お金持ちと自由であることの矛盾

お金持ちであることと自由であることは矛盾するように思える。

もともと財産があるとかなにか権利を持っているとかは別だ。

そんなものは人間的成長の妨げとなる。そんなものはすぐに捨てたほうがきっといい。

だけどそれはできない。

誰もが楽をしたい。働かずに暮らしたい。

でもそれはフェアではない。

僕はなにをするにもフェアであるかどうかを考える。

みんなが働いている中で自分だけ楽をする、みんなが苦しんでいるのに自分だけいい思いをする。

それは許されることではないと思う。


僕は自分がそうだとしたら我慢ならない。

しかし僕は自由でいたい。

自由とは自分が思うように生きる、そういった意味だ。


つまり、自分、まわりのひとたち、社会、環境、すべてに貢献するような生き方だ。

自分がやりたいことがまわりのひと、社会、環境のためになることはとてもすばらしいことだ。

僕はそういった欲求を持てるようになりたい。


それは可能なのだろうか?

お金を稼ぐには時間や人や欺瞞などあらゆる良心とは反した手立てでもってお金にかえなければならない。

僕は時間を売るような労働はごめんだ。

人を使うなんてことはしたくない。もちろんこき使われるのもごめんだ。

だますような、ほとんど商売はそうなのかもしれないが、そんなことはしたくない。

できることならそれなりに見合った報酬をいただく。それで十分だ。

その見合った報酬がむずかしいが、僕自身も生きていかなければならない。つまり金が要る。

こうして考えてくれば、お金を稼ぐということを考えないほうがいいという結論になる。

自分のため、他人のため、社会のため、環境のためになることがなんなのか考えよう。

そして生活に必要な金銭はなるべくお金を稼ぐという感覚から離れた方法によって手に入れるようにしよう。

たった一つ、道は用意されていると信じている。
関連記事

車山高原 二日目

高原の朝はさわやかだ。

柔らかな日差しが窓から差し込んでいた。

どこかの大学のサークルが朝から散歩を楽しんでいて、その話し声も静かな朝だから聞こえてくる。

どこかの部屋のテレビの音もわずかに漏れてくる。

僕らは窓際で朝食を楽しんだ。

チェックアウト時もお宿の奥様は丁寧に見送ってくださり、本当にいいホテルだったと思った。

白樺湖を通って蓼科湖へ。

白樺湖はかつて子供のときにいったことがあったが本当にかすかに記憶に残っているだけだった。

そのことを母に話すと、少しだけショックだと言っていた。せっかく連れて行っても記憶には残らないのねって。

でもたしかに僕の心にはなにか懐かしいものが残っていた。

昔両親は俺をここへ連れてきてくれて、何もわからずにただ楽しんでいた。

今はこうして自分の力できてそんなことを懐かしみ、感謝し、愛を感じているのだ。

少しだけ寂しい気持ちにもなった。

蓼科湖には家族連れで来ている人たちもいて、なんだかとても幸せそうだった。

20120613175601764.jpg


笑顔にあふれていて、そこにはなんの影もなかった。

僕の家族はどうだろう、少しずつ大人になるにつれて違ってきてしまっているのじゃないだろうか。

どうして人は大人になるのだろう、なってしまうのだろう。そんなしかたのないことを考えてみたりした。

白樺湖のリゾートとの融合の景色はすばらしいものがあった。木々の間から見える湖畔やすこし古びたホテル。

懐かしい風がふいていた。

530758.jpg


蓼科湖への途中にバラクライングリッシュガーデンがある。

5904318755_52fc0e0a09_z.jpg


お庭は花をみて美しさに感じ入るのはもちろん、その花々に囲まれた心地よさをかんじられるのが醍醐味だ。

歩いて、写真を撮ったり、おかれているいすに座ってみたり、花をよく観察したり、自分の気に入る景色を探してみたり。

別の世界に来たようなそういった感覚、日本的でない色彩と光景。

諏訪湖にある北沢美術館新館にも足を運んだ。

美が詰まった二日間。

そこはガラスの美術館、そこにはいかなかったけど、併設されている大きなガラスショップでガラス細工をいろいろとみることができた。

利用目的のある作品というのはまた違ったみえかたがある。

美的形状と、実用的形状。

そのどちらもを満たすような作品はやはりすばらしいのだろう。

そういったコップでそれにあったものを飲む。

こういったことが真の幸福であり、生活なんだと思う。

僕が考える真の生活とはこういうものだ。

醜悪さのないシンプルかつ美しい生き方。

そこにはギラギラした欲望、刺激的な奇怪さ、違和感といったものはまったくない。
関連記事

車山高原 一日目

近頃ずっと精神が抑圧された状態にあったから高原へいって解放されたかった。

たしかに現実逃避かもしれないが、こういう場合の解放は幸福感を伴う。

だから僕は車山高原へいった。マイカーの赤ポロちゃんを走らせて。

蓼科高原も白樺湖も家族で行ったことがあったから少しマイナーだけど車山にした。

ヴィーナスラインは広大だった、一帯が峰続きの山で山肌は高山植物におおわれている。

ニッコウキスゲがきれいに咲き誇るらしいがもう終わってしまっていて、かわりにマツムシソウやアザミがところどころにかわいく咲いていた。

090820matumusisou_sirakabak.jpg


僕は日ごろのもやもやを忘れた。自然とひとつになった。

そこに醜いものは何一つなかった。

緑と青で構成された世界に若者二人と赤のポロ。

すばらしき青春だ。

車山は誰でも楽に山頂へたどり着くことができる。ロープウェーを使ってすぐに山頂まで歩いていける。

img_1201153_37242094_2.jpg

僕らも上りはそうした。そして帰りは歩いて帰ってきた。

思ったよりもひざにきて結構大変な道のりだったけど、そこらに咲いている花々がゆれているのが美しかった。

山はどれも同じに見える。

だけどすべてちゃんと名前と標高に差がある。なんか不思議だ。

白樺湖の全景を眺めることもできて、ススキもそこらにさいていた、もう山は初秋の気配。

山は夜もすばらしい。星がうつくしく、風は心地いい。

静かで煩わしい物音ひとつしない。食べ物もおいしいし空気もすごくいい。

関連記事

車山高原 リゾートホテル カムス

初めてここに誰かのための記事を書こうと思う。

その誰かのためっていうのは8月28日に車山高原旅行で宿泊した「リゾートホテルカムス」さんのためだ。

Y399366173.jpg


つまりもしこの記事を読んでくれる人があった場合にぜひそちらに立ち寄ってほしい、その力になりたいと思ったのだ。

僕は旅行が好きだからいろいろなところに泊まったことがあるけれど、もっとも気にいったお宿の一つだ。

ぜひHPから予約していただきたい。http://come-s.com/

なぜなら11,500円と宿予約大手じゃらんよりも500円安いからだ。

しかもサイトもなかなか凝っていてこの宿はよさそうだと思えるくらいだった。

実際僕もそのサイトをみて宿泊を決めた。

その日はちょうどお客さんが少なく(2組)、通常一回の貸切風呂が空いてるときは何度も使え、食事のときも外のデッキでコーヒーを飲むことができたりと運がよかった。(その前の週だったら混んでいたみたい)

外観はドイツ風の建物で高原にぴったりでさわやかなたたずまいだった。

館内はとても落ち着きがあり小さめのホテルでもあるため快適に過ごせた。

581875d5b474fef2f734ac07cace6542.jpg

食事がもっとも満足できるもので、フレンチのフルコース。

02.jpg


自家製すもも酒の食前酒とキスのムニエルにはじまり、枝豆のスープ、鯛と牛フィレ肉のメイン、デザート、デッキでのコーヒー。

とても満足のできるものだった。とくに枝豆のスープは枝豆のよさがひきたったすばらしいものだった。

お風呂はそこのマスター手作りの岩風呂があり、それが貸切風呂になっている。

もっとも印象的な出来事は夜にバーでそこのマスターと話ができたことだ。

その人はこんなことをいっていた。

夢を持つこと。それが一番大事なんじゃないかと思う。

それと運とチャンス。

その両方をつかむのが夢をもって、そのために努力していることなんだそう。


いっぱいのお酒でカンブリア宮殿ばりの成功者の話が聞けたのはよかった。

部屋もドイツ風の落ち着いた部屋でぐっすりと眠ることができた。

とにかく夫婦でやっていることもあり落ち着いた雰囲気とやさしい心配りの行き届いたサービスがとてもよかった。
関連記事

大学休学、退学の許可

大学を休学・退学するのに教授の意見書と保証人の署名がいる。

親にはお金を払ってもらっているし、ものすごい反対と誤解があったからだいたいのところは話し、そのうちの大体は理解してもらった。

だけどすべてを話せるわけではない。

誰でも人に話せないこと、話したくないことってあるはずだ。

僕はどうしたって大学教授に打ち明けることも、相談することもできない。

そしてできる限りのことをしよう

可能性は狭まる、道は険しくなる。

だけど自分の誇りってものを大事にしたい

なんで大学生にもなって先生や、親の許可が必要なんだ。

ばかげてる。
関連記事

Dさん宅との別れ

今日をもってDさん宅の指導が終了した。

内心少しひょっとしたら継続もあるのかも、とおもっていたのでいつもどおりのかんじではじめ、そして終わった。

そしていつもどおり世間話をして、いつもと違ったところは僕が立ち上がりかけなかったことかもしれない。

出会ってからちょうど一年くらいだ。

はじめに電話をしたときに「そんなかしこまってこなくてもいいからね!バカに教えるんだから!」と気さくにいってくださったことが今でも印象に残っている。

そして初めて訪問したとき、お宅がわからなくて玄関をでて待っていてくださったのもまたとても覚えている。

こうして振り返ってみるとなつかしい気持ちとあぁありがたかったな、うれしかったなと思うことばかりだ。

よく帰りにおみやげやおすそわけをいただいた。

それも高級なものばかりだった。どれもおいしかった。一番最初はジャムをくれたっけ。ごはんも出していただいておみやげもいただいてなんだかすごいな。と帰り道に思った。

銀の森のことやコーチのかばんを誕生日プレゼントにいただいたこと、葉加瀬太郎のコンサートへ招待していただいたこと、食事も当たり前のようにご馳走していただいた。

お給料もたくさん出してくれてとても助かった。

本当にありがとうございました、お世話になりました。感謝の意味を感じさせられました。

だって他人なんだもの。どうしてここまでしていただけたのか、本当にありがたかった。

ダッフィーとシェリーメイももらった、今思い出した。

いろいろな忠告や提案をしていただいて、毎週教える立場なのに教えられてばかりだった。

はした金は形に残らないものに使うといい。

今日教えてもらったことだ。そして記念に何かもらうときは時計や財布がほしいと言うといいということだった。

行動のすみずみに心配りを感じてすばらしいとおもった。給料袋ひとつとってもそうだ。

もっと遊んだり、視野を広げなければいけないとよく言われた。

そうなれるように努力します。

そしてAちゃんには今すぐにでなくていいから、漠然と勉強でもなんでもいいからのびるときがくることを心から期待していたことに自分で気がついた。

なによりも最後にそのことが僕の口をついてでたから。
関連記事

緊張感の欠如

僕はもっとシンプルで純粋な軽やかな友情や人間関係を望んだ。

自省してみれば確かにつれなくしてしまったり、相手や友人を軽率に扱ってしまったこともあった。

だから深く反省する。

しかしそうさせるような要因がないわけではない。いや実際にある。

メールがまずそうさせるのかもしれないが、あまりにもみな適当すぎる。

まともで誠実なメールをいまだ受け取ったことがない。

時間や内容と返信との関連が無茶で快いやりとりができないのだ。

また女子に送るメールを考えると、僕は緊張感がなさすぎたのかもしれない。

その結果、さわやかな関係がもてないし、親密にはならないしでとても残念に思う。

今になって緊張感が足らなかったのかもしれないとおもう始末だ。

僕はどうしても親しみを持って人と接したいと思う。

ほかの男子はどのように思っているか知らないが女子に対しては本当に親しみを持って接しているつもりなんだが、それがぶしつけにあるいは無遠慮に映るみたいで距離を縮めることができない、むしろ遠ざけてしまう結果になることが多い。

だけどいいこともあって、本当に気の合う人とはすぐに打ち解けてしまう。たいていは僕自身がどういった表情、態度をとっていいのかわからなくてどぎまぎしてしまい、いい関係もつくれずに終わることが多いのだが。

もし次にそういった、特に女子と出会うことがあったら緊張感を持って接することにしよう。

きっとうまくいくはずだ。

関連記事

じぶんのやっていることを的確に把握する

『ゴッホの手紙』を読んでいると彼の仕事(絵を描くこと)に対するすさまじき情熱を感じることができる。

もちろん彼のすぐれた人格、やさしさやおもいやりなどにも触れることができるがこれについてはまたの機会に書くことにする。

驚くほどゴッホは絵を描きまくっている。

残されている絵が数少ないからかもしれないがそんな印象はまったくなかった。

その中には素描もまた多く含まれている。これは弟のテオに生活費や絵具代を負担してもらっていたため、高価な絵具を節約するためであったのだろう。

今読んでいる岩波文庫の『ゴッホの手紙 上・中・下』は結構な量の素描画も含まれていて、それを見ることができるだけでも大変な価値があると思う。

20120229115819.jpg


僕は芸術というのは哲学的で非社会的な営みだと思っていたが、ゴッホの芸術の捉えかたは明らかに違っていた。

より社会のため、精神のため、全人間のためという気さえした。

実際に文中で今後の芸術の足場をつくらなければならないといっていた。

また「芸術家は仕事に憑かれた人間であり、最初に現れた気をひかれたものを徹底的にやりとげるだけが目的ではない。」ともいっていた。

何かを成し遂げるには自分のやっていることを的確に把握している必要があるのだ。
関連記事

ブログから収入までの道のり

ブログのアクセス数を増やすこと、これが目下の目標である。

たくさんの人に読んでもらえるような価値のある記事を書く。

おもしろく人の興味をそそるような記事ではなく、精神的発展や文学的に価値がある、そんな意味を持つ記事。


だが冷静に考えてみて、たとえばこんなブログが読者10,000人とか考えられるのか。

それは無理な数字だろう。

僭越にも僕はブログを書くことで多少なりとも収入を得たいと思った。

ただしアフィリエイトとか情報商材による収益ではなく、人とのつながりの中で―つまり信頼や助力による―あるいは自然なクリックやそういった細かいことの積み重ねによる収益を得たい

とにかく動機なんかはどうだっていいから価値のある記事をまず書くことが先決だ。

人の集まるところにお金は集まる―これは真理だ。

価値のあるものを生み出して人が集めることができなければまとまったお金は手に入れることができない。

収入を得るなんてことはまったく実感がわかないがもうすこし努力して続けてみよう。
関連記事

仕事について

仕事は生きていくうえでもっとも重要な関心ごとかもしれない。特に男性にとっては。

仕事の充実なくして生活の充実もないというのが僕の持論だ。

今の社会の中で生きていると仕事=お金を稼ぐことになっているが本当にそうだろうか

それでいいのだろうか。

僕の育てられ方もそうだったんだけど、大半のこどもたちは商人になるために育てられている。

もっといえばサラリーマンか公務員だが。とにかく使われる人間ということだ。

だけどもともと商人っていうのは印象が悪かったはずだ、ユダヤ人がかつてそのように見られていたように。

なんでかっていえば、苦労もせずにお金を稼いで――もちろん苦労はしている、そうみえないだけだ――他人の作ったものをただ売っているだけ自分はなにもしていない、そう見えるからだろう。

日本で言えば高利貸しとかがもともとそういったかんじだったんじゃないだろうか。

ニュアンスの違いがあることはは否めないがとにかく実際には責任とか自力によるところが少ないといった意味でだ。

ただ誰もがかんじているようにそろそろそういった形態も限界がきているようだ。

なぜかって、方法論ってのはごまんとあって、その微小な差を突き詰めていくことによってしか利益が生み出せない構造になっているからだ。

だからこんなことはそう長くは続かない。

そういうことで勝負するのではない、人格や技や品質そういったもので勝負する、ひょっとしたら勝負なんていうのはまだ未熟なのかもしれないが本来の人間の生活、他人の息遣いが感じられるような生活へと進んでいかなければならないんじゃないか。

その生活を支えることが仕事となっていくんだ。
関連記事

お金の代償となるおもしろいこと

今日はバイト中に本当のおもしろさってなんだろうってことを考えてた。

たとえばまとまったお金を手に入れたいと思ったとき、どうするか?

お金をもらうということはそれに見合ったなにかしらを払うということ。

つまりお金を払ってでもしてほしいことって何だろう。

そう考えてみると人はおもしろいことか不便なこと、あと同じことかもしれないが欲求を満たすことにお金を払う。

だけど不便なことについてはそれは当然代わりにやってあげたり、便利な方法を考えたりするってことになるんだけど、それってやってる側はたぶんおもしろくない。

それに自由ではない。人に役立ってるという幸福感はあるに違いないから、そういうことをするのも手段のひとつとしてはいいとおもうけど、やっぱりおもしろくやれがほうが長続きするだろうし、双方にとっていい結果を生む。

だからできるならば人が楽しんでくれるようなことをなにかできないか、人がおもしろい、役に立つとおもうようなことができないか。と考えている。

そのひとつにブログを書くことも通じるかもしれないが、人生を幸福や成功へ導くようなことは誰もが望むことだ。お金を稼ぐなんていうのはそれの最たるものかもしれない

また、人は結局人に興味があるとおもう―週刊誌や芸能ニュースが人の目を引いていることからもうかがえることだ―から自分の個性を存分に出してそれを告白していく、あるいは誇大におもしろく、滑稽に、過剰に表現してみたらどうだろう。

しかしながら結局は美しいもの、景色、やすらぎ、食物、気の合う人と過ごす時間などそういった人の手では助力程度にしか貢献できないことがもっともおもしろいことなんじゃないか。

だからその一端を担う。それが一番いいのかもしれない。

果たしてまとまったお金がそれで得られるのか。
関連記事

元来、世界はシンプル

とにかくひとつひとつ手近なところから片付けていかなければいけない。

一歩を踏み出すこと、それはいつだって勇気と強い決意を必要とする。

あまりにも意味がないこと、自分に対してメリットが期待されないことをきっぱりと断る、捨てる。

それもまた重要なことだ。

とにかく人生にしても社会にしても世界にしてもすべてはシンプルなはずだ。

僕はそう信じている。

アインシュタインが発見したE=mc^2というエネルギーと質量の等価性をみるとそう考えざるを得ない。

太陽がもし二つあったとしたら数学や天文学はもっと早く複雑に発展していたらしい。

つまりはやっぱりこの世界は単純なのだ。

バカな連中か天才気取りか欲深な人たちが世界を複雑にみせているに過ぎない。

だいたいが人ひとりひとりにそれほどまでの優越があるなんてことはまったくありえない話だ。

とはいえ、そうして複雑にかつ厄介に作り上げられたこの世界をシンプルに純粋に生きていくには相当な力が必要だ。

僕は偉人たちの言葉と自分の良心、運命を信じて突き進んでいく。
関連記事

幸福や感謝のずれ

僕はなんという厚かましい態度を日頃とっているだろうか。

自分のような取るに足らない人間―人間ひとりひとりなんて単体で見れば本当に取るに足らない存在だ―に好意を寄せて接してくれる友人や日々接点のある人々、もっといえばたまたま会ってなにげない親切をしてくれる人。

そういう人たちに対して僕は真に誠実であるか、あったか、といえばそれは不誠実だったといわざるを得ない。

幸福とか感謝の捉え方がきっと毎日の生活の中でずれていってしまっていると思う。

自分、まわりの人たち、言葉、そういうひとつひとつを大切に扱っていかなければいけない。
関連記事

自然界の完全さ

先週ゴルフの練習場で通路が冠水するくらいのものすごい夕立があって、打席でおさまるのを待ってたときに、その雨に驚いてか、下水道が水でいっぱいになったから逃げてきたからなのかはわからないけど、通路に一匹のネズミがおびえたまなざしを僕に向けて段差になっているところに身を潜めていた。

そのネズミは一般的に想像する胴体の大きなドブネズミではなく、尻尾が長いハムスターのような小さいかわいらしいネズミだった。

僕も場内に吹き込む雨と風に圧倒されていたからネズミほどではないにしても平静ではいられなかった。

そういえば、雷も近くに何度も落ちていた。そのたびにネズミは身を震わせているように見えた。

通路の陰に隠れていたネズミには通路に水があふれてきていたからもう逃げるところがなかった。

僕は間一髪のところで手を触れることなく救出してやることができた。

しばらくしたらネズミはどこかへ行ってしまっていたが、ひとつの命を一時的にもせよ救えたという気持ちになってうれしかった。

僕がこんな話をし始めたのはそのときに生き物が本当に純粋でまったく罪も悪意すらも持っていないということを実感したからだ。

あの麗しいネズミの願うような、恐れるような瞳を僕は忘れたくないと思う。

たしかにあのとき幸せに近い幸福感のようなものを得た。

人間が自然の災害にあったとき、ネズミにとっては大雨は大災害に違いない、あのような素直な感情とけなげな姿勢がとることができるだろうか。

僕は本当に感動した。そして自然界は完全だと思った。
関連記事

自由な生き方とお金

僕たちにはもちろん金銭を必要としないような生活や生き方を求め、実行する権利はある

現実問題可能かどうかは別として。

実際には国は違うが、ソローの『森の生活』にあるように不可能な試みではないように思う。

もしかしたら時代が変わってあらゆる価値観や社会の構造や常識が変わり、より容易にそういった生き方ができるようになるかもしれない。

まぁ現実むずかしい。

僕もそういった生き方にあこがれるし、自由でシンプルだと思う。

僕は人生は自由で、シンプルであるべきだとずっと思っている。

ただ因習的なことや家族、世間体――これは気にしたくはないが、社会性、交友関係こういうものが障害や足かせになって、いやこういったものが生活たるゆえんなのかもしれないが、自由がえられないともいえる。

美大の友達Kもツイッターの中で、

人生どっちつかずなんだよなぁ。まだ隠し通路みたいなのがある気がするなぁ。といっていたが、おそらく今ずっと書いているこういうようなことを言っているんじゃないかと思う。

結局、今の世の中はすべてお金で、なにをするにもお金がなければできないわけだから、消費したり、利用したりする以上は自身もお金を生み出すようななにかをしなければならない

だから、お金を生み出すことを考えなければならない。

簡単なことだ。

自分がなにかをしてもらうには自分がなにかをしてあげなければならない。

これを忘れてはいけないと思う。

してもらう以上のことをできたとしたら、きっとうまくいく。
関連記事

日々の戦いの中で

今の社会はよくない、だれだれがどうだから、まわりがこうだから、自分はなんとかだから・・・

こういって自分自身ではどうしようもないことを嘆いたり、批判したり、責めたりしてみたところで、僕たちはその中で戦ったり、努力したり、あきらめたり、必要とあらば自分を犠牲にしたりして生きていかなければならない。

戦時中にいくら戦争を否定しても戦わなければ死が待つだけだ。

これは戦争に限ったことではない。

まだまだ僕たちは生物の域を脱してなくて、生存競争の中で勝ち続けていかなければならない。

戦わなければ、あるいは自分が環境に適応できなければそれは死を意味する。それは紛れもない事実だと思う。

なぜだかわからないが、支えあい、励ましあい、ともに成長していくという社会構築は成り立たないようだ。

だからといって、悲観することはない。

どんな社会だって――殺し合いや犯罪の絶えない社会はなかなか考えずらいかもしれないが――その中に美しいもの、友情、愛情、労わり、絆が見出せるはずだ。

僕たちが日々生きていられるのはやはり人とのつながりがあってこそだとおもう。

人を思うことなくして豊かな社会も人生もありえない。

日々の戦いの中でそういったものを得ることで戦う励みにしたい。
関連記事

ブログを書くことについて

僕がこのブログをなぜ書いているかといえば自分自身の思想変遷を残したいからでもあるし、自分の思考を実際に言葉にして出力することで一時的な、あるいは流動的になりがちな思考を印象付けたり、あるいは具体的に言葉で解釈したり、また文章力もつけることができるんじゃないかと思うからだ。

一方で当然のことながら自分の言葉を誰かほかの人に読んでもらってなにかしら感じてもらえたり、もっというならそこからつながりがうまれてきたらいいという期待もあって書いているのも確かだ。

だから、やっぱり人に読んでもらいたい!

でもそのためにはどうしたらいいのだろう?

信頼されたり、感情を共有するためにはどのような人物がこの記事を書いているのかということを明確にするべきなのだろうか?

今の段階では何にも公開していないのでただの文字の羅列になっているだけでだれも見向きもしないのだろうか。

僕はできることなら、言葉の力を信じているってこともあって、なんの装飾もなくただシンプルに記事だけを読んでそれに対する純粋な意見や感想をもってもらいたい

そして雑念なく言葉をそのまま受け取ってほしいと思う。

ひょっとしたらそんな受け取るほどたいしたことは書いてないのかもしれない。

僕自身は思ったことを素直に心を込めて書いたなら価値があるはずだと信じて書いているが。

アクセスが全然なくても、もう少しできるだけ価値のある文章を書いて、記事数をもっと、100くらいまで書いて、それでもアクセスが全然なければプロフィールを少しずつ公開していかなければいけないのかもしれない。

実際に書物でもそうだが、作者がどのような容姿をしていて、どんな来歴なのかということはその文章を読む上で重要な要素となっている。
関連記事

幸福のための豊かさ

僕は社会で生きていくために絶対に変わらなければならない。

とても難しいことだと思う、だけど少しずつでもいい、すこしずつでいいから変わらなければならない。


僕が変わらなければいけないのと同じくらいに社会もそれぞれの人々も少しずつ変わっていったほうがいいのかもしれない。

僕らは環境や機械やインターネットや科学技術を本当に人類のため社会のため未来のため環境のために有効に使えているのだろうか。

それらのものは僕たちの生活を本当に豊かにしたか、心を豊かにしたか。

僕らが生き、科学を発達させ、環境を変え、工夫するのは豊かになるためだ。いろんな意味での豊かさだ。

つまりそれはすべての人の幸福のためなんだ。

本当に幸福のための豊かさに僕たちは進んでいるのか。
関連記事

好むと好まざるに関わらず

自分の好みと違ったことをやってみたり、触れてみたりすることは自己形成のためにとても有益な方法だと思う。

人間どうしても自分の好むことをやりがちで、当然普段付き合っている人たちも大方自分と気が合う、つまり自分が好む人たちで、会社などで気が合わない人と接する機会ももちろんあるが、毎日の生活の中の自分の関係するものはできる限り自分の好みに合うものにしたい、それが人間の本能だろう。

しかしながら、僕たちは成長していかなければならないし、世界や他人を理解してこの社会の中をよりよいものにしていかなければならない。

すべてが自分の思い通りにならないことは誰もがわかっている当たり前のことだが、理解すること、理解しようと努力することは誰にだってできるはずだ、だってみんな同じ人間で同じ社会、自然の中で生きているのだから。

そういうわけで僕は最近映画や芸術なんでもそうだけど、自分の触れるものに対して少しだけ自分の趣味とすこし異なるものに触れようと意識している。

僕は西洋美術、フェルメールやルノワール、ゴッホなどの作品が好きだが、その意識の元、日本美術をボストン美術館へ見に行った、大学の友達Tと。

長谷川等伯、雪舟、狩野派などは知識としてしかなかったが実際に作品を見て感じることができてとてもよかった。

8世紀の奈良時代に描かれた仏絵もあって驚いた。Tは泥で描いたみたいだといっていて、なかなかおもしろいと思ったが、そのとおりだった。

西洋画を見慣れている僕にとって日本絵画の構図や顔料、画布にいたるまでとても新鮮でかつ、西洋人が初めて日本画を見たときの驚きが少しだけわかった気がした。

筆遣いが繊細かつ大胆で濃淡や線の出し方はすごいものがあった。

日本画は塗るのではなく描く。であった。

Tはしきりに大学院に行くにあたって教養をつけていかなければならないといっていた。

J.S.ミルの『大学教育について』を読んでいるからそれに影響を受けているのに違いないがそれでも教育の根幹である教養は考えるべきだと思う。

Tがいうには良書の特徴は作者が社会などを批判する際に~は結構である。という表現があることで、それは謙遜がある証拠で、良書は作者の謙遜なくしてありえないらしい。
関連記事

脳の暴走

あぁ、時々気が狂いそうになる。

抑制され続けている僕の本能や欲求や不満がはじけそうになる。

その兆候は自分の顔に対して異常なまでに嫌悪感を感じるときだ。

勉強するための落ち着きがほしい、たくましい想像力でもって書物を読みたい、繊細な感情で自然を感じたい、平静な心で感情をわかせたい。

そのためには悩みなんて必要ない、自己に対する嫌悪感も必要ない。

苦しみ、悩みは必要だ。しかし付きまとわないでくれ。僕は今落ち着きたい。

関連記事

自分のおかれた状況の中で最善を尽くす

やりたいことがたくさんあっても、やれること、できることって限られてる。

人それぞれ能力や立場や環境が異なるから当然だし、無理やり強引にだったらできることだったり、どんなにがんばったてできなかったりさまざまだとおもう。

大事なことってなにかを成し遂げた、できた。という結果だけではないはずだ。もちろん何かを成し遂げる、今までになしえなかったことを初めて成し遂げる。本当にすばらしいことだ。

それは己の努力と運命に感謝しよう。結局すべてが偶然にもうまくいったのだ。

しかし、私たちは自分の置かれた状況、立場、能力を理解しその中で懸命に全力で可能性を探るべきなんだ。

私たちに課せられている使命は自分自身をつくりたもうた神の意図に従って世界に貢献することだ。

自分の良心はきっと知っているはずだ、自分がどのように生きるべきか。

今の状況を受け入れできるかぎりの努力と最善を尽くしたいと思う。
関連記事

苦悩を突き抜けて歓喜に至れ

疲労、悩み、不満、不足など、こういった私たちの感情、感覚を圧迫、あるいは不快たらしめるものは実際に快楽、幸福をもたらす最高の材料だ。

これはおもしろい発見だ。

これはおそらく人間の脳の構造上当然のことなのかもしれない。

私たちは比較によってしか感情や感覚を理解することができない。

もちろん感じることは可能だ。善良さは悪と比較することによって得られるわけではない。これは私たちの経験上確かなことである。

これは数学にも当てはめることができると僕は考える。

数学は等式による理論展開によって多くの関係性や事実を証明する。脳は比較によって対象を認識する。

話がそれてしまったがいいたかったのは、疲労があるからこそ開放による爽快感があるし、不幸によって幸福があり、成功のために失敗があるということを実感したのだ。

ベートーヴェンがこんなことをいっている、僕が大好きな言葉だが――

『Durch Leiden Freude. 苦悩を突き抜けて歓喜に至れ。』
関連記事

芸術作品について

そもそも芸術作品とはなんであろう。

どの人もそれぞれの美術的観点をもっているならばそれぞれの定義の仕方があるに違いない。

僕の場合は、その創作物が世界における人間精神に愉快をもたらす美を具体化しているものであること。という定義をしたい。

しかしながらここで論じたいのはそうしたことではない。

芸術作品をみたい、ふれたいと欲するのは人間精神にとって当たり前の衝動だ。とはいえ、その作品はその製作者の偉大な人間性、精神性のほんの一端を表しているに過ぎない。

もしも、できることならばその精神、人間に直接触れたいし、僕はその人物に作品以上に愛着を感じるのだ。

ほとんどの偉人は故人である。

だから、彼らが残した作品に多く触れることでできるかぎり彼らを直接的に感じたい。
関連記事

『おおかみこどもの雨と雪』

映画『おおかみこどもの雨と雪』をミッドランドシネマ名古屋空港に見に行った。

僕自身、あまり映画を見ない、見るとしても映画館で見ることが多い。

その理由は家にいて時間が自由に使えるときに映画鑑賞で消費する2時間がもったいなくかんじてしまうし、ゲオやTSUTAYAで1本100円で借りてくるのがなんとも腑に落ちないからだ。

映画1本100円なんて映画に対する侮辱と感じるのは僕だけだろうか。

だから借りにいく気持ちになかなかならない。

理由はなんでもいいが、映画は映画館で見るべきだ。

見たときの感動もまったく違うし、世界観も伝わりやすい。その世界に入り込みやすい。

高すぎるものはどうかとおもうが、何にでもある程度のお金は支払ってなにかを得るべきだ。

安く、いい影響を受けようなんて考えはやめなければならない。

それで見る映画についてだが、やはり往年の名作と呼ばれるものはすばらしく、機会があればだいたいその手のものを見てしまう。

映画館で見るにしても未来に関するSF映画はあまり見ようと思わない。というのは、設定が未来予測としてありがちで現実的には非現実的なものになっていて―地球外生命体の侵略などだが、結末にどうしても違和感が残ってしまいがちだからだ。

おっと、もともとこの記事を書き出したのは映画に関してなにか書こうとおもったからで、映画に関する自分の考えを述べるためではなかった。

予想しているより、また不覚にも泣きすぎてしまった。

設定がかなりぶっ飛んでいたけど、不快さを残すようなものではなかったし、設定上の違和感なども話の進み方や展開によってとくに気になることなく、むしろ展開の仕方に不満を感じたところがあったがところどころにさまざまな人生におけるエッセンス、母、子、自然、人間など豊富に含まれていて、また時の流れや親子間の人間関係に関する感情にうったえ、考えさせ、理想と現実との差、人生の味といったものを感じ取ることができた。

全体を通した感動、まとまった強いメッセージを表現した映画ではなく、見るひとそれぞれの環境や見たときの状況などによってさまざまな解釈、感動が得られる柔軟性に富む映画であった。

関連記事

商品購入時の迷いについて

私たちが迷うことの一つにある商品を買うか、買わないかという迷いがある。

結論をいえば、その場合・・・買うべきだと強く主張したい。

なぜならば買うか、買わないかを迷うということ自体がその商品を購入したところで、大して自分の財政や生活に支障をきたすことがないことをあらわしており、購入してしばらくの間は本当によかったのだろうかと不安や心配な気持ちをもつ場合もあるが人はしばらくすればそんなことは忘れてしまう。

もっといえば、その購入した物に対してさえしばらくすれば注意を払わなくなり、結果として結構な値段がするものであれば預金通帳を確認したときに大きく額が減っているのに気づき、「あぁ、そういえばあれを買ったからだ。」と思い出す程度で金銭が減ることによる実際的な影響はほとんどあらわれない。

しかも、人は自分の貯金額や所持金に見合った金銭感覚をもつため、絶対にそれに比例した購買意欲や嗜好になっていくため、少なければそれ程度の買い物しかしなくなるし、多ければ買い物の回数や買う商品のグレードがあがるといった具合に実質的な生活への影響もまったくない。

つまり、たいていのものは買っても買わなくてもしばらくしてみればたいして感情に強く働くことはない。

その迷い自体が一番ストレスがかかる状態である。だから迷わず思い切って買ってしまえばいい。

いずれ何も思わなくなるのだから。
関連記事

確実性とは何か

ものの確実性とは何か?

特に自分自身に関わる感覚的な確実性はとても難しいように思う。

あまり細かく論理的に考えていくと、結局哲学的考察―自身に付随する本質的な実在と他者による認識と自身の感覚による実感によってしまうからそう深く考えるのはやめよう。

占いなんかでありがちなんだけど、あなたの性格は~です、あるいは誰かから、特にあまり親しくない人から○○って~だよね。と性格や考えを他者によって予測されたときそれを事実か見当違いなのかを適切に証明することはできなくて、結果そうなのかもしれない、いやそうに違いないと自分の意思に反してそのような気がしてしまう。

しかし、実際はそうか?

僕は自分自身が自分を一番知っていると断言してはばからない。

考え方や性格を自分でだいたい把握しているはずだ、少なくとも自分はそうではないと否定することは簡単なはずだ。

にもかかわらず、その否定をまったく受け入れない無礼な人たちがいる。

実際に僕はそういった決めつけや見当違いに大いに損害をこうむった。
関連記事

言葉を連ねる

小説の書き方とか、文学がなんなのかってことはたくさん本を読んでもはっきりしなかった。

ただ、僕は文学は芸術だと思うし、芸術に属しない文学は文学ではないし、文学に属しない小説には興味はない。

だから自分が書くとしても文学らしい小説、文学らしい作品。なんでもいいからとにかく芸術に属したものを描きたい。

小説を書こうなんて思っても小説が何かわかってないから書けるわけはないんだけど、とりあえず思うことなどを連ねていけば何かしら形になったり、またそこに何かしら価値が生まれてこないというわけでもないだろう。

そして一人の人間の思想や心情が表れてくるのであれば無意味ではないとおもう。

とにかく自分の言葉で文字を連ねていくっていう作業をしてみれば何か期待以上のものが得られるかもしれない。

自分自身の心情や環境や周りの世界をじっくりと観察してそれを言葉にしていく、それが必要なんだと思うし、僕にできることなんだとおもう。
関連記事

自然、人類を愛する心

社会が向かっている方向が明らかにおかしい。

そして人々はいがみ合い、傷つけあい、孤立していきいらいらが募るばかりだ。

ぼくはこのままではこの社会は終わっていくと思う。

果たしていままでに人は真剣に未来を考えたことがあるのだろうか?

問題は先送り、自分たちの世代がよければそれでよし。そんなのはおかしい。

自然、人類を愛する心を持たなければならない。
関連記事

人生という作品

人生は作品である。制作期間は人生を終えるまでだ。

かつて僕は絶望した。

それから少し立ち直った。

そしてまた絶望していたときと近い状態に陥ってしまった。

だけど、もう絶望はしない。漠然と希望だけをもっている。ひそかに心の奥底に。

それでも人生は続く、僕は僕自身を作り上げていかなければいけない、人生を賭けてすばらしい人生を築かなければならない。

内村鑑三は『後世への最大遺物』で人生について、「後世へ誇れるような勇気ある人生を送るのならばそれは立派な生きた意味である」と言っていた。

Uchimura_Kanzo.jpg


だから勇気を持って生きようと思う。

それでも負けなかった。といえるような人生を送りたい。

関連記事

これからの社会

私たちは考えなければならない。

何のための生活であるのか、何のための日常であるのか。

生活を豊かにするために私たちが活動しているとするならば今の現状はなんだろう。

個人的には豊かになっているとは感じられない、ただ、安全で平和で自由にはなっているのには違いない。

私たちは社会を作り上げた。

しかし、社会をつくらんとするあまりそれを構成する一人一人の人間に対する考慮は払われていなかった。

これからの社会を考えるとき、それは個人個人のあり方を問いかけることになる。
関連記事
プロフィール

hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

無料メールマガジン
メルマガ購読・解除
 
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

twitter
月別アーカイブ
最新トラックバック
最新記事
最新コメント
リンク
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
QRコード
QR
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる