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津軽の旅 (太宰治を訪ねて)

昨日の深夜、BSプレミアムで太宰治の特集がやっていた。

これは太宰の故郷「津軽」を彼の代表作『津軽』と共に彼の足取りをたどったり、太宰にとっての故郷を探るといった内容だった。

ぼくは『津軽』を読んだことがあるので、ところどころ覚えている箇所もあったが、大体は忘れてしまっていた。

それでも、それを読んだ当時はまだ踏んだことのない津軽の地を想像してみたものだ。

そうして、いってみたくなり、津軽への旅をした。

2010年3月、青春18切符が利用できる期間を狙っての電車旅であった。

この半年前、2009年夏、ぼくは初めて青春18切符での各地を転々とする旅をした。

その魅力に取り付かれ、このときの旅もまた実現したわけだ。

だから津軽へたどり着くまでの道のりにさまざまな名所や土地を訪ねたのだが、それはまた機会があれば書きたい。

今回この津軽の旅を書こうと思ったのもあの記憶を忘れたくはなかったし、今一度当時のことを思い出してみたくなったからだ。

ぼくはどうしても日本海のどんよりしたうねりの強い海上の雲が見たかったから、冬に行きたかった。

3月はもう春なのだが、北陸、東北地方はまだ残雪もあり、空気や風景は冬の気配を残していた。

期待通りに日本海に浮かぶ雲は見るものの心を鬱屈させるような感じがした。

電車の路線はできる限り日本海岸沿いに走っているのにした。

車窓から眺める岸壁に打ち付ける波や灰色の雲はぼくの脳に色濃く残っている。

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JR五能線で五所川原駅までいき、そこから津軽鉄道に乗って金木へ向かった。

この津軽鉄道、冬のある期間はストーブ列車と呼ばれる、ストーブが付いた車両が走るのでそれに乗りたかったのだけど、もう暖かくなったからなのか乗ることができなかったのは残念だった。

確かオレンジ色の1両の列車で殺風景なところをバスガイドならぬ列車ガイドの人が太宰治の故郷について話したりしてくれた。

また車内には太宰の小説がおかれたりしていた。

途中に林間を通ったのが印象に残っている。

金木駅からしばらく歩いていると思ったよりもひっそりとした町の中心から外れたようなところに突如として馬鹿でかい屋根のそりが見事な豪邸を通り越した立派な建物が一角を占領しているといったかんじだった。
 
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中に入ってみると、昔「斜陽館」という名で旅館として使われていたのだが、その趣を残すような座敷になっていてその一段下になっている土間のようなところを見学者は進みながら見学する。

さすがの広い敷地の建物でみてまわるといろいろな資料だけでなく、建物だけでも十分楽しめる。

途中太宰の使った書斎があり、そこで記念撮影をしてもらえたのを覚えている。

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パンフレットの表紙にある階段はすばらしかった。美しい木目、風合い、滑らかなでつややかな質感。

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そうして遠いところまできたんだと空気の冷たさを感じながら盛岡へ向かった。
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宇宙の摂理

芥川龍之介の『侏儒の言葉』を読み始めた。

『魔の山』を読み進めていたものの、小説というもののぼんやりとした冗長さは時に退屈である。

言葉の連なりから連続的に的確な情景を把握して、実質を理解することは受動的動作としてかなり骨が折れる。

そこに自分の思想との比較や吟味をしていくのだからやはり読書は難しい。ことに小説というやつは。

しかし、あるときは自分の感情や思想をもっと深く掘り下げたり、万象に対して自らの思考を刺激し、表現したいと思うことがある。

そういう場合には小説を読んでいると落ち着かなくなってきて、集中できない。

その上、なぜ小説を読むのか?という自分の感情との矛盾に気がつく。

そこで詩が読みたくなる。随想を追いたくなる。


『侏儒の言葉』の始まりはいきなり大きなテーマについて書かれていて、印象的だ。

『真砂なす 数なき星の 其の中に 吾に向ひて光る星あり 』 正岡子規

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詩や俳句というのはその短さゆえに飛躍や柔軟性を持つ。

またその柔軟性があればあるだけ、優れた詩・俳句ということができると思う。

この俳句もその例に漏れない。読む人によって印象や引き出せる要素が違ってくる詩になっている。


この世界に永遠というものは存在しない。

太陽も大なる宇宙からしてみれば燐火に過ぎないし、地球もまた大海の雫と変わりない。

しかしまたこの世界には摂理という大いなる力がある。

あらゆるものは消え去り、新しいものが生まれてくる。

ぼくたちの人生は一瞬の閃きだし、星においても文字通り閃光に過ぎない。

その偶然の一致の奇跡とも受け取れるし、またこの世界には自分となんら関わりなく過ぎていくものがどれほどあるだろうか。

世界のほとんどを知らずに、存在しないがごとく生きている。

そんな世界で縁と呼ばれるような不思議な偶然によってそんな世界とぼくらはつながりを持っていく。

これらはぼくにきらめく星に等しい。

それはぼくをときに励まし、ぼくを照らし、導く。

偉大な力が働いているし、身近な支えもまたぼくたちには与えられているのだ。
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やさしさはみつけるもの

やさしさはみつけるものだとおもう。

だから才能がいる。

やさしさは誠実さ、相手を尊重する気持、穏やかな心を持たなくちゃ生まれない。

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箱根の旅 (ポーラ美術館)

彫刻の森美術館に続いて、ぼくの行きたかったポーラ美術館へ向かうことにした。

想像以上に彫刻の森美術館が敷地が広く、充実した内容だったのとたくさん歩いたことで少なからず疲労した。

だからポーラ美術館をやめようか、いこうかしばらく迷った。

Aに「いきたかったところでしょ?」といわれ、「そうだった、いったら絶対いいから休憩していこう。」そう決心した。

まだ昼食を食べていなかったからどこで食べようかとこれまた悩んだ。

食べるところはありそうなものの、土地勘はないし、箱根という場所柄、値段がどうしても高くついてしまう。

前日贅沢をしたぼくたちとしてはあまり昼食に正直お金をかけたくなかった。

ポーラ美術館へ行く途中にあるところで適当に食べようかとも思ったが、結局ポーラ美術館内にあるレストラン「アレイ」で食べた。

メニューはコースやパスタなど充実していたが、その中でも手軽なオリジナル野菜シーフードカレーを注文。

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これは絶品であった。

シーフードカレーなのに魚介独特のクセがまったくなく、うまみだけが出ていた。

そして野菜のパプリカは程よく炒められていて、苦味が消え、甘みをいい具合に添えていた。

ごはんもややバターライス気味になっていたと思うが、ラムレーズンが辛口のカレーをマイルドにしていた。

この美術館、かなりグレードが高い。

外装からとても凝っているし、お金もかけてある。エントランスから美術の殿堂という雰囲気が漂う。

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また所蔵品もジャンルが多岐にわたり、絵画だけではなく、彫刻や陶芸、人形にまでいたる。

まずはじめに目を惹いたのはこのゴッホの作品。晩年に描かれたもので、色彩が今まで見た中でも一際鮮やかかつつ、まとまりがあった。

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日本画では岡田三郎助の『あやめの衣』が構図と色調のバランス、藍の発色がすばらしかった。

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あと印象的だったのはモネの作品の多いことだ。

その中でも存在感があったのは、展示も目立つようになっていたが、モネの『睡蓮』。

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光の捉え方が抜群だった。日差しと影を使い分け、その光はやわらかさと動きを持っていた。リアルを超えるようだった。

このほかにもたくさんの優れた作品が階を渡って楽しむことができる、すばらしい美術館だった。
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箱根の旅 美術館めぐり 2日目

箱根の魅力の1つは様々な趣向の美術館が点在していることである。

その中で自分の興味のある美術館をめぐってみることは旅の思い出としても、感性を磨くためにも有益だ。

今回のたびでは、彫刻の森美術館、ポーラ美術館、星の王子さまミュージアムをみてまわった。

僕は印象派など優れたコレクションを誇るポーラ美術館を目当てとしていたし、Aは彫刻の森美術館のステンドグラスが見たくて、2人とも星の王子様ミュージアムにいきたかったからお互いの希望に沿うかたちになった。

堂ヶ島、宮下、強羅温泉からはとてもいいアクセスのところにこれらの美術館はあったので、時間を有効に使え、好都合だった。

どの美術館も入場料が高めではあるが、実際に作品を見て、場内をまわってみれば質や量が優れているので納得いくし、大変満足いくものだ。

彫刻の森美術館はエントランスを入ってすぐベンチなどがある広場になっていて、そこからの風景は山、存在感のある大きな彫刻の数々が見えるという現実とはかけはなれた感性に刺激的である

左手にジャコモ・マンズー(イタリアの芸術家、サン・ピエトロ大聖堂の「死の扉」制作)のアートホールがあり、そこでは「死の扉」の習作を見ることができ、「死の扉」の斬新ともいえる世界観を感じることができた。

本館ホール前にはロダン作「バルザック像」が威風堂々立っている。

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他にも数々の彫刻、オブジェなどいろんな種類の芸術作品が森と融合して配置されている。

ピカソ館にはピカソの絵画だけではなく、彫刻や陶芸品などのなじみのない展示もあり、おもしろい。

この野外美術館の1番の目玉は「幸せを呼ぶシンフォニー彫刻」という塔で、外壁がすべてステンドガラスで構成され、その模様は一見ランダムのようだが、実際には所々に魚や車、女神などそういった形象が表現され、その見つける行動も踏まえた作品となっている。

上部まで階段であがっていくことができ、その途中逐一変わっていくステンドグラスの模様に心地いい刺激を受ける。
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すべてまわり終えると大きな疲労感に気がつくが、それほど次々に現れる作品に心奪われ、時の流れを忘れてしまう空間が広がっていた。
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箱根の旅 (大涌谷 黒玉子) 1日目

ぼくは箱根の楽しみ方として美術館や湯めぐり、温泉街をまわる以外にまったく知らなかった。

出発の数日前になって、Aが箱根に「延命長寿の黒いタマゴ」があるから食べたい!というので初めてその存在を知った。

その名のとおり、見た目が黒くて1つ食べると7年寿命が延びるという・・・

調べてみると「大涌谷(おおわくだに)」という山の上のほうでしか食べられないようだ。

AはZOZO TOWNのブログをよく読んでいて、そこにはファッションだけではなく、本や旅行の話題もよく書かれおもしろいという。

その「黒玉子」もブログからの情報だった。

ぼくたちは大涌谷へのアクセスに車で早雲山駅まで行き、そこに車を停めて箱根ロープウェイで大涌谷駅までいった。

ロープウェイからの景色はすばらしかった。

まだ紅葉には早かったがそれでも、山の上のほうでは少しだけ色が変わっている部分もあった。

大涌谷駅から大涌谷までは歩いて15分程度かかる。

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驚くほど噴煙がまわりで立ち上っているし、硫黄のにおいもままする。

その大涌谷の奥に黒玉子を売っている売店がある。(それまでにも何軒かあるが、どれも5個500円で売られている)

この売り方があまり納得いかなかったがしかたなく5個買った。

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味は至って普通。普通すぎてむしろおいしくない!期待するから余計にそう思える。

景色がなかなか見られないような独特なもので、晴れていれば富士山も見え、とがった山頂までが緑に覆われているので神様が住んでいそうな雰囲気だった。

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箱根の旅 (対星館)

今回泊まったお宿は『対星館』

箱根には温泉がたくさんあるから、温泉宿もたくさんある。

その中のどれに泊まるのか決めるのにとても骨が折れた。

値段もピンきりで宿の形態もさまざまだった、ホテル、モダンな宿、老舗宿・・・

「料理がおいしく、源泉かけ流しで老舗宿」という条件で宿を探した。

箱根の温泉旅の今回のコンセプトは「すこし贅沢をして、風情を楽しみゆっくり日ごろの疲れを癒す」

この『対星館』さんは渓谷の早川沿いに建てられて、車では行くことはできず、専用ケーブルカーでしか行くことができない箱根でも屈指の隠れ宿

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また、堂ヶ島温泉で箱根七湯に含まれる。(つまり昔から箱根温泉として存在している)

本当に行くまで楽しみだった。

料理もその料理長は賞をとったこともあってその腕は保証されているようなものだ。

実際に料理はすばらしいものだった。

量も温泉宿はどこもそうである場合が多いが、たくさんあってどれもが丁寧につくられている印象だった。

Aは松の実の揚げたものがとてもおいしいと気に入っていた。

ぼくは朝食の鯵が味は鯵本来の深みと味わいがあって身もほぐれやすいがしっかりしていておいしかった。

なにより露天風呂が最高だった。

すぐそばを早川が流れ、そのせせらぎ以外なにも聞こえない。

そして、すこし視線を上げれば渓谷の自然に包まれていることを実感する。

しばらく湯につかっていると自然と一体になっている自分に気がつく。

絶え間ない流れをみていると時間を忘れ、心地いい。

露天風呂のつくりかたもエネルギーに満ち溢れているようだ。

風呂を構成する岩々が力強い。

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泉質はすこしまろやかでみがかれている感じがする。

肌にややしっとりとまとわり、体もよく温まる。


Aも泉質のよさを実感したみたいで、「お湯がやわらかいね。」と鋭いことをいったから感心した。

あたりに散策できるお庭があるのでそれもこの宿ならではだとおもう(なんと滝まであるのだ!)。

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大満足の宿だった。ケーブルカーから宿までの道、荷物を持ってくださり、また宿を手違いがあったらしく、1つグレードの高いものにしていただけたのもありがたかった。
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時間の短縮

『一瞬間、一時間などという場合には、単調とか空虚とかは、時間をひきのばして、「退屈なもの」にするかもしれないが、大きな時間量、とほうもなく大きな時間量が問題になる場合には、空虚や単調はかえって時間を短縮させ、無に等しいもののように消失させてしまう。

その反対に、内容豊富でおもしろいものだと、一時間や一日くらいなら、それを短縮し、飛翔させようもしようが、大きな時間量だとその歩みに幅、重さ、厚さを与えるから、事件の多い歳月は、風に吹き飛ばされるような、貧弱で空虚で重みのない歳月よりも、経過することがおそい。

従って、時間が長くて退屈だというのは、本当は単調すぎるあまり、時間が病的に短縮されるということ、のんべんだらりとした死ぬほど退屈な単調さで、大きな時間量がおそろしく縮まるということを意味する。

一日が他のすべての日と同じであるとしたら、千日も一日のごとくに感ぜられるであろう。

そして毎日が完全に同じであるならば、いかに長い生涯といえどもおそろしく短く感じられ、いつの間にかすぎ去っていたということになるだろう。

習慣とは、時間感覚の麻痺を意味する。

あるいはすくなくともその弛緩を意味する。

新しい習慣を持つことや習慣を変えることなどが、生命力を維持し、時間感覚を新鮮なものにし、時間の体験を若返らせ強め伸ばすということ、それがまた生活感情全体の更新を可能にする唯一の手段であることをわれわれは心得ている。

習慣の切替え、すなわち変化とエピソードによる休養と回復、これが転地とか湯治場行きとかいうことの目的である。』

  トーマス・マン著 「魔の山」より 


楽しい時間はあっという間に過ぎて、退屈な授業やバイトは時間がすごくゆっくり流れるように感じる・・・

こういう体験は誰にもあることだと思うので、この一節の意味を捉えることは難しいことではないと思う。

しかし、ここで「鋭いなー」と思うのはマンが長い時間で見たときの短縮と延伸にも着目していることだ。

でもよくよく自分自身の体験と照らし合わせればきっとこの実感は得られる。

たとえば、1年を振り返ってみる。

どうだろう?

おそらくその1年は内容豊富な日々、驚くべき事件や楽しかった思い出に満たされているように感じる。

その記憶の中の単調で退屈な日々の記憶は感覚として認識するだけで、その長さ、厚みというものは感じられない。


それは1年の大半がそういった日々であることを考えれば、長い時間が短縮されてしまっていることを意味する。

人生を充実したものにするためには新しい習慣を持ったり、常に変化を感じる暮らしをする必要がある。

「習慣はそれに費やす時間を大きく短縮してしまう。」
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人類の栄誉と福祉のため

『調和と健康がいかがわしい悪魔的なものとみなされる一方では、病気が天国への入場券のように見なされるという人類の魂を覆っていたそういう暗い影は理性と啓蒙によって追い払われた。

むろん、まだ完全にとはいえません、今日もまだこの暗影との闘いは続けられています。

そしてこの闘いこそ「仕事」というものなのです。

現世における仕事、この世界のため、人類の栄誉と福祉のための仕事が、つまりそれなのです。

そして理性と啓蒙というこのふたつの力は、この日々の闘争によって鍛錬されていき、未来において人類を完全に解放し、人類を進歩と文明の道へ、ますます明るい温和で清らかな光明に向かって促進せしめてやまないことでありましょう。』

  トーマス・マン著『魔の山』の一節(一部改)

自分なりに現在の「仕事」と社会の関係に応用してみる。

真面目、丁寧、こだわり、個性は忌み嫌われる一方で、姑息、効率のよさ、画一さ、没個性が好まれ、支持され、益をうむ。

むろん、そういう暗い影は理性と啓蒙によって少しずつではあるが打ち払われている。

そして、これからもその暗い影と闘い続けなければならない。

その闘いが「仕事」なのだ。

つまり、真面目、丁寧、こだわり、個性の表れた仕事や、サービス、商品、人間そういったものを評価し、良しとし善とし、社会の原動力とするための働きをひとりひとりがしなければならない。

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真面目、丁寧、こだわり、個性はすでに多く存在している。

それを育て、守り、その反要素をも摘んでいくことが必要だ。
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悩まない方法

『君は多くの無用な悩みの種を切りすてることができる、なぜならばこれはまったく君の主観にのみ存在するからである。

全宇宙を君の精神で包容し、永遠の時を思いめぐらし、あらゆる個々の物のすみやかな変化に思いをひそめ、誕生から分解に至るまでの時間のなんと短いことかを考え、誕生以前の無限と分解以後の永遠に思いを至すがよい。

それによって君はたちまちひろびろとしたところへ出ることができるであろう。』


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美しい言葉である。

そして、この言葉はマルクス・アルレリウス著『自省録』の根幹を成している思想を簡潔に言い表している

僕たちは本当に取るに足りないことに大いに悩む。

以前の記事で書いたが、僕も「単に悩みたいだけじゃないか?」と思うほどに悩むことがある。

勝手に自分でふさぎこんで、悩んで・・・

本当にばかばかしい限りだが、そういうときって確かにある。

自分自身以外の外的な出来事というのは、宇宙の摂理であって、それをどうすることもできないし、それを否定することは愚の骨頂である。

「己は何者であるか?」と自分に問えば、

「宇宙の一端の一点の塵に過ぎない」と答えざるを得ないだろう。

その宇宙の宇宙理性の元起こっている出来事をうんぬんするのか?

そうではない、そのことに対してどう主観を通して思うかなのだ。

常に指導理性(良心、宇宙の摂理、善とでもいおうか)に従って思想を持ち、思考し、行動すれば悩むことなどないのだ。

悩むのは病気だ。少し休んで、良薬ならぬ、良書を読め。
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感謝 Tさんのすそ直し

このブログにはファッションに関する記事ものせていきたい。

ファッションは自己表現でもあるし、「美」を体現することでもある。

また、経済の中で大きな働きも担っている。流行や、地位などによってアイテムも異なる。

ブランドという概念もファッションで一番感じるのではないだろうか?

先日、Levi's 511 スキニーテーパード/ミッドカラー/MADE IN JAPAN \16,800

という商品を購入した。

色がダークで、細身の質のいいジーンズがほしかったので、即決した。

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うん、何度見ても、渋くていいジーンズだ。

そして、すそ直しをしてもらったときに気がついたこと。

今までのすその長さよりももう少しすっきりさせたほうがよく見える。

だから以前購入した、ZARAのスリムフィットパンツとUNITED ARROWSの紺の綿パンを母の友達のTさんが直してくれるということでお願いした。

もともと、洋服直しのお店でやってもらおうと思っていたので、本当に助かった。

仕上がりも想像以上によくできていて驚いたし、いっそう感謝の気持がわいた。

ありがとうございました。
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自分を律するとはなにか

ぼくは高校時代、某進学校に通っていた。

その我が母校(それほど思い入れはないが)の校訓が

『自主自律』であった。

ぼくはその当時「自立」ではなく「自律」であることに少なからず感銘を受けたものだった。

「自立」は形だけでも取り繕うことはできるが「自律」はなかなか容易でないと感じたのだ。

「自立」は簡単に言えば「自分のことは自分で責任を持ってやる」ということだ。

しかし「自律」はそれほど単純には思われないので少し考えてみたい。

「自律」は字のとおり、「自分を律する」ということだ。

辞書には、

「自立」は他の助けや支配なしに自分一人の力で物事を行うこと。

「自律」は他からの支配や助力を受けず、自分の行動を自分の立てた規律に従って正しく規制すること。

さすが辞書、すばらしい解釈だ。

自律するには、規律を立てて、それに従った行動をとるようにしなければならないのだ。

自律できない人間は、

時間にルーズ、お金にルーズ、生活にルーズ、体も太る、お金も浪費する、酒癖も悪い・・・


挙げればキリがないが、どれも人間として醜い

自律できる人とできないひと、いったい何が、どこが違うのだろうか?

規律を破るもの、それは欲望である。

誰しも、もっと食べたい、もっとお金がほしい、寝たい・・・いろいろな欲望をもっている。

そして、経験上みんな知っている。

欲望にはこれまたキリがない。


あと1分、あと1回、あと1つ・・・。

それが手に入れば、それが満たされればまた、

もうあと1分、もうあと・・・

逆に考えれば、欲望はどこで止めても同じなのだ。

だから、そのことを知って、一番はじめのあと1回をやめればいい。

もしくは、もっと簡単なのはもう1回と思う前に止めてしまう。

ほかに、意識を向ける。とりあえず止めてみる。


ためしに何かを、簡単なのは食事中にデザートを一口でやめて、ほかごとをしてみると案外そんなに食べたくなかったなんてことに気がつくことなんかもある。
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Iさんのアムウェイ近況報告

今日仕事終わりにIさんのアムウェイ話につかまった。

最近アムウェイについてあまり聞いていなかったので興味を持って聞いた。

先日とった3連休に東京ディズニーシーへいってきたという話から始まった。

メンバーがMさんとKちゃんと聞いてアムウェイの付き合いで行ったことがわかった。

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初日は畑山ファンダースクラウンアンバサダー達成ラリーへ参加してとても感動したといっていた。

場所は横浜国際会議場。夜はその隣のホテルに宿泊したという。

「ファンダースクラウンアンバサダーは今までにまだ4人しか達成していない偉業なんだよ!」とやや熱を帯びるIさんの口調。

ラリーというのはものすごくもりあがるショーみたいな雰囲気らしい。

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そのために仕事を休んで横浜まで行くのはすごいなーと思った。

そして次の日はグループのみんなで東京ディズニーシーを楽しんだみたいだけど、40過ぎのおじさんがおもしろいのかな?ビジネスパートナーといって、と思ってしまった。

アムウェイの話をするときのIさんは大いに夢を語る。

アムウェイのすばらしさを語る。

だけど、そのすばらしさはお金と自由。


しかしIさんは現状なにもしていない。

1年ぶりぐらいに少し前に入ったバイトの子にデモ(アムウェイ製品を伝えるための説明など)をやってなかなかうまくできなかったみたいだ。

もちろんIさんにアムウェイをがんばってもらって、早く自由にそしてお金持ちになってほしいと思う。

だけど、「僕と一緒にがんばろうよ!」、「成功しようよ!」といわれるのはどういう態度をとればいいのか困ってしまう。

アムウェイは「お金と自由と仲間が手に入る」という。

僕はこの3つの中で「仲間」というのになんかひっかかる。

どうしても、「お金のつながりの仲間」じゃないか、そこには真の信頼や友情、絆は生まれそうにない。

きっとお金が稼げるからアムウェイをやるって人が大半なんだと思う。

僕は実際にやったことがないからなんともいえないけれど、一度誘われてミーティングにいったときのあの宗教チックな熱気と興奮は常人ならば少し気味が悪くかんじるのではないだろうか。

時々Iさんのアムウェイ話があったときなんかにアムウェイについて考えて見たいと思う。

トリプル・ダイヤモンドだと年収5000万円だという情報も得た。

確かにこれだけ聞くとものすごいんだけど、そういうお金が出るってこと自体おかしな状況なのに、そういう感覚も失ってしまうのだろうか。

宗教や金儲けは人間の本質みたいなものがみえたりして怖いなぁと思うこともある。
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mozo 『松栄堂』のサービス

昨日、Aとmozoへ下着のパンツと靴下を買いに出掛けた。

その前の日にAが、

「もし遊ぶ気があったら、遊んで。」と控えめな、というか健気、というのか、いじらしいというのかそんな気持が混ざった声で電話越しに言ったから午後から誘って出掛けることにしたのだ。

どうして、こんな日記みたいなことを書いているのか、それは1つ残しておくべき事柄があったからだ。

2時半くらいに僕たちは遅めの昼食を取ることにした。

僕がなんとなく洋食、カニクリームコロッケだが、が食べたくて『松栄堂』という洋食屋に入った。

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しかもこの『松栄堂』、この前「松坂屋」へ行ったときに同じ名前のお店があった、そこは甘味処で洋食もあるみたいだったがそのときそこでおやつを食べたかった。

僕はカニクリームコロッケを注文、Aは名古屋鳥のから揚げに甘辛ソースがかかっているものを頼んだ。

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そこはパン食べ放題だったので、注文を終え、僕たちは料理を待つ間にパンを取りにいった。

そこでAは何を思ったのか、ドリンクサーバーから紅茶をコップへ注ぎだした!

僕は冗談で、「Aはジュースにしなー。」とドリンクバーを頼まなければ飲めないのを知っていながら、いったのに。

それを店員さんに告げると、その1杯分だけサービスしてくれたのだ。

その人はおばさんの店員で、焼きたてのパンをわざわざ取ってきてくれたりして大変親切だった。

味や値段は普通だと思ったけど、もちろんショッピングモール内だから当然といえば当然、そういうサービスがあり気持ちよく食事することができた。

ありがとうございました。ごちそうさまでした。
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自然が優れている点

自然が優れているのは、自分自身から不要なものをつくりださないことである。

ぼくたちの肉体を考えてみればいいが、老廃物のように自然と人間を分けて考えることができるとするならば、こう考えるのも人間には意志が与えられ自然に逆らうこともある意味可能であるからだが、人間がすることは不要なものを作り出してしまう。

地球を考えると、これはまったくの閉ざされた空間であるにもかかわらず、その存在を維持している。

老廃物、不要なものができようとも自然はそれをまた新しいものに作り変えることができる。

人知もこれからはこういった方面でも発展させていかなければならないと思う。

原子力発電にしてもそうだ、核廃棄物の有効な利用法、処分法をもっと進めなければならない。

人間は作り出すことは得意だが、回収したり、作り変えたりすることは苦手らしい。

お金に関しても当然のことながら、収入を考えて支出しなければ破綻してしまう。

社会生活も、科学もなににしてもそうでなければならない。


核開発をするにしても、核エネルギーの大きさではなくて、その結果として何が生み出されるのか?

それをどのように不要物として残さないようにするのかを考えなくてはならない。


忘れてはいけないこと、いったん手をつけたものには責任が生じる
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現代社会の沈黙

トーマス・マンの『魔の山』の1節にとても興味深いものがあった。

「人間というものは、個々の存在として個人的生活を送っていくのみならず、意識的あるいは無意識的に、自分の生きている時代の生活や自分の同時代人の生活をも生活していくものである。

そして私たちが自分の生活の普遍的、非個人的基盤を絶対的な、自明なものと見て、それに対して批判の眼を向ける気をさらさら起さないとしても、もしこの基盤に傷んだ箇所があったならば、そのために自分たちの精神的健康も本物ではないと漠然と予感することも大いにありうるだろう。

われわれは誰しも、いろいろな個人的目的、目標、希望、見込みなどを眼前に思い浮べて、そういうもののために高度の努力や活動へと駆りたてられもしようが、しかし私たちを取巻く非個人的なもの、つまり時代そのものが、外見上ははなはだ活気に富んでいても、その実、内面的には希望も見込みも全然欠いているというような場合には、つまり時代が希望も見込みも持たずに困りきっているという実情が暗々裡に認識できて、私たちが意識的または無意識的になんらかの形で提出する質問が、すなわちいっさいの努力や活動の究極の、超個人的な、絶対的な意味に関する質問に対して、時代が空しく沈黙しつづけるというような場合には、そういう状況は必然的に、普通以上に誠実な人間にある種の麻痺作用を及ぼさずにはおくまいと思う。

しかもこの作用は、個人の精神的、道徳的な面から、さらにその肉体的、有機的な面にまで拡がっていくかもしれない。

『なんのために?』という質問に対して、時代が納得のいく返事をしてくれないというのに、現在与えられているものの力量を上回るほどの著しい業績を挙げようという気持になるのには、ごくまれな、あの英雄的な性格を持った精神的孤独と直截さか、あるいは恐るべき生命力が必要であろう。」



この「魔の山」は第一次世界大戦を挟んで書かれており、その時代背景を色濃く映しているが、それのみならず普遍的な社会というものを浮かび上がらしているように思う。

ここでいわれていることはそのまま現代日本社会にも当てはまると痛切に感じた。

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今の社会に限らず、社会=仕事という関係が成り立つので、この文章を社会と仕事の関係性に当てはめることができる。

たとえば「天下り」が時々話題になるが、これは私たちの社会における非個人的基盤における傷んだ箇所だ。

しかしぼくたちは無意識的にあるいは漠然と是認してしまっているにもかかわらず、時に本物ではないと感じるのだ。

またぼくたち若い世代は今「なぜ働くのか?」という仕事に対する根本的な問題に直面している。

それは若者が社会を甘く見ているとかという当事者の問題だけではなく社会がここでいう「希望も見込みも持たずに困りきっていて、空しく沈黙しつづけている」からではないか?と思う。

社会が若者の高度の努力や活動の目的を用意してくれない限り、力量を上回るほどの著しい業績を挙げようという気持、英雄的性格を持った精神的孤独と直截さを持たない若者は精神的、道徳的、さらには肉体的に麻痺させられてしまうだろう。

大学にしても同じことだ、「なぜ大学をでなければならないのか?」という質問に対しての解答は曖昧なものである。

「いい会社に入っていい給料をもらうため、世間体、社会の流れ、どれも抽象的な答えだ。

社会にしても、大学にしても本来の意義がある。

社会はお金を稼いで楽をするための戦場ではない。

お互いが豊かな生活を送るために最適なシステム構築の場だ。
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地球は芸術、哲学の先生、自然の母

このブログの目的の1つは美しいものを記録していくことである。

美しいものといって頭に浮かぶのは「自然」だと思う。

ぼくは「自然」を第一に考えたい。

そして幾何学的な造形美や音楽でいうところの旋律や文体、リズムといったように「美」はさまざまに形をとる。

レオナルド・ダ・ヴィンチはいっている、

『「絵画」を軽蔑するものは「哲学」をも、また「自然」をも愛していない。

もし君が、「自然」の(手になる)ありとあらゆる目に見える作品の唯一人の模倣者たる「絵画」を軽蔑したら、たしかに君は、哲学的で繊細な思索によってもろもろの形態、即ち光と翳とにかこまれた空気や場所、植物、動物、草花のあらゆる性質を考察する繊細な発明力を軽蔑するものであろう。

そして本当にこれこそ「自然」の学であり嫡子である、何故かなら、「絵画」は自然から生れるからである。』


これはあくまで絵画論における言葉であるが、レオナルドは芸術に関して「絵画」の次には「音楽」を位置づけていて、詩や文学に勝るものとしている。

その美しい「自然」であるが、記録するということは断片として切り取ることである。

自然を切り取ることは難しい。

たとえば美しい1本の木、美しい1輪の花というのは考えられないし、それだけを単独で観察することはできない。

そのなかでもそれが可能な美しいものがある。普段見ることができないが・・・。

それは「地球」。

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ときどき地球のことを考えてみるといいとおもう。

どれだけぼくたちがちっぽけな存在であるかを実感できる。

そんなことは誰もが知っている、しかしそれを意識し続けることはできない。


地球は美しく、哲学的である。

地球を見て、人生や存在、宇宙とかいうことを考えない人はいないだろう。

最大の芸術の先生であり、哲学の先生であり、自然の母である。
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身のまわりのものを整える

日々の生活というものをいかにして豊かな充実したものにしていくのか。

それが日々生きていることの目的であって、人生を幸福にするための方法である


生活は何によって成り立っているか?

自分の本質は思想であり、それを体現せしめるのが肉体であり、その肉体は衣服に包まれ、自分の部屋に覆われ、その部屋は家に包括されている。

そしてそこには家族の存在があり、友達、同僚といったように人間関係が親しさの度合いによってお互いの影響力が異なる。

まず思想を豊かにするには簡単には読書をすることであり、芸術に触れ、それは自然に触れることとつながっていく。

ぼくはこの思想に労力を注ぎすぎていたのかもしれない。

しかし、それだけでは充実した生活も、豊かな日々も訪れないのだろう。

肉体を考えると、すばらしい食事と適度な運動も欠かせない。

衣服も適度に着心地がいいものを選べばいい。

自分の部屋は快適な部屋かどうか。

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日々の生活をもっと注意深く観察しなければいけない。


そしてお金は本来生活を豊かにするものであって、貯めて楽しむものではない!
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洋食ダイニングOGATSHI (愛知県春日井市)

Aが前からオムライスが食べたいといっていたから、春日井市にある「洋食ダイニングOGATSHI」にディナーへ行った。

ここはいつもモゾやエアポートにいくときに前を通るたびに、いきたいねーといっていたところで、今日ようやくいくことになった。

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外観がとてもおしゃれで、ダイニングというよりも雑貨がたくさんおいてありそうなカフェに見える。

実際に中に入ると、カウンター席とテーブル席があるダイニングレストランといったかんじで、思ったよりもこじんまりとして家庭的な雰囲気だった。

OGATSHIの主要メニューはハンバーグとオムライスみたいなので、ぼくは鉄板オガッシハンバーグ、Aはオガッシオムライスを注文した。

これらはアラカルトメニューになっていて、サラダや、スープ、ライス・パンはセットメニューとして別に注文する。

鉄板オガッシハンバーグBセット(サラダ、スープ、ライス)が1530円。

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ディナーにしてはお手軽だと思う。雰囲気も落ち着く雰囲気。ムーディまではいかない。

半熟タマゴとデミグラスソースでいただくハンバーグ。

ハンバーグはやわらかめに作ってあったがもうすこししっかりと作ってあってもよかったとおもう。

ナイフで切ろうとしても崩れてしまうくらいのもろさであったから若干の食べにくさがあった。

デミグラスソースは思ったよりもあっさりとした味だったからタマゴとの愛称がいまいちだった。

値段を考えれば野菜も適度に盛り付けられていたし、コーンスープ、サラダが手が加えられていてよかった。

ライスが割合多かったように思う。

カジュアルにディナーを楽しむのなら十分のクオリティだと思う。
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世界の財産 『星の王子さま』

『星の王子さま』は世界で聖書の次に読まれている本らしい。

読んでみると、とても納得する。

僕はこの世に生きて、『星の王子さま』を読むことができたことが大きな幸福の1つだと思う。

読んでいるときのあの気持ちは僕の財産である。

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「ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは目に見えない」 

大切なもの、正しいもの、すばらしいもの、そういうものは心が一番知っている。でもそれは子ども心だけかもしれない。

それって悲しい、僕もそんな心をいつまでも持ち続けたい。

「だれかが、なん百万もの星のどれかに咲いている、たった一輪の花がすきだったら、その人は、そのたくさんの星をながめるだけで、しあわせになれるんだ。」 

なにかを愛していること。それが幸せということなんだ。

僕ら次第であらゆるものは違って見えるし、特別になる。愛する心があればこの世界にたくさんの宝物をみつけることができる。


「ねぇ・・・悲しくてたまらないときは、夕陽が見たくなるよね・・・」

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いつでもそうした励ましを見つけられる人、持っている人は幸せだとおもう。

「きみが夕方の4時に来るなら、ぼくは3時からうれしくなってくる。そこから時間が進めば進むほど、どんどんうれしくなってくる。そうしてとうとう4時になるともう、そわそわしたり、どきどきしたり。
こうして、幸福の味を知るんだよ!」


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こういう待ち遠しい気持ち、子どものときはよく感じた。12月になるとクリスマスが待ち遠しかった。いまはどうだろう?

こうして毎日を幸福にすることって、できるはずなんだ。大事なものを感じる心があれば。


「きみのバラをかけがえのないものにしたのは、きみが、バラのために費やした時間だったんだ。」

みんな最初に空っぽの心と時間を与えられる。そして時間と引き換えに心を育てる。そんな心の養分をたくさんつかったものには愛が生まれる。それは自分の心を育てることと同じだから。

「では、そちが自分を裁けばよい。これは最もむずかしいことだ。他人を裁くより、自分を裁くほうがずっとむずかしい。自分をきちんと裁けるなら、そちは真の賢者ということだ。」

自分をきちんと裁くことができたら、きっと他人を許すことができる。

「砂漠が美しいのは、どこかに井戸を、ひとつかくしているからだね・・・。」

すべての美しいもの、愛しいもの、そういうものにはきっと宝物が隠されているんだ。


「花は弱いんだ。ものも知らない。でもできるだけのことをして、自分を守ってる。トゲガがあれば、みんなこわがると思ってるんだ・・・。」

トゲがあるってことは、弱さの裏返し。守ってあげることも必要かもしれない。それに真の強さの表れでもある。そうして自分のできることを懸命にやっているのだから。

「子どもたちは、ぼろきれのお人形に時間を費やす。だからそのお人形はとっても大事なものになる。それで、とりあげられると泣くんだね・・・。」

見た目だけではないものの価値ってある。その人にとってはとっても大切なもの。それはその人が愛着を持っているから。

「きみは、金色の髪をしている。そのきみがぼくをなつかせてくれたら、金色に輝く小麦を見ただけで、ぼくはきみを思い出すようになる。麦畑をわたっていく風の音まで、好きになる・・・。」

「黄色く色づく麦畑を見て、王子の美しい金髪を思い出せるなら、仲良くなった事は決して無駄なこと、悪い事ではなかった」 と教えてくれるキツネ。

ひょっとしたら、ぼくよりキツネのほうが幸せなのかもしれない。でも、こうやって相手に思われることもまた幸せなんだと思う。
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博多の生菓子 『博多の石畳』

『博多の石畳』というチョコレートのケーキをKちゃんからいただいた。

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生クリームとチョコムース、チョコスポンジを重ね、薄くチョコで包んだすこし変わったチョコケーキ。

見た目にもわかるが、とにかくふんわりしている。

フォークを軽く入れてもケーキが崩れてしまうほどだ。

だから舌触り、食感も絶妙だ。すこししっとりとしている。

チョコも生クリームも甘すぎなく、かるくて、くどくない。チョコがなめらかで深い味わいである。

博多CHOCOLATE SHOPの人気スイーツ。

Kちゃんはその土地のおいしいものなんかをいつも僕に買ってきてくれる。ありがたい。
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高偏差値の飲み会

昨日、塾の講師陣とねずみ小僧で飲み会があった。

駅前に集合したときには、話す人がいなくて黙ってたっているだけだった。

それでも飲み会を楽しめるかどうかと不安に思うことはなかった。

お酒が入れば黙っていても楽しいし、僕に限って黙っているって事はないから。。

飲み始めるとついつい上機嫌になってしまい、Sさんを怒らせてしまった。

というのも、コラーゲン&ヒアルロン酸鍋の飲み放題だったので、何気なく「コラーゲンとヒアルロン酸はSさんの個人的な要望ですか?」と聞いたら・・・

「違いますよ。失礼ですね!たしかに肌は気にしているけど・・・。」

しまった!Sさんは肌荒れを気にしているのだ!!心で深く謝った。

その上、自己紹介をするときにSさんが「私はいまさら言うことはないので。」と次にまわしたところを、

「では年齢だけお願いします!」と僕は口を滑らしてしまった。もちろん冗談のつもりだったが。

Sさんとは少し友達感覚でもあったから、すこし行き過ぎてしまったとおもう。

でもSさんは僕は好きだし、本当に怒らしてしまったなら残念。申し訳ないことをしたと反省。

普段みんなとは話さないからいい機会だった。

Kagi先生はビオラを今サークルでやっていて、ピアノもずっと小さいときからやっているということで、
クラシック音楽について話してもりあがった。

しかも自転車旅も好きで、浜松まで自転車で行ったことがあるという。

今度は琵琶湖を泊りがけで一周したいと言っていた。

K先生は本をよく読み、サークルで小説を書いたりしているという。

ミステリーが特に好きというので、あまり読んでいる本はかぶらなくて残念だったが、

芥川龍之介の『河童』がいいといっていたからそこはすこし話を掘り下げることができた。

S先生は留学の話をしていたが、どちらかというと聞き役にまわっていた。

K先生は野球観戦が好きだというので、少しその話でもりあがることができた。

中日ファンで平田選手が好きとのことだった。

僕は広島ファンだと教えたら不思議がっていた。

広島の前田智徳選手をフルネームで知っていたからさすがだと思った。

R先生には名札の首かけ紐を丁寧に巻いていたことに感心したことを打ち明けたら喜んでいた。

中国国籍だから日本へきたいきさつなども当たりさわりない範囲で聞いた。

Sさんにはいろいろと小さな話を振りつつ会話を楽しんだかんじ。

栃木の東照宮に行った話をしたら、そういう場合はどういうふうに行くのか聞いてくれたので、

友達と一台の車に乗っていくと答えた。

帰りはK先生と帰り道が同じだったので夜道を一緒に帰った。

楽しく話しながらいけた。家まで送っていくべきなのか、適当なところで分かれるべきなのか迷ったけど、最後の曲がり角くらいで別れた。

楽しい飲み会だった。ありがとうSさん。
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生活を豊かにするために

日々接する人々やものごと、あらゆるものに対して愛着が持てるようになれば自然、生活は豊かになると思う。

愛着のある寝具で眠ることは幸せだし、愛着のある人の腕の中で眠るのも至福だろう。

愛着のある食器で食事をする。

愛着のある服に着替え、愛着のある靴で外に出る。

愛着のある車に乗り込み、走りなれた道を行く。

じゃあ、どうしたら愛着がわくのだろう?

簡単なことだ。

それに時間を費やした分だけそれは愛着に変わる。

人もモノもおんなじで、それとともにすごした時間が長ければ愛着も増す。

もちろん、時に愛着は悲しみを伴う。

ふと、人は思う。

こうした悲しみを伴うなら、いっそのこと何もしなければよかったんじゃないか・・・?

恋愛において、ペットにおいてのように命あるものには特にそういった感情を抱く。

でも、その2つの橋渡しになるようなものが輝いて見えるようになる、美しく見える。

ある花を見て、「そういえば、あのとき一緒に見た花だ」とそのときの幸せを思い出す。

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自分が苦手な食べ物でも、愛着のある相手が好きなものならばまったく違って見える。

心にそっと思おう。

あのとき私は幸せだった。

そして今この瞬間もいつかそう振り返れるように愛着を持ってすごそう。
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アルコールに対する内臓の働き

昨日お酒を飲みすぎた。

家に帰ると、頭痛と吐き気がした。

でも僕は吐けば楽になると思いながら、その一瞬の苦痛と生理現象に逆らうことへの畏れから我慢した。

今まで二日酔いにはなったことがないが、明日は二日酔いになるかどうか、自分のアルコールのキャパシティーを確認できるとも思い、その体調のまま眠りに入った。

ただ体調が悪いまま我慢するのではさすがに苦しいだけだったので、自分の内臓の働きを推し量ることにした。

頭痛がするのは、頭蓋骨の周りの薄い皮膚の血管の血流が多くなっているために起こっているためだ。

吐き気は体内に過剰のアルコールがあるために起こっていた。

だから、水をたくさん飲み、体内のアルコールを薄める。

すると、胃がやや薄まったアルコールで満たされ、吐き気がおさまったような、かえって増したような感じがした。

次に僕は努めて小便を出すようにした。アルコールを抜く二つの方法は吐くか小便によって排出するかである。

不思議なことにトイレに行った後は少し酔いが冷めたような気がするからあながち間違っていないと思う。

またしばらくすると胃の内臓量がどんどん下っていき底のほうにアルコールが混じった柔らかな固形物が残っている感じがした。

このときに吐き気がまた増してきて、吐いてしまおうと負けそうになった。けどなんとか堪えた。

胃酸の影響だろうか、胃やのど元がすこし焼かれるようなスーッという感覚を得た。

それからは胃の感覚は次第に弱まり、その代わり腸が活発に動き出したのを感じた。

腸にもアルコールが滲みて、妙な不快感を感じた。小便だけではなく大便でもアルコールは抜かなくてはならないみたいだ。

それからは気がついたら朝だった。

若干脈が早い気がしたが、体調は問題なかった。水を飲み、ある程度排出した効果で二日酔いは免れた。
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夢と自由を教えてくれた

偶然にも名古屋栄松坂屋で「シャガール展」と「尾崎豊展」が催されていたので一度に両方楽しむことができた。

「シャガール展」は前の記事に書いたので、この記事は「尾崎豊展」について。

この「尾崎豊 特別展」は上手に楽しむのがとても難しかったと思う。

入場料1500円なので、それだけの収穫を得て帰ろうと思うならば、会場にしばらく入り浸っていなければならないだろう。

というのも、はじめのブースは尾崎豊roomとなっていて、ピアノやギター、詩の原稿やLPのジャケットなどが展示されていて、次に近日公開する尾崎豊の映画に際しての映像が流れ、出口の近くでライブの貴重な映像や、音源、話し合い時の録音などがタッチパネルで楽しめるようになっていた。

この最後のものはコンテンツが結構充実していたので、すべて見てしまったならば十分に元をとれたかもしれないが、ちょっとマニアックな内容だったような気がする。

尾崎は若かったし、もがいていた。自分を見つめ、自分を知ろうとし、自分を、社会を冷静に眺めた。

ノートに残された彼の言葉は陳腐なものも多かった。

だけど、歌に乗せれば、それは気持ちのいい、歯切れのいいメロディとメッセージになった。

やっぱり尾崎豊は歌手なのだ。それも偉大な歌手。

僕はこの展覧会で人間、尾崎豊が好きなのではなかったことに気がついた。

あくまで彼の音楽、歌っている姿が好きだったのだ。

尾崎豊はときにかっこよく、時に弱さを持った、頼りない男に見えた。

僕は尾崎豊を過ぎてしまったのだろうか。きっと過ぎつつあるのだろう、つまらない、夢のない社会の歯車の一端になっていくのだろうか。

尾崎豊、あなたは夢や自由ということを教えてくれた。

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シャガールは「おしゃれ」

名古屋栄の松坂屋美術館へマルク・シャガール展へ行った。

実際にこういった展示会などに足を運ぶとなにかしらの知識を得ることができるので、それだけでも有益だ。

この展覧会に行くまで、「タピスリー」を知らなかった。

絵画をそのままタピスリーに表現することでそのダイナミクスさ、躍動感、迫力、色彩の配置が明瞭に認識できるのでおもしろい風合いがあった。

とはいえ、たいていのものがとても大きな一枚布になっているから、制作はよほど大変だろうと、作者の情熱と、モチベーションに驚くばかりだった。

そして、メインのシャガールの作品だが、この日まで僕はその作品について、構図があまりにシュールで色使いは特徴的であるものの、対象物の捉え方があまりに抽象的かつ大雑把に感じられ、キャンバスの塗り残しやインクのかすれ具合もなかなかのものだ。

だからあまり好きな芸術ではなかったし、感想もそういったネガティブなものしかもっていなかった。

ところが今日のような個展に行くと、すべてがその芸術家の世界観をあらわしているので、その重要な特徴やまとまり、バランスのよさが際立つ。いつも気がつかない美点に気がつくことができる。

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シャガールの作品は「おしゃれ」だと見ていくうちに思うようになった。

色使いと退屈さを感じさせない、単調さのない筆致と、色の変化、躍動感。

色も多用しないので安定感がある。

芸術家が芸術家たるゆえんはその作品にアイデンティティを持たせることができることだと思う。

シャガールの絵は誰が見てもおおよそわかるほど特徴的で、個性を持っている。

それだけでもすばらしい作品である。
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小説、特殊な出来事を知らせる手段

僕は小説というのは、人生の普遍的な事柄を題材にして、そこに人間の根本原理や真理、新しい価値の定義づけ、問題提起を的確にあらわすための手段であると思っていた。

しかし、三浦しをん『舟を編む』を読んで小説の担う役割の一端を発見することができた。

それは、小説が普段の生活からは知り得ない、特定の、特殊な出来事を万人に知らせることができる手段でもあるということ。

この『舟を編む』では辞書編纂がどのように行われるかを知ることができるとともにそこに生じる人間関係やドラマを楽しめる。

話の筋が読者に楽しめるように工夫があらゆるところでなされていて、本屋大勝も納得だ。

テンポや展開、登場人物や状況描写の簡潔さと、ところどころにちりばめられている文学的筆致もよかった。

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小説は鏡ともなり、絵画ともなる

小説をなぜ読むのか?といえば、それは「小説は鏡だから。」と答える。

小説を読むことで自分自身の考えていることや、感性、思考を確認したり気づくことができる。

「汝自身を知れ」とは思想上のすばらしい提言であるが、そのために読書は欠かせないだろう


しかし、小説の効用はそれだけにとどまらなかった。

小説は絵画でもあるのだ。

絵画は見る人に何かしらの分析をさせる、専門家たらしめる。世界を、思想を自発的に分析させるのだ。


ジェーン・オースティンの『高慢と偏見』はそれを如実に体験させられる作品である。

この作品はイギリスのある田舎に住む身分の異なる1つのまとまった諸家族の人間関係を描いた絵画である。

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(ジェーン・オースティンの小説『高慢と偏見』に登場するペムバリー館のモデルであるとされるデヴォンシャーのチャッツワース・ハウス)

絵画は風景をしか表現することができないが、小説は人間関係を絵画的に、つまり視覚的に表現できる。

そこには風景や、道徳や、社会情勢など不必要な要素は含まれていない。

ただ、大部分が会話で成り立ち、その会話の中に人物の思考や性格、人間関係のほとんどが描出されている。

その技術の高さはおどろくべきものだった。

読了後知ったことだが、この作品はジェーン・オースティン21歳のときの処女作である!

信じられない。また天才を1人知ることができた。早熟の天才。

また僕の新しい小説の可能性と読み方を発見させてくれた。傑作である。

<追記>
『高慢と偏見』という表題が冠せられているが、これは主にダーシーとエリザベスがそれぞれ高慢と偏見を体現している。

エリザベスは偏見によって一時幸福を手中にしながら、それを逃してしまう。

その偏見が生じたのはまぎれもなくダーシーの一見したところの高慢さである。

高慢と偏見は往々にして誤解を生みやすいものだ。

高慢は本来のやさしさや気立てを隠してしまうし、偏見はものを正しくみる目を曇らせてしまう。



大体、追記に書かれていることは重要なことである。
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すべてはちょっとしたことで変わる

絶望してはいけない。

悲観してはいけない。


すべてはちょっとしたことで変わるのだ。

きっと僕だけではない、たくさんの人が絶望なきもちになるときがある。

それはわけあってかもしれないし、わけもなくそんな気持ちになる人もいるだろう。

僕はわけがあるにはあるし、運命的な絶望を感じるときもある。

つまりこのままでは生きていても・・・。と思ってしまうのだ。

だけど、このままで生きるわけはないのだ。人は日々変わっている。

明日の自分は今日の自分と少し違う。

何もしなくても、ずっと絶望し続けることなく、きっと少しずつ変わっていく。

もし変わろう、考え方を変えよう。と努力するならばもっと自分は変わっていくだろう。

すべてはちょっとしたことで変えられるし、ちょっとしたことでうまくもいくし、うまくいかなくなったりする。


考え方一つで、幸せにも不幸にもなれる。

違う見方で見ることはとても難しい。

それは悪いことをよくする魔法なのだ。

どんな風な考え方を、見方をすれば僕の人生はいいものになっていくだろう、僕の日々は輝きをもつのだろう?

日々は戦いだというが、僕も自分でこの答えを見つけていかなければならない。

どうやって人生を考えるか。

僕次第ですべては変わるし、変えることができるのだ。
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ノーベル賞 山中教授

日本人として誇らしいニュースだ。

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京都大学、山中伸弥教授がノーベル医学・生理学賞を受賞した。

iPS細胞の開発による受賞だ。

記者会見を見ていて、僕は山中教授の話し方や視線、表情に惹かれるものを感じた。



それは秘めた情熱や、ひたむきさ、真の強さ、やさしさ、そういったんものが含まれているからではないかと思う。

やはり偉大な人は物腰や表情、挙動が違う。

僕はすぐに山中教授に対する畏敬の念に捉えられた。すばらしい。

医学研究をしている人たちは本当にすごいと思う。

社会貢献のためのなにものでもない。もちろん、医学の発展が必ずしも貢献になる保証はないが、研究者たちはよりよいものをつくりだそうとしている。

僕は研究職はやりたくないと思った。

大学教授に対して、なにか反抗的な感情を持っている。これはどうしてだろう?

やはり大学選びだったのか?もちろん僕自身の状態からそうせざるを得なかったのだからそれ以外の道はなかったのだろうけど。

僕は自己中心的な人間なのだ。

結局自分が第一に楽しくなければならないと思っているのだ!

だから研究なんてできないし、まともに一般の強制労働のようなサラリーマンとして働くこともできないのだろう・・・それは自由ではないと思うから。
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プロフィール

hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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