです。

ぼくはただモスクワで、ラゴージンとうち明けた話をしたばかりです……ぼくらはふたりで、プーシキンを読みました。

すっかり読みました。

その男はなんにも、プーシキンの名さえ知らないのです……ぼくはいつも自分のこっけいな態度で、自分の思想や大切な観念を、傷つけやしないかと恐れるのです。

ぼくにはゼスチュアというものがありません。

ぼくのゼスチュアはいつも反対になるもんですから、人の笑いを呼びさまして、観念を卑しいものにするのです。

また適度という観念がありません、これがおもな点なのです、これがむしろ最もおもな点なのです……ぼくはいっそ黙ってすわってたほうがいいくらいです。

それは自分でも知ってます。

隅のほうにひっこんで黙っていると、かえってなかなか分別ありげに見えるくらいです。

それに、熟考の余地がありますからね』   『白痴』より


僕はこれを思想、観念に関する事柄ではなく、恋愛においてなぞらえることができるのではないかという気がした。

愛だとなんだか、意味深長になりすぎるきらいがあるので、好きという感情にしたほうがよさそうだ。

ひと目見て好きになったり、ある行動がきっかけで意識するようになったり、あるいは好感をもつようになって、好きという感情にいたるという場合があったり、長年の友人関係から発展したりとさまざまに恋愛感情の芽生えはあるように思うが、それを語るのは権利云々の前に野暮だといわなければならないかもしれない。

しかし、うぶであったり、打算的、戦略的恋愛に頼らない、自己陶酔に近い恋愛を望んだりする場合には得てして、こうしたゼスチュアにおける過ちを犯してしまいがちである。

肉欲的、打算的恋愛でない、正直で純情な恋であることをその達成のためといわんばかりに、披露するような言葉や行動―ゼスチュアはほとんどの場合にその観念を卑しいものにするであろう。

これは男性に限ったことではなく、むしろ女性にとっては教訓的であるかもしれない、ほとんどの人間がそうした感情に訴える他者の言動や心情を拒む、本質をそなえているように僕には思えてならない。

女の子と席を共にしたり、場を過ごす場合に僕はどうしても、『この広い世界で、どれだけの人と会話を交わすことができるだろう?

ほんとうにわずかである。

それだからこそ、一期一会を大切にしなければならない』

という思いにかられ、つい饒舌になり、話さなくても良い自身の日常や嗜好、また相手の人となりにいたるまでほぼ初対面にもかかわらず打ち解けようとしてしまう。

結果は、ほとんどが気まずい後味を残すようなものとなってしまい、僕の自分では尊ぶべき観念がなにかいやらしいものになってしまっていることに気づくにいたる。

だから、僕みたいなちょっと気取ったまじめは黙って座っていて、当たり障りのない会話に徹するのがもっとも快さと成果を生む第一のことであるのだ。
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それぞれの人生


それぞれがそれぞれの道を歩んでいくことは当然のことだ。

しかし、一緒に机を並べて学んだ友が自分自分の価値観に従って歩み始め、それが別々の道を行くことを意味するのは少しばかり寂しい心持がする。

競うように文学を読んでは、講義のあいだに読んだ書物、その内容と文学的評価、それに伴う思想の想起を語り合った。

業後にはサッカーボールを蹴りあったり、キャッチボールをしたりと僕たちはあのとき、たしかに青春という輝くばかりの時を過ごしていたのだ。

バイトにサークルと忙しい日常の中で、ときどきは街に繰り出すこともあった。

財布にはわずかしかお金がないのにもかかわらず、自分の納得のいくジーンズやスニーカーを思い思いに買ってはほこらしげに歩いた。

夢が突然醒めるように、こうしたすばらしい日々も突然、様相を変える。

僕らは幾分まじめになりすぎたのか、それとも無感動になってしまったのか、それはわからないが、趣味を人生の楽しみに、大きな社会の流れに身を任せる道を選び、教育機関というゆるぎない社会機構の中で重鎮としてあんじゅうすることを望み、そして社会や人生、あらゆることに懐疑的になってもう一度人生を根本から見直そうと、すべてを投げ打った。

僕は「きっと、二人は僕のことをバカなやつだと笑うだろうね。

でも、少し生活になれてくればきっと、僕のような生き方も悪くなかったんじゃないかなと遠くを眺めるように言うと思う。

そして、人生を終えるときにもし、僕という存在を覚えていたら、あいつはまっすぐに正しい道を歩もうとしたんだと得心がいくに違いないよ」

人それぞれに幸福や人生のかたちがあって、その中で自分自身の答えを得ることができるかどうか、それが勝負ってことなんだろう。
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『白痴』の根底に流れる表裏一体の精神作用


『白痴』には多くの人物が登場し、そのそれぞれが典型的な性格を持っている人間として描かれている。

しかし、これは単なる憶測でしかない。

物語中でもそのようにして書かれているし、それを読む読者もやはりそうした典型的な性格を持っているはずだという以上の確信を得ることはできない。

人間は自分の感情を直接知覚することは可能なのだが、ではその感情がいかなる精神作用によって引き出されたかということになると自分自身のことながら、明瞭な答えをだすことはできないのではないか。

例えば、僕が怒っているとする。

どうして怒ったのかを外面的視点からみると、自分に相手が不義を働いたと思われたからである。

すなわち僕は正義というものを重要な人間関係上の要素と考えており、それが破られたから怒ったわけだ。

けれども、冷静に考えてみると、僕は怒るという感情を表現しているに違いないわけで、そこにはなにか思惑があっての故意の動作であるのではないかという疑念が起こる。

正義を重んじている人であるということを怒ってまで主張しなければならないというところに、自分自身が正義を重んじていないのではないという証明があるように思えてくる。

真に、正義を重んじていることと怒り、感情ということは直接に結びつけることはできないのではないかと思う。

僕が、言いたかったのはあらゆる人間の動作、言葉というのは表裏一体であり、どちらからの意味も、その根拠の出発点を指定してしまえば、可能であるということだ。

怒ったのは正義を重んじているからなのか、正義を重んじていないがゆえにそうした過激な反応でもって、強調する必要があるというようにもとれるのだ。

ここまできて、僕はこの例がやや不適当であったように思う。

というのは、怒るという行動が既に、正義や道徳というものに反しており、僕が表裏一体だということを特にいいたかったのは、善や正義、道徳という概念について、まわりのほとんどの人びとが多かれ少なかれ、そうしたものに反しているがゆえに、本当にそのような行動が目前に示されたときに、どうしても誤解されることをまぬがれないという大きな問題が生じるということが言いたかった。

『白痴』のなかでムイシュキン公爵の行動がいびつさをもって眺められるのはそうした効果によるものに違いない。

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『白痴』ドストエフスキー著 作者の偉大な才能の片鱗

『あの不仕合わせな女は自分が世界じゅうでいちばん堕落した、罪ぶかい人間だと、深くふかく信じきっているのです。

ああ、あの女を辱しめないでください、石を投げないでください。

あの女はいわれなくけがされたという自覚のために、過度に自分を苦しめているのです。

しかも、どんな罪があるんでしょう。

ああ、まったくそら恐ろしい!

あの女はひっきりなしに逆上して叫んでいます、「わたしは自分の罪を認めるわけに行かない、わたしは世間の人の犠牲だ、放蕩者の悪党の犠牲だ」と叫んでいます。

しかし、人にはどんなことをいうにもせよ、あの女は自分からさきに立って、自分のいうことを信じていないのです。

それどころか、心の底から自分を……罪深い人間だと思いこんでるのです。

ぼくがこの迷妄を追っ払おうとしたとき、あの女の苦痛はじつに極度にまで達して、ぼくの心はあの恐ろしい時代のことを覚えているあいだは、とうていいやされそうもないほど傷つけられてしまいました。

まるでぼくの心は永遠に突き刺されてしまったみたいなのです。

あの女がぼくのところから逃げ出したのは、なんのためかごぞんじですか?

つまり、自分が卑しい女だってことを証明するためなんですよ。

しかし、なにより恐ろしいのは、―あの女がそれを自分でも知らないで、ただなんとなく卑劣な行為をしでかして、「ほら、おまえはまた新しく卑劣なことをした、してみると、おまえはやっぱり卑劣な動物なんだ!」

と自分で自分をののしりたい、必然的な心内の要求を感じたために逃げ出した―その事実なんです。

おお、アグラーヤ、あなたにはこんなこと、おわかりにならないかもしれませんね!

しかし、こうして絶え間なく自分のけがれを自覚するのが、彼女にとってはなにかしら不自然な、恐ろしい愉快かもしれないんです。

ちょうどだれかに復讐でもするような快楽なんですね。

ときどきぼくはあの女が、周囲に光明をみるようになるまで導いてやりましたが、すぐにまたむらむらと取りのぼせて、果てはぼくが一般たかくとまって澄ましてるといって、ひどくぼくを責めるようになりました(ところが、ぼく、そんなこと考えてもいなかったですよ)。

そして、ぼくの結婚申し込みに対して、こんなことをむきつけていうんです―わたしは高慢ちきな同情や、扶助や、ないしは『ご自分と同じように偉くしてやろうという親切』なんか、けっしてだれからも要求しません、なんてね。

あなたはゆうべあの女をごらんになりましたが、いったいあんな仲間といっしょになって、幸福を感じてるとお思いですか、いったいあれがあの女の伍すべき人たちでしょうか?

あなたはごぞんじないでしょうが、あの女はなかなか頭が進んでるんですよ、なんでも理解できるんですよ!

ときどきぼくもびっくりさせられることがあるくらいです!』   『白痴』より


ドストエフスキーの作品を読んでいると、つねに読者を意識した構成をしており、「親切な作家だな」という感じを受ける。

というのは、この場面のように人物の言動の根拠、あるいは説明を物語内で人物に語らしてくれたりするからである。

ここに限らず、特にこの『白痴』では物語の人物の思惑、行動が錯綜しているために、そうした解説のようなものが特に見受けられるように思う。

また、そうした解説の役割のみならず、読者が陥りがちな自分自身の興味のある事柄のみに意識を集中して、物語を曲解、あるいは偏った読み方をするということを抑制し、修正してくれる。

それと同時に、場面場面を仕切っているので、焦点を当てるべき登場人物の言動、及び心情、概念へと自然に導いてくれる。

もうひとつ、この場面から受ける強い印象は、彼がまぎれもなく秀でた心理分析と描写が可能な優れた作家であるというものだ。

『思うことはたやすい、しかし言葉で説明することは困難である』

無意識というものに初めて実践的に研究したのはフロイトであるというのが一般的見解であるが、ドストエフスキーにも近しいそうした概念があったのだろうと見受けられる。


ドストエフスキーに少しばかり目を向けてしまったが、ここではあの女であるナスターシヤから受ける印象を考えてみなければならない。

ムイシュキン公爵が「あの女はなかなか頭が進んでるんですよ、なんでも理解できるんですよ!」といっているように、ナスターシヤは

『自分自身を理解し、客観的事象としての自分を理解し、世間や周囲の人びとがどのように彼女を理解しているかをも理解している』

そうした自分自身を納得させるために行動するのだが、周囲の人びとは彼女が彼らを理解するよりも低いレベルでしか自分自身を理解することができない。

だから、彼らには彼女が狂っているようにみえる、しかし公爵はそれを見抜いている。

たくさんのことを理解していながら、無知と誤解のなかで生きることはこの上ない苦痛・困難であり、とてつもないエネルギー、善意を要する。

そうしたことがこの一節によって、簡潔にかつ分りやすくかかれており、ただただ感服するだけだった。
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hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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