スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

学習方法について

受験シーズンが近づいてきて、生徒を指導する機会が多くなってきている。

勉強を教えることは思いのほか難しい。

わかっている状態で物事を捉えることとわかっていない状態で物事を見ることとは全く違うのだ。

第一に、勉強を教えるとは、テストの点数を取れるようにしてあげることだ。

解答を理解するためではない。

教える側はこのことに関して勘違いをしがいがちだと思う。

いかにして問題の核心を捉え、気づき、正解を導くのか。

そのための方法論はなにか。

学校を考えてみると、スポーツのできる子は勉強は苦手で、勉強ができる子はスポーツが苦手ということがおこりがちであるがそれはわけのないことだろうか?

これにはちゃんとした理由があると僕は考えている。

すなわち脳のはたらきの違いである。

スポーツができる子は感覚を認識する能力に長け、勉強ができる子は視覚的、あるいは幾何学的イメージを認識する能力に長けているのだ。

スポーツにおいて急にボールを渡されて、「肘をあげて、手首のスナップをきかせて投げれば、いい球が投げられる」といわれたとして、速い球がだれにでも投げられるだろうか?

いや、投げられない。なぜならそれまでに投げるという動作を反復していないため、筋力についても、脳内イメージにしてもそのための準備ができていないからだ。

技術的な指導を請うためには、基礎的な能力は必須で、そのための自主練習は欠かすことができない。

そんなことはスポーツにおいてはだれでも理解できるのに、勉強となるとそうではない。

家庭教師をつければ成績が上がる、塾に行けばテストの点を上げてくれると思っている親が多い。

そういった方法論はある程度土壌ができている上に作ることができるものであって、なにもなしに急に教えを授けられたところで手に余ってしまう。

勉強が苦手な人は黙々と素振りをするように、黙々とどんな問題集でもいいから解いてみるがいい。

どんな解きかたをしようが関係ない。

受験期を迎え、学習について考える中高生は小手先に走りがちだ。親も含め。

スポーツは幼いころからやっていたりして、そんな誤りはおかさないのだが、なぜか勉強となると安易に考える。

勉強はそれほど甘くはない。

勉強に王道なしという言葉があったが、そのとおりだ。

勉強に真面目に取り組み、強い精神力を持っていなければならない。

それがあれば、勉強が学習になる。

学習は人生に生かすことができる、万人に必要なものだ。

脳はどんなふうにでも変化させることができる。

そのためには習慣である。がむしゃらに想像力を働かせず、信じて突き進むしかない。
スポンサーサイト

子どもは4歳の時に本をたくさん読むと頭が良くなる

Yahooトップにこんな記事があった。

『お父さんお母さん必見! 子どもは4歳の時に本をたくさん読むと頭が良くなるらしい』

『ネタりか』http://netallica.yahoo.co.jp/というサイトで紹介されている記事なんだが、僕もときどきこのネタりかを読む。

そのときの旬な情報を提供してくれるのでなかなかおもしろく、興味ももてる内容だ。

今回は子育てに関することだったので、教育に関心のある僕にとっては有益な情報だった。

『4歳の子どもに10冊の本を与えると、言語脳といわれる左脳の成長が促される。また、4歳のときに知育玩具を与えたり、動物園や遊園地などへ連れて行ったりすることも左脳の発達を促進する』そうだ。

教育ではその時期に合った的確な指導をするということが重要だ。

しかし、『何歳のときに何をやらせればいいのか』ということに対しては科学的根拠を持った理論もなく、結果論でしかないので難しい。

そういうわけなので、今回、『四歳のときの環境が脳の発達に影響を及ぼす』ことが分かり、それに対して1つの答えを与えたのだ。

胎教ではないが、四歳のときにクラシック音楽や芸術に積極的に触れさせたり、自然のなかでからだをたくさん動かしたりすれば、将来そうした体験からそういうものに才能を発揮することにつながるだろう。

もちろん、いつでも脳に刺激を与え、思考力や感性を磨くことは可能であるし、積極的に脳を鍛え、思考や感性、想像力に至るまで高い次元で活動できるように日々努力することは必要だろう。

私たちの脳はとても優れている。そう信じている。

読書をし、自然に触れ、伝統や遺産を実感することは脳によいだろう。

学問の本質 (デカルトに学ぶ)

ぼくは子どもの頃から学校教育のための学問で養われたきた。

小、中学校の義務教育、大学入学のための高校教育、大学を卒業するための大学の講義。

そして、それによって人生は豊かになり、幸福になると説き聞かされていたので、これらを夢中でこなしていった。

だれもそうは教えてくれなかったが、あるときそれによって人生に有益なすべてのことについて明晰で確実な知識を獲得できるんだと信じるようになった。

デカルトはこれらを習得すべくこのうえない強い願望をもっていた。

しかし学業の全過程を終えると、多くの疑いと誤りに悩まされている自分に気がつき、勉学に努めながらもますます自分の無知を知らされたという以外、何も得ることがなかったように思った。

彼は、学校で勉強する教科を尊重しなかったわけではなかった。

どんな学問にもしっかりと修めればそれぞれ有益な要素を含んでいることを知っていたのだ。

彼は言う、「どんなに迷信めいたもの、どんなに怪しげなものまでも、ことごとく調べあげたことは、その正しい価値を知り、欺かれないよう気をつけるためによいことである」と。

それでも彼は主に教育と呼ばれる古い書物を読むという学問にあまりに時間を費やすと、しまいには自分の国で異邦人になってしまう。つまり現世紀に行われていることについてひどく無知なままになってしまうと考えた。

彼は何よりも数学が好きだった。それは論拠の確実性と明証性のゆえである。

しかしその本当の用途に気づいていなかった。

そして神学に敬意を抱きいていたが、天国へ導く啓示された真理は自分たちの理解力を越えていることを知っていた。

哲学は、幾世紀も昔から、最も優れた精神の持ち主たちが培ってきたのだが、疑わしくないものは一つもない。だから、自分がそれで他の人よりも成功を収めるだけの自負心はもてなかった。

そのほかの諸学問については、その原理を哲学から借りているかぎり、確固たるものを得るのはできないと判断した。

そういうわけで、彼は文字による、書物による学問を放棄した。

そして自分自身のうち、あるいは世界という大きな書物のうちにみつかる学問を探求しようと決心したのだ。

そのために青春の残りに旅をし、さまざまな人と交わり、さまざまな経験を積み、運命が与える機会を捉えて自分に試練を課し、目の前に現れる事柄について反省を加え、そこから何らかの利点をひきだすということをした。

その後、自分自身のうちでも研究し、とるべき道を選ぶために自分の精神の全力を傾けようと決心した。

ノーベル賞 山中教授

日本人として誇らしいニュースだ。

img_373448_37193918_0.jpg

京都大学、山中伸弥教授がノーベル医学・生理学賞を受賞した。

iPS細胞の開発による受賞だ。

記者会見を見ていて、僕は山中教授の話し方や視線、表情に惹かれるものを感じた。



それは秘めた情熱や、ひたむきさ、真の強さ、やさしさ、そういったんものが含まれているからではないかと思う。

やはり偉大な人は物腰や表情、挙動が違う。

僕はすぐに山中教授に対する畏敬の念に捉えられた。すばらしい。

医学研究をしている人たちは本当にすごいと思う。

社会貢献のためのなにものでもない。もちろん、医学の発展が必ずしも貢献になる保証はないが、研究者たちはよりよいものをつくりだそうとしている。

僕は研究職はやりたくないと思った。

大学教授に対して、なにか反抗的な感情を持っている。これはどうしてだろう?

やはり大学選びだったのか?もちろん僕自身の状態からそうせざるを得なかったのだからそれ以外の道はなかったのだろうけど。

僕は自己中心的な人間なのだ。

結局自分が第一に楽しくなければならないと思っているのだ!

だから研究なんてできないし、まともに一般の強制労働のようなサラリーマンとして働くこともできないのだろう・・・それは自由ではないと思うから。
プロフィール

hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

無料メールマガジン
メルマガ購読・解除
 
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

twitter
月別アーカイブ
最新トラックバック
最新記事
最新コメント
リンク
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
QRコード
QR
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。