芸術の偉大さを身をもって感じられる  印象派を超えて―点描の画家たち 


「印象派を超えて―点描の画家たち ゴッホ、スーラからモンドリアンまで」と題されたクレラー=ミュラー美術館のコレクションを中心とした企画展が東京、広島に続き、開催地最後となる名古屋で始まっている。印象派という言葉にめっぽう弱く、ゴッホを愛してやまない僕としては当然強く興味を引かれるものだったので今日、電車ではるばる出向いた。

インターネット上に画面印刷により有効となる割引券(100円引き)と点描にちなんで水玉模様のものを身につけての来場で100円割引というサービスがあって―おそらくどちらかひとつのみ有効だが、特に後者の方はおもしろみがあっていい。僕は偶然、お気に入りのドット柄のフレッドペリーのジャージ上衣を着ており、予期せぬ割引に喜びもひとしおだった。

入場とともに飛び込んできた、こちらのフィンセント・ファン・ゴッホの作品、「レストランの内部」はゴッホらしい質感のある筆致の客席のしつらえと分割主義的傾向を示す空間を限る壁面の点描が独創的な世界をつくりだし、またそれらがメリハリとなっておもしろさを付与していて、優れた作品であった。

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印象についての上記に分割主義の語を用いたが、僕自身、館内の解説にて初めて知った概念だ。おそらく新印象派と同等に考えていいように思うが、印象派にその萌芽を見いだせる、絵具をキャンバスに塗るのではなく、リズミカルに叩くというような描法によって画面が細かく分割されているところからこういわれる。印象派はこのような描法によるある意味の曖昧さによって移り変わる自然の風景、光の動きをとらえることに成功した。続く新印象派は光や自然をとらえることよりも色と色彩効果を追求し、色彩的な美しさを表現しようとした。ただし、分割主義は印象派、新印象派だけでなく、抽象画の一部をもその定義の内に持つ。この抽象画の一部を担うのが、この企画展でも強調されているモンドリアンである。

企画展に戻って、印象派を超えてとあるように、内容は印象派からゴッホなどのポスト印象派、スーラなどの新印象派、そして最後にその帰結としてモンドリアンで締めくくられる。簡単に総括してしまえば解説も充実しており、絵画の予備知識が乏しくても芸術の辿った流れがわかりやすくなっていて、十分楽しめるものとなっていたのはすばらしかった。

分割主義の根幹ともいえる点描といえばジョルジュ・スーラというのが定番なのかもしれないが、僕が引き込まれた作品は、写真ではその魅力は十分に伝わらないが、ヤン・トーロップの作品、「海」。パステルカラーの細かな点描は分割主義の補色などの理論的効果ではなく、鑑賞者の感情に影響するようにとの狙いがあるそうで、なるほど僕自身もそのやわらかでやさしい色調と描かれる次々にとどまることのない穏やかな波に一時の平安を感じることができた。

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そうだ、分割主義の始まりは印象派であったから、その作品についても少し紹介したい。印象派の有名どころは日本でも人気のあるクロード・モネやピエール=オーギュスト・ルノワールだが、僕は彼らに加えてカミーユ・ピサロが好きだが、今回の企画展にも気に入る作品が展示されていた。

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なんでもない農村の風景であるが、絵画にしかできない美しさと感じのみを抽出し、現実のものよりも一層美を表出できるという強みを最大限発揮していてあたかもその場にいて、その風景を見ているようなそんな錯覚に陥ってしまう。ピサロはこの風景を見て、風を感じていたのかな。なんて思うと感動的ですらあった。

他にもテオ・ファン・レイセルベルヘの「満潮のペール=キリディ」は分割主義の真骨頂ともいうべき補色を用いた陰影が巧みに取り入れられ、ゴッホの「太陽と雲のある囲われた麦畑」という素描は短い直線を整列や変形させて風景を描写し、光をその濃淡で描くというとても高度な技術が駆使されていてひときわ異彩を放っていた。

最後のピート・モンドリアンのいくつかの作品は抽象画に移っていく変遷を示す意味では有意義であったが、作品自体としては傑作と呼ばれるようなものではなかったように思う。過渡的な状態であることが否定できない仕上がりといった感じだったのだ。

それにしても、かなりのボリュームがあって一通りするだけでも結構くたびれてしまうほどだった。しかし大いに結構なことではあるまいか、芸術の偉大さを身をもって感じられるのだから。

『プーシキン美術館展』 ルノワール作≪ジャンヌ・サマリーの肖像≫ 作品自体よりもその作品の与える印象が美しさをもつ稀有な作品


愛知県美術館で開催されている『プーシキン美術館展』へ行ってきたので、少し作品について思ったことを書いていきたい。

まず、全体を通しての意匠を凝らした演出というようなものはなく、あっさりとしたものだったが、珠玉の66点ということでその作品の存在感のみで成り立つと考えればあえての工夫や演出は必要ないといえるのかもしれない。

立地としても愛知県美術館は駅と隣接しているとはいえ、地上10階ということもありややアクセスに難があり、またそれゆえに展示される空間は画一的で単調さは否めない。

他県の美術館に詳しくないが、おそらくこれに勝る美術館は多くあるだろう。

一番の目玉で、ポスターに採用された『ピエール=オーギュスト・ルノワール』≪ジャンヌ・サマリーの肖像≫ 1877年はこちら。

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照度がやや強かった印象を受けたのは僕だけだろうか、立体感を表現するために顔や胸元、背景に重ねられた青色の筆致―特に顔の筆致が強調され、やや美しさを損ねてしまっていた。

いや、いかなる照明であったにしても、やはりこの青色の加筆はかなり高度なことを求め、結果完成を見なかったように思う。

この絵は「ルノワールの印象主義的肖像画の中でもっとも美しい」と評されたようだが、たしかに美しさはある。

背景のピンクは斬新とさえみえ、象徴主義に通ずるものがあるし、その色調が愛らしい表情とその血色豊かな肌と共鳴し、見るものをとりこにする。

瞳とそれを縁取るまぶたの輪郭は優しさに満ち、引き込まれそうになった。

表情は好きだが、顔の系統としては僕のあまり好むところでなかったのも、僕が絶賛しきれなかった理由のひとつであろう。

考えてみると、ルノワールは肖像画をあまり書かなかったのではないか?

少なくとも、僕には彼の優れた肖像画というものの印象がほとんどない。

彼の描く平和的な風景や、生活の断片を描いた作品は美しく、すばらしいものが多い。

だからこそ、肘をつき、掌にやや上向きにあごを乗せ見つめる姿を書きえたのかもしれない。

このポーズはとても魅力的だ。

僕は二度と彼女の表情とそのたたずまいを忘れることができぬだろう。

作品自体の美しさよりも、その作品が見る者へ残す印象の方がより一層美しいという稀有な作品である。

豊田市美術館 漆という力 光の輝き、瞬間を捉える


前日にKから豊田市美術館へ行こうという誘いがあった。

漆の展示があるから見に行きたいというのだ。

迎えに来るという時間の9時半になっても彼は迎えにやってこなかった。

10時半になった。

連絡すら来ないところからみると寝ているようだ。

僕は相手が1時間くらい遅刻しようとあまり意に介さない。

次の予定や開館時間などが決まっている場合は困るのだが、それ以外は読書をしたり、なにかをして時間をつぶすのは得意なので、そのあたり寛大である。

寝ているだろうから起してやろうと電話をKにすると

「悪い、今起きたわ」

という返事が返ってきた。

予定よりやや遅れて美術館へ出かけることとなった。

今回の企画展を始めとする展覧会は効果的な配置がなされていて、来場者にはとても心地よい空間がつくられていた。

企画展は「黒田辰秋・田中信行|漆という力」というものであったが、漆塗りや漆器などには今まで興味のなかった僕には縁のない代物で、そうした美術展には到底足を運ぶきっかけさえもたなかった。

しかし、この度ありがたいKの誘いがあって、普段自分の触れないようなジャンルに触れることができて本当によかった。

どんなものにも一定の価値はある、それを見出すか見出しえないか、それを知るきっかけをもつか、もたないかによって自分の価値観も変化していく。

kuroda-tanaka_pic02.jpg(HPより)

漆といえば朱色と黒色の器などをイメージするが、今回の美術展でその理由が明白になった。

漆の特徴はなによりその独特の光沢の美しさである。

その美しさを際立たせるのがこの朱と黒という色なのだ。

上から順番に見て行きたいと思う。

美術作品において幾何学模様というのはところどころに用いられ、その本来の形状美に作家は魅せられ、作品に取り込むのであろう。

しかし、この捻紋は独創的でありながら、幾何学的な均整を保っており、その存在感は圧倒的なものがあった。


この世界において黒、すなわち影を直接操ることは不可能であるのだが、この黒漆を用いることでその擬態に成功している。

こうした不定形な影を目の当たりにすることは脳にとって新たな刺激となった。


現代は欧米化が進んだ結果、日常に欧米的なものがあふれるようになった。

机や椅子、その生活様式自体が欧米化し、このような家具、家財は見られることすら少なくなった。

朝鮮風な透かし彫りと軽みのある円卓は現在の生活様式には似つかわしくないが、違う観点で見ればこの上ない造形美といえそうである。


本体は幾何学的な型をしていながら、その直線はやわらかみをもっていて風情がある。

バランスよく装飾された螺鈿が目を引き、漆の朱がトーンを落とすことでよりいっそう全体的な華やかさを際立たせている。


現在の椅子の主流はシンプルかつ軽妙なので、こうした重厚感と存在感は違和感を覚える。

限定的でありながら迫力のある彫りは椅子を一等の芸術作品にまで押し上げている。


芸術作品を制作する上で一つの様式があるとするならば、それは動を静として捉えることであると思う。

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この葛飾北斎の『富嶽三十六景』に見られるとおり、捉えることが不可能な動体の一瞬をその力量と洞察眼で表現しつくすということである。

この作品からもそうした動性が予感されるし、黒色が生み出す陰影が視覚を刺戟する。


一見無形な器であるように見えるが、光を巧妙に映し出すように形作られている。

この同種の作品が暗く照明を調整された一室に展示され、その漆器がもつ本来の光沢や輝きを効果的に見せる工夫がなされていた。

幻想的であり、また静謐に包まれるような感覚を味わえる空間がつくられていて、見ていてまったく飽きがこなかった。

すばらしい展示だと追った。


漆の持つ光沢は、そのまま水のもつ光沢といっていいのかもしれない。

そんなことに気づかせてくれる作品であった。

水の流れはとどまることがなく、それを目で捉える僕たちもまたその静止した水の流れというものを知らない。

にもかかわらず、この作品から見出しうるものはその動きをもった水の流れである。

詩人にしろ画家にしろ、作家にしろ彼らの役割はこうした、常人ではつかみ得ない瞬間や事物を的確に捉え、僕たちにそれを見せることである。

新年の風物詩 『ラデツキー行進曲』 ニューイヤーコンサートより

『ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団』のニューイヤーコンサートは新年の風物詩の1つである。

毎年さまざまな趣向でプログラムが組まれ、今年は初演奏が大部分を占めていたので、クラシックファンでもなじみのない曲があったのではないだろうか。

それでも、一流の演奏というものは人の心をひきつける。

音楽は普通なじみがなければどこかよそよそしく響くものなのに。

シュトラウス一家を中心にその時代の作曲家の楽曲が演奏されるため、音楽通好みといえるのかもしれない。

僕はそれほど音楽に通じているわけではないからプログラムすべてを味わうことには遠く及ばないが、それでも、放送中に演奏と共に映し出されつオーストリアの風景やバレエなども楽しむことができたし、単純に音色にも聞き入った。

では、平凡な一音楽ファンである僕がなぜこんな敷居の高い演奏を年明け恒例行事として楽しみにしているかというと、アンコール最終曲としてもはや慣例となっている『ラデツキー行進曲(ヨハン・シュトラウス1世)』が好きだからだ。

観客とオーケストラが一体になり音楽を作り上げる。

指揮者が観客を指揮するなんてこのとき以外にそうそう見られるものではない。

新年の喜びと期待が手拍子に乗って世界中を巡る。そんな光景をみると僕は幸福感に満たされる。



今年の指揮者は2年ぶりのウィーン国立歌劇場の音楽総監督フランツ・ヴェルザー=メスト氏で和気を含んだ演奏でとてもよいものだった。

いい一年になりそうである。

夢と自由を教えてくれた

偶然にも名古屋栄松坂屋で「シャガール展」と「尾崎豊展」が催されていたので一度に両方楽しむことができた。

「シャガール展」は前の記事に書いたので、この記事は「尾崎豊展」について。

この「尾崎豊 特別展」は上手に楽しむのがとても難しかったと思う。

入場料1500円なので、それだけの収穫を得て帰ろうと思うならば、会場にしばらく入り浸っていなければならないだろう。

というのも、はじめのブースは尾崎豊roomとなっていて、ピアノやギター、詩の原稿やLPのジャケットなどが展示されていて、次に近日公開する尾崎豊の映画に際しての映像が流れ、出口の近くでライブの貴重な映像や、音源、話し合い時の録音などがタッチパネルで楽しめるようになっていた。

この最後のものはコンテンツが結構充実していたので、すべて見てしまったならば十分に元をとれたかもしれないが、ちょっとマニアックな内容だったような気がする。

尾崎は若かったし、もがいていた。自分を見つめ、自分を知ろうとし、自分を、社会を冷静に眺めた。

ノートに残された彼の言葉は陳腐なものも多かった。

だけど、歌に乗せれば、それは気持ちのいい、歯切れのいいメロディとメッセージになった。

やっぱり尾崎豊は歌手なのだ。それも偉大な歌手。

僕はこの展覧会で人間、尾崎豊が好きなのではなかったことに気がついた。

あくまで彼の音楽、歌っている姿が好きだったのだ。

尾崎豊はときにかっこよく、時に弱さを持った、頼りない男に見えた。

僕は尾崎豊を過ぎてしまったのだろうか。きっと過ぎつつあるのだろう、つまらない、夢のない社会の歯車の一端になっていくのだろうか。

尾崎豊、あなたは夢や自由ということを教えてくれた。

プロフィール

hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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