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読書か執筆か 執筆を優先せよ


こんにちは。
今日もお付き合いください。

私がこんな風に冒頭に加えた言葉にはもちろん意味がある。どういうわけか、近頃アクセスの動向をみていると安定しているし、なんとなくではあるが人の気配を感じるのである。今までただパソコンにむかって文字を打ち込んでいるという感覚が強かったのが―とはいえ、普段から交流させていただいている方々を意識して書くことは多い―、パソコンの向こう側の誰か、存在を感じながら書くようになったのである。考えてみれば、この感覚は非常に現代的ではなかろうか。リアルタイムで文学をつくっていくというのが私の目指すものではあるが、ブログはそれを実現することのツールの一つであると感じている。もっとも、ツールは優れていても使い手が未熟なので効果は乏しいのであるが。

さて、自立した生活を始め、時間の使い方や生活スタイル、趣味趣向に至るまで、自分自身に向き合いながら、「汝自身を知れ」の言葉に報いるため試行錯誤を続けている次第であるが、明らかな問題はやはり時間の不足であった。ここに効率化や省略、取捨などの工夫と思考が生まれてくる。生きていくための行動を除いたとき、私に残るのは読書とブログをはじめとする執筆の二つであった。一日24時間のうちのなんとかして生み出した貴重な時間を読書に使うか、執筆に使うか。読むべき、読みたい本は山積しているし、かといって執筆しないことは後退であるから避けたい。私は自分にこんな決断を下した。

「書くテーマ、書きたい気持ちがあるならば、執筆を優先する」

確かに、読書することに私はなんの抵抗も感じない。昼食代を本の購入に充てたことは幾度とあるし、睡眠時間を削ってでもしたいことは読書である。意識しなくても、私は読書をするであろう。では、執筆は?やる気の波や、調子の波、媒体の変化など、様々でやれるときにやっておかなければ、私はすぐに老いてしまうし、筆不精とならないとも限らない。幸い、たとえば、ブログについていえばこうして継続できているので、この調子を持続することは無益とは思えない。先日改めた、思想観によってテーマが広がり、執筆に今まで以上に積極的になれるのではないかと思う。

お読みいただきありがとうございました。
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現代に描くべき文学

最初に小説をものした人の創意工夫は、われわれの感動装置において大事な要素となるのはイメージだけなのだからと、現実の人間をすっかり抹消してしまう単純化こそが決定的完成になると理解したところにある。現実の人間は、その人にどれほど心底から共感しても、その大部分はわれわれの感覚により知覚されるがゆえに、結局のところわれわれには永久に見透せずわれわれの感受性には取り扱えないお荷物となる。現実の人がある不幸に見舞われた場合、われわれはその人についていだく全概念の一部を動員して同情するのであり、おまけに当の本人が自分自身に同情するのも、本人が自分自身についていだく全概念の一部を動員するからにほかならない。小説家のじつにすばらしい発見は、このような心の入りこめない領域を、同量の非物質的な領域に、つまりわれわれの心が吸収できるものに置き換えることを想いついたところにある。そうなると、この新たに編み出された人物たちの行動や心の動きがわれわれに本物と思えてくるのも、けだし当然である。   『失われた時を求めて』 プルースト作


僕が小説を書く上での三つの困難、性描写、女性像、物語の一般性(事象の単純化)。これらは端的にいえば、僕が自分の体験や経験、モデル、あるいは題材から適切に核心を抽出し、イメージに置換する能力に欠けているがために引き起こされる。この能力こそが才能と言われるものであり、僕には残念ながら小説家としての才能はない。その事実を把握していることで、自分自身を救っている。なぜなら鳴かず飛ばずの小説家になることを未然に防いでいるからである。その自覚が仮になくともブログを綴ることに哲学的、もしくは文学的な自分なりの第一義を見出していることがその感性の欠落を物語っている。それはあくまで小説・詩を文学の最高峰と定めた場合であって、ブログやエッセイなどに定めたとしたならば、才能があるとも言えなくはない。だが、僕はやはり小説・詩を文学のみならず哲学の最高峰と考えるので己に失望感があることを否めない。

かつて性描写はあまり描かれていなかった、その必要性も薄かったのかもしれない。同時に女性像、女性の見方やそのふるまいについても歴史的背景も相まって重要視されなかったのだろう、日本で言えば確実に女性蔑視があって、イメージ先行でも根拠に乏しくても女性っぽくありさえすればよかったにちがいない。しかし、現代ではそういうわけにいかないと僕は考える。かつて子どもに人権がなかった時代があった如く、女性についてもその傾向がまだ残っている。男性が描く女性像の押し付けが横行している。文学がそういうものを先導することが決してあってはならない。この世界を描くとなれば、人間には男女という性があり、人と人との間には愛が生まれる。だから、これらを描かなければ、人間を描いたことにはならない。たしかに、女性や性について(僕は男性であるからこのような立場と言い方になる)書かなくても小説は可能である。だが、そんな弱い薄っぺらなもの、つまらない。現代に描くべき小説・詩、総じて文学というものは非常に難しく、大きな困難をはらんでいる。これに立ち向かい、乗り越え、新たなスタイルを確立するような作家が求められる作家だと思う。(もっとも僕の無知ゆえ、その文学の存在を知らないだけということもある。だから僕は古典から現代にいたる文学の潮流を順に辿りながら読書を続けているわけである。)

人生の意味と目的 自由と愛

だが、果してエイブラハムは一生を台なしにしてしまったろうか?本当に自分のしたいことをするということ、自分自身に満足し、自分でもいちばん幸福だと思う生活をおくること、それが果して一生を台なしにすることだろうか?それとも一万ポンドの年収と美人の細君とを持ち、一流の外科医になること、それが成功なのだろうか?思うにそれは、彼が果して人生の意味をなんと考えるか、あるいはまた社会といい、個人というものの要求をどう考えるか、それらによって決るのではあるまいか?   『月と六ペンス』より


僕はいったい何がしたいのだろう?ブログを書きながら常に僕は自問自答し続けた。意識下で欲望があるのを感じていながら、その対象と内容とが不透明なのだ。人間万事心の持ちようと思っているが、人生の意味、生きる目的が大事であって、それがなければいくら強靭な精神力や自制心があろうともふさぎの虫になってしまうばかりで、一向生活の活力など見いだせまい。なるほど社会や時代はそうした迷える子羊に陥らないように生き方を示してくれる。何も考えず、悩まず、人生を見つめずに与えられた価値観を自分のものとして生きていけば何の問題もないはずだ。心の平安は宗教によっても保たれるであろう。しかし、僕は老獪になりすぎたのだろう。僕だけに限らず現代人は老獪になりすぎた。あらゆる甘い味を知り、僕は自由という蜃気楼を追いかけているのかもしれない。そして愛。自由は勝ち取るもので、愛は与えた末に、もたらされるもの。双方とも不確定なものだから、求める意義はあるだろう。しかしそれには僕はあまりに弱い存在だ。

誰もが現状に満足できない


「ちょうど僕がね、甲板洗いをやってるときだった。誰だか突然、ほうら、あれだと言ったやつがある。ふと顔を上げてみると、この島影さ。僕は即座に思ったねえ、これだ、ここだ、僕が一生探(たず)ね歩いていた場所は、とね。そのうちに近づいてみると、なんだか僕にははじめての場所だという気がどうしてもしない。僕はね、今でもこの島を歩いていると、故郷のような親しさを感じてくることがある。そうだ、たしかに僕は前にもこの島にいたことがあると、そう言いたくなるのだ」   『月と六ペンス』より


これは主人公チャールズ・ストリックランドが言ったとされる言葉である。

冷酷非道、孤高のエゴイストとして描かれる彼のこの場面での活き活きとした感情は読者に崇高な情感を引き起こさないではおかないだろう。

純粋で素直な感性によって認識することのできる、魂と世界との呼応がここには描かれているのだ。

人間の中には、ちゃんとはじめから決められた故郷以外の場所に生れてくるものがあると、そんなふうに僕は考えている。なにかの拍子に、まるで別の環境の中へ送り出されることになったのだが、彼らはたえず、まだ知らぬ故郷に対してノスタルジアを感じている。生れた土地ではかえって旅人であり、幼い日から見慣れた青葉の小道も、かつては嬉々として戯れた雑踏の町並みも、彼らにとっては旅の宿りにすぎないのだ。肉親の間においてすら、一生冷たい他人の心をもって終始するかもしれないし、また彼らが実際知っている唯一のものであるはずの風物に対してすら、ついに親しみを感ぜずじまいで終わってしまうという場合もある。よく人々がなにか忘れがたい永遠なものを求めて、遠い、はるかな旅に出ることがあるが、おそらくこの孤独の不安がさせる業なのであろう。それとも心の奥深く根差す隔世遺伝とでもいうべきものが、旅人の足を駆り立てて、遠いはるかな歴史の薄明時代の中に、彼らの祖先たちの捨てて行った国々を、ふたたび憧れ求めさせるのであろうか?ときには漠然と感じていた神秘の故郷をうまく探ね当てることがある。それこそは求めていた憧れの故郷なのだ。そしてむろんまだ見たこともない風物の中、また見も知らぬ人々の中に、まるで生れた日以来、そこに住みつづけていたかのような心安さをさえおぼえる。そして、そこにはじめて休息を見出すのだ。   『月と六ペンス』より


モームはこんなふうにストリックランドの抱いた感情を説明してくれる。モームの優れた心理分析とその描写、そしてストーリーテラーとしての力量が遺憾なく発揮されている。

心が肉体に対して少なからず不服であるのは仕方のないことではあると思うし、誰しも注意深く自分の感覚を調査してみればおそらくそうした事実を見出すことと思う。

続いてもっと大雑把な感覚を調べてみると、やはり窮屈さや違和を感じていることを発見する。すなわち肉体が衣服であったり、家具、住宅などにそのような不満をおぼえるのである。

もっと拡げてその身を置いている環境、つまり生活や暮らしを省みるとやはり不足を感じていることに気づく。人それぞれ度合いはあれど、こうした自分自身についての不満がある。それに対して人は愚痴をこぼしたり、仕方がないとあきらめたり、もっともらしい理由をつけて納得をしてみたり、哲学や文学に助けを求めたり、没頭に忘れたり、旅に出たりするのである。

僕自身が典型的なこうした、不満不服に充たされた人間なのである。現在に幸福を見いだそうとしながら、現状に満足できないのだ。自分の満足のいくような土地を探し、自分の満足のいくような暮らしを見つけ、自分の満足するような仕事をすること。そして、自分の満足するような人生の意義を見出すこと。漠然とそうしたもののために毎日があるように感じている。好奇心とは、自分の理想を発見するために僕たちに備わっている機能なのだと思う。たくさんのことを知れば、それだけ僕たちは選択の幅を得ることができるわけだ。すぐにそれが見つかる人もいれば、なかなか見つからない人もいるだろう。しかし、探し続けなければいつまでたっても自分の満足な人生にはたどり着けないに違いない。

性による自己嫌悪


ストリックランドにとっては、性欲は彼の生活のほんの一部分にしかすぎなかった。少しも重要なものでないばかりか、むしろ荷厄介でさえあった。彼の魂の目的は、もっと他にあった。なるほど彼は、激しい欲情の持主であった。そして時としては、欲情が彼の肉体を領して、肉欲の狂歓に我を忘れることもある。だが、それにもかかわらず、彼の自制力を麻痺させてしまうそうした本能に対して、彼は激しく憎悪した。あるいはさらに彼の放恣に欠くことのできない相手の女をすら、むしろ強く憎んでいたように思う。一度自制力が返ってみると、現にいま欲情を充たしたその女の姿に対してさえ、激しい身慄(みぶる)いを経験した。そのときは、すでに彼の心は静かに天上に遊んでいるのであり、相手の女に対して感じる彼の嫌悪感は、いわば色美しい蝶が、花のあたりを舞いながら、彼自身が勝利感をもって脱け出してきたばかりの醜悪な蛹(さなぎ)の殻に対して、激しい嫌悪を感じるのと同じである。僕は思うに、芸術とは結局性的本能の一つの現われであり、人々の胸の中に、佳人の艶姿が呼びさます感動も、月夜のナポリ湾によって起されるそれも、はたまたあるいはティツィアーノの『埋葬』によって起される感動も、結局は同じ感動にすぎぬ。考えようによっては、ストリックランドが正常な性の解放を憎んだのは、それが芸術的創造衝動の満足と比較して、あまりにも動物的であるというのが理由だったかもしれない。残忍で、利己的で、動物的で、肉欲的な一人の人間を描きながら、いまさら彼を偉大な理想家だなどというのは、実際僕自身にさえ異様に響く。だが、事実はいかんともすることができないのだ。   『月と六ペンス』より


性欲―特に情欲―がなかったら僕はどれだけの人生を有効に使えるのだろうかと思わないではいられない。それは人間の三大欲求に数えられるほど強いものであり、生涯にわたって、ほかの二つ―睡眠欲と食欲―とともに増減はあるものの蓄積と解消、あるいは欠乏と充足を繰返す。しかし、この性欲に限っては抑制することによって解消されるという性質がある。つまり我慢することで欲望に対する充足ではなく、解消という処理を行なうことができる。そういう側面があるからこそ自制力を麻痺させられ、肉欲の狂歓に我を忘れての解放と充足にいたると、自制力が戻って強い嫌悪感―時間の浪費とそのエネルギーを他に向かわせるべきではなかったかという後悔、打算的な利己主義の疑い―を抱く。だから僕は性欲の対象としてよりも、いわば造形美の対象とでもいうような、自然の造りだす有機体として女性を求めたい。その曲線やしなやかさ、質感ややわらかさなど、それらは美しさと心地よさの象徴なのだ。

こう考えてみれば、なるほど芸術とは結局性的本能の一つの現われという解釈は得心がいく。そして僕はこれに好奇心と自制心、悟性と理性による世界の究明という欲求を加えたい。簡単に言えば、芸術と科学への探求である。これは特に男性にやはり特有なものだといわなければならない。女性は、理性、悟性、感性と人間の認識を分割するならば、そういう意味での感性を磨く、あるいは正確に用いることに関心があるといえる。色彩や味、雰囲気、感じ、言葉というものから行動の動機、あるいは欲望を得るのだろう。いずれにしても理性と悟性の発達した動物というべき男性、感性の発達した動物というべき女性という風に区別ができそうだ―差別ではなく、あくまで区別だ。そしてこの区別によって男性が時として持つ、性による自己嫌悪も説明できるように思う。
プロフィール

hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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