現在もまた歴史上

学校教育を受けた我々にとって歴史は授業科目であって、ひとつのまとまった形で現在と隔たりのある概念となっている。

ややもすると現在が完成系であり、発展の最終形態だと思いがちであるが、決してそうでない。

ましてや発展はおろか後退しているのかもしれないと危機感を持ちながら生活していかなければならないのではないか?

現在もまた歴史上の一点であって我々の今日の振る舞い如何で将来の歴史の授業で語られる内容がかわるというのは本当である。

その歴史の一端を担うような人物になりたいものだ。
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医学の発展から精神と肉体の関係

僕は医学の専門ではないから、現在の医学の詳細な発展段階については明瞭な認識を持っていないが、極端に言えば不老不死に向かっているんじゃないかと思う。

だが、医学にかかわらずこうした短絡的な解決方法というのは人間の本質にそむいているのではないか?としばしば疑問に思う。

人間が有機体である以上避けられない老いや死。そもそもどうしてわれわれは老い、死んでいくのか?

ここに意味を見出すとするならばそれでもって精神的な向上を果たさなければならないからではないか?と考えざるを得ない。

なぜか人間は精神よりも肉体を上位におきがちだ。

肉体の上に精神があり、精神は絶対精神というのか、万物の本質の下にあると考えるのが自然ではないのか?

だとするならば老いと死から精神のあり方、万物の本質を認識する助力をえるべきだ。
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読書の効用

読書に関して重要な要素の一つに本選びがあることはだれも異存はないとおもう。

読書の絶対条件は時間を要するということである。

何かと忙しい現代社会の中で読書をするためのまとまった時間、短くはない時間を確保するのは難しい。

そのために活字離れが進んでいるという側面もあるに違いない。

本の選び方は自分の好みの本、誰かに薦められた本、店頭やマスメディアで取り上げられていた本などさまざまにあると思うが自分で選ぶことが、読書の効用を期待するなら肝要だと思う。

そうすると自分の傾向や好みがおのずとわかる。

そして自分の欲するものは自然、自分自身がよくわかっているので有益なものを得ることができる。

読んでみると、自分に合う、合わないを感じるが、それは自分自身の好みをあらわしているのだ。

たとえば、今ルソーの著作を読んでいる。

訳書なので一概には言えないが、共感もあまりしないし、親しみもわかない。

この実感が自分自身を知ることであると思う。
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尊敬する人をもつ

尊敬している人はだれか?という問いにすぐさま答えることができるひとはどのくらいいるだろうか?

数でいったらいないと答える人のほうが多いのではないかと予想する。

考えようによっては「尊敬する人がいる時点でその人物よりも大人物にはなれないだろうから尊敬する人物を自分の中にあえて持つ必要はない。」といえるだろう。

実際にこういう意見を聞いたこともある。

僕は絶対に尊敬する人物は持っていたほうが好ましいと思う。

誰だって影響を受けた人や、僕のように人生を変えてしまった人物がいるに違いないし、自分だけではなくて身の回りの人たちに関心をもっと持つようになれば自然と尊敬する人のひとりやふたりはすぐにもてるようになるのではないかと思う。

その人物は人生を歩んでいく上で参考になったり励みになったりするはずだ。
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二種類の恋愛

僕の今の恋愛は情熱を伴う欲望に満ちているというものではなくて、相手を愛しむ気持ちが行動に先行する以前の恋によって愛する動機を得ているといったようなものになっている。

だから、気持ちが揺らいだり、悩んだり、策を弄するといったような刺激的な楽しみを伴ったものにはなっていない。

その結果、浮気といえばいえるのかもしれないが、自尊心をくすぐるような策略的に恋愛に発展させるような男女関係を築きたい欲望に駆られてしまう。

二種類の恋愛を同時進行させることは是か非か。
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思想の変遷

僕の生活の中心は読書である。おそらく今後の人生の中心も読書になるに違いない。

なぜ読書するかといえば、思想を磨きたいからでもあるし、感動を味わいたいからでもあるし、励まされたいからでもある。細かく見ていけばもっとさまざまな動機がある。

だから読書の仕方にもこだわりがある。

その時々によってスタイルやジャンル、系統は異なるから総括することはできないけれど、最近ではエッセイ、哲学、小説の3つのジャンルを脳の疲労度や気持ちの持ちようによって選んで読んでいる。

上でエッセイと書いたけれど、なんとなく軽くて読みやすいという印象があるから、そうではないということで、作者の話し言葉に近い、人物などによる間接的な言葉ではない実の言葉を味わいたいから読んでいる。

自分自身もこうして自分の言葉を形にして並べてみることで思想がまとまりを持ったり、個性を持ちえるのではないかと考えてこの随想録に近いようなものを書いている。

自然、ここにはそのときに読んでいた書物の影響を受けた思想が展開されるはずなので自分にとっても有益な資料となるのではないかと期待している。

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「死」を考える

私たちは普段「死」を身近なものとして感じることなく生活している。

しかしながら、私たちにとって「死」は避けるべからざる人生の終着であるから「死」を考えることなしに生きているのは都合が悪いし、「死」を考えることで「生」の形も変わってくるはずだ。

そこで「死」を考えてみると、すぐに宗教と結びつけてしまって日本人の特色であろうか、これ以上考えることをやめてしまいがちである。

しかしここでいう「死」を考えるとは宗教を持ち出すほど複雑でもなければ深く考察すべきことでもない。

単に、現実的になり過ぎないとか実利的になり過ぎないとかそういった意味として捉えればいい。

つまりあの世に持っていけないものに価値を置きすぎたり、固執するのではなくて、どうかはわからないが魂なり霊の永続性などを信じるのであれば思想であったり、死後も続くような生きた証みたいなもの―思想や作品や人材になるだろうか―を残す努力をするべきだ。
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生きるための条件

太宰治の『斜陽』第九章は僕にとって大きな意味を持った。

小説に限らず、何か書物を読むということは少なからずそこに自分の思想を見出そうとすることである。

「僕は、僕という草は、この世の空気と陽の中に、生きにくいんです。生きて行くのに、どこか一つ欠けているんです。足りないんです。いままで、生きて来たのも、これでも、精一ぱいだったのです。―――。」

最近僕が見ていなかったというか、意識していなかった自分の性質の影の部分を照らされたようだった。

あぁそうだ。僕はこういう人間だった。みんなと同じように楽しく遊びたいと思って、酒を飲みにいったり、夜街へ出かけていっても、いつもちっとも楽しくなかった。

そうして、もっぱら遊びには行かなくなった。友達とも会うことはあっても心は離れてしまった。

僕は快楽に対する不感症であったに違いないけれど、実生活ではあまり気にならなかった。

これは僕にとっては欠けているものではなかった。そういった内面的な欠落ではなく外面的な欠落が僕を苦しめた。

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過ぎゆく青春

今、青春が僕の青春が過ぎ去ろうとしている。

始まりはいつだったかわからない。知らぬ間に僕は青春のただ中にいた。

人生とは、社会とは、愛とは、仕事とは、友情とは・・・?

悩まない日はなかった。

自分自身を自分の内へ内へと目を向けた。また広く世界を社会を眺めようとした。

僕はほんのちょっと足を止めるつもりだったのに、もうすでに多くの時間が過ぎていった。


青春とは悩む日々の中にあるものなのだ。


悩みや疑問がそっくり解決したわけではないけど、以前ほどに煩悶することはなくなった。

諦めかもしれないし、真理の一端でもみつけることができたからかもしれない。

いずれにしても、疾風怒濤と形容される青春が過ぎゆくのをはっきりと感じる。

愛すべきわが青春よ。振り返ることでしかもう味わえないわが青春よ。





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プロフィール

hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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