飽きられない対象物の条件は『なにか少しばかりの苦労や困難を伴うこと』


『「前には」とロッテはいった、「わたくしは小説ほど好きなものはありませんでした。

日曜日には、どこかの片隅に坐りこんで、ミス・ジェニーといったようなひとの幸運や非運に、われを忘れて一喜一憂したものでしたが、それがほんとうにたのしゅうございました。

今でもそれがいやなわけではありませんが、でも本を手にする暇がめったにありませんから、読むならほんとうに自分の好みに合ったものを読みとうございます。

その世界がわたくしの生きているような世界で、その人物がわたくしの遭うような目に遭い、呼んでいて物語が自分の家庭生活とおなじように胸に訴えて惹きつけてくれるような、そういう作家が一番好きでございます。

わたくしどもの生活とてもべつに天国ではありませんが、なんと申してもいいしれない幸福の泉でございますもの」』   『若きウェルテルの悩み』より


人間は飽きやすいとよく言われるが、飽きられない対象物の条件は『なにか少しばかりの苦労や困難を伴うこと』であるらしい。

現代の興隆、凋落は激しく安定するときがない。

あらゆるものが次々に淘汰され川面に浮ぶ泡沫(うたかた)そのものである。

それはファストファッション、ファストフードに代表されるように製品やサービスがインスタントさ、手軽さを提供しているためで、人々はすぐにそうしたものに飽きてしまうからなのだ。

こうした現代の潮流を否定するわけではないけれど、先手を打つという意味でも、些細な困難を必要とする製品やサービスを提供することをやるといいのではなかろうか。

そうすれば息の長いものを生み出せるのではないかと思う。

こうした飽きやすい傾向というのは製品やサービスといった対象のみならず、そうした潮流に関しても働くので、いずれまたインスタントや手軽さに変わる価値観が生み出されるであろう。

景気もまた然りであって、その継続期間を明確に下すことはできないし、また努力次第によってはその短縮も可能なのかもしれないが、時期が来ればやがて景気も回復しようし、その逆に低迷も起こるだろう。

また小説が楽しく、魅力に溢れ、文学が根強く現代まで残っているのは、少なからず苦労と困難を要求するからであろう。

小説を読むには、自分の環境や生活、思想断片を意識していなければ一切が過ぎ行くパノラマと変るところがなくなってしまう。

そういう意味でなかなか骨の折れる作業であると僕は考えている。

そうして真剣に取り組む小説というのは甘美な逸楽を約束してくれるはずである。

ロッテはアンナ・カレーニナほど精緻に魅力的に描かれていないように、現段階では思われたのだが、それでも怜悧で独特な魅力を感じさせる。

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成功に必要なのは真面目さではなく本気になること 若く思慮深い男子同士は主張しだすと対立を避けられない


『すべての芸術は社会の経済機構から放たれた屁である。

生活力の一形式にすぎない。

どんな傑作でも靴下とおなじ商品だ、などとおぼつかなげな口調で言って飛騨をけむに巻くのであった。

飛騨は、むかしに変らず葉蔵を好いていたし、葉蔵のちかごろの思想にも、ぼんやりした畏敬を感じていたが、しかし飛騨にとって、傑作のときめきが、何にもまして大きかったのである。

いまに、いまに、と考えながら、ただそわそわと粘土をいじくっていた。

つまり、この二人は芸術家であるよりは、芸術品である。

いや、それだからこそ、僕もこうしてやすやすと叙述できたのであろう。

ほんとの市場の芸術家をお目にかけたら、諸君は、三行読まぬうちにげろを吐くだろう。

それは保証する。

ところで、君、そんなふうの小説を書いてみないか。どうだ。



青年たちはいつでも本気に議論をしない。

お互いに相手の神経へふれまいふれまいと最大限度の注意をしつつ、おのれの神経をも大切にかばっている。

むだな侮りを受けたくないのである。

しかも、ひとたび傷つけば相手を殺すかおのれが死ぬるか、きっとそこまで思いつめる。

だから、あらそいをいやがるのだ。

彼等は、よい加減なごまかしの言葉を数多く知っている。

否という一言をさえ、十色くらいにはなんなく使いわけて見せるだろう。

議論をはじめる先から、もう妥協の瞳を交わしているのだ。

そしておしまいに笑って握手しながら、腹のなかでお互いがともにともにこう呟く。

低脳め!』   太宰治著『晩年 道化の華』より


ああ、芸術と経済の矛盾よ。

芸術と生活の矛盾よ。

金になる芸術を望む卑しき願望が僕の心に巣くいつつあるように思うのだ。

だから書いているものは心惹くものでなく、ただ宙を舞うごみとなるばかりなのだ。

僕はごみを懸命に生み出しているに過ぎないのだ。

市場の作品を夢見て、そして市場に上がらない作品こそくずである。

市場に上がらないのであれば、芸術性を求めて、その芸術性のある作品をつくる努力をしたらどうなのだ。

芸術家であろうとするならば、まず自分が芸術品でなくてはならない道理だろう。

小説を書き始めて数行で打ちやるのは、執筆でもなんでもない遊びにもならない愚劣な戯れだ。

読み手がたくさんあるかどうかではない、それが真理に貫かれた芸術性をもっているかどうかなのだ。

それは真面目さではなく、真剣さ、本気になることである。



友は正直に告白した。

「お前と議論して、その後に考えることは自分の考えを正しく主張できたかどうかであって、お前が言った言葉によってなにか考え直したり、思い返したりすることはない。

つまり、議論は俺にとっての自己主張の舞台であってお前は単なる聴衆に過ぎない。

聴衆であるならば、俺である必要はないではないかとお前はいうだろう。

お前にはその義務があるのだ。

なぜならば、お前の主張も俺は聞いているのだから」

僕は友をわからずやだと思った。

おそらく友も僕のことを低脳のわからずやだと思ったことだろう。

若く思慮深い男子同士は主張しだすと対立を避けられない。

気がつくと僕はそうした議論の場や酒を酌み交わすことを遠ざけていた。

それも卑屈な自分を認めたくないから、どこまでいっても自分はエゴイストであった。
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『クレマチスの丘』 気負わず過ごせる芸術の丘


伊豆に関する情報をほとんど持ち合わせていなかった僕らは近くのコンビニに立ち寄って、るるぶやじゃらんなどの観光雑誌を調べ、その日の観光箇所を考えた。

伊豆北部に『クレマチスの丘』という花と芸術に包まれた山麓の丘があることを発見し、自然と芸術を好む僕にはもってこいだったので今日はそこで一日を過ごすことに決めた。

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大きく拓かれた丘一帯が『クレマチスの丘』という美術館とフラワーガーデンが融合した癒しの公園となっており、四季折々の花々と個性溢れる彫刻によって構成されるエリアと山中の森にたたずむその景色やさわやかな風と共に食事をたのしむレストランと美術館からなるエリアにわけられている。

所々にまだ寒さの残る空気を温める灯火のようなクロッカスが美しくもあり、健気でもあった。

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気負うことなく感じるままに方々をめぐり、思うがままに時を過ごすことのみを来園者に望むがごとく環境を活かし、間延びなき癒しの空間をつくりだすことに成功していた。

おしゃれな雑貨屋やめずらしい西洋種を中心とした花屋などが社会概念を呼び起こす心地よいアクセントとなっていて、思わず手巻きのオルゴールを購入してしまった。

それほどに僕は浮かれていたのだ。

伊豆に関する本や芸術を好む人々が興味そそられるであろう専門書も多く取扱われていて魅力的な空間であった。

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桜のすばらしさと短い人生


桜がすばらしいのは、人に上を向くことを教えるから。

それもひとりではなく、限られた人でもなく、みんなを多くの人の顔を上げさせるから。

春の日差しが空気を温めるとみんな一斉に咲き誇る。

木々草花にはわかるのだ、春の風と春の日差しが。

桜には葉っぱという額縁はいらない。

花それぞれが自分こそが主役だと自惚れてはいないから。

そんな桜の下で僕は思う。

お金のためでも、徳を積むためでも、神様が見ていて罰を与えるからでもない。

ただ、真面目に生きてみたいのだ。

しっかりと、生きていきたいのだ。

この世界は知り尽くすには広すぎる。

そして命は短い。

できることはただ、ひたむきに昨日より今日をよくする努力をすることなのだ。

今年も美しき桜を見に行きたい。
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『放蕩』と『放浪』について、またその自任者の無資格


『〇〇と云う人に今日の会で始めて出逢った。

あの人は大分放蕩をした人だと云うが成程通人らしい風采をしている。

こう云う質(たち)の人は女に好かれるものだから〇〇が放蕩をしたと云うよりも放蕩をするべく余儀なくせられたと云うのが適当であろう。

あの人の妻君は芸者だそうだ、羨ましい事である。

元来放蕩家を悪くいう人の大部分は放蕩をする資格のないものが多い。

又放蕩家を以て自任する連中のうちにも、放蕩する資格のないものが多い。

これ等は余儀なくされないのに無理に進んでやるのである。

あたかも吾輩の水彩画に於(おけ)るが如きもので到底卒業する気づかいはない。

然るにも関せず、自分だけは通人だと思って済している。

料理屋の酒を飲んだり待合へ這入るから通人となり得るという論が立つなら、吾輩も一廉(ひとかど)の水彩画家になり得る理窟だ。

吾輩の水彩画の如きはかかない方がましであると同じ様に、愚昧なる通人よりも山出しの大野暮の方が遥かに上等だ』   夏目漱石著『吾輩は猫である』より


自分のブログに「放浪者」と冠している僕は放浪者ではなく、放浪者たる資格もないのだ。

芸人の有吉がテレビで

「本当の天然は自分のことを天然だとも、尋常でないことも自覚していないから、それこそが天然たるゆえんで、最近ちまたで話題のおバカキャラというのは天然でなければおバカなんていう品のいいものでもなく、ただのバカに過ぎない」

というようなことをいっていた。

天然とは元、欽ちゃんがジミー大西を形容するのに用いたのが始まりだそうだ。

「ジミー大西は天才ではなくて、天然だね」と言ったらしい。

これと同様に、『放蕩』―ある種類の人間にはとても魅力的で憧れるもの―は無意識に自然体で放蕩の中に揺蕩うことであり、才能のひとつであるといっていいかもしれない。

僕は生来真面目な人間であり、また臆病で小心者であったから『放蕩』する度胸も無関心もなかった。

いや、このように『放蕩』を分析し、概念をもっていること自体を卑しむべきであるが、『放蕩者』に賛意を送ることはできないのだ。

『放蕩』と『放浪』に明確な違いがあるのだろうか?

そして僕は『放蕩』を否定し、『放浪』を肯定するとはどういうことなのだ?

『放蕩』は頽廃的で自滅に進み、非生産、むしろ消費、破壊的である。

『放浪』は没社会交渉的で無頓着、無関心、超世界市民主義とでもいおうか、自然を愛し、時間や概念に縛られない。

僕はそれらを強烈に意識しながら、その解放を切望しているがためにブログにまでその言葉を記すのだ。

逆説的に、それが一層僕を縛りつけ、『放浪』から遠ざけ、偽りの自由の中へと僕を投げ込んだ。

『放浪』を意識するのではなく、演繹的にではなく帰納的に考え、自然を愛し、時間や概念を自分を感情に入れずに捉えること。

『孤独な放浪者の随想』

これはジャン・ジャック・ルソー著『孤独な散歩者の夢想』からほとんどそのままに借用したもので、オリジナルのほうがやさしさや、やわらかさをもち、字面やリズムも美しい。

しかしながら、僕自身、散歩者にはまだ早い、夢想するには若すぎる。

放浪者であって、そのつど浮ぶ随想をとどめておきたいと切に願ったのだ。

言葉のリズム、言い回しが認識においても、概念としても重要であることはもちろんだが、それ以上にその意味するところこそがもっとも大事であるだろう。

また、ルソーにあやかることは僕をつねに励ましてくれる。
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露天風呂とまとまりのある食事を楽しむ『伊豆長岡温泉 伊古奈荘』

軽井沢、箱根、伊豆は東京もんの行くとこで我々には敷居が高い。

そんな都会人の小旅行のオアシス伊豆にいってみたくて、まず比較的手ごろな『伊豆長岡温泉』に決めた。

伊豆は日本を代表する温泉地帯であり、かねてから憧れがあった。

その独特な地形と、まだ十分に交通網が発達していないところが旅情をそそるのだ。

電車にしても道路にしても観光のための傾向が強く、アクセス抜群、日帰り温泉旅とのイメージとははなれているように思う。

今回訪れた『伊豆長岡温泉』は伊豆半島の北部にあり、伊豆の玄関口といえる。

かつては栄えたであろう温泉街も今はすっかりさびれてしまっていたというのが率直な感想である。

その温泉街からやや離れて比較的大きな通りに面して建てられた『伊古奈荘』に宿泊した。

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改装されて間もなかったので外装と内装ともに綺麗であった。

こじんまりとした湯宿であるのだが、外観は趣を感じるほどではなかったが、日本家屋を意識した軒や門には交換をもてた。

駐車する際に丁寧に案内していただけたのでもてなしはよさそうだとの印象を受けた。

鮮やかに織られた絨毯が敷かれた広いロビーには勇ましい書や華麗に活けられた花が豪華に飾られていた。

突き当りには小さな中庭が設えられ、旅情をくすぐる工夫がところどころに施されていて気持ちよかった。

もっとも驚いたのは値段に似合わない客室の広さ―居間に談話室的小スペースがあり、窓も大きく、床の間も品よく飾られていた―とその窓から見える離れがあることである。

inq9sq.jpg(HPより)

時間制限なしの源泉掛け流し貸切露天風呂がついているのが魅力で、湯船は優れた効能のバードガスタイン鉱石という天然ラジウム鉱石を使用してつくられている。

貸切ではいるには広々としていて、洗い場から湯船に至るまでの空間も考えられた設計になっていて満足であった。

ずっと入っていたいと思える体にしみこむ温泉というよりは重みのある湯に体を沈めるといった湯質である。

露天風呂と同様に懐石料理を自慢とする宿であり、僕たちは贅沢な食事プランにはしなかったのでその本領を知らないが、基本プランであっても一品一品が小さくまとめられた品のいい味付けの食事であった。

観光やアクティビティを求めず、のんびりと温泉と食事を楽しむ旅にはコスト面を考えてもなかなか上等な宿であろうと思う。

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わが子に最低限の教育を


僕は子どもたちに勉強を教えることがあるのだが理想と現実は異なるもので、好意と期待をもって指導にあたるにもかかわらず、その見返りとしていらだたしさを覚えることがほとんどなのだ。

彼らはろくすっぽ数の計算ができない。

いわゆる四則演算という数学の基本、文字式の扱いなどがてんでなっていない。

そんな状態にわが子を放っておきながら、やれ塾だの、教師だのと親はむだな出費や憤り、不甲斐なさを感じているのだ。

どんな親でも足し算や掛け算くらい教えられるだろうに。

塾や先生を吟味したり、論じる前に、まず少しは教育をしたらどうなんだろう。

働くことよりもなによりも子への教育である。

教育ができないのなら子どもを生むなといいたい。

いい成績をとれというわけではなく、ただ肉屋さんでのグラム計算や食材の値引き計算くらいはできなくては生活に支障が出るし、第一長い人生の中でたくさんの損を経験してしまうだろう。

一体、どういう了見で毎日をおなじ屋根の下に暮らしながら計算も言葉もうまく使えないままほうっておくのだろう。

計算のできない馬鹿はどこまでいっても馬鹿であり、挨拶のできない人間はいつまでたってもろくでなしであるのとおなじである。

うまいものを食わせ、綺麗な家に住み、習い事の一つや二つやらせておけばいいと思っている馬鹿な親たち。

そんなものなにひとつなくてもよいから、足し算と挨拶するクセくらいは教えて欲しい。

今日は本当に憤慨した。

子どもたちに罪はない。

子どもたちは最大の犠牲者で、彼らが将来馬鹿をみるのだ。

それはすべて親の責任である。
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一切の規則というものは自然の真の感情と真の表現を破壊してしまう 『若きウェルテルの悩み』


『自然のみが無限に豊かである。

自然のみが大芸術家をつくりうる。

芸術における規則の利益ということについてもいろいろにいうことはできよう。

しかし、それは市民社会を讃美していいうることと、ほぼ同じである。

ちょうど法則と礼儀の型どおりに育った人が、けっして持てあましものの隣人やひどい悪党になることがないように、規則に従って修行する作家は決して没趣味な俗悪なものを製作はしない。

しかし、その半面、一切の規則というものは、誰がなんといおうとも、自然の真の感情と真の表現を破壊してしまう!

「それはいいすぎだ。規則はただ制限し、むだな蔓(つる)を刈るだけだ。云々」と君はいうのかね。

よろしい、君、一つの比喩をもちださしてくれたまえ。

それは恋の場合と同じことだよ。

ある青年が少女に恋をして、毎日朝から晩までそばを離れず、ただ身も心も献げきっていることをつねにつねにあらわそうとて、力も財産も費(つか)いはたす。

そこに一人の俗物がやってくる。

公職についている人物だね。

そしていう。

「優雅なる若き紳士よ。恋は人間的である。されば君は人間的に恋しなくてはなりませんぞ!

君の時間を区分して、ある時間を勤労にあて、休みの時間を彼女にあてよ。

君の財産を算定し、必要経費の残余をもって―それも過度にわたっては相ならんが―誕生日ないしは命名日などに彼女に贈り物をせらるる、それはあえてさまたげない。しかじか」

もし青年がこれに従えば、彼は有為な青年であり、私とて役所に御採用くださいと彼をどこかの領主にすすめもしよう。

ただ、彼の恋はもうそれでお終いだ。

もし彼が芸術家なら、彼の芸術はもうそれでお終いだ。

おお友よ!君たちの魂を撼(ゆす)っておののかしむべく、いかなれば天才の激流の迸ることかくは稀に、高き潮にたぎることかくもめずらしいのであろう?

よき友らよ、その両岸には冷静なる紳士たちが住んでいて、天才の奔流のためにかれらの四阿(あずまや)やチューリップの花壇や野菜畠が破壊しないようにと、あらかじめ堤防や疏水をつくって、あるいは来ることあるべき危険にそなえているのだ』   『若きウェルテルの悩み』より


現代風にいえば、マニュアル人間。

芸術に限らず、仕事においてもこの規則の利益については同様のことがいえると思う。

芸術の場合、ゲーテは「自然のみが無限に豊かである」と大義を示した。

では仕事についてはどのような大義を示すべきなのであろうか?

僕はそれを道徳とするべきであって、現代のような合理化、儲け至上主義にその席を譲ることをゆるさない。

ただし、ここには大いなる矛盾が生じる。

儲けることとお客さまを利することとは極端に突き詰めれば相矛盾するとの結論に達する。

もしこの矛盾に風穴を穿つべく、平衡を保たんとするならば、現代的な考えに沿えば、共産主義、社会主義ということになるのだろうか?

資本主義である以上はつねに、格差や価値基準の差、水準の差異による利潤をかすめとることが正義である。

そういった非生産的な虚構上の利益ではなく、生産性のある、またその生産物が一定期間の時間的効果とそれに伴う利益を生み出すような市場における利益が発生するような仕組みが望ましいと考える。

僕は経済や社会、政治についてあまり、自己主張を持っていないというのが正直なところであり、散漫な論考をしてしまった。

今、考えようと思っていたのは、では芸術と恋が同時進行する場合どのようにするべきなのだろうかということだ。

現に恋は際限がないことを僕は知っている。

だからそういう意味では愛すべき青年とでもいえようか、それによって学業を幾度か疎かにしたことを記憶している。

眠られぬ夜を過ごし、そのまま部活の試合に臨んだこともあった。

文学を知り、その芸術性に惹かれ、自分でもやってみたいと強く思うようになった。

それと同時に、恋に対する意識は薄れてしまったように思う。

文学的素材や詩情を希求し、それに付随するものとしての恋となってしまった。

計画的な恋愛とでもいおうか、バランスをとりながらの、抑制の中での関係。

どこか冷静に振舞う自分がいる。

狭く深くを信条とする自分にあって、浅く永くをのぞんでいる。

一方で、熱く燃えた恋情はえてして、その恋を焼き尽くすこともまた知っている。

僕の恋は終ったのだろうか?

それを信じたくはないし、この文学趣味にひとつの道筋が見えてきたとしたら、また恋に身をまかせる、自堕落的快楽に陥りたい、自滅的な感情が深奥で芽吹いているのを感じている。

生きる術なくして、恋に陥ることはきわめて危険である。

それこそが若さであり、情熱であることも不覚に感じている。

大人の惑わしや、妥協こそは恐るべき悪魔である。

今大切にしている感情と日常は守り抜くべきであると信じる。
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文明社会という大きな環の一点と接する内接円のごとき社会の中で生きる


大むかしから泥沼にたとえられた借金のことを、ラテン人は「他人の真鍮」と呼んだが、これは彼らの硬貨のあるものが真鍮でつくられていたからである。

いまでもひとは、この他人の真鍮にすがって生き、死に、葬られている。

明日は借金を返す、かならず返す、と言いながら、今日、返済できないまま、ぽっくり死んでしまう。

州法にでも触れないかぎり、ありとあらゆる手段を使ってひとに取り入り、顧客を得ようとする。

嘘をつき、お世辞を使い、投票し、身を堅くしてちっぽけな慇懃さの殻に閉じこもるかと思えば、大風呂敷をひろげて霞のように薄っぺらな度量をひけらかしてみせる。

それもこれも、隣人を口説いて靴、帽子、上着、馬車などをつくらせてもらったり、雑貨品の仕入れをやらせてもらったりするためなのだ。

あげくの果ては、からだをこわすことになる。

そこで、病気にそなえて小金をためこもうとし、古箪笥のなかとか、塗り壁のうしろの靴下のなかに金を隠したり、でなければもっと安全だからというので、レンガづくりの銀行に預けたりする。

場所や金額の多寡は問うところでない。   ソロー著『森の生活』より


ここでいう「他人の真鍮」を否定するとしたら、僕たちはまさに「森の生活」を余儀なくされるであろうし、現にソローは「森の生活」を送った。

「他人の真鍮」にすがって生きることはつねに抑圧を背負うことである。

どうして僕たちは「他人の真鍮」にすがって生きなければならないのだろう?

それは単純に食べなければならないからである。

「働かざるもの食うべからず」とは先人が残した金言であるが、僕たちは食うために働かなければならないのだ。

ではもし、自力で食うことができたとしたら?(これこそつまり、「森の生活」である)

自給自足の生活はときどき話題となり、テレビや雑誌でも取り上げられ、一般にスローライフと言われたりもしているようだが、それが可能であるならば?

じゃあ食べ物を確保でき、食料を育て、食べ、眠り、起きて、食料を育て・・・の暮らしをしていくことは自分の理想の生き方であろうか。

僕は断じて否。と答えるであろう。

ではほかになにを欲するのか?

その食料にうまさを求めるだろうか?

もし、うまさを求めるのであれば、一緒に食卓につく仲間が必要となる。

ひとりで食べるごはんよりも気の知れた人と食べるごはんのほうがうまいに決まっているからだ。

また、人につくってもらうごはんも格別においしい。

つまりいいたいのは、うまさを求めると結果、自己完結型の自給自足の生活と矛盾するということだ。

こうした考えを元に、生活形態を考えてみると、自給自足ができるような環境を持ちながら、血縁的な意味ではない、絆によってむすばれたファミリーというような最小社会をつくることが理想型のように思われる。(ちなみに現在の最小社会は家族である)

これは理想のなかの理想といえるような気がする。

いい忘れていたが、「森の生活」でも人との交流があったが、僕には共に暮らすというようなもっと親密な関係の上に成り立つ暮らしに勝る幸福はないように思える。

だからある種の孤独感を否めない「森の生活」よりもこうした「ファミリー的生活」を僕は理想としたい。

理想のなかの理想といったのは、僕はそれほどできた人間でもなく、不幸にも手中と眼前にある世界だけでは満足ができないのだ。

僕の生きるという概念の根源をなす「旅に生きたい」という強い思いをどうしても消し去ることができない。

しかも松尾芭蕉のごとき自力―徒歩ではなく、電車などの文明の力を感じながら、それを利用しての「旅に生きたい」のだ。

こうした文明の力に頼ることこそ「他人の真鍮」にすがって生きるということである。

では、僕はどうしたらいいのだろうか?

僕はぼんやりとこんなような考えを抱いている。

この世界では文明の上に成り立っている、一般的にいわれる社会、経済というものが大きな環状をなしていて、僕はそこに寄生するように、その環の一点と接する内接円のごとき社会の中で生きるのだ。

つねに社会とは接していながら、都合よくその仕組みや構造を利用しながら、自分の環の形状は崩すことなく回転していく。

それの実現こそが僕の理想であり目標である。



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高山 美食めぐり 『天狗』、『手風琴』、『いわき』


すでに以前に紹介したように『中橋』や『陣屋』は訪れたことがあったので今回はそうした観光には時間を割かず、昼食と食後の喫茶、おみやげと買い物を中心に短い時間であったが、温泉旅の最後に高山を散策して歩いた。

飛騨高山といえば、その名のつく『飛騨牛』がブランド牛として有名であり、昨日も山荘でしゃぶしゃぶを食べたのだが―飛騨牛の特徴の一つはその濃厚な脂身であり、そのしゃぶしゃぶでは贅沢なまでに皿いっぱいに薄い切り身が円状に敷き詰められ、半分くらい食べてくどくなり、全部食べ切れなかった―やはりこの日も以前に食べ損ねたこともあって、飛騨牛カレーを『天狗』という観光スポットのど真ん中の交差点の角地にある精肉店が経営するカレー店で食べた。

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飛騨牛の一口大の角切りが贅沢に盛り付けられ、ルーは深みのあるこげ茶色でいかにもこれぞビーフカレーとの色合いで食欲をそそった。

盛り付けられた皿も涙型の真っ白の陶器で盛り付けられたカレーとライスを引き立てていた。

飛騨牛の脂身がルーに溶け込んでいるのがそのなめらかな舌ざわりとコクから伝わってきた。

店内もすっきりと天井が高く、洒落た雰囲気でよかった。

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続いて『手風琴』という門構えに風格と歴史を感じる喫茶店で暖をとりながらのティータイムを過ごした。

高山出身の知り合いが、「高山は寒いというイメージをもたれるけれど、たしかに雪も降って気温も低いのだけれど、部屋の中はむしろ高山のほうが温かい、暖房がしっかりきいていて、こっちにきてみると暖房が効いてなくて外も家の中も寒い」といっていた。

なるほど、この喫茶店内にはいってみるととっても暖かく、それもそのはず、やかんを沸かすことのできる大きな
ストーブが何台かフルパワーで稼動していた。

古い建物を改装したお店で、かつてはこの町の権力者が所有していた屋敷だそうで、つくりがしっかりとしていて、当時の姿そのままに囲炉裏や広い座敷が客席として利用されていた。

冬季限定のぜんざいとコーヒーをいただきながらつかの間の時を過ごした。

この旅の締めくくりとして『中橋』のそばにある東海地方では割と有名で人気の『いわきの早蕨(さわらび)』をおみやげとして友人、知人へ―残りわずかとなっていて、その人気ぶりがうかがえた―買うことにした。

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わらびもちなのだが、こうしたおみやげは実際はありがたい。

なぜなら、それほど値がはらないし、しかも珍しさと上品さではなかなか上等だからである。

日持ちせず、そのまま冷やさずに食べるというこだわりの一品である。

なめらかな上品な味わいで、さっぱりとした味わいで、また見た目にも涼しいわらびもちであった。
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ただ住む家一つと、その周りのいくらかの土地に生きるのみである 『若きウェルテルの悩み』、『平家物語』


『子供は意欲しながらその理由をしらない、ということについては、博学な学校の先生も過程の教師も見解が一致している。

しかし、成人といえども、じつは子供とおなじように、この地上によろめきながら、いずくより来りいずくに行くかをも知らず、真の目的にしたがって行為することもなく、やはりビスケットや菓子や白樺の笞によって操縦されているものなのだ。

このことを誰も信じようとはしない。

これほどにも明々白々の事実なのだがね。

こういえば君がなんと答えるかは分っている。

私の方からいってしまおう。

その日その日を子供とおなじように暮して、人形を引きずりまわして脱がせたり着せたりし、ママが砂糖パンをしまっておいた抽斗のまわりを息をころして忍びあるき、とうとうねらっていたものをうまくせしめて頬ばって、それから「もっと!」と叫ぶ、こうした人間は一番幸福なのだ。

また、自分の愚劣な仕事や、ときには自分の欲情にまでも堂々たる名称をくっつけて、これぞ人類の福祉繁栄のための大事業だと押売りする連中も、たしかに幸福だ。

こういうことができる人は幸いなるかな!

―だが、謙抑にも、こうしたことは結局どういうことであるかを見抜いている人もある。

またさらに、心足ろうた市民ならばわが家の庭をかざってそれを一つの楽園に作りなすことができるし、不幸な身の上の人といえどもその重荷にあえぎながらも倦まずに道をつづけてゆくものだし、なによりも万人はひとしく太陽の光を一分でも長く見ていたいとねがうものだ、ということを承知している人もいる。

こういう人々は、しずかに黙して、自分の世界を心の内面からつくりだす。

かくて、この人は人間であるが故に幸福である。

そして、いかに大きな制約をうけながらも、つねに自由という甘美な感情を、いつでものぞむときにこの囚屋(ひとや)を出てゆくことができるという気持を、おのが心の底にたたえている』   ゲーテ著『若きウェルテルの悩み』より


僕は新興住宅地に住んでいるから、辺りには一軒屋が立ち並び、やや幅の狭い舗装路が縦横に走っている。

どれ一つとして似通った家はなく、たって間もないからどの家も綺麗である。

しかし、それぞれの家は独立してしまっていて、場所だけは一ヶ所に集まっているが、そこに住む人たちはてんでばらばら、ほとんど交流がないのだ。

家は隣同士でも挨拶を交わさなかったり、ご近所付き合いというのがあまり見られない。

特に昼間はただ綺麗な町並みが残るだけで、人の気配がほとんどしない。

こんなにも綺麗で大きな家を建てて、気持のいい日中にその家で過ごさないとはどのような了見なんだろうかと思う。

住まないための家を買い、その家のために働き、外見よく立派な家を建てて、周りの人たちと接することもあまりないとしたらみんなは何のために家を買い、住宅地に住み、仕事をしているのだろう。

彼らこそまさに、子供と違わない大人たちではないだろうか。

お金というビスケット、虚栄というお菓子、外聞、法などの白樺の笞によって操縦され、支配されてしまっているのだ。

本質と装飾の区別がつかない、むしろ装飾であるにもかかわらず、本質と取り違えている人たちのなんと多いことだろう。

車を幾台も乗り換えてとどまることを知らない大人を僕は知っている。

車の本質は走ることであることはもちろんのことであるが、その外見が社会的地位、持主のセンスの代弁者となっていることも周知の事実である。

しかし、新しさや次々に乗り換えることによって美化されるものではないと思う。

むしろこだわりがなく、飽きっぽい、落ち着きのないという印象を与えてしまっていないだろうか。

他人を傷つけ、踏みにじり、自己反省もなく声高々に成功!と胸を張る人のなんと多いことだろう。

『祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響あり

沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす

驕れる者久しからず ただ春の夜の夢の如し

猛き人もついには滅びぬ ひとへに風の前の塵に同じ

(ぎおんしょうじゃのかねのこえ しょぎょうむじょうのひびきあり

さらそうじゅのはなのいろ じょうしゃひっすいのことわりをあらわす

おごれるものひさしからず ただはるのよのゆめのごとし

たけきひともついにはほろびぬ ひとえにかぜのまえのちりにおなじ)』   『平家物語』より


この言葉をもう一度噛みしめながら、明日への一歩を踏み出せば景色も世界も変るだろう。

僕たちはこの広い世界に生きることはできなくて、ただ住む家一つと、その周りのいくらかの土地に生きるのみである。

であるならば、その自分の住む世界を住みよく整える工夫をするべきではなかろうか。

それを見る目と感じる心を、幸せの萌芽を育てることに人生の喜びがある。
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珍スポット『飛騨大鍾乳洞』、『大橋コレクション館』


新穂高温泉からの帰り道、国道を何気なしに走っていると右手に巨大な看板で『飛騨大鍾乳洞』という文字が見えた。

僕はスケールの大きな自然の景観や造形物が好きであるから、鍾乳洞や滝に出くわすと時間が許すのであれば足を運んでみる。

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夏の鍾乳洞はひんやりして気持がいいが、冬だったのでかなり寒かった。

自然のままの鍾乳洞ではなく足場もしっかりと整備され、画像にあるような見所は光の演出が施されていて、幻想的かつアトラクションのような楽しさもあった。

普通山の中というと周りを山の木々に囲まれた状態のことをいうが、こうした鍾乳洞の中にいる場合はまさに山の中にいる状態―この場合日本語でほかに表現の仕方があるのかどうかわからないが―であるのだが、あまり意識しないことに気がつく。

僕たちがこうした山の中にいるときというのはトンネル内にいる場合がほとんどで、そのときはコンクリートに覆われているため、山の中の状態というのはうかがい知ることができない。

無論、洞穴にも普段入ることがないので、鍾乳洞内に入っているとなんだか不思議な気持に襲われるのだ。

一体これはどこなのだろう?

少しばかり恐怖感を感じてしかるべきでありそうだが、終始石筍や石柱に興味を惹かれ、迷路を楽しむかのような気分であった。

地下水や湿度がいかにも現実世界とは別世界であることを証明していた。

この『飛騨大鍾乳洞』には『大橋コレクション館』が併設されていて、こちらにはこんなものが展示されていた。

140px-Narwalschaedel.jpg(wikiより)

これはイッカクという動物の牙であるのだが、始め見たとき、つくりものかなんなのか分らず、それが生物の本物の骨だとはにわかに信じられなかった。

北極海だけに生息する珍しい生物で、かつてはその牙の形からユニコーンの角として売買されていたそうだ。

片方の前歯がどんどん伸びていき、こうした形になるという。

また、画像にあるように二つの歯が伸びることは珍しいようだ。

まだまだ知らないことがたくさんあり、世界には奇妙な生物や摩訶不思議な光景が数えきれぬほどあるのだろう。

命あるうちに、そうした自然の神秘や人類の歴史に触れる機会をたくさん持ちたいとあらためて思った。

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生命、肉体、現在の充実の先にのみ豊かな未来がある 『森の生活』


『たいていのひとは、比較的自由なこの国に住みながら、単なる無知と誤解から、しなくてもいい心配や余計な重労働にわずらわされて、人生のすばらしい果実を摘み取ることができないでいる。

彼らの指は使いすぎて不器用になり、ふるえがとまらないので、そういった役には立たないのだ。

じっさい、働きづめの人間は、毎日を心から誠実に生きる暇などもたない。

他人と男らしくつきあっていくゆとりもない。

それでは労働の市場価格が下がってしまう。

機械になる時間しかないのだ。

自分の知識をいつもふりまわしていなくてはならない者が、人間の成長に必要な、あの無知の自覚を、どうしてもちつづけることができようか?

そういうひとには、ときどきこちらの食物と衣服を恵んでやり、こちらの強壮剤で体力を回復させておいてから当人を評価すべきであろう。

人間のもっともすぐれた資質は、果物の表面についた白い粉とおなじように、細心の注意を払って守らなくてはならない。

ところがわれわれは自分をも他人をも、それほどやさしくは扱っていないのである』   ソロー著『森の生活』より


不景気だの、内定率が低いだのと世間では何かにつけて否定的、消極的、後退的に捉えがちであるが、そうして不安をあおり、僕たちはそうして心配を抱くことに一種の安泰を感じて、安居していないだろうか。

年金が払われない、老後に不安があるから、必要以上な労働に日々を費やすのは果たして豊かな人生と言えるだろうか。

死のための老後、老後のための現在、豊かな老後のために、幸福な今を犠牲にすることは僕には納得できない。

どちらかを選べというのなら、幸福な今を生きたいと思う。

未来は不確定であるし、その日はその日の風が吹く、なんとかなる、うまくいくだろうとそう思っているからだ。

かえって、幸福な老後のためにお金だけ貯めて、それを享受する肉体を労働や日々の生活で損なっていないであろうか?

そちらの方が大いに心配である。

元気と健康であってこその豊かな暮らしである。

経済の名の下に仕事や教育が需要と供給によっての価値基準に当てはめられている。

仕事の価値はお金ではなく、社会貢献度、少なくとも義侠的なものにこそ偉大なる価値があるのではないか?

それを計り、評価することを僕たちは知らないし、教えられてもいないのだ。

今、いろいろなところで逆説的な行動によってかえってその本質を主張するというような事態が起こっている。

原発にしてもそうなのだが、人間がその管理を包括できないようなもの―ガンもそうであるが、自分の細胞が、処理できないような細胞をつくってしまい、その結果自らの肉体を滅ぼす―を生産するのはやめなければならないだろう。

僕たちは機械ではなく、人間であり、生命の安全が第一ではないのか。

先生方、あなたたちは自分はもう完成した人間で、精進も鍛錬も必要ないと思っていないだろうか?

頭ごなしに考えを押し付け、高圧的にふるまっている。

先生とは元来、先に生まれた者という意味にすぎず、生徒と先生の関係は単に人生の先輩というものに過ぎないのになにを勘違いしているのだろうか。

親子の関係でもそうだ。

互いの立場にたってこそ、学ぶものはあるのだから、共に成長していくのでなければ本当ではないと思う。

毎日遅くまで仕事をして、寝不足であることが美徳であるように錯覚するが、それは生命を損なっているに過ぎない。

機械に制御され、コンピューターに支配されるようになって僕たちはますます社会生活に縛られるようになった。

もっと人間として自然な生活をしたらいいと思うのだが。

どうしてこうも誤ったほうにひきずられていってしまうのだろうか、これこそまさに悪魔の仕業なのか。

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『水明館 佳留萱山荘』 大露天風呂で夢のひととき


奥飛騨温泉郷の最奥にある温泉地「新穂高温泉」は北アルプスに抱かれた秘境の感を呈する温泉地帯。

「新穂高ロープウェー」で北アルプスを一望しながらの空中散歩は好天に恵まれれば最高のひと時だろうが、生憎悪天候のため次の機会に持ち越しとなった。

蒲田川沿いを走り、少しばかり斜面を上ってから再び川のほとりへと下ると『水明館 佳留萱山荘(かるかやさんそう)』はある。

IMG_6571ff.jpg

今までのやや高級感漂う旅館やホテルと違って思いっきり山荘然とした表構えにAもやや戸惑っているようだった。

僕自身もリアルな山荘を目の前にして、好奇心をくすぐられながらも少しの戸惑いを覚えた。

玄関前を覆うビニールのカーテンが印象的な玄関。

山荘であるから造りはやや簡単なつくりで断熱や保温に優れるとはいいがたく感じたが、こうした工夫によってカバーされており、滞在するのに何も問題なかった。

やや雑然としたロビーには薪ストーブがあり冬の登山客が暖をとりに来ても安心できるほどの火力と温かみが部屋を包んでいた。

受付で3つある露天風呂についての説明を受け、すぐに部屋へと案内していただけた。

部屋も壁がやや薄めであり、入口が引戸になっていて珍しい。

大きなスチームと厚手のカーテンが備わっているため外はかなり冷え込んでいたが寒さをほとんど感じずにすんだ。

さてお待ちかね、『水明館 佳留萱山荘』の目玉、大露天風呂である。

1001.jpg(HPより)

日本最大級の露天風呂で約250畳、しかも源泉掛け流しという贅沢さ。

巨岩、巨石によって形作られ、洞窟風呂や打たせ湯などの空間造りにも余念がない、すばらしい露天風呂である。

混浴となっているのだが、湯浴みの貸出もされておりとても良心的である。

遠方に槍ヶ岳を望み、すぐそばを蒲田川が流れるという大自然の中で大きな露天風呂に入る開放感は格別であり、
夢のようなひと時を約束してくれる。

外にもうれしい3つの貸切露天風呂がそれぞれの個性と特徴をもって宿泊客を癒してくれる。

川原と一体化している露天風呂に、冬場には保温効果に優れ、体が芯まで温まる釜風呂。

TVチャンピオンで大工王選手権?で優勝した作品「夢をいつまでも」という創作露天風呂。

冬季限定、飛騨牛しゃぶしゃぶ、お部屋おまかせプランは10,650円とリーズナブルで大満足であった。

下呂温泉を牛耳るといってもいいほどに存在感のある『水明館』がその経済力と経営手腕で買い取り、温泉を楽しむということに特化した宿泊施設なだけあって、泉質は肌にやさしく、ずっと入っていたいと思えるような上質なものであった。

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『人は青春時代に広げたところまでの世界の中でしか生きられない』 『若きウェルテルの悩み』 


『さまざまの知合いはできたが、交友はまだ見つからない。

私のどういうところが人をひきつけるのか自分には分らないが、多くの人が私を好いてくれ、近よってきてくれる。

それだのに、われらが共に行く道はごく短いのだから、悲しいことだ。

個々のひとびとはどんなふうだ、ときかれるなら、よそと同じだ、と答えるほかはないよ。

しょせん人間というものには型は一つしかないね。

たいていの人間は大部分の時間を、生きんがために働いて費す。

そして、わずかばかり残された自由はというと、それがかえって恐ろしくて、それから逃れるためにありとあらゆる手段を尽くす。

おお、人のさだめよ!』


『それにしても、善良な人たちだよ!

ときどき自分というものを忘れて、小奇麗に支度した食卓で心おきなくうちとけて冗談をいいあったり、ほどよいときに馬車の散歩や舞踏会を催したり、こうしたまだ人間にゆるされている喜びをともどもに味わうと、私はほんとうに気が晴れる。

ただ、こういうような時にも、思いだしてはならないことがある。

それは、自分にはこんなことをするよりもまだもっと多くのほかの力が残っている、自分はそれを使わないままにむなしく朽ちさせている、しかも用心に用心をしてそれを人には匿(かく)していなくてはならない、ということだ。

ああ、これを思うだに胸をしめつけられるようだが―、しかし!誤解されるということは、われらごとき者の宿命に違いない』


『これまでに多くの人が、人の一生は夢にすぎない、と考えた。

そして、この思いは私にもつねにつきまとって離れない。

活動したり探究したりする人間の力には、限界があって制約されている。

すべての人の営みは、しょせんはさまざまの欲求を満たすためのものだ。

しかも、この欲求とて、そのねがうところはただ、われらのこの哀れな存在を引きのばそうとするにすぎない。

探究があるところまで達したとて、そこで安心を得ているのは、夢を描いての諦念にほかならず、おのれを囚(とら)えて閉じこめている四つの壁の面に、彩ある姿やあかるい風景を描いているのだ。

―こうしたことすべてを見るとき、ウィルヘルムよ、私はただ口を噤むよりほかはない。

私はおのれが心の内面にたち返って、ここに一つの世界をみいだす!

具象化されたもの、はた生きて働く力よりも、むしろ予感とおぼろげな希求のうちに、いつもながらわが世界がある。

ここにあってこそ、万有はわが感覚の前に漂い、私は夢みつつこの世界にむかってほほ笑みかける』   ゲーテ著『若きウェルテルの悩み』より


知合いは便宜的な関係であり、日々社会の中で生活していれば当然のように機会は増え、その数も増す。

しかし、交友となると少し話が違ってくる。

そこには互いに益する関係、どちらにも交わることによってもたらされる利益のようなものがなければ成立しない。

みながそれぞれの人格を持ち、自己存在を認識するようになって、また再びかつてのような交流を求められるようになった。

けれどそれは、毎日の忙しさと倦怠感を解消するための利己的な目的によるところが多かった。

酒を飲み、愚痴をこぼし、励まされることで、自己存在の意義を確かめるためであるかのごとく思われた。

仮に仲良くなろうとも、共に行く道はごく短いのだ。

君たちは社会の中での自分を考え、自分とその家族を考えるであろう。

友人には都合のいい、気安い存在であるがゆえの親しみを感じるにすぎないであろう。

どうして人は、仕事を第一と考えてしまうのだろう。

仕事のための仕事、仕事のための娯楽、仕事のための休暇・・・

仕事のための生活、仕事のための肉体、仕事のための生命。

ひょっとしたら、その仕事の意味を知りたいから、人はたくさんのお金を欲しがるのかもしれない。

たくさんのお金がもらえる仕事が意味のある仕事であるとの勘違いから、格差や偏見が生まれてはいないだろうか。

生命のための仕事に始まり、その仕事を短縮することで生活のための仕事ができるようになった。

そして、自由のための仕事も生まれてくるべきであるのだ。

僕はこの自由のための仕事というものにまで仕事の価値をあげることを願い、努力し、考えている。

不安と心配をぬぐうことばかりにあくせくする人びとよ、それは悪魔だ!それは次から次へと生み出され、追っかけてくる。


僕は気安い友と酒を飲んだり、旅をしたり、散歩したり、遊びにいったりするのが好きである!

しかし、僕にはそれらに力を注ぐのではなく、もっと将来的な生産性のあるものに力を注ぐべきであるという自覚があるのだ。

若い血を捧げるべきものとは何か?それを探究しようではないか、それを見つけた暁には生命を賭してそれに挑もうではないか。

血の濁らぬうちに、血でもって言葉を記し、社会を眺め、世界を享受しようではないか。

君たちが思うほど僕は冷酷な人間でも、薄情な人間でもないのだが、しかし―この手は差し伸べるためではなく、未来や行く手を指し示すために使いたい。

手を差し伸べるだけが優しさではないことを知らなければならない。

僕はいつでも正しい理解を求めていた、それは誤解されることが明白であったからこその望みであった。

誰が偽りの中から真実を探り当てることができるであろう?

それを可能にするのは愛と勇気ではなかったか。

僕はそれを信じたが、その望みははかなく散った。


人は青春時代に広げたところまでの世界の中でしか生きられないことを僕は知っている。

あとは文字通り、そこに家を建て、庭を造り、窓で区切られた世界を眺める。

僕は広い世界で自由に生きることを望む。

だからこそまだ諦めたくはない、いずれ諦めなければならないのではないかという不安が胸中に巣くっている。

その広げた世界の深淵に隠された宝物を汲みつくすことでしか心の内面を飾ることはできないのだ。

今は予感と希望の中に住みながら、今ある世界の宝に深く宝のための井戸を掘ろう。

やがては想像と創造で世界をつくれることを半ば信じて。

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氷瀑『平湯大滝』 死の中に生を含む自然の摂理

日本には数多くの滝があり、「日本の滝百選」や「日本三大名瀑」などに含まれるような知名度の高い滝は一つの観光スポットにまでなっている。

そうしたたくさんある滝の中で「氷瀑」という冬季に全体が凍ってしまう滝も全国にいくつか存在する。

我が地方では『平湯大滝』が冬季に氷結する滝として聞かれ、またその周辺は平湯温泉をはじめとする奥飛騨温泉郷として知られる。

秘湯として名高く、冬の旅には絶好である。

僕は車を走らせた。

慣れない雪道を車間とブレーキ、速度に気をつけながら雪深い山奥へと進んでいった。

平湯温泉スキー場の脇道を通り、平湯大滝公園に車を止め、そこから滝のある川上の方へ徒歩で登っていく。

巡回バスも利用できるのだが、雪深い山中を歩く経験はなかなかできなく思い、徒歩で数分掛けて氷瀑を目指した。

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遠くからでもそれとわかる巨大な氷柱は美しさよりも神秘さが勝っていた。

恐らく、滝の飛沫から順に凍り始め、徐々にその大きさを増し、滝を包み込んでいき、全体が氷結するのであろう。

どこまでが雪でどこからが氷なのか、どこまでが陸地でどこからが滝つぼなのかまったく見当がつかないほどに雪と氷に覆われてしまっている。

全体が凍ってしまっていてもわずかに流れる滝水は静の中に動を含むといった、自然の摂理を物語っていた。

常に死の中に生を宿している自然とでもいうべきか。

雪は完全に白く、氷柱は青みがかった輝きを持っていた。

たぶん光の屈折の問題で、氷の厚みが青の光線を集める役割を果しているのであろう。

自然現象からしか僕たちは何も知りえないし、その自然現象を生む摂理からもまた僕たちは外れることがないのだ。

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『人として生きるとは思い、考えることである』


太宰治の『思い出』は少なからず僕を励ました。

彼ほどの感受性と知力と能力をもってして完成しうるあれほどの作品―鮮やかかつ繊細に、光を当てられた彼の人生という名の舞台の如き作品であるから、僕が日々を綴ったり、過去の出来事の回想を著すことはそれだけで十分であるように思われる。

僕は頼りないことに、ただ何かを書き残すだけでも十分に意味があると信じている。

それならば、誰もが学校で作文や小論文などを書くではないかと人はいうかもしれない。

だが、僕がいう「何かを書き残す」というのはあくまで自主的な、能動的に行われた場合の著述であって、そのように限定すれば誰もが経験のあることだとはいえないだろう。

よく人は「なぜ生きるのか」と問うものだが、それ以前に「自分は生きているのか」そも「生きているとは何か」と問うべきである。

『人として生きるとは思い、考えることである』と僕は定義したい。

思い、考えることが人として生きることであり、それを客観的に証明することの一つに著述があると考えるのだ。

この著述ということはあたかも大層なことであるような印象を与えるが、もっとも単純な方法である。

その意味は著述は誰にでも可能であり、これよりも高次元なものは、具体的な形態をもつ物体にその思想を留めるということである。

我が子を育てる、これはまさに思想の反映である。

また何か形態をもつ作品を制作する。

それが絵画であれ、オブジェであれ、そこには自ずと作者の思想や理想が影を強く残すであろう。

教師となって、生徒に思想を伝えることも、その「生きること」を証明することと同等であろう。

太宰治はその『もっとも単純な「生きること」の証明』を艶やかな筆致で達成し、その意義を実証した。

そうした彼ら力ある著作家が大将、副将であるならば、僕は先鋒でありたい。

そして、哀れにも柔弱な一矢を報いたいと思う。
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『主計町茶屋街』 かしこまらず、自然体で楽しむ


ひがし茶屋街を抜け、川のほうへ折れると『梅ノ橋』という木造風の欄干と桁隠しがつけられた細長く緩やかな弧を描く橋梁が見えてくるので、それを渡って対岸へと向かう。

しばらく川沿いを歩くと3つめの茶屋街『主計町(かずえまち)茶屋街』がひっそりと奥ゆかしく屋を並べて現れる。

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『ひがし茶屋街』に比べるとどこか現代風な風合いが感じられ、立ち並ぶ店々も程よい個性をかもし出していた。

川沿いにある茶屋であるだけあって、窓が大きく抜かれ、心地よく川の流れを眺めながらお茶や、憩いのときを過ごせるのであろう。

観光地化されていないといっていいだろう、ここにはゆったりとした時間が流れ、凡俗な日常を感じさせるものがなかった。

家屋の間に控えめにある小路に誘い込まれるように入っていくと、『暗がり坂』という不思議な別世界に続く階段のようなおもしろい空間が広がっていたりする。

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金沢ではまったくかしこまる必要がなく、ただ自然体で風物に触れ、感じるままに楽しめばそれでよい。

派手なもの、荘厳きわまるものは多くはないが、のどかな日差しの中を気の向くまま歩いてみれば、その魅力は筆舌につくしがたいほどのものがある。

歴史文化、美意識、恵まれたその地形、それによる食物。

それらはそれぞれが間違いなく上等のもので、金沢は全国を代表する観光地だろう。
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姉の門出に添えて


人生は美しいものであり、悲しいもので、新たな門出というのはいつもちょっぴり寂しさを残していくんだ。

兄弟こそ共に生きることを運命的に定められた関係といえるだろう。

小、中学校のとき、まだろくに考える頭のない僕はいつでも姉が上級生にいたから、そのことを少なからず心強く思っていたことだろう。

生来臆病であったにもかかわらず、姉は僕たち兄弟のパイオニアとして堂々と中学、高校とその行く手を拓き、僕らの手本として文字通り人生の先生であった。

今度もまた結婚という人生の大きな節目を先んじて迎え、僕たちに一つの人生のあり方を身をもって表わしてくれた。

姉には仲のとてもいい地元の中学時代の友達である男女グループの仲間がいて、いまだにボードに出かけたり、BBQをやったりするほどで、そのときの写真が式中、モニターに映し出されていた。

僕にもそんな人生があったのかな。とその彼らの楽しげな表情を眺めながらふっと思った。

僕が結婚するとして、その式に呼べるような友人はどれほどいるであろう。

モニターに幾枚も映し出すほど友と過ごした時間はないように思われるし、その実、満面の笑みで笑っているであろうか。

いくらかの親しい友人は確かに僕にもいる。

だけれど、その懇意の中にも僕自身の心に隠している影があり、どこに、だれに顔を出しても、そうした影の部分をしまいこまなければ自分を保っていられないのだ。

対照的に姉は人好きのするやさしさをもち、そのやさしさをしっかり行動に移すことのできる、弟ながら尊敬のする人物だ。

その性格さから腹を割ってとか、分かり合えるといったような関係とはいえないのかもしれないが、それでも信頼をし合えるような、兄弟としては大体合格点だろうという関係を築くことができている。

姉はよく僕を心配した。

内向的で、社交的ではないから、もっと人生を楽しめ、もったいないと。

僕はただ、真面目に生きようと思ったのだ。

それに加えて、常識や習慣を疑い、茨の道をはだしで進むような、情熱と気概をもって生きたかったのだ。

そして、ひとかどの人物になろうと思ったのだ。

だって、大人は目に見えた成果を見せないとなににも納得しないのだから。

僕は青春の楽しさ、喜びを手ずから失ってしまったのだろうか。捨ててしまったのだろうか。

それから得たものは、親戚や知人に接するときに感じる自らの常軌を逸した生活ぶりの後ろめたさではなかったか。

常に偽り、本心を話すことなく、体裁よくその場を繕うのだ。

元来僕は明るくて、朗らかで、人と接して身の上話をするのが好きであった。

もうそれが叶わなくなってしまったとおもうと、寂しい気持になる。

人は結婚し、家族になり、子供を育てる。

家族、親戚が増え、みんなが寄り添って、辛くも楽しい日々を送っていく。

そうした大きな概念に僕は押しつぶされそうになり、不安を覚えた。

姉の幸福を心から願った。

みんなで食事にいったり、ときにはお家に遊びにいったりして、楽しい時間とかつての思い出を語りあうことができたらどれほどすばらしいかと空想した。

僕は常に自分の人生の客人であった。

姉の幸福を願い、両親に満足を与えることが使命とすら考えた。

自我が芽生え、その気持に軋轢が生じ、苦悶するようになった。

今日でまた日常が少しだけ変るのだ。

少しだけ心に苦味を残したが、それでも姉は幸福そうであり、万事はうまくいくだろう。

今までありがとう、そしてこれからも。

心からあなたの幸せを願っています。

文学というのは難しい。

これはプライベートではないか。

しかし、そこになにか出来合いのものを入れ込んでしまったら、感情は壊され、気持は腐り始めてしまうではないか。

どこまで書くことが必要で、許されるのであろうか。

尾崎豊は人生は


『生きること、それは日々を告白してゆくことだろう』

といった。

またジャン・ジャック・ルソーは『告白』を書いているではないか。

太宰治は『思い出』を。
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ひがし茶屋街『志摩』 歴史を刻んだ木目と空間の美


ひがし茶屋街が前景に大きくひらけ、その家並みに風情を添える柳を越えると一際その木目に歴史を刻んだ重要文化財『志摩』が風雅にたたずんでいた。

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観光地へ行くと方々で重要文化財に指定されている寺院や住居、かつての政治機関に行き当たる。

そこで重要文化財を必要以上に重宝がって、その都度安くはない拝観料や見学料を払っていてはどこか気苦しい旅となってしまう。

その中で自分の興味や嗜好にあった文化財を適切に選んで見学するなりして楽しむことが時間と労力とお金を無理なく使うために必要だろう。

そんなわけでこの金沢にも重要文化財がいくらかあって、どれを選んで見学しようか迷うところであるが、この『志摩』は見学する価値が十分にあるのでここに紹介する。

まず、文化財内に足を踏み入れ、そのかつての暮らしぶりや間取り、雰囲気を感じることはいい経験ともなるし、そのうえ、「寒村庵」という茶室で趣きある中庭を眺めながらお抹茶と生菓子を頂くことまでできてしまうのだ。

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2階に上がると中庭を囲むようにして木造の欄干のある廊下と離れが窓越しに対角線をなし、中庭を見下ろせるようなつくりとなっている。

空間の美というのか、わずかな狭く窮屈な空間でさえも視点と風景の取り込みによって広がりを持った情趣あるものとしている。

かつてそこで人びとがときには忙しく、ときには優美に足を運んでいたという証が刻まれた床板や階段、すだれや引き戸はその息遣いを今に伝えている。

一軒の茶屋であるにもかかわらず、その内装は意匠に富んだ、ひたすら茶屋遊びのためというような粋な造りとなっていて全体を一回りするだけで十二分に満足感が得られた。

それはまた学術的にも価値が高いという。

そして最後に絶品の和菓子とお抹茶が僕を待ち受けていた。

静かな庭園をかすかにあたためる入り日に一瞬、時の過ぎ行くのを忘れ、ただ歴史と現実のはざまに漂う自分を見出すのであった。

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公式戦は人生であり、それを『よく生きること』がその勝利である


高校一年のとき、「倫理」の授業でソクラテスの『よく生きること』という概念に開眼し、人生について深く考えるようになった。

その頃は気づきもしなかった運命によってただ毎日過ぎ行く退屈なものとなった授業の無意味さと日々の空しさを代弁した尾崎豊の歌の数々は僕を励まし、勇気づけ、目を向けるべき方向をなんとなく示してくれていた。

僕自身も尾崎豊の生き方や考え方が正しいとか世の中が間違っているとか、それに対する反抗心を持っていたわけではない。

確かにずっとずっと若い、若さであって、弱々しく無知でそれでも純粋であったから自ずとそれに近い感情は抱いていたのだろう。

上を向くことを知らず、ただ足元に光を求めるごとくもがいたあの日々。

仲間と部活に励み、ぬくもりのある孤独感に包まれながらの三年間。

偽りの友情や自己欺瞞、自己撞着。

卒業したときのあの開放感はなにを意味していたのだろう。

浪人をきっかけに日々を人生をみつめることの意味を知り、『夏目漱石』の文学が行き先を照らしているように思った。

それからいらぬプライドがわかっているのに足かせとなって僕を苦しめた。

文学こそが人生の宝の地図だと確信し、ただただ必死に読んで、未熟ながらも研究し、名作中の名作をただ次から次へと読破した。

今一度読み返して思う、その頃はほとんど文学や話の意義、哲学もわからずに、ただ文字を懸命に追っていたんだと。

そして少しずつこんな感情が芽生えるようになった。

『書物をたくさん読むことは宝の地図をたくさん集めることで、決して宝を探すことではない。

これをずっと続けることはコレクションの収集家と変らない。

僕は人生の意義を「よく生きること」の意味を求めているのではなかったか。

それならばその宝の地図を携えて、宝を探しに行かなくてはいけないじゃないか。

つまり、日々の生活の中で自分が実際に行動していかなければいけない』

単純に、本を読むことはインプットであるから、アウトプットしなければバランスが悪いように思われた。

その頃はなかなかアウトプットということができない自分がいた。

なにを書けばいいのか、書けることもなく、書く能力も気力も持っていなかったように思う。

それが僕にはもどかしかった。

そもそもアウトプットとはなんなのか?見当がつかなかった。

どうしてブログを自分なりの文学と位置づけるようになったのかは自分でもわからないが、僕にとってはかつての文豪たちがガリ版刷り雑誌を発刊したごとく、ブログはそれにはエネルギーや根気などあらゆる面で及ばないが、自分の詩情や思想を発表できる場だと考えたのだ。

今こうして以前よりもアウトプットをするようになり、比重がインプットに勝るようになった。

喜ばしい状況のようにも思うのだが、内心は近頃読書が進んでいないなぁと不安というか、一種のプレッシャーを感じている。

読書することは部活で言うのなら普段の練習のようなもので、ブログを書くことは練習試合のようなものだ。

練習試合が多くてはなかなか上手にならないだろう。

また練習ばかりでは、結局は公式戦で結果を出すための練習であるのでいい成績を出せるかどうか心もとない。

では公式戦とはなんであろうか?

それは人生であり、それを『よく生きること』がその勝利である。

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金沢『ひがし茶屋街』 茶屋の家並と石畳の路の絶妙バランス


金沢には浅野川と犀川、2つの大きな川が流れている。

そのそばに昔の古き町並みをそのままのこした3つの茶屋街がある。

犀川大橋のそばにある『にし茶屋街』と浅野川大橋によって結ばれる川沿いの『主計町(かずえまち)茶屋街』とその規模と景観で人気の『ひがし茶屋街』だ。

以前金沢を訪れたときに『にし茶屋街』で茶菓子とともにお茶を頂戴し、2階のお茶遊び用座敷を見学したので『主計町茶屋街』と『ひがし茶屋街』を観光することにした。

旅好きにはお馴染みの『ひがし茶屋街』の風景である。

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金沢を訪れたこともなく、旅に興味をもっていなければ金沢といえば『兼六園』と『21世紀美術館』くらいの知識しかもっていないであろうが、旅をしてみようとか、いってみたことがあればこんな素敵な風景が金沢にはあることを知ることが出来る。

いろんな町、地方に興味を持つことはそれだけで僕たちをいろんな意味で豊かにする。

茶屋独特の2階の方が1階に比べ高さが勝っているつくりとなっており、建物としての重心が高くなってしまっているが、両側に茶屋を有している石畳のよく整備された淡色の路が絶妙な幅をとって行く手に伸びることで美しいバランスを保っている。

この景観はとてもすばらしく、芸術的でさえある。

すっかり観光地としてなじんだのか古い町並みを代表する高山以上に活気があり、観光客向けの特産「金箔」のギャラリーや土産店、その他、粋と雅、渋みを備えた物品の売店もあった。

また、茶屋見学、お抹茶もいただくことのできる重要文化財『志摩』は必見である。
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所有者のない1000円をいかに有用に使うか 善意や苦労の出所を曖昧にすることで思慮をなくす 


僕はある一つの偉大な考えを見出すことができた。

今、目前に机上に載った1000円札がある。

「それをどのように使えばもっとも実りあるものにすることができるであろうか」と考えることである。

これを考えることは自らの人生を考えることであり、同時に自分の生きる世界、人類を考えることにもつながっていくであろう。

僕はまずこの目の前にある1000円を自分の所有物とみなさないことに決めた。

すなわち、これを自分の利欲のために使うことは権利のないところで自分を利するのであるから、それは正真正銘利己心を意味する。

お金は使わなければ紙切れである。

また、通貨と呼ばれ、その市場である経済が破綻してしまえばこれもまた紙切れとなる。

おもしろく、不安定な存在であることがわかる。

仮に経済破綻に陥り、通貨の価値がなくなったとしても恐れるには当たらない。

なぜなら、通貨は所詮便宜的な手段に外ならず、本来的な意味は労働の均一化、同質化であり、直接的な労働交換は通貨なしでも当然成り立ち、それが何か問題を引き起こすとはあまり考えにくい。

ただ、贅沢や皮相的な自由が奪われるのみである。

それは価値観と習慣によるのであって、恐れなくとも自然に人間の脳は適応してしまうであろう。

話は所有者のない1000円をどのように使うかであった。

考えてみれば、所有者のない1000円を考えることはあまりないことだと気がついた。

ある番組で東日本大震災の被災者がインタビューでこんな悩みを打ち明けていた。

「募金や物資を頂くことは涙が出るくらいにうれしい。

だけど、その分こうして好意から送られてきた募金や物資をより有効に使わなければいけないというプレッシャーと使命感を強く感じます。

ですから、その使い道にはものすごく悩むんです」

募金にしろ、救援物資にしろそこには自然に人びとの善意というものが添えられている。

それを感じなければ、正義ではないし、厳しいようだけれど、最善と思える使い道を悩みぬいて見つけてほしいと思う。

太宰治が『グッド・バイ』で引用していたポール・ヴァレリーもこんなことを言っている。

『善をなす場合には、いつも侘びながらしなければいけない。善ほど人を傷つけるものはないのだから』

こうした悩みや複雑さをその善意の所有者をできるかぎり曖昧にする必要がある。

この1000円についていえば、これは僕自身の労働の対価であり、その労働に対する多少の慮りが生じる。

しかし、その使用者が僕自身であってみれば夏目漱石がいうところの『則天去私』によって解消することが出来る。

純粋に存在する財をどのように用いるか?なににも配慮する必要はない。

ただ、世界に社会に役立つように使うのである。

単純にアフリカで死にそうな子供にワクチンをできるかぎり打つということを考える。

しかし、それは焼け石に水、決して命を軽く見るわけではないのであるが、果たしてそれが有用な使い方なのであろうか?

しかも僕はそれをどのように実行していいか見当もつかない。

無責任に募金をしに行けばよいのであろうか?

実際にそのようにお金は使われるのであろうか。

大体、1000円がその子の元にワクチンとなって届くだけでどれだけの想定外の支出があるだろう。

では1000円は意味を持たないのであろうか?

それだけの子どもが救えたとして飢餓はなくなるであろうか?否、決してなくならないだろう。

次の日その1000円で救ったいくらかの命の数倍の命がまた失われるのであろう。

それが1000円だろうが1,000,000円だろうが同じではないだろうか。

短絡的ではあろうが、僕は一つの使用法を見出した。

それは食料などでは形に残らないので、形に残り時長く効果を発揮する形あるものにすることだ。

1000円で形があり、後世でも有用でありそうなもの・・・それは書物であった。

だから、1000円で公共の書物を買う。ひいては図書館を買うということになる。

いや、それも違う。すでに図書館はあるし、青空文庫で無料でネット上で読むことが出来る。

では、どのように使えばいいのであろうか!
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ネットも商売もバカのためにある


『ネットも商売もバカのためにある』

彼らは欲求に対して素直である。

彼らは流行に弱い。

彼らは行列を信頼している。

彼らはこだわりを持たない。

彼らは飽きっぽく、新しいものが大好き。

彼らは質より量、質より安さである。

彼らは生産性のないことに一生懸命になる。

彼らはおいしさもうつくしさも、すばらしさもよさも何もわからない。

ただ、キラキラして仰々しい、ごたごたしたけばけばしいものを重宝する。

彼らは話を聞かない。

彼らは自分のことしか話さない。

僕はこうしてブログをできる限り、最低1日1記事というノルマで一生懸命取り組んでいる。

数ヶ月に渡って、たくさんの記事を書き、自分なりの文体や構成を工夫しながら努力もした。

しかし、アクセスは日に20人そこそこである。

考えてみれば、当然である。

ネットのもっとも好ましくないことは自分でサイト検索をするということだ。

自分の知っているキーワードや事物を検索するのでそれとは異なる次元の有用な情報にありつける可能性が極めて低いのだ。

『孤独な放浪者の随想』などというキーワードを入れるわけがなく、こんなページを発見したところで興味をひかれるのはほんのわずかな人たちであろう。

もしルソーをよく知っているのなら、『孤独な散歩者の夢想』という作品に似ているなぁと感づくかも知れないがそうでもなければ、「孤独」も「放浪者」も「随想」も馴染みのない、何の得にもならない言葉として認識されるであろう。

でも、僕はやっぱり孤独であり、放浪癖があり、日々随想を追っている。

たしかにその20あまりの訪問者の方々と接する機会があったりして、すばらしい出会いもあった。

それだけで、孤独な僕にとっては十分すぎるくらいだ。

僕のブログに出てくるワードの中で一般によく使用されているような言葉はどれほどあろう。

多いのは「アムウェイ」や「ゲーテ」などであり、たしかに一般的知名度が高いワードであるが、そうではないのだ。

「ゲーテ」を扱うページやブログは限りなくあるだろうし、「アムウェイ」に関して部外者である僕が機に接して書いたまでであって、特に思い入れも何もない。

欲望に関する、流行に即した、欲求をくすぐるような、もっともらしい、綺麗さや鮮やかさを超えたケバケバしさや仰々しさを全面にだし、意味のない屁理屈をごたごたと並べるか、おいしい気持のいい短くて肯定的で簡潔に断定的な言葉を綴る。

僕はそんなことはしたくはない。

美しいもの、すばらしいもの、善や真を求めていきたい。

活字離れといわれて久しいが、活字に触れない連中はそうした文学的意欲のある文章と接点を持たないであろう。

もちろん僕の記事が優れているとか価値があるとかいうのではない。

ただあまりにさびしいのだ。



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金沢の奥座敷 湯涌温泉『あたらしや』 隠れ家的、口コミ5つ星の宿


僕は旅に出たらその土地にある温泉旅館に泊まりたいと思う。

そしてその温泉はできるだけ名湯として古くより親しまれているようなもので、僕が親しみのある文豪などが訪れ、湯治をしたというエピソードがあればなおいい。

金沢市にある温泉を調べてみると、『湯涌温泉』という金沢の奥座敷として親しまれ、大正浪漫の画家、すらりとした独特のタッチで描かれる女性像で知られる竹久夢二が逗留したことでも知られる温泉地があった。

小規模ながら温泉街の風情もあり、山間にたたずむ静かな温泉地といったところだった。

旅館選びで僕が気にすることの一つに隠れ家的テイストの旅館であるかどうかというのがある。

できるかぎり部屋数の少ないこじんまりとした宿が好きなのだ。

立派なつくりでなくても、一室一室に過度な装飾や意匠を凝らしたような旅館でなくてもよい。

ただ、落ち着いた雰囲気と館内を把握しきれるほどの大きさとそれに見合う風呂やロビーが居心地のよさを演出すると思うのだ。

熟考の末、『あたらしや』に宿泊することに決めた。

img1861_file.jpg(HPより)

決め手となったのはその8部屋という部屋数とじゃらんの口コミでそのとき5つ星を獲得していたので、その真価の程を確かめてみたいと思ったからだ。

理由はどうであれ5つ星を獲得するのは並大抵のことではないので、すごく興味があった。

よく整えられた西洋の息吹も感じる和風庭園にたたずむ数寄屋造りの平屋であった。

到着すると、庭先を掃除していた従業員のおじさんが愛想良く館内へ案内をしてくれた。

隣室や間取りをうまく利用しているのであろう、部屋の入口や廊下が不規則なつくりであった。

温泉は小ぶりな湯船にそそがれており、その分源泉掛け流しでその泉質を存分に味わうことが出来る。

濃厚で効能豊かな温泉というよりも、やさしくあっさりとした癒しの湯という印象であった。

『あたらしや』は料理自慢の宿でもあるようで、温泉旅館には珍しく、創作イタリアン懐石やその他創意工夫を凝らした厳選の素材でつくる料理が楽しめる。

金沢は能登の魚介類はもちろん、加賀野菜など食材の宝庫であるからぜひともおいしい料理を頂きたいので大いに期待した。

盛り付けや食材の数々、その調理は目にも鮮やかで、どれも美味であり、また主張しすぎないどこか控えめの上品の感がある品々であった。

館内は竹久夢二の作品を始め、金沢の工芸品などのギャラリーが所々に設えられ、のんびりとした気持に変化と楽しみを与えてくれる工夫がされていた。

日ごろの雑念やたまった老廃物を浄化し清めてくれ、癒しをもたらす、そんな主役ではなく旅客者を引き立てる脇役に徹するような素敵なお宿であった。
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人生についての「なぜか?」 『不確かさ』と『認識・反応』


僕は理系であるし、また理系を自負してもいる。

だからこうして文章を書いている自分をときどき奇妙に感じることがある。

紆余曲折の末に文章を書き綴るようになった。というのが自分なりの自然な、また正しい解釈である。

理系以外は大して勉強しなかったし、楽しいとも思わなかった。

数学ができることこそが能力の高さの証明だと信じて疑わなかったし、また暗記科目だというのを否定するどころかむしろ肯定するが、単なる情報としての記憶ではなく道具としての暗記、つまりその特徴と使い道といった能動的根拠を有した暗記であったので退屈とは感じなかった。

数学に関してまわりから一目置かれて学生生活を送ったのはそれを気持のいいものにした。

数学の勉強のしかた、思考方法を熟知していたと我ながら思うし、解けない問題に出会うことはほとんどなかった。

しかしながら、具体性にかける物理と化学には数学ほどに魅力を感じることが出来なかった。

とはいっても物理の考え方、力と方向性、時間といった単純な要素によって諸事象を明らかにすることは小気味よかったし、動いているものを静止画的断片で考察することができることは僕の視野を広げることにも役立った。

この世界がシンプルにできていることは物理がもっとも単純に示しているのではないだろうか?

目に見えない電気や磁力を図式化して捉えることは、ある意味形而上学と似たところがあるのかもしれない、確かに僕は倫理もまた好きであった。

特にソクラテスやアリストテレスなどから始まる哲学の分野は大いに興味をひかれた。

化学もまた原子や電子、その特性を把握し、反応を分析することは世界を知り、新しき発見をするという人間本来の喜びの姿を体現しているように思えた。

こんなことを書き出したのは昨日『TED スーパープレゼンテーション』を見たからである。



僕たちの生活というのは簡単にいってしまうと『認識』とそれに対する『反応』に終始している。

そしてその『反応』の大部分は経験に基づいた認識に対する有用な行動である。

その経験は体験である場合もあれば、他者の経験からの忠告である場合もある。

当たり前のことだが、雨の日に傘を差すのは雨に当たると濡れるからであり、水に濡れると寒くなったり、風邪をひいたり、酸性雨で頭皮に悪かったりと、経験上さまざまな影響があることを認識しているため、それに対する有用な行動として傘を差すのだ。

そんな単純な生活の中で、新しい見方を発見するためにはどうしたらいいのか?

「なぜか?」という疑問を持つことである。

そしてこの「なぜか?」には必ず『不確かさ』がついてくる。

人間の脳は『不確かさ』を嫌う。

そこに無理にでも意味や確実性を見出そうとするのだが、脳は経験によってしかその対処を知らない。

その『不確かさ』をあえて自らつくりだすことは理に反しているように思えるのだが、僕たちの脳はそこにもちゃんと対応をそなえている。

脳はその『不確かさ』を遊びとして認識すれば、楽しむことが出来るのだ。

そしてその遊びの中からその疑問に対する答えを見出すことも時にはできる。

そこで、僕は気がついたのだ。

僕は理系である、つまり科学者的な資質を持っている。

だから「なぜか?」と疑問を持つ。

ただ、なぜだか分らないが奇妙なことに、事物の現象に大してではなく、人生についての「なぜか?」という疑問の方を好んでしまったようだ。

「なぜみんながみんな大学へ行っているのだろう?」

「なぜ苦労して朝から晩まで働くことがよいこととされているのだろう?」・・・

そうした「なぜか?」はたしかに危険な行為である。

だが、こうした疑問からしか新たな見方、発見が得られないのもまた事実である。
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京都 花見の旅計画 老舗旅館の数々


昨日は自分の意図しない方向へ思考が流れていってしまい、思いもよらない記事ができあがった。

結果的には、かつての美しき思い出と梅花に関する分析を脳内に呼び起こすことができたのでいい誤算であった。

今日は、その実際に意図していた方面のことを書こうと思う。

実は梅ではなく桜に関して書きたかったのだ。

梅がだめなら、今年は桜で挽回しようと心中沸々と意気が芽生えた。

桜の名所といえば僕はなにをおいても『吉野の桜』であるから、真っ先に吉野山への旅を計画しようと考えた。

だが、毎年何万もの人が訪れる吉野山を挽回のために壮大な桜が見たいという思いつきで万全の計画でもって楽しむことは難しく思われたので、次の機会にまわすことにした。

続いて考えたのが、京都の桜である。

以前の記事で月桂冠のCMで紹介される京都の名所の数々に心惹かれ、『東福寺』や『貴船神社』を訪れたことを書いたのだが、そのCMの満開の桜に彩られた『醍醐寺』もまたいってみたいところだったので京都の桜を見に行くことに決めた。

ほかに御室桜で知られる『仁和寺』も合わせて見たい。

そして肝心な宿選びであるが、また今回も、いや今まで以上に苦戦を強いられた。

いつもであれば観光シーズンを避けて旅をするため、シーズン料金などを気にすることはないのであるが、今回は花見真っ盛りであろう時期の旅を計画したため普段の料金の感覚とのズレがあり、どのくらいの予算にしようか慎重に考えなければならなかった。

旅行の計画を立てることは人生の計画を立てるのにもとても似ているように思う。

まず目的を考える。もちろんそれは自分が行きたいところである。

人生であればなりたい自分である。

その時期にあった目的があり、その旅先もまたさまざまである。

その計画の途中には理想を追求すれば、よりよいものにしようとすればするほど障害や壁が生じる。

それを適切な処置によって乗り越えていく過程はまさに人生そのものであろう。

京都に行くのだから、老舗旅館に泊まりたいと思い、老舗旅館を探してみた。

川端康成の常宿であった『柊屋』や『炭屋』、『俵屋』という京都を代表するという風格ある旅館がいくらかあるようだったが、当然高級旅館なので分不相応極まりなく、教養としてとどめるに終った。

main_01.jpg(柊屋HPより)

ただし『柊屋 別館』という旅館が存在し、じゃらんや楽天トラベルでは扱っておらず、JTBで予約ができるというやや隠れ家的なものでその価格はリーズナブルであり、見つけたときにはここにしよう!と思ったのだが、宿泊日まで1ヵ月をきっているタイミングであったのですでに満室だった。

京都市内のあらゆる旅館を調べたのだが、すべて人気のありそうな旅館は満室であった。

『知恩院 和順会館』という近代的な宿坊にほとんど決まっていたのだが、シーズン料金と通常料金との差が大きく、なんか釈然としなかったので見合わせていると、幸運にもすばらしい旅館を発見した!

『旅館 井筒安』、創業して170年の老舗旅館で料理にも定評があるという。

花見シーズンなどには料金が平日料金からアップするところが多いのだが、通常料金だったのがうれしい。

また、じゃらんでは取扱っておらず、楽天トラベルではすでに満室だったのだが、JTBでは空室があった。

こうしていろいろな旅行サイトを比較しながら宿泊先を選ぶと、手間はかかるがいいプランや空室を発見できることもある。

また、じゃらんに一つ問題点を発見した。

それは京都市内全域の宿検索ができないことである。(楽天トラベルはできる)

嵐山、祇園、京都駅周辺など詳細な目的地を設定しなければ検索ができないのは、名所が点在する京都に関しては問題ではないかと思う。

桜の開花が待ち遠しい。

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梅の名所 三重県津市『結城神社』 梅の美しさについて


出かけるとき、服の組み合わせに苦心するようになった。

トーンを落とした上着をもう着なくてもいいほどに、うららかな日が続いているからだ。

ファンヒーターも用無しになった。

ちょうど点火装置が壊れてしまって、不完全燃焼ばかり起すのでもうこれでお役御免だろう。

気候が陽気になってきたなと思った頃ではもう、遅いのが梅の花である。

今年は満開の梅を見ることができないだろうか、やや消沈の気味である。

3年ほど前に訪れた三重県津市にある梅の名所『結城神社』で見たしだれ梅の数々を脳裏に浮べ、その気持を少しやわらげた。

IMG_0437.jpg

神社の境内に梅園があり、入園料が必要なのだが、お金をとれるくらい立派で充実した美しい数多のしだれ梅が咲き誇っていた。

梅特有の自然な粘着質をもった香りが園内いっぱいに広がり、紅白の色彩とも相まって、後にも先にもこれほど強い印象を受けた花園はない。

この写真を見ながら、あの梅の甘く濃厚な香りが想起される。

ただ僕はしだれ梅よりも一般的な梅のほうが好きだ。

というのは、梅の特徴であるその樹幹の無骨さ、樹皮の荒さを隠してしまう垂れ下がる花々を乙とは思えないし、小ぶりな花とそれをたくさんつけていてエネルギッシュでありながら、垂れている枝とがアンバランスなのだ。

『月影』という種類の梅を特に僕は美しいと思う。

無骨さをそなえた樹幹から上方に向かって伸びる枝、それはやや青みを帯びており清かである。

そしてそこに咲く白い一重の花は際立って美しく見え、絶妙な上品さをかもし出す。

梅にはそうした真の強さというようなものがあるように思える。

それは、寒い時期に咲くことから、潜在的に僕が持っている概念なのかもしれないが、寒さをものともせず美しく咲き乱れる梅花、その芳香には自己顕示さえも感じるのだ。

「こんな時期に咲いているのは君だけなのに、まだ豊かな香りで誘うのかい?」

とつい、こぼしてしまいそうになる。
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金沢旅 『21世紀美術館』 体験型アート


『兼六園』から『21世紀美術館』という観光コースは金沢観光でもっとも主要で人気のあるものではないだろうか。

交通面でやや複雑ではあるが、緑豊かな一帯の雰囲気は観光客を楽しませてやまないだろう。

前回は一人旅で『21世紀美術館』に立ち寄り、今回はAとだったので、特に敷地の屋外に設置されている体験型の作品をじっくりと体感、鑑賞してみた。

untitled10.jpg(HPより)

オブジェとして単に造形美をもつ作品で、楽器のチューバを思わせる形状は音と関係のある作品だろうか?と興味を引く。

そして、近づいていってその開口部に耳を近づけてみたくなる。

だが、何も聞こえてこない。

注意してみてみると、口の中心は文様をなすグリルのようになっていて、それが独立的な意味を持っていることを知らせる。

その意味を考えてみる。

すでに芸術世界に完全に引き込まれてしまった形だ。

そしてあたりに点在している、外のラッパを覗き込んでみると、それぞれに異なる文様のグリルが開口部の中におさまっていることを発見し、なんとなく察しがつく。

とうとう、始めに覗き込んだ文様と同一のラッパを見つけ出し、Aにさっきのラッパに耳を近づけてもらい、反応を待った。

Aの表情がなにか変化が起こったことを物語るような、明るいものになった。

そして、Aも向こうから、声を発する。

公然と距離を隔てたひそひそ話は僕の感興心をくすぐった。

すばらしき芸術である。

写真ではすでに子どもたちが覗き込んで、声を発しているのだろうか、楽しげである。

管は地中を通っていて、ペアの伝声菅をなしている。

隣どおしのラッパではなく広場に点在するいずれかと地中でつながっていて、そこに芸術性とおもしろみがある。

それはまるでブログで自分の発した言葉が、ネット回線を通じてはなれた物理的接点をもたない他者へと伝わるようである。

芸術は人間性に迫るものであり、そこには他者と自己との関連ということも含まれている。

また現代芸術のテーマのひとつにはガラスや純粋なる金属光沢、木目といったシンプルであり、一方で先鋭化というバランスを保った形質の追究があるように思う。

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『若きウェルテルの悩み』 空想力は不幸を生む いざこざはすべて誤解から


『友よ、君に約束するが、私は自分を改めて、運命がわれらに課したわずかばかりの苦しみを、もはやこれまでの習いのようにくよくよと思い煩うことはやめるつもりだ。

私は現在のものを享受しよう。

過去は過去としよう。

まったく、君のいうとおりだ。

もし人間が―どうしてこんなふうに作られたものかはしらないが―これほどにも空想力をはたらかして不幸な思い出に耽溺することをしないで、もっと虚心に現在に堪えてゆきさえすれば、人の世の苦しみははるかに少ないにちがいない』 ゲーテ著『若きウェルテルの悩み』より


『若きウェルテルの悩み』はその結末と書簡体によるリズミカルで巧みな心情描写が強い印象を与え、中編小説でありながら、充実した内容となっている。

悲劇の終末によって関心の偏りが生じやすいのだが、言葉を吟味しながら読んでいくと、いたるところにちりばめられた世界の文豪ゲーテの詩情が輝いており、それらを的確に抽出していくことはこのストーリーと共に、同等にすばらしい価値を持つだろう。

その上、落ち着きのある、僕の慣れ親しんだゲーテとは異なり、若き情熱とたくましさを持ったゲーテが感じられる貴重な書物でもあろう。

まだ精神的至高の高みから発せられる言葉ではなく、あくまで同じ視点と感情とをもったゲーテは僕を励まし、勇気付けてくれる。

洩らすことなく言葉を選び出し、それに触れて芽吹いた僕の気持も一緒に綴っていけたらいいと思う。

過去とは後悔するものでもなければ、思い煩うことでもない。

教訓の根拠、教訓に説得力と、証明をもたらす材料である。

美化されるべきものであって、現在を肯定することによって、肯定される、あくまで現在に大きく依存する代物である。

空想力と想像力は僕たちに不幸をもたらすだけなのかもしれない。

想像は現実と隔された世界のことであり、相互に通ずるところはなく、現実に生きるしか道のない僕たちにとって、それは創造力と共になければ、無意味なこと、不幸をもたらすものになってしまう。

『友よ、こんなささいな事件にかかわってみても、いつもながら経験することだが、世の中のいざこざの因になるのは、奸策や悪意よりも、むしろ誤解や怠慢だね。

すくなくとも、前の二つの方がまれなことはたしかだ』


両親や友人、恋人など親しい間柄でどうしてこうももめごとやいざこざが起こるのだろうか!

悪意のあろうはずもない相手に、悪意を見出そうとする意地悪な性情よ。

「私たちには愛情がある、悪意の起ころうはずもない。

しかし、お前の意見はけしからんし、くだらん。

頭を冷やせ、私たちを尊敬する気持をいいかげんもったらどうだ、へりくつと詭弁を並べて、お前のやっていることは論理武装だ。

なにをそこまで武装する必要がある?いってみろ」

悪意とは一体なんだ?

誤解が誤解を生み、そこには少なからず怠慢がある。

僕は誤解をしないように努めた、言葉をできるかぎり客観的に受け取ろうとした。

彼らは誤解をしていた、それは僕が彼らなら理解してくれるだろうという誤解によるのだった。

また、僕の理解力と、感受性を見誤っていた。

言葉の持つ力と、気持と言葉の隔たりのあることを知らなかったのかもしれない。

考えてみると、奸策や悪意は突然生じる性質のものでない。

誤解や怠慢の進化、変形であり、つまりまったく接点のない関係上に生じるものではないのだ。

悪意の育たないようなシンプルかつ心配りのある関係を築き、誤解の生じないようにすること。

戦争、喧嘩、すべての争いごと、いざこざはすべて誤解に帰着できそうな気がする。
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プロフィール

hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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