一年を通して「レ・ミゼラブル」が傍らに


「人間というものは実に愚かなものです。私はもう彼女に会えないと思っていました。考えてもごらんなさい、ポンメルシーさん、ちょうどあなたがはいってこられる時、私はこう自分で言っていました。万事終わった、そこに彼女の小さな長衣がある、私はみじめな男だ、もうコゼットにも会えないのだ、と私はそんなことを、あなたが階段を上ってこられる時言っていました。実に私はばかではありませんか。それほど人間はばかなものです。しかしそれは神を頭に置いていないからです。神はこう言われます。お前は人から見捨てられるだろうと思うのか、ばかな、いや決して、そんなことになるものではないと。ところで、天使をひとり必要とするあわれな老人がいるとします。すると天使がやってきます。コゼットにまた会います。かわいいコゼットにまた会います。ああ、私は実に不幸でした。」


「真実はすべてでなければいけません。あなたはすべてを申されなかった。あなたはマドレーヌ氏であったのに、なぜそれを言われませんでした。あなたはジャヴェルを救ったのに、なぜそれを言われませんでした。私はあなたに命の恩になってるのに、なぜそれを言われませんでした。」

「なぜといって、私もあなたと同じように考えたからです。あなたの考えはもっともだと思いました。私は去らなければいけなかったのです。もしあの下水道のことを知られたら、私をそばに引き止められたに違いありません。それで私は黙っていなければなりませんでした。もしそれを私が話したら、まったく困ることになったでしょう。」

「何が困るのです、だれが困るのです!」とマリユスは言った。   『レ・ミゼラブル』(ジャン・ヴァルジャン死の場面)より


フランス文学の金字塔といえる『レ・ミゼラブル』であるが、振り返ってみると去年は僕にとって『レ・ミゼラブル』な一年であった。

去年の初めにミュージカルを元に映画化された同名作品を鑑賞し、想像以上の感激を覚えたので原作を読み返してみようという気持が起こり、ゆっくりと時には中断もしながらであったがようやく読了するに至った。同じ趣味を持つ仲間とその映画の趣意や内容について意見を交わし、晩夏には学生時代の仲間とミュージカルの同作品を観覧しに足を運んだ。

その仲間は学生時代いつも共に過ごしたSとTだったが、Sはことさら「レ・ミゼラブル」に熱狂したらしく、ミュージカルの段取りをしてくれたのも彼であった。アンジョーラに強く魅了され、最後のシーンではえもいわれぬ感動を覚えたと言っていた。Tの方は忙しさもあって、原作と映画ともに触れる機会を持たなかったが、ミュージカルが心に響いたとみえて、幾日も朝、一日がんばらなければいけないと自分を鼓舞するに「戦う者の歌が聴こえるか 鼓動があのドラムと響き合えば」と民衆の歌を口ずさんだらしい。

やはりこの僕も、何に戦っているのかと聞かれ正確に答えることはできないのかもしれないが、しかし日々奮闘していることは確かなように思え、アンジョーラに背中を押されるような気持ちになった。ジャン・ヴァルジャンは最後に上記のような言葉を残して世を去った。彼は常に自分の幸せや利得を優先することはなかった。考えにあったのは他者であった。

「人から見捨てられるようなことは決してない。」どれほど心強く、輝ける言葉だろうか。人に顧みられないことほど悲しくあわれなことはない。孤独を欲するなど考えることさえ恐ろしい。神を頭に置き、義しき心をもつこと。そうしてこそ、人は見捨てられず、孤独のうちに過ごさないという幸せを得るのかもしれない。

義務は人を地獄へつき入れるが、そこで人はそばに神を感じる 『レ・ミゼラブル』より


「人は幸福でありたいと欲するならば、決して義務ということを了解してはいけません。なぜなら、一度義務を了解すると、義務はもう一歩も曲げないからです。あたかも了解したために罰を受けるがようにも見えます。しかし実はそうではありません。かえって報われるものです。なぜなら、義務は人を地獄の中につき入れますが、そこで人は自分のそばに神を感ずるからです。人は自分の内臓(はらわた)を引き裂くと、自分自身に対して心を安んじ得るものです。」


「昔私は生きるために、一斤のパンを盗みました。そして今日私は、生きるために一つの名前を盗みたくはありません。」   『レ・ミゼラブル ヴィクトル・ユゴー著』


『レ・ミゼラブル』から読者は多くのことを見出すだろう。僕はこの作品に作者の人生そのものを見る。この言葉は誤解を生みそうであるが、僕が言いたいのは実体験であるとか、彼あるいは誰か特定の人物がモデルとなっているということではない。作者が自分自身から真摯に引き出そうとして、真に多くの魂のこもった言葉として得られたものが書かれているということだ。

読者の年齢や環境、思想傾向によってさまざまな捉えかたが可能であり、発見と感得がその都度ことなるという読書体験ができるであろう。歴史、戦争、革命、社会、政治、恋愛、親子、家族、罪悪、信仰、善悪、青年、老年、人生……

列挙したこれらの言葉はほとんどが意味を持たない。それがいかに描かれているか―、それは筆舌に絶するほどに巧みで濃密に描かれている。

しかしながら、やはり僕を魅了するのは、葛藤であり、運命への抵抗、苦悶と苦悩である。それは僕自身を反映しているがように思われ、励まし勇気付けてくれる。人間は己と同じ境遇に立つ者には親しみ、多くの活力をもらう。その事実が、たとえフィクションといえども、その想定しうる状態であるが故に、奮い立たせられるのである。

上に取り上げた箇所の前者は逆説的で殊勝な表現で、傑出した場面ではなかろうかと僕は思った。そして誰もが経験したことのある、人間的な矛盾である。

義務、それは「人間の義務」、「良心に従うという義務」、これを了解すること、義しき人間であろうと決意すること。これがどれほど苦しく、険しく、難しい道であるかということは、その道に身を置いて歩かなければわからない。だからこそ、ユゴーはそれを小説として表現し、見せてくれたのだろう。美しいとはどういうことなのか、優しさでもって傷つく、正直なることが馬鹿をみる。光とはすなわち影を持つことである。美しくあるためには、醜いものに立ち向かい、それを廃さなければならない!

罪のない人はいない―、これはもはや使い古され、ありふれた概念で、誰もが認めるところとなった、市民権を得た言葉であろうから、それを敢えて論ずるつもりはないが、ああ許されぬ、償えぬかつての多くの過ち…それは往々にして運命により与えられるものではないだろうか。まるで一生懸命にプレーしてエラーする野球少年のように僕たちは未熟なのだ。

「義しいことをしよう」それこそが最後の救いとなる日がきっとくる。

打ち明けることが義しい場合があれば、隠し通すことこそが義しい場合もまたあるのだろうか。ひた隠しにすること、それが周りの人々を傷つけず、穏便に人生を送るために必要であるならば、そうすべきなのか。それとも、それを敢えて打ち明けることを「レ・ミゼラブル」は暗に示しているのだろうか。彼はコゼットのため、ジャン・ヴァルジャンであることを隠していたではないか…。

僕は物語のフィナーレを前に自らに問い、考えてみた。そして今、感激と混迷がいりまじっている。それは僕にどのような効果を与えるであろうか!

『ベートーヴェンの生涯』 ロマン・ロラン著 弱く不幸なる者に与えられる光


僕は元来、人物を愛している。社会における歴史や地理、政治は好きではなかったけれど、そこに君臨した主要な大人物は好きであった。

フランス革命がどうであったか、ということについて僕は詳しく知ろうとは思わない。しかし、ヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』からその情景のいくつかは得ることができた。

関ヶ原の戦いがどのような様相であったか、恥ずかしながら僕は知らない。だが、徳川家康の遺訓に表されたる偉大な思想は僕の心を捉える。

僕はそれらの細かな歴史的事実にも目をむけ、識見を鍛えていかなければならないだろう。けれども今は、自分自身の精神を向上させるが第一である。

このように社会についてのみならず、芸術に関してもたとえば絵画の知識、音楽の知識、文学の知識、これらのいわゆる専門知識に僕は疎い。ベートーヴェンの偉大なる事を知ることと、音楽を知ることは必ずしも同意でないと僕は信ずる。

僕が一番最初に彼に惹かれたのは「ピアノソナタ 『悲愴』 第二楽章」であった。単調な聴きやすい一貫したリズム、巧みな転調によって一気に世界観に引き込まれ、希望と輝きへのフィナーレというイメージは誤りなのかもしれないが、止まない雨はない、暗く、湿ったトンネルもやがては抜けられる。そんなメッセージを僕は受け取った。

彼は優しさと情熱を併せ持った、真に強い人物であったと僕は思った。

彼の音楽を好み、彼の言葉を理解するには彼が敢えて言う、「不幸にある者」でなければ不可能なのではなかろうか。

徐々に失いゆく、かつて完全と絶対の内に有していた音楽家として運命付けられた能力という苦悩に生き、やがて音を感知せず、音を紡ぐという創造主にも似たる業をなした。

運命に無力なることを自覚する不幸は誰しもが味わいうることではあるが、その個人差は大きく、彼の言葉と音楽が心に響くほど深刻なる絶望に陥ったものはいくらもいるものではない。

僕はかつて、自分を不幸と思い、絶望に陥った。壁は高く、果てしなかった。だがそれは視界が狭く、人間が小さいから感じるに過ぎない。

人を愛することや人生を実りあるものにすること。世の中に役立とうと情熱と愛を持つこと。それらは不幸の内にあろうとも、絶望に打ちひしがれていようとも成しえぬ事柄ではない。

むしろ、不幸の内にあって事もてる愛と勇気があるということを忘れてはいけないだろう。

「ベートーヴェンの生涯」にはこれらのメッセージが詰まっている。

『黒猫・モルグ街の殺人事件 他五篇』 エドガー・アラン・ポオ著(岩波文庫) 数学的小説


ポオの短編小説を七篇収録した岩波文庫の上記作品はそのどれもが完成度の高い優れたものであり、読者の読み終わったときの充足感と作品のすばらしさへの驚嘆は請け合いである。

表題作の「黒猫」や「モルグ街の殺人事件」は文学上における独自性やその構成の特異性によって有名な作品であるが、そのほかの作品も一貫して精緻に文字を連ねた文学性の高いものになっている。

これら作品は作品の方向性というものがはっきりしている。

つまり始まりがしっかりと形作られ、読み進める方向へとある種の速度をもって物語が展開されていく。

作品には大きなテーマの存在がうかがえ、ゆるぎない結末が用意されている。

そのテーマというのが精神世界における数学性あるいは、人間のもつ反社会性―それは大方の人間は知らぬうちに自我によって押さえ込んでしまっていることが多い―であり、それを証明、あるいは具体化、表現するために物語を拵えているという印象を受けた。

読んでいる最中はパズルのピースを1つずつはめていくのに必死であるばかりか、それが内面世界やその数学性にも言及しているため、たどるのさえ難しい箇所があるが、結末がつき、振り返ってみると綺麗なあらすじが脳内にはっきりと残されていることに気がつく。

これは作者のいかに世界観を巧みに描き出しているのか、その技術の高さを示している。

会話や新聞の報道、作者の考えや描写がバランスよく配せられ、読んでいて心地よさを感じるほどであった。

話の筋だけを読んでしまえば、「なんだ、大したことは起こってないし、主人公はそれでどうなんだ?」というはっきりとした結びのないために不満足を感じてしまうかもしれないが、何を描こうとし、どのように描いたのかに注目すればその類まれな構成に魅了されてしまうだろう。

夏目漱石『彼岸過迄』 登場人物の厚みが足らない 余裕と血みどろの間


僕は少なからずこうして至って真面目に自分の思いや出来事を綴っている。

そうであるから、できることならば文才と多彩な言い回し、表現を駆使しながらできるだけ思いをそのまま損なうことなく表すことができたらとおもう。

そうした思いから、小説を読むときにはその話の筋やテーマのみならず、どのように書かれているか、そのひとつひとつの表現、言葉にも注意して教科書を読むように読む。

そうした日本語表現を学ぶ上で適した教科書となりうるのは夏目漱石の作品であると僕は考えているし、感じている。

森鴎外や三島由紀夫も同様に優れていると思うが、好みの関係で僕は漱石を一番に置く。

文学史では漱石には大きく分けて、前期三部作、後期三部作という二つが存在する。

僕は久しい以前に『三四郎』『それから』『門』の前期三部作をその流れを汲んだ上で読んだ。

そして後期三部作の最後とされる『こころ』は高校の授業で読んだほか、それ以後も3度ほど読み返したとぼんやり記憶している。

僕にとってこの作品はかなり大きな意味を持っていて、もっとも好きなものの1つである。

にもかかわらず、僕はこの後期三部作というものに対して毫も関心を抱いていなかったように思う。

それは、この『こころ』が独立した圧倒的存在感を僕の中で有していて、それに対して外の要素との連関を持つことを必要としなかったからだ。

しかし、先ほどいった教科書的意味で文章を欲したときその後期三部作に取り組んでみることはあつらえ向きであるという思いに至った。

そうした経緯によって今回『彼岸過迄』を読んだのだ。

僕は読んだ作品のあらすじを書き起こしてみることに興味を持たない。

また、その作品を分析し、論じてみることもまた好むところではない。

それに触れて、僕自身が何を感じ、どのように読んだのか、一体それは僕にとってなんであったのか?というような問題、事柄について書いてみたいのだ。

僕は今までに一般よりかは多く、漱石の作品を味わう体験に浴したと自負している。

そしてその作品中の人物の誰彼に自分の内心の反映や小気味よさを感じて、いつしか漱石を敬愛するようになっていた。

そんな彼が書いた『彼岸過迄』は今までとは少し違った印象と読後感を僕に与えた。

始まりのほうでは敬太郎が主人公のごとく見え、僕の意識は彼へと吸い付き、その姿勢で以て読みすすめることとなった。

またステッキが話の結末において、もしくは物語中で大きな事件の因子であるとの予想を自分の中でたてていた。

しかし、これらはまったく裏切られてしまった。

須永の煮え切らない感じはどうしても僕には理解ができなかった。

しかし、僕の友人のBに非常によく似ていることを発見した。

それは後のことであったのだが。

千代子もまた、卑屈を持たない控えめな女性性の持主であり、これは必ず不幸を生むに違いないとの思いを僕に抱かせた。

またこの作品以上に、漱石のまどろこしさと文章の贅肉を感じたものはない。

あえて穿たなくてもよい内情を穿ってみたり、ことさらにリアリティの構築を行っていたように思う。

登場人物の多さと描いている世界観のわりに人物の厚みが足らないという感じを感じざるを得なかった。

敬太郎が演じている役割を云々することは陳腐であり、またつまらないことであるように思う。

すべてをバランスよく書き上げ、問題を取り上げたがゆえのぼんやりとした読後感。

漱石の余裕と身を抉るかのような真にせまる厳しさのどっちつかずの作品といえよう。



プロフィール

hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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