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人は生きる限り、周りの人を傷つける

『今あっしがふさぎこんでるわけは、ついさっき向こうの土手の上でドシンとかバタンとかいう音が聞こえたためなんで、それで思い出したのが、かわいいリザベスをひでえ目にあわした時のことですだ。

そのころ娘は四つになるやならずだったが、ショーコー熱にかかって、えらい苦しみをしただ。

それでもやっと直って、ある日ぶらぶらしていたんで、あっしが、「ドアをしめろ」って言うと、ドアをしめもしねえで、にこにこ笑ってあっしのほうを見ながら、ただつっ立っているだ。

それであっしはカッときて、ばか声をはりあげてもう一度、「聞こえねえだか?――ドアをしめろ!」って言うと、娘はやっぱりそこに立ったまんま、にこにこ笑ってばかりいるだ。

おらは頭へ来ちまって、「よし、分からなけりゃ分かるようにしてやる!」とどなった。

そう言ってあっしが娘の横っ面をピシャリとぶんなぐると、娘はそこにへたばっちまった。

それからあっしは別の部屋へ入って、十分ばかしたってからまた戻ってみると、ドアはまだあいたまんまで、娘はその入口につっ立って、下を向いてメソメソして、涙をポロポロ流していただ。

あっしはまたカッときて、娘のほうへ向かっていっただが、ちょうどそのとき――そのドアは内側に開く作りになっていて――ちょうどそのとき風が吹いて、娘の後ろでドアがバターンとしまっただ――ところがどうだ、娘はビクとも動かねえ!

あっしは、からだじゅうの息がいっぺんに抜けちまったみてえな、そのときの気持ちといったらまったく――まったく――なんて言っていいだか分からねえ気持ちだった。

あっしは、ぶるぶる震えながら、こっそり部屋を出て、音がしねえように近よって、ドアをそうっとゆっくりあけて、娘の後ろから静かにそうっと首をつっこむと、いきなり、できるだけ大声をはりあげて、ワーッ!てどなっただ。

娘はビクとも動かねえ!ハックよ、あっしは大声を上げると娘を両腕にギュッと抱きしめて、「おお、かわいそうに!神さま、あわれなジムをお許し下せえまし、ジムは一生われとわが身を許すことはできねえ」と言っただ。

ハックよ、娘はまるっきり口も耳もきかねえ、ねっからつんぼでおしになっていただ――その娘をあっしはそんなひでえ目にあわせただよ!』       マーク・トウェイン著『ハックルベリー・フィンの冒険』より


こうして僕たちはほんとに日常のちょっとしたことから人を傷つけてしまう。

僕たちは弱く、そして小さい。

相手の身になることどころか、相手の気持ちを考えることすらなかなかできない。

生きている限り、周りの人たち、自分を愛し、仲良くしてくれる人たちを傷つけてしまうだろう。

だから今までたくさんの人たちを傷つけてきただろうし、これからもたくさんの人を傷つけてしまうだろう。

そのことに気づいたとき、ジムのように自分を恥じ、そして責め、悔やむだろう。

傷つけた言葉も、傷も消えることはない。

けれど、その気づいたことこそが、そのことの償いとなるのだ。
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傷心

身近な人には自分の気持ちに共感してほしいし、もっといえば理解してほしい。

でもそれは難しいこと。

身近な人であれ、所詮はただの人で、だいたいは思いやりもなければ物分かりのいい頭を持っているわけではない。

ああ、どうしてそんなふうに尋常な顔をして傷つけるのか。

自分はよき理解者だと自負することができるのか。

無理解な大人たちよ。

そのカチカチ頭でどれだけの人が傷ついていると思っているの。

でも僕は弱いから、少しでも理解してほしくて、心を開く。

心を開けば開くだけ、傷つく面積も広くなる。

傷ついても、傷ついても、今度こそはと期待して、吐露する。

そんなことも感じられぬ鈍感な大人。

立場の弱い子どもたちはただ傷つき、失望を感じるだけ。
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世襲について

衆議院議員総選挙が12月16日に行われる。

もちろん選挙は国の代表である国会議員を決めるものであるが、その都度多少話題になるのは世襲議員である。

議員に限らず、世の中には案外世襲が多く見られる。

例を挙げると、親が公務員、学校の先生や警察官だと子どもも学校の先生や警察官になっている場合がよくある。

現に、僕の知人で親が警察官で自分も警察官になった人や親が学校の先生で自分も学校の先生という人がいる。

それに大半が親もサラリーマンで子もサラリーマンといった具合ではないだろうか?

僕自身も両親が芸術家でも芸能人でもないから当然今までの人生の中にそれを志す要素はまったく含まれていなかった。

でもこれは当たり前のことだ。

子どもは人生について何も知らないわけだから、親の言うこと、親に与えられたことをこなしていかざるをえない。

親が大卒ならば大学へいけるような進路をとらせるに決まっているし、それ以外の進路を親が子に提供できるだろうか?

たぶんできない。

だから世襲されるのは当然といえば当然。

ではなぜいま世襲議員なんかで世襲というものが問題になっているのだろうか?

それは世襲と権利踏襲を一緒にしているからだ。

本来、世襲のあるべき姿はその世界の独特な技術や構造のために便宜的に行われるものだ。

たとえば、職人や農家、猟師などは一般人にとって土地や技術がなければまずできないが、家が農家を営んでいれば土地はあり、技術も教えてもらえるわけだから前段階を踏まなくて農家になることができる。

もちろんそのためには努力や修行をしなければならないから楽であるというわけではない。

大体、こういった世襲なる職業は難しいから世襲せざるをえないのだ。

一方、世襲議員のような世襲はこれは権利踏襲だ。

そういった権利踏襲は親の権利や人脈などを利用してある職に就く。

しかしこれはただ本人だけの問題ではない。

そこにはそれによって利益が生じる後援会や団体などがあるからであって、言ってみれば癒着があるのだ。

でも誰しも人間だし楽をしたい。だからこのような権利踏襲が行われることは当然のことだし、これに抵抗しよう、これを撲滅しようというのはあまり賢いやり方ではないように思う。

生まれというのは運命的なもので親からそういった権利や財産を受け取った場合は幸運だったんだといわざるをえない。

できるならば、そのことに感謝し、その上社会に還元することができるのならばすばらしいことだがあまり期待できないことだ。

そうしたことから世襲というのは今のイメージだとあまりきれいなイメージではないように思うが、実際は当人にとっては職業の選択の自由がないという厳しい現実でもあるのかもしれない。

またこの世襲の考え方の変化によって農家の後継ぎ不足などの問題も起こってくるのだろう。

こういった問題を解消するのはやはり義務教育と呼ばれる中学時代までの職業体験のようなものだろうが、まだまだおままごと程度のものに過ぎないし、進学や高学歴が尊重されている現実がある。

農家や芸術家に興味を持つ機会がそもそも与えられていないのだ。

学校の先生、親などがもっと自分の職業以外にも関心と知識を持ち、子どもたちに広い視野を持たせるようにしていかなければならない。

もっと自由で、可能性のある人生、社会がこれからどんどん作られていくことを願っている。
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迷ったときの選択

人はあらゆる場面で選択を迫られ、そのたびに迷う。

なぜ迷うのか?

それはいずれの選択にもその結果として利点と欠点が生じるからだ。

その上、時間的猶予もない場合が多い

つまりどの選択にしてもその報いに大差はないわけだ。

それならば骨の折れないいちばんやりやすい選択をすればいい






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お金の貸し借りについて

僕は人にお金を借りたときは絶対に忘れないように心に深く刻むようにし、携帯電話のメモ帳に借りたことを明記することにしている。

お金を借りた側は貸した側よりも忘れてしまいがちである上、貸した側は忘れないものだ。

しかも貸した側は好意や信頼のもと、貸したのにそれを返してもらえないのはひどく残念だし、ましてやそれの催促をしなければならないという嫌な役目も果さなければならなかったりする。

どうして貸した自分が気まずい催促をしなければならないのだろうか?

もし、自分が貸したことを忘れてしまった日には好意を示して損害を被るという自体にもなってしまう。

これは本当に理不尽極まりない。

そこで僕は1つ面白い対策を思いついた。


それは、

『たとえば1,000円がないとかいった場合、大きいお金しかない場合だが、そのときはそのお金を貸して、今度会うときに残りの4,000円を返してもらう(5,000円を貸した場合)という方法だ』

忘れたら、忘れた側が損をするのは当然だから。

これは効果的だと思う。今度自分で実践したいと思う。

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『魔の山』について

この11月はさまざまに変化に富んだ1ヶ月であった。

それを象徴するように読書が進捗しなかった。

というのは、トーマスマン著『魔の山』を読み終えるのに1ヵ月半くらいかかってしまったのだ。

この『魔の山』は1,000ページを超える大作で、1つの記事にまとめることは難しいが、それでもそれに関するなにかしらを書いてみたいと思う。

『魔の山』には時間、肉体、精神、恋愛、政治、死、病気など人生のあらゆるエッセンスに対する深い考察、鋭い批判が含まれている。

しかしこういった見方はこの小説を細切れにして、煮詰め、抽出するといったもので本質ではないように思う。

この物語の特徴の1つは主人公が型にはまった特徴をもっていないということだ。

ふつう、こうした23歳くらいの若い主人公が登場する場合、芸術気質であったり、反社会的な思想(社会から離れた理想主義のような思想)をもっているのだが、このハンス・カストルプはそういった特徴的な性格の持ち主ではない。

だからといって、愚直というはけではなく、どんな思想であっても積極的に取り入れよう、理解しようと努める賢明な若者である。

そしてこの主人公が特徴をもっていない変りに、その周りの人物たちは主義や概念の権化であり、とてもわかりやすい構成となっている。

人文主義のセテムブリーニ、その根底にある個人主義は民族的な個人主義と全世界的な個人主義の矛盾を包含し、そこには最終的に戦争に向かうヨーロッパの縮図とでもいうような思想体系を示していると思える。

神秘主義のナフタ、肉体を持った人間としての世界ではなく、肉体を二次的なもの、精神のための世界そのためにはテロをも辞さないという姿勢。

この2人の論戦はこの物語のなかの一つのテーマを担っているのだが、ナフタの言葉や思想はあまり感銘を受けなかったし、脳内に入ってこなかった。

この宗教や会派の力、人間の卑小さと神を持ち出し、神へ帰依させる考えは人類が存在する以上考えられる思想は肉体をないがしろにする、凄惨な方向へと行きかねない。

ペーペルコンはこの対立する2人を空論を論じ合う者というくくりを明確にし、それの対極におかれる存在。

彼は社会や、未来、人類といった宗教的かつ学問的な思考は持たない。

そのため力というものを人びとに感じさせる。

宗教や学問というものはある意味、武装であって、肉体に重きを置いていない。

そしてこの神に与えられた世界を享受するすばらしさを体現する。

彼はたしかに悩みがない、苦悶もないだろう。そして周囲の人を無意識に支配する。

また言葉遣いも切れぎれで頭脳の明晰さは感じられない。

にもかかわらず、セテムブリーニとナフタは圧倒されてしまう。

そのペーペルコンと一緒に戻ってきたショーシャ夫人は病気で、かつ肉体としての存在である。

ここでかかれる彼女の中身は空っぽである。

病気で、不品行でやせている・・・。

しかしハンスは恋をする。

魅力とは優れているものと同等ではない。魅力とは捉え方である。直接的な美しさとは違ったものである場合も多い。

いとこのヨーアヒム・ツィームセンは市民の代表である。

彼はまじめで、従軍することしか頭にない単純な好人物であるが、そういった人物はえてして情熱に欠けるものである。

そのいとこの従軍の夢は一瞬かなえられるがそれが命取りとなり、結局戦争に出動する運命だったのは、造船業に従事することが決まっていたハンスであった。

この物語は悲劇である。

ほとんどの人物が死に、消えていく。

その死の根拠を読み解くのはこの物語の楽しみ方、深く読む1つの方法だと思う。

ヨーアヒムは運命的で、ハンスは戦争で死ぬだろう。

セテムブリーニは死を意識しながらも宿命を果そうとし、そして死ぬだろう。

ナフタは神秘主義、教会主義と人文主義、人類による世界の統制という思想の対立の意味することによる自殺、テロ行為による死。

ペーペルコンはその肉体賛美がいずれは崩壊し、消滅することへの絶望と本当の意味でのその世界の賜物の享受のための死である。

もはやショーシャ夫人の存在価値はなく、サナトリウムから静かに去っていく。

みなが大きな意味での運命によって死んでいく。

そして最後にこういった言葉で締めくくられる。

『君が味わった肉体と精神の冒険は、君の単純さを高め、君が肉体においてはおそらくこれほど生き永らえるべきではなかったろうに、君をなお精神の世界において生き延びさせてくれたのだ。君は「鬼ごっこ」によって、死と肉体の放縦との中から、予感に充ちて愛の夢が生まれてくる瞬間を経験した。この世界を覆う死の饗宴の中から、雨の夜空を焦がしているあの恐ろしい熱病のような業火の中から、そういうものの中からも、いつかは愛が生れでてくるであろうか?」

常に逆境は革新的なもの新しきものすばらしいものを生み出す。

しかし戦争という名の逆境はすばらしきものを生み出すのだろうか?いや生み出しはしないだろう・・・

この物語こそ人文的かつ平和的である。
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湯元 榊原舘 湯の庄 (日帰り温泉)

赤目四十八滝の紅葉を見たその帰りに、『湯元 榊原舘 湯の庄』へ入浴に寄った。

この『湯元 榊原舘』は榊原温泉(冷泉)のとってもつるつるな源泉に入れるすばらしい温泉である。

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清少納言『枕草子』のなかで『湯はななくりの湯、有馬の湯、玉造の湯』(三名泉といわれる)とうたわれているほどの温泉であるから行きたかった。

できれば宿泊して、料理や客室なども楽しみたかったのだが、今回はKと行ったこともあり日帰り温泉だけを楽しんだ。

Kは食事や宿泊にこだわらない人間なので、土地の名産や良宿などには興味がない。

だから今回の旅もたいしたおいしいものにはありつくことができなかった。残念だ。

そんなKもこの榊原温泉の泉質には感心していた。

つるつるな温泉といえば、下呂温泉などがそうなのだが、榊原温泉の泉質は、湯に入った瞬間にあたたかさがからだをつつむほどになめらかだ。

温度も本当に気持ちがいい適温。

内風呂だとのぼせてしまうという人は、露天風呂で腰までつかったり、肩まで使ったりしながらゆっくり入れる。

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じっくりあたたまりたい人は内風呂にゆっくりつかり、あたたまったら、少し休憩して、その隣にある源泉につかるととてもきもちがいいだろう。

この源泉は冷泉だが、ぬるいというほどではないので、入って風邪をひいてしまうような心配はない。

浸かっているとすこしずつなれるくらいの温度だ。

お風呂だけでなく、スタッフの対応もすばらしく、掃除も行き届いているし、脱衣所も明るくいい印象だった。

洗面台には源泉を濃縮してつくられる化粧水があり、これはとても肌によさそうだった。

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子どもは4歳の時に本をたくさん読むと頭が良くなる

Yahooトップにこんな記事があった。

『お父さんお母さん必見! 子どもは4歳の時に本をたくさん読むと頭が良くなるらしい』

『ネタりか』http://netallica.yahoo.co.jp/というサイトで紹介されている記事なんだが、僕もときどきこのネタりかを読む。

そのときの旬な情報を提供してくれるのでなかなかおもしろく、興味ももてる内容だ。

今回は子育てに関することだったので、教育に関心のある僕にとっては有益な情報だった。

『4歳の子どもに10冊の本を与えると、言語脳といわれる左脳の成長が促される。また、4歳のときに知育玩具を与えたり、動物園や遊園地などへ連れて行ったりすることも左脳の発達を促進する』そうだ。

教育ではその時期に合った的確な指導をするということが重要だ。

しかし、『何歳のときに何をやらせればいいのか』ということに対しては科学的根拠を持った理論もなく、結果論でしかないので難しい。

そういうわけなので、今回、『四歳のときの環境が脳の発達に影響を及ぼす』ことが分かり、それに対して1つの答えを与えたのだ。

胎教ではないが、四歳のときにクラシック音楽や芸術に積極的に触れさせたり、自然のなかでからだをたくさん動かしたりすれば、将来そうした体験からそういうものに才能を発揮することにつながるだろう。

もちろん、いつでも脳に刺激を与え、思考力や感性を磨くことは可能であるし、積極的に脳を鍛え、思考や感性、想像力に至るまで高い次元で活動できるように日々努力することは必要だろう。

私たちの脳はとても優れている。そう信じている。

読書をし、自然に触れ、伝統や遺産を実感することは脳によいだろう。
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『赤目四十八滝』の紅葉

室生寺をに立ち寄ってから、今回の旅の目的地『赤目四十八滝』へいった。

駐車が1台800円、もう少し安く、できれば無料にしてほしいなぁ。

食事をするのはお土産屋さんなどより、和食料理のお店に入ったほうがいいと思う。

入山に300円。これは環境保護などのために納得。

名前だけ聞くと『赤目四十八滝』かぁ、有名な滝なんだな。という印象だが、冷静に考えると、滝が四十八滝ということはそれだけ数が多い、すごい広範囲にわたって滝が存在しているということなので、全て見るのはとても大変なのだ。

がんばって『荷担滝(にないたき)』までは行きたい。僕もなんとかそこまではたどり着いた。

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全長3290mもあり、片道90分かかる。往復3時間なので、昼過ぎには入山しておきたい。

渓谷の川沿いを歩いていくのはほんとうに気持ちがよかったし、滝の音が心地よかった。

階段がいくつもあったり、苔むす岩上を歩いたりと冒険気分にもなれる。

紅葉もうつくしく、ごつごつした岩々、そこを激しく流れていく水、むき出しの岩壁。

自然のエネルギーが満ち満ちている秘境だ。

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『荷担滝』までの道のりの中間に当たるところにこの『千手滝』があり、こうした形の滝もまたちがった面白さがある。

ほかにも『布曳滝』は本当に手ぬぐいがねじれているように見えるし、五色岩も桜が咲いているところなんかもみてみたいと思える不思議な岩である。
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『室生寺』の紅葉

Kが秋の紅葉を見に行こうというので、日帰りで『室生寺』、『赤目四十八滝』、『榊原温泉』をまわる旅をした。

『室生寺』は紅葉の名所であるとともに、石楠花(しゃくなげ)も美しいみたいなのでGWくらいにまた訪れたい。

太鼓橋を渡って境内へと向かうのだが、そういったお寺はめずらしい。

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朱色の欄干と真紅のもみじの対照がよかった。Yahooのトップページにも使われるほどだ。

至るところにカメラを構えるチャンスがある。

紅葉の発色がよく、斜面にそって境内が作られていて、そのため階段が多いので上るのは大変だが、楓は美しい形に枝を広げている。

銀杏や黄色の楓もいっそう鮮やかに境内を飾る。

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歴史的価値の高い金堂や五重塔ももちろんすばらしい。

ちなみに、太鼓橋のすぐそばに『橋本屋旅館』という老舗旅館がある。

窓ガラスが均整度が現代ほど高くなく、それもまた趣があるというような宿。

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境内全体はとにかく階段が多く、奥の院まで参拝しようとおもうとなかなかしんどい道のりである。

石段もこれほど積んで、よくこんなたいそうなお寺をつくったものだとおもった。
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富を得る3つの方法

この不景気、誰もがお金を稼ぎたい・・・

じゃあ、どうしたらお金が稼げるのか?(もちろんまとまった大金である)

僕は最近では、2つの方法しか念頭においていなかった。

それは革新的な発明をするか、小規模ながらまとまった消費者に何かを提供するという方法だ。

例を挙げれば、iPS細胞を用いた革新的な治療法や治療薬の開発、あるいはApple社のように革新的な携帯端末の開発か小説やみなが興味のあるコンテンツを発信してそれに伴って、料金や広告を載せることによる利益をえるという方法だ。

前者は自分ひとりの力では、困難だしそんな特別な技術や知識は到底手に入れることができないから普通の人は断念せざるを得ない。

次のならばどうだろう?

文学や、芸術を作るというのは並大抵のことではないが、世間の注目を浴びるような、あるいは関心のあることを発信したり、作り出すというのは今の時代にあっているともいえるし、やってみなければわからないといった具合で、当たる可能性があるのだ。

だからぜひやってみる必要がある。

僕は2つしか念頭においていなかったといったが、気が付いたのだ。

不景気でも、それを打破するアイデアというものは存在する。

つまり、日常における不満や不便を解消するような発明のようなものだ。

これには特別で高度な技術はいらない場合が多いし、アイデアさえあればその難関はクリアすることができる。

まとまった大金を得るための方法にこれも含めなければならない。

日々の日常生活、社会を注意深く眺め、観察し不便や不満、うまくいっていないところを見つけ、その改良策や改善法を見つける努力をすることで富を得る機会にめぐりあう可能性は十分にある。
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愛する者はまた悩まなければならない

対象物がなんであれ、それを愛する者は悩まなければならない。

女性を愛する、それにともなう悩みというものは尽きない。

自分の気持ちが伝わらなければ、どうして伝わらないんだ、どうしたら伝わるんだと悩まなければならないし、相思相愛だとしてもまた嫉妬に悩んだり、現実的な問題で悩まなければならない。

振られたとしたら、自分の何がいけなかったのだろうかと悩み、後悔をする。

恋愛においてだけではない。

たとえば、僕は文学を愛しているから、じゃあ文学について悩むことがあるのか?

そうなんだ、大いに悩むのだ。

文学を愛している人が必ず陥るのは、「文学とは何か?」という問題だと思う。

文学を愛するということは、読書を愛するということにもなるから、すると悩みの二重苦にさいなまれる。

読書とは何か?そして文学とは何か?

人間はおもしろいもので、愛する対象物を独占したり、意のままに扱う権利を欲する。

文学を書いてみたいとおもい、独自の読書法によって読書をより独自性の高いものにしたくなる。

悩みは募るばかりなのだ。どうやって書いたらいいだろう?うまく書けないな、なんだか自分にしっくりこない、読書も文学も好きじゃないんじゃないか?いや、やっぱり好きだ・・・といった具合。

悩みとは愛することの反作用だと思えば、多少気持ちも楽になるだろう。

悩むことでまた愛も増すことになるのかもしれない。
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神の完全性 『我思う、故に我在り』

哲学は1つの遊びであると思う。

人間は脳を使うことを好む生き物だ。

脳トレやゲーム、スポーツにおける戦略など、みんなこれらを好きなんじゃないだろうか。

哲学もまたその類のものであるように思う。

文学は実際の生活に多分に役立つ―人間関係や自然の捉え方など―が、哲学に精通していたからといって、実益が生まれるかというと、そうとは考えづらい。

だから僕はあまり哲学を脳の運動、生活をすこし複雑にして楽しいものにするためのものくらいに考えている。

デカルトの『我思う、故に我在り』はまさに屁理屈というか、だから何?とつっこみたくなる。

『方法序説 第四部』ではこの命題に至る思考過程が記されている。(これを哲学の第一原理としている)

デカルトは『真理を探究するために、ほんの少しでも疑いをかけうるものは全部、絶対的に誤りとして廃棄すべきであり、その後で、わたしの信念のなかにまったく疑いえない何かが残るかどうかを見極めねばならない』と考えた。

そうして、感覚、確からしく思われる数学、そして思惟が疑わしいものであることに気が付く。

感覚は錯覚のように僕たちを容易に欺くし、数学においてはもっとも単純な事においてさえ誤った推論がなされることがあり、自分がそれをおかさないとは言い切れない、夢のなかでの事柄が現実のように思われることがあることから思惟が常にはっきり確かであるとは言い切れない。

しかし、このように考えをめぐらし、正しくない、明らかではないと『考えている自分はどうしたって存在する』といわなければならない。

これが『我思う、故に我在り』である。

他にもこのなかには、

『わたしたちが判明に捉えるものが何かを見極めるのには、いくらかの困難がある』『疑うよりも認識することのほうが、真実性が大きいこと』というのもあった。

腹痛が起こっていることはわかるが、何によって腹痛が起こっているのかを見極めることは困難で、認識するということは根拠があるわけだが、疑うということは本当かどうか?という途中、結論に至っていないわけなので、当然真実性は大きくない。

こうした理解しやすく、実感のあることを証明しているデカルトはやはり優れている。

この哲学の第一原理によって神の概念が導き出されている。

自分が疑いを持っていること、これ自体がすでに己の完全性を否定している。

かつ、完全性をそなえたものに対する実感がある。

この完全性をそなえたものが神性であり、こうした認識を持つ自分は神性のなかに含まれ、私が疑ったり、認識したりするものは結果として神性に含まれることになる。

こうすれば矛盾が起こらない。

そしてまた、数学に対しては、数学が現実世界を含んでいないことからより数学的な真よりもこの神の完全性の真のほうがまさっている。

全てのものは疑いえるものだが、疑っている自分の存在を疑うことはできない、だから疑っている自分は存在する。逆に疑ったり、考えないとするならば自分が存在しているという根拠がなくなってしまう。

つまり自分の実体は考えるということである。

それから、自分がなぜ疑うのか?それは完全でないのではないか?と思うからで、その完全という概念こそが神の完全性であり、私はこの神の完全性のなかに含まれていて、疑っているものはほんとうに不完全なものなのか、完全であるが不完全である自分には認識できないかのどちらかであるのだ。

こうして、すべてのものにたいする結論が出されるわけだ。
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顔はその人を象徴する

『肉欲というものは、転々として一定の相手に結びつかない、一所不在だ、だからこそ肉欲は動物的だといわれるんです。

だが、肉欲がひとつの顔を持った、ひとりの人間に向けられたら、それは愛ということになる。

私がほしがっているのは彼女の胴体、彼女の生き人形のような肉だけではないのです。

彼女の顔が少しでもいまと違っていたら、私はおそらく少しも彼女のからだをほしいとは思わなくなるでしょう。

このことからもわかるように、私は彼女の魂を愛しているんです、魂をも含めて彼女を愛しているんです。

顔を愛するのは魂を愛することですからね・・・』     『魔の山』より


特に最後の1文に注目したいのだが、『顔を愛するのは魂を愛すること』、つまり顔というのは魂の表出だというわけだ。

僕はこれをごもっとも、真理とすら思う。

僕はその人となりをその顔から大方判断する。

目は口ほどにものを言うではないが、顔全体というのは、その人の行動や、言葉以上にその人を表現しているように思う。

僕の自論だが、天才や偉人の顔というのは凛々しく、雄々しく、優雅で、厳しい、ユーモアを含む、そんな顔をしていると思う。

野球のイチロー、指揮者カラヤン、アップル社のジョブズ、ウォルト・ディズニーなど、上げればキリがないが、見るものを引き込む魅力的で、かっこいい顔をしている。

そして、結局僕たちが愛するのはその彼女の顔なのだ。

その顔から発せられる声、その顔が作り出す笑顔、表情、それに伴うふるまい。

顔はその人の象徴であるのだから、顔からできるだけ当を得た判断をしっかりとできるようにしたい。
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人生は曖昧でいい

『私たちの言葉が、もっとも敬虔なものから非常に肉欲的、衝動的なものにいたるまで、さまざまに考えられる事態のすべてをいい現わすのに、愛というひとつの言葉しか持っていないのは、結構なすばらしいことではないだろうか。

こういうことは、一見曖昧に見えても、実はまったく明瞭なことなのである。

なぜなら、愛というものはもっとも敬虔な愛でも肉体を離れてはありえないし、どんなに肉欲的な愛であっても、そこには一片の敬虔さがあるからである。

洗練された親しみの表現であっても、あるいは激しい情熱であっても、それらはいずれも愛であることに変りはない。

愛は有機的なるものへの親しみであり、腐敗し分解すべく定めれられたものの感動するほどに欲求的な抱擁である。

カリタスの愛は、熱烈なる讃仰の情の中にも、また狂わしい情熱の中にも、たしかに宿っている。

意味曖昧?いや、愛の意味はむしろ曖昧なままにしておこうではないか。

意味曖昧というのがつまり人生なのであり、人間でもあるゆえんなのだ。

意味が曖昧だといっていろいろと心配するのは、たしかに情けないわかりの悪さだといわなければならないだろう。       『魔の山』より

  
たしかに僕たちは、肉体を愛するよりも、その精神を愛することのほうが、高尚で、優良だと思っている。

そこにこの文章は一石を投じるわけだ。時間や対象というものは尺度に過ぎないのだと。

感情や行動の根拠を僕たちは定めようとしたがる。

これはこういう理由で生じたのだ、あるいはこういうのを何々と呼ぶんだ。というように。

あらゆるものに対してこのように区切りをつけたり、言葉によって定義づけされる概念のラベルを貼って区別することは『情がない』といえるだろう。

日常というものを区切りや区別をつけずに生きてみること、人生を曖昧なものだとして、人間に本来備わっている純粋な感性で過ごすこと、これは日々の窮屈さから解放してくれるだろう。

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尊重すべきは人生のみ

『この健康で素朴な人生の賜物が、本当に正しく用いられることは、実にまれなことなのかもしれません。たしかに大部分のひとびとはだらしがなく、不注意で、良心がなくて、精神的に摩滅していて、そういう賜物を正しく扱えなくなっているのだと思います』

『悪習にふける者も決してこの恐ろしさに対して無神経ではないようで、むしろ反対に、その恐ろしさを十分に認めているのですが、感情が古典的な生の賜物に耐ええないからこそ悪習に陥っていくともいえるわけで、それは決して人生をないがしろにするものでもなければ、またそう考える必要もなく、これもやはり、人生の賜物に対する尊敬のひとつの現われとげすることができるわけなのです。これはむろん、洗練されすぎた嗜好品というものがつまるところは陶酔と高揚の手段、いわゆる興奮剤、感情力の補強、増進の手段を意味する場合です。ですからこれらのものが目的とし意味するところはやはり人生であって、感情に対する愛、無能力者が感情を求める努力にほかならないといえるのではないでしょうか』       『魔の山』より



善を愛する者、真理を追究する者、そして美を探究する者、こういった人びとにとってこの言葉に大きな力を感じずにはいられないだろう。

絵画、音楽、文学などの芸術やあるいはさまざまな場面における古典を古きよきを愛する者たちは時として、現代的なものを無価値のようにあつかってしまうのではないだろうか。

しかし、ここに書かれているようなことは真理であるように僕は思う。

ただの尺度の問題でもっといえば正に形式の違いに過ぎない。

『趣味や好みに貴賎貧富の別なし』である。大いに己の好むところを愛し、人生を尊重すればそれでよいのだ。

僕たちが尊重すべきは人生のみであって、その形式や、手段ではないのだ。
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旅の想起を楽しむ

旅の道程を思い出し、そこで受けた印象や、感じた雰囲気、見た景色などを再び脳内によみがえらせることはとても気持ちがいい。

旅の最中では、なかなかその場でゆったりとできなかったりするし、どうしても直接的な感覚、特に視覚に印象が支配され、外的要素による感情や純粋な感覚を捉えることはむずかしいからこそ、その体験は味わい深い。

この前の小旅行ではじめに訪れたのは『芬陀院』。

別名『雪舟寺』と呼ばれ、画聖『雪舟』により作られたとされるお庭がある。

ここは庭の造形美あるいは構成や部屋の設えなどを見て楽しむのではなく、もっと心をその澄んだ全体をつつむ空気に任せ、溶け込ませる。

ここでの時間は最良の癒しであると思う。

もちろん、『雪舟』作の南庭の亀島と鶴島を配した、大胆でしかも虚飾なき庭園で見るものを見るという行為から徐々に存在だけにさせしめる。

奥に行くと、狭いながらもごたごたせず均整のとれた隣接する茶室とマッチした東庭。

『図南亭』という丸窓の採光とそこから切り取れる竹林と遠近を強調する松と地続きの苔による陰影も格別だ。

茶室は1つの世界観で茶の精神とは何かと言われたら、それは『茶室だ』とでもいうのではなかろうか。

ここでは時間は流れない。

『小野小町』ゆかりの『退耕庵』の門で切り取られる庭の紅葉もすばらしかった。
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秋はもみじの『永観堂』 (京都小旅行)

京都には由緒正しきお寺がたくさんある。

だから旅行者はどこのお寺を訪れるようか悩む。

当然1日では全てまわりきれないからたくさんの魅力的な寺院のうち数ヶ所だけを選ばなければならないのだ。

そこでものごとを選択するときに役立つのは選択にあたって、根本にあるコンセプトなるものだ。

たとえば、今回の旅の場合、コンセプトは『紅葉』である。

すると、自然と紅葉の有名な寺院を選ぶことになり、結果として『東福寺』と『永観堂』が最上位となったわけだ。

なんでも、古くより『秋はもみじの永観堂』と呼ばれるほどにもみじの紅葉が美しいということだった。

『永観堂』はどこを切り取っても一幅の絵になる。

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しかしそんな写真も実際の印象には遠く及ばず、自然の色彩、発色は驚くほどに人の心を惹きつける。

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永観堂の中庭は殊勝である。こんなに贅沢な中庭はなかなかお目にかかれない。圧巻。

もみじが美しいのはいわずもがな、寺院としての価値も相当に高いとおもう。

特筆すべきは、『顧り(みかえり)阿弥陀』様がいらっしゃることで、この阿弥陀様は、かつて、ここの僧侶であった永観があるとき人影を見つけ、その人物が振り返ったところ、阿弥陀様であったということによる。

高低差のある寺院で、その随所につくりの巧みさや絢爛さが際立っている。
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東福寺 (通天橋の紅葉など)

『東福寺』にある『通天橋』の紅葉は全国屈指の紅葉の名所だろう。

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橋を渡るのは楽しい。これは自然な心の作用かもしれない。

特にこういった木造の橋は足の裏に伝わる木材の感触がすこし軋みをもっているように感じられて奥深い。

わたり始めてすぐに左手にたくさんのもみじなどの赤や黄金色に染まった木々が日差しを受け輝いているちょっとした回遊庭園が広がる。

この通天橋、橋といっても、やぐら組みの橋廊で、瓦葺の屋根があって懐かしさや風をより感じられる。

写真にある展望台はまさに紅葉を見るために設えられているのだ!

そこからみる紅葉は鮮やかなグラデーションを呈し、目の覚めるような赤が飛び込んでくるが、視界全体を濃淡さまざまな緑色が縁取り、黄色がアクセントになって自然界にはこんなに多用な色が存在するんだと実感する。

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本当に美しかった。

『東福寺』は他にも見所満載で、方丈『八相の庭』は見るものの感覚を鋭くし、方丈を囲む四方それぞれに趣意の異なる庭が配され、そこを巡ると忘我の境地に至る。

それぞれに意味が隠され、抽象的な造形、無作為の妙が自己の深層へと意識を向かわせる。

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この市松模様は手前は密に石版が配置されているが奥にゆくにつれまばらになっていく。

意識の発散、無への合一を思わずにはいられない。

苔の独特な素朴さが意識の茫漠までも表現しているようだ。
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真の民主主義の可能性 (衆院解散に寄せて)

衆議院が解散された。

僕は衆議院が解散されたことに関して、その思惑や時期などについて考えたり、述べるのは野暮な気がするから結果として受け取るにとどめる。

政治というのはそんな単純なものではないので、いいとかわるいとかそういう基準で判断するものではない。

今話題になっている、第3極、橋本代表の「維新の会」や「太陽の党」などが出てくるのは当然の結果だと思う。

メディアがどうのこうのという話もあると思うが、自民党がだめだったから民主党になった、でも民主党もだめだった、じゃあ今度はどこの党・・・?

新しい政党が担うしかない!という単純で当然至極な流れ

政治の世界でも、現代は細分化の時代なのだ。

自民党と民主党という構図から、新党が生まれる傾向になり、県単位で党が発足する事態。

細分化し、それぞれが思いっきり意のままにやる。偏った完ぺき主義だ。

そんなものはもろく、役に立たず、何も生み出せない。


この世界の先進国をはじめとした、ほとんどの無能の人びとが科学の発展を自分が計り知れないがために、強大な力とみなし、それを人類の卓抜な能力の証明と勘違いし、生活はもっとすばらしい完璧なものになるのだと無謀な望みを持っている。

人類はそれほどの力を持っていない。

誰もが豊かになれる生活を科学技術によって得られるのか?

いや得られない。

そうした賢くなった人びとの代表である政治家がよりよい国家をつくってくれるのか

いや、そんな完璧なよりよい国家なぞつくれない

一人ひとりが世界を動かしているのであって、政治でも科学でもない。

政治はまだまだ国民の一人ひとりが国家を担っているということを形式として捉えることができなかった。

事実上国家が大きく存在し、いわゆる平民というのは物の数ではなかった。

発言は届かず、そんな場もなかった。

しかし、今はそれぞれが情報を発信し、共有できる

これは大変なことだ、真の民主主義の実現の可能性をここに感じる。

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京都 紅葉の旅 (小旅行)

今年は紅葉の当たり年!

紅葉が鮮やかになる条件は「寒暖の差が激しい」や「葉が日光を十分に受けている」などいろいろあるようだ。

これはもう紅葉の名所に行くしかない!

自分の中で紅葉といえば・・・京都!なのでずっと行きたかった紅葉の名所『東福寺』と『永観堂』へ日帰り旅行に。

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京都は距離がそんなに遠くなく、観光の移動時間などがあまりかからないので日帰りでも十分楽しめるのだ。

途中大津ICに近づくと、パーク&ライドという看板が出てくるようになり、最初なにかと思ったが、旅で京都へ車でいくのではなく途中まで車で行き、大津で1日中安い駐車場に車を停め、そこから電車で京都を観光するというものだった。

うまく計画を立てれば、確かにお得かつ便利に観光を楽しめるが、思いつきでいったので、実際に大津駅に車を停め、切符を買うという段まで行ったが、調べているうちに電車の乗換や移動などかえってロスが多くなりそうだったので、車で行くことにした。

京都はどこのお寺を散策するにしても、寺の拝観などにはお金がいるのと、見所がたくさんあるので、1日に2ヶ所くらいで十分だろうと思う。

お昼は東福寺近くにある『同聚院』でこのように『京の松茸ごはん』が食べられると出ていたので、軽食をとった。

もうちょっと東福寺からいったところにある『京料理 高澤』の懐石弁当を食べたかったが、売り切れていたので残念だった。

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『東福寺』で紅葉を見て、その近くで軽食を取り、『永観堂』で昼の拝観ぎりぎりまで紅葉を楽しんだあと、岡崎公園から『永観堂』への道で見つけたオシャレなカフェで休憩することにした。

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外観がすでにかわいい『チェカ』

京都の町の少しはずれにあり、京都もこういうモダンでかわいらしいお店もどんどん増えてきているのだろう。

もう夕方だったので、人気のシュークリームやケーキが売り切れていたので、ロールケーキをいただいた。

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スポンジには洋酒のエッセンスがすこし混ぜられているのか、芳醇な香りがした。

やわらかさもカステラのようにしっかりしていながらきめが粗くなくしっとりふんわりしている。

生クリームは適度にまとまり、スポンジと絶妙にマッチする。おいしい。


紅茶も店内にある茶釜で入れられるこだわりようで、くせがなくすっきりといただけた。

たぶんどんどん人気がでていくお店だと思う。立地も駐車場などの不便はあるが、京都通には目に入るお店じゃないかとおもう。

そして夕食は、岡崎公園近くの蕎麦所『権太呂』でおそばを食べた。

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『権太呂』さんのすごいところは毎月違ったお蕎麦が提供されることだ。

今月は『鴨なんばそば』と『釜揚げそば』だった。

僕は迷わず『鴨なんばそば』を注文したが、すでに売り切れだった。残念。

仕方なく、鳥なんばそばを注文した。ほどなく蕎麦が運ばれてきて、食べると、だしは独特の深みがある。

そばはつなぎをたぶん使っていないだろう、そばの程よいざらざらした食感と、あっさりした味、独特ののどごしはよかった。


小旅行ながら大満足の旅であった。
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アムウェイ成功論

『アムウェイ成功論』としたが、これはあくまで僕がネットワークビジネスの中では『アムウェイ』になじみがあったからであって、他のネットワークビジネスにも当然応用できると思う。

『アムウェイ』といえば、日本国内で最もメジャーなネットワークビジネスだと思う。

だからたくさんの人が一度は聞いたことがあるだろう。現に僕も身近に2人アムウェイビジネスをしている人を知っている。

この記事はアムウェイで成功したいと思い、すでにアムウェイをはじめた人に対して書くもので、まだ始めていない人や興味があるだけの人にはあまり有益ではないかもしれないが、ひょっとしてこの記事を読んで、始めてみようとおもうかもしれない。

この記事を読んでいるということは少なからず興味があるということだから、ある程度読者に知識があるという前提である。


さて、『アムウェイ』ビジネスはおおまかにアムウェイ製品、アップと呼ばれる自分を勧誘した人、ダウンと呼ばれる自分が勧誘し、会員になる人とで成り立っている。

まず、アムウェイ製品について、間違いなく粗悪品ではない。

粗悪品とはそもそも、まったく効果がないのに効果を謳っている商品や人体などに害を与える商品のことであるが、アムウェイは創立50年以上の会社であるから、それは保証されているといっていい。

もちろん、値段の割りに効果が薄いといったようなことはあるかもしれないが、それは詐欺まがいとはいえない。

実際、アムウェイビジネスを考えたとき、商品の良し悪しは関係あるだろうか?

きっとあまり関係がないとおもう。

なぜなら、ディストリビューター(アムウェイビジネス会員)はアムウェイ製品は品質がいいといって勧誘をするのだが、品質がいい製品は今の時代どこにでもあるし、容易に手に入れることができるからだ。

しかも、商品に魅力があるのであれば、ヤフオクでもたくさん出品されているので(これはノルマ達成のためにディストリビューターの在庫の場合が多い)、わざわざ面倒なビジネス会員になる必要はない。

つまり、成功するためには商品を云々する必要がないということだ。

ここからが大事だが、

アムウェイビジネスを始めた方、あなたは普通一般の人と同じ感覚を持っているだろうか?

答えは「もっていない」である。

そして、ほとんどのアムウェイビジネスを始めた方は今の現状に満足せず、ビジネスをはじめようとしている。

その現状のまわりに自分と同じような考えを持っている人が果たしているだろうか?

答えは「いない」である。

あなたは自分が普通の人と少し違う人間ということを自覚しなければならない。

ひょっとしたら、友だちが少ないとかひととなじめない、会社で1人浮いているなど・・・

アムウェイをはじめる、はじめようと思う感覚は普通ではない。

だから勧誘する人を当然えらばなければならない。それがわかっていない

だれもが、成功を望んでいるわけでもなく、誰もがビジネスを好んでいるわけでもなく、誰もが努力や仲間とがんばることがすきなわけではないのだ。
あなたは「成功したい」、つまりアムウェイビジネスで巨額の富を得たい。そう考えているわけだ。

ビジネスで巨額の富を得るとはどういうことかわかっているのだろうか?

それは自分の努力量に見合う以上の報酬を得ることである。

もし努力量に見合う報酬であるならば、それは成功ではない。結局は人に代わりにやってもらう、できるだけ多くのお金をつかってもらうということだ。

商売やビジネスは本来そういうものだ。

儲かってなんぼであって、良心的にといったら儲けなんてだせるわけがない。

きれい事ではないのだ。

でも、あなたはだまされたと思ってビジネスをはじめただろうか?

答えは、否。

つまり、ビジネスモデルが問題ではない

あなたは成功者の話はよくきく。でもそのほかのディストリビューターの話は聞かない。

それが誤りなのだ。

成功していないディストリビューターを集め、自分は成功者となる。

つまり、成功者の思想となぜディストリビューターになるのか、ディストリビューターはなぜアムウェイを始めようとおもうのか?

それを知らなければならない。

僕の知っている共通点は、宗教に興味がある、サラリーマンに対して劣等感、不満がある、とにかくお金がほしい。そういった人たちがアムウェイをやっている。

ディスリビューターで成功していない人たち(もちろん自分自身も入っているし、もっとも参考になる)をもっとよく観察しなければならない。

そして、そういう人たちを勧誘すれば悩まずにディストリビューターを増やすことができる。

これが成功者の思考というものだろう。


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選択の自由と悩み

悩みなき人生は存在しない。

なぜ人は悩むのか・・・?

その理由の1つに、人生が選択の連続であり、引き返すことも、先回りすることもできない道を自分で選んだ、たった1つだけしかたどることができないことがあげられる。

ゲーテは『ファウスト』のなかで、『人間は、努力する限り、迷うものだ』と言った。

悩みと迷いとは心理状態として近いものだとおもう。

迷いとは、その人生の選択におけるその当座の感情であり、悩みは選択後の感情である。

迷いのあとに悩みがある。

つまり人生の大半は迷いと悩みである。しかもおもしろいことに、この悩みと迷いの対極には感情は存在しない。

悩みや迷いが解消、もしくは回避できたとしても、そこに感情は生まれない。

悩みと迷いが厄介なのはその点なのだ。

このふたつが人生を複雑にし、厳しいものにする。

そして現在の社会はたくさんの悩みと迷いを生むようになっている。

あらゆる局面で自由度が尊重され、人々はさまざまな場面で自らの自由を欲する気持ちのままに、制度や構造などを緩和し続けている。

一見、自由が許されるということは望ましいことのようだが、実際にはそこに責任や負担、迷い、悩みの種がたぶんに含まれていて、自由があればあるだけ悩みや迷いが増え、結果的に人はわずらわしさを感じざるを得なくなる。

社会の風潮として自由やたくさんの選択肢があることが望まれる傾向があるが、その反動というものも考える必要がある。
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幸福のための3つの格率 (つづき)

前回に続き、『方法序説』第3部 3つの格率の第2、第3の格率について。

第2の格率『自分の行動において、できるかぎり確固として果断であり、どんなに疑わしい意見でも、一度それに決めた以上は、きわめて確実な意見であるときに劣らず、一貫して従うこと』

このことはこんな例で説明されている。

『森の中で旅人が道に迷ったら、あちらこちらにぐるぐるさまよい歩かず、また1ヶ所にとどまらず、いつも同じ方向に向かってできるだけまっすぐ歩き、適当に方角を決めたとしても、たいした理由もなしにその方向を変えなければ、望むところへ正確に行き着かなくても、最後にはどこかへ行き着くことができ、結果としては森の中にずっといるよりかはましである』、人生の行路でも同じことがいえる。

加えて、『真なる意見か見分ける能力がわれわれにないときは、もっとも蓋然性の高い意見に従うべき』ということである。

もし、どの意見にいっそう高い蓋然性を認めるべきかわからないときも、どれかに決め、一度決めたら、真実度の高い確かなものとみなさなければならない。

というのは、適当に選んだようでも、それを決めさせた理由や根拠が少なからずあるからだ。

この格率に従えば、自分の行動に対する、後悔や不安、混乱などを避けることができるのだ。


第3の格率は、『運命よりむしろ自分に打ち克つように、世界の秩序より自分の欲望を変えるように、つねに努めること、そして完全に自分の力の範囲内にあるものはわれわれの思想しかないと信じるように自分を習慣づけること』

幸福にはこの格率がもっとも有効ではないかと思う。


幸福とは考えようによって訪れもし、逃げて行きもする。

『自分の外にあるものについては、最善を尽くしたのち成功しないものはすべて、われわれにとっては絶対的に不可能ということになる』


僕たちの意志はもともと、知性がなんらかの仕方で可能だと提示することだけを望むもので、いくら良いものでも、僕たちの外にあるものはすべて等しく自らの力から遠く及ばないとみなせば、何かが手に入らないからといって残念とは思わなくなる。

僕たちが本気で翼を持って空を飛びたいと考えないし、翼がないことを残念だと思わないようにだ。

自分の自由になるものは自分の思想だけだ。

それを完全に納得できれば、あらゆるものに対する執着はなくなる。

悩んだりするのはこの執着によるところが大きい。


その中で自然と運命からいくらか恵みを受けているならばそれをありがたく思うだろう。

これは幸福感以外のなにものでもない。

あくまでこの3つの格率は真理への4つの規則に基づいた、判断能力がまだ得られていないときの補助に過ぎないから、それぞれにのちにそれによって判断を下す余地を残している。

デカルトはこのように結ぶ。

『この世で人びとが携わっているさまざまな仕事をひととおり見直して、最善のものを選び出そう、と思い至った。他の人の仕事については何も言うつもりはないが、わたし自身はいまやっているこの仕事をつづけていくのがいちばん良いと考えた。すなわち、全生涯をかけて自分の理性を培い、自ら課した方法に従って、できうるかぎりの真理の認識に前進していくことである』
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幸福のための3つの格率 (方法序説 第3部)

『方法序説』第1、2部では町の景観を美しくするために一つひとつの家屋を取り壊し、立て直すことは難しいが、それにくらべて、ひとつの家をその家主が老朽化や改装などによって立て直すことはよく見られることであることから、世界の人々の思想を健全なもの、真理に至らせることは難しいが、自分自身の思想を真理に至らせることはできることを説いた。

理想はその町の景観を美しくするためにその一つひとつの家屋がそのために建て直されることであるが、これはむずかしい。

それと同様に、己の思想を真理に至らせるよう最初から作り上げるのを世界の思想への始まりとして捉えることが理想であるがそれは難しい。

そうしてデカルトは己の思想の基礎からの建て直しを計るわけだが、建設中の家屋の変わりに、仮の住まいがいるのと同じで、思想にもできあがるまでの思想の代わりとなる思想が必要で、そのために3つの格率を定めた。

第1の格率は『自国の法律と慣習に従うこと』

この格率は当然のことだ、考えるに足らない。自分は意識するまでもない。そんなふうに思いがちだが、果たしてどうだろうか?

第1の格率にこれをあげたデカルトは本当に抜け目がない。

法律というのはえてして、見つからなければいいという心理を生み出す。

日常を顧みて自分は法律を順守しているだろうか?これは実際にもっとも格率とすべきことである。

この社会のルールだからだ。
それに慣習とは優れた規範であるとおもう。

これはその社会におけるアイデンティティを認識することを助ける。

ただ慣習というのは現在ではとても曖昧なものとなっているから、これを前出の4つの規則にしたがって判断しなければならないだろう。

いまの慣習は合理化や省略、惰性などそういった本来の慣習とは異なるのに一緒くたになってしまっている。strong>
これに加え、自分が共に生きなければならない人のうちで最も良識ある人びとが実際に広く承認している、極端からはもっとも遠い、いちばん穏健な意見に従って自分を導くこと。

その人びとの意見をその言葉ではなく、行動から酌むこと。

穏健なものを選ぶ理由は、間違った場合でも両極端を選択していなければ、労を少なく修正できるからだ。

そしてこの極端には自分の自由をいくらかでも削るような約束も入っている。


第2の格率は『自分の行動において、できるかぎり確固として果断であり、どんなに疑わしい意見でも、一度それに決めた以上は、きわめて確実な意見であるときに劣らず、一貫して従うこと』

第3の格率は『運命よりむしろ自分に打ち克つように、世界の秩序よりも自分の欲望を変えるように、つねに努めること』

分量が多くなってしまったので、第2、第3の格率については次の記事に書く。

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『フレイバー』 メインショップ (名東区)

今日は朝から雨だった。

午前中はグズグズしているうちに過ぎてしまい、午後から出掛けた。

モゾに行こうと思ったが、今までで初めて入店制限60分というのを見た。

モゾに入るのだけに1時間も待ってられないので、カフェでおやつでも食べることにした。

そして『フレイバー』が思いついたのだ。最近いってなかったし、ちょっと洒落た気分だったから。

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僕はここへ来ると迷いなく『エンジェルフードケーキ、ホイップクリーム添え』を注文する。

そして、サワーチェリーかダークチェリーを気分に合わせてトッピング。

今日はダークチェリーを選択。

純白のケーキに純白の生クリームが互いにやわらかさと白さを引き立て、切断面に立体感を生み出し単調さから脱している。

そこにダークチェリーの濃色がアクセントになって美しく、食欲をそそる。

ナイフをいれるとシフォンケーキのように生地は荒くなく、若干のしっとり感を持つやわらかさをもっていて、口に入れるとほんのり甘く、やわらかい。

ダークチェリーの濃い甘みと後味のさわやかな酸味との相性も抜群!!
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飲み物はマンゴーセイロンティー。

甘いマンゴーの香りとクセのない後味のいいティーとで大満足のカフェタイムだった。
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『キッチン心』で夕食 (両親、姉と)

姉が洋食を食べに行きたいといって、急に夕食が外食になった。

僕は仕事があったから、そんなこともしらずに帰宅。

すると、姉が『ご飯食べに行くけど、いける?』と帰ってきた僕に会うと早々に聞いた。

『うん、いける』 早速準備にとりかかった。

父が姉の要望に答えようと今までにいったことのあるお店のなかで選び出したのが、

藤が丘にある『キッチン心』さん。

藤ヶ丘駅近くの大通りの手前の小路を入ってちょっとのところにあって案内されないと見つけられないようなところにあった。

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外観からしてオシャレで店内も清潔そう。きっと上品でおいしいお店だと思わせる。

僕は入り口の看板にも出ていた今月のメニュー、伊勢志摩産カキのコロッケが食べたかったので、鮮魚セット1,980円にした。

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カニクリームコロッケとのセットになっているのだが、両方とも抜群の揚げ具合。

カニクリームコロッケはとろっとコクのあるクリームというより、あっさり、それでいてしっかりとした味、ほのかにカニの風味が口に広がる。美味。

外観や雰囲気から濃厚なカニの身がふんだんに入ったものを想像してしまいそうだったが、値段を考えれば上等も上等だった。

カキは少し細長い種で味はこれまたあっさり。クセや臭みがなく火が通り過ぎていないのでみずみずしさも感じられた。

盛り付けは大変シンプル。あと特筆すべきはごはんはつやつやお水はなめらか。

父と母はタンシチューのセット、姉はハンバーグセットでそれぞれおいしそうだった。

すべてにおける総合的な統一感がすばらしかった。

スタッフがお客さんが来店されるたびにいち早く気がつき対応するところはすばらしいと思った。
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不完全性は大きな力を発揮する

僕は運命的に不完全性を宿していた。

その不完全性は成長が進むにつれ、まず自分自身に自覚せられた。

僕はまず事実をそのまま理解できずに焦燥するのみだった。

そして不安になり、動揺した。やがて冷静に事実を事実として受け入れた。

どうして?という疑問や原因はとりあえず黙殺し、漠然とした希望を持ち、それにむかって努力や忍耐を続けた。

それでも状況は改善されなかった、そればかりか悪くなっていき、慣れつつあった僕もじりじりしだした。

結果としてあきらめることで終止符を打った。

僕はそこから完全性への憧れを引き出した。

不完全性に対抗する力はその完全性への推進力となった。

不完全であるからこそ完全が意識される。

これはおもしろい発見だと思う。

はるな愛が女性よりも女性らしくなれるのと同じように、不完全であるからこそ完全に限りなく近づくことができるという実感が得られるのだ。

だから努力が可能になる。

完全である場合、むかうべき完全性というものが理解されない。

もちろん不完全性というものは「完全でない」という意味合いでしか認識されず、それは行動規範にはなりえない。

大きな力を発揮するには不完全性を有していなければならない。
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就職への躊躇

なぜ就職することに躊躇するのか?

それは小学、中学、高校、大学、それから就職というように就職も一連の制度のような形態をとっていることが大きく影響している。

しかし混同してはいけない。

就職のための大学、大学のための高校、高校のための小・中学校という構図は成り立たない。

あくまで各々の要素が先の目的の中に結果として含まれているだけである。

でもこの構図は社会的に是認されている以上、それに則ることが有利であり、障害が少ない。

あともう1つ、この人生の分け方はあまりに考慮を欠いている。

確かに、教育期間と社会貢献期間として分けることもできる。

でも就職をそのまま社会貢献期間として純粋に捉えられるかといえば疑問だ。

しかも、その長い社会貢献期間(20代前半から60代までの期間)は始まったが最後、時間が圧縮されるがごとくほんの人生における一区切りとなってしまうのだろうという確信に近い恐れもある。

僕はできるならば自らの時間を自らで区切り、人生という1つの時間体系を意のままに構成したいと思っている。
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時間の相対性

『魔の山』を読んでいるから、それに関係のある事柄を書いてみる。

そのテーマの1つに『時間の概念』がある。

時間とは物質や動作の変化の結果導き出される条件なのか、あるいは時間は存在していて、そのなかで物質の変化や動作は行われているのか。

時間とは感覚的に相対性を持っているが、―アインシュタインが言ったように、『熱いストーブの上に一分間手を載せてみてください。まるで一時間ぐらいに感じられるでしょう。ところがかわいい女の子と一緒に一時間座っていても、一分間ぐらいにしか感じられない。それが相対性というものです』―絶対性を有していないのだろうか?

ストップウォッチで計る1分は相対性理論によれば、観測者によって異なり、時間の指標は光速の不変性により光で定められる。

しかし、その観測者が人間である以上、その絶対的時間というのは役に立たないのではないか。

(ここでいう役に立たないとは人間生活的に、物理など科学を考えることを意図していない。)

おそらく誰しもが長生きしたいと考える。それはあくまで楽しくという条件付きだ。

時間は脳内によって圧縮されもし、拡張されもするから「80年生きた、60年しか生きられなかった」ということは意味を持たない。

時間の流れが無限と考えれば、区切りのある時間というのは無、すなわち存在しないことと同値である。

主観的に考えてみると、時間は感覚的に相対性を持つのだから80年と60年は区別できない。

では長く感じるための方法論はどういったものになるか?

それは時間を短くたくさん区切っていくことである。

時間は変化や動作の推移を意味づける。記憶における時間は印象に過ぎない。

「あれもやってこれもやったからきっと時間がたくさんあったに違いない」と錯覚するわけだ。

人間はつねに現在、その瞬間しか生きられないが、人生というのは現在と記憶にある過去と、現在を意味づけするに足りる範囲での未来によって構成される。

つまり充実した人生は未来に意味づけされる現在を生き、断片的な印象の集合体である記憶の充実を伴っていることである。
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プロフィール

hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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