「嫌われる勇気」 嫌われるより無関心 無視できない存在


「嫌われる勇気」という本が最近よく読まれているらしい。読まれてい”た”、過去形かもしれない。香里奈さん主演のドラマも放送中?していた?とのことだ。とにかく世間で関心を集めていることは間違いない。中二の頃の私ならずいぶんこのタイトルも響いたことだろう。そのころ、私はどうしたら人に好かれるか、同級生や同じ部活の部員と仲良くなれるのか、そんなことばかり考え、いい人になろうと努力していたからだ。嫌われるというより、私は好かれていなかった、孤独であった。だから友達と呼べる、そんな人が欲しかった。好かれるの対極にあるのが嫌われるということで、嫌われる勇気ということは好かれるという概念を前提としているが、いまの私に好かれるとか、嫌われるとかいう感覚はなく、とうの昔に忘れた、既に朽ちた概念であった。すっかり人間ぎらいになってしまって、できるだけ人とは関わりたくない、関わらないように生きているというのが本当のところだ。親切にする機会があっても、面倒なことになるんじゃないか、本当に親切になるのだろうか?そんな思いから差し伸べかけた手をひっこめることは日常だ。頼まれごとや、頼みごと、それを直接ではなく、業務的にあるいは間接的にやりたくなる。友人が不在の時をあえて狙って贈り物を届ける。予定があるときにあえて約束をして最低限の目的だけを果たせる算段をつける。私の主義、人生観に沿わない、視点・感性による判断を私は猛烈に批判するし、決して同意しない。私はそうした友人でも馬鹿げた発想や幼稚な主張にはイライラさせられるので、私の前では口にするなと憤慨する。「嫌われる勇気」、手に取ることさえ恥ずかしさを感じるが、できることならもう少し嫌われたい。そしたらもっと自由に気楽に日々を過せるだろう、今のままじゃ煩わしい人間関係が多すぎる。正確にいえば、嫌われるより、無関心でいてくれたらそれが一番かもしれない。いてもいないでもどちらでもいいようなそんな存在が理想なのかもしれない。だが一方で、私の発言や行動が自然と私を他者にとって”無視できない”存在に仕立ててくれたら気持ちがいい。このブログはそんな野心によって続いている気がする。

私のモダニズム 古典からの卒業


昨年、岩波文庫で待望の『パンセ パスカル著 (上中下)』が発売された。私は書店で『パンセ (下)』を目にしたとき、本との出会いにおいて最高の興奮を覚えた。「人間は考える葦である」とつづられた伝説的書。それがようやく読める日が来た!私は心を躍らせ、家路につき、さっそく読み始めた。悲劇はやがてやってきた。

箴言の数々に私は興奮冷めやらぬといったところであったが、徐々に雲行きが怪しくなっていき、気がつくとひたすらキリスト教を推しているパスカル。私は辟易したし、ひどく絶望した。もうキリスト教はいいから。それが私の本音であった。パスカルにそのすべての責任があるわけでは無論なかった。私は同時に「幸福論 アラン著」を読んでいた。これがいけなかった。この「幸福論」もキリスト教を信じよ。そう読者に告げる。

全幅の信仰は私たちの悩みも苦しみも救ってくれる。そしてそれは幸せであると。ではなぜ、キリスト教なのか。それを延々と説いている。

その人にとれば信仰の対象などなんでもよい。ただキリスト教がたしかに平和的ではある。しかしながら、安堵という名の幸せのためにはどんな宗教でもよいのである。いいかげん、飽き飽きしてきたし、せっかくの思想も結局キリスト教に通ずるのを思うと、私はキリスト教がらみの文学を排除しようかと考えている。ドストエフスキーを私は好きであったが、結局はキリスト教の在り方やキリスト教に対する問いに多くのページが割かれていた。私はキリスト教どころか宗教自体に必要性を感じない。宗教がなくても、この世界はすばらしいと思えるし、これ以上なく幸せである。また、理系の私にとっては、世界はピタゴラスは数式で表せるといったが、私もエネルギーの変換としか見えない。対称性のやぶれがあり、有と無ではなく、均衡があったのだと思う。世界が重力によって上から下へ移動するがごとく、エネルギーが大きい方から小さい方へ移動し続けるのみである。そして物質は最もエネルギーを消費しないよう動く。あらゆる活動はこの法則に従っているのは世界を眺めれば明らかでもある。信仰は楽に生きるにはもってこいの手段なのでぜひとも活用するといいと思う。そして、信仰するならなるべく徹底的に信仰するのがいい。多くの人は中途半端に信仰して相変わらず苦しむことになってしまう。信仰するのは味気ない。世界を注意深く観察し、深く知ろうとする方がよほど幸せだし、楽しいと思うのは私だけだろうか。

私は好古趣味であったが、いよいよおなか一杯になってきた。クラシック音楽、印象派、古典文学…これらが、ジャズ、抽象画、現代文学へとシフトしていった。古典はちょっとあつくるしい。クールじゃない。なんとなく、こうして芸術は変わっていくのだろうなという実感を得た。これは希望でもあった。とすれば、いつかこれらのものもおなか一杯になり次によりクールなものを求めることになる。それはいったいどういうものになるのだろうか?

人は変われる 柔軟性と力を肉体から精神へ


こんにちは。
今日もお付き合いください。

人は変わることができると人は言う。

でも、私たちの実感では変わることは難しい、いやほぼ不可能だ。そんな気さえしてくる。

私はいつまでたっても人間嫌いのままだし、厭世観から抜け出せずにいる。小説もちっとも書かない。

でもこれは、人間の性質についてのことだ、精神や思想に働きかけることは難しいという意味にすぎない、では物理的に、例えば肉体に働きかけてみてはどうだろうか?健全な肉体に、健全な精神が宿るというが、肉体改造が果たされたとき、それに伴っていつの間にやら精神にも影響を与えていたということにはならないであろうか。

私の肉体は凝り固まり、柔軟性は全くなく、ひどく痩せ、まるで病み上がりのようであった。しかも、面白いことに、精神もまたこれに似通い、融通のきかない石頭で、柔軟な発想もできず、些細なことに心を痛め、すぐに意気消沈して湯鬱になる。もしも、体が柔らかくなり、筋力がついたならば、精神にもその効果が期待できるのではないだろうか。

そう考え、私はここ数か月、柔軟体操と筋力トレーニングを欠かさず行っている。目標とするところはとりあえず、180度開脚である。男性にはなかなか難しいようであるが挑戦してみたい。筋力トレーニングについては実際的な目標を立てていないが、180度開脚を達成した暁に、ジムへ通うことにし、ベンチプレスなどの重量を目標として設定しようと思う。それまでは基本的な腕立て伏せ、腹筋、スクワットを続けて行こうと思う。最近になって少し効果が目に見えるようになってきた。しかしながら目標達成にはまだまだ数か月はかかりそうである。

お読みいただきありがとうございました。

人生を一年ずつ区切る演出 経済的発展の季節

私の自我の芽生えは16歳の時だった。

S先生は窓の外ばかり眺めている私をちょうどその時習っていた現代社会のスチューデントアパシーの例として生徒に示した。

「Hみたいな生徒のことだな、学生特有の無気力症候群と呼ばれるものだ」

クラス内に笑いが起こった。無気力から私の自我がうまれた。

17歳、反抗の年。尾崎豊の「17歳の地図」は等身大で「ライ麦畑」など、この時の感情はもう戻ってこないであろう。

18歳、アイデンティティの確立。私はこの時に至って初めて我が欠陥と同時に不平等、多様性、みんな違っているということを知る。16歳で芽生えた自我は、18歳で揺るがぬものになった気がする。それ以来私は自分自身を特別な個性として認識し、汝自身を知れの言葉に倣い、究め続けている。

19歳、浪人。文学への目覚め。生き方に迷った私は、運命的に文学を導き手として選んだのであった。多く旅に出たのもこの時期だった。私は何を求めているかを知らないで、ただ何かを求めていた。歩み続けることがどこかにたどり着くための必要条件だとの確信を胸に。

20歳、大学生活と不条理。社会構造と人生観との齟齬が生じ始めたのはこの頃だ。大学を去ろうと決めながらも、その先のあてはなく、ずるずると大学生であり続けた。もっぱら私の活動拠点は図書室だった。多く読書したのもこの時期だったように思う。

21歳、恋の季節。この頃、私は人生が季節のようなものだということを発見する。すなわち、春すぎて夏来たるらし、夏を知って、初めて春とその季節の変化することを知ったのである。おそらく他者というものを真に認識したのはこの時が初めてだったであろう。

22歳、人生最高の夏休み。あえて退廃することを望み、実行した。青い海、澄んだ空、さわやかに吹きわたる風、肌。

23歳、退学。最後の社会的な武器を捨て去った。素手で立ち向かんとする若さがこの時にはまだあった。今ではあまりに私は弱体化した。

24歳、文学活動。小説を書いたり、ブログにも多く記事を書いたはずだ。しかしながら、活動に精を出せばそれだけ、己の未熟と才能のなさを思い知らされる。

25歳、就職。文学の糧となるとの期待、底辺からの出発。また、サラリーマンの気楽と便利。

26歳、経済活動の始まり。定職に就くことで初めて経済社会の中で生きることになった。消費者としての自覚が芽生える。

27歳、自立。一人住まいを始め、煩わしい関係などはすっきり解消し、自由度が増す。

このように、私は半ば意図的に一年を区切りながら生活することを自ら課し、人生をよりドラマチックに仕立て上げる演出をしている。そして28歳、テーマは経済的発展。物質的アプローチに重点を置いてみようと思う。これまで私は心の動きというものに関心を置き、それをこのブログでは扱ってきた。だが、作品に触れて引き起こされる感情や思想は、文章に起こされたときには、すでにひどく劣化しており、果してこれは文学活動として正しいやりかたなのか?という疑問を感じるようになった。そこで、自己表現として、私の身の回りのものを描いていくことで、私自身を浮かび上がらせながら、私の価値観と思想を実際的な観点でより客観的に測ってみる狙いもある。とはいえ、それが興味深く、おもしろいものとなるかといわれると疑わしく、今まで気にかけてくださった方々からはつまらなくなったといって、期待外れの結果になってしまうという懸念がある。

友と私 決別かともに成長か 


いつも変わらない落ち着いた田舎の景色ですら、かつて一緒にそれを眺めたときの今は亡き友の生前の面影をいつまでも忘れ難いものにする。その友は散歩仲間で、いかに物寂しい静かな散歩道を歩いていても生き生きとさせてくれたものだ。風光明媚な自然の魅力に接するたびに、きまって彼のことが思い出される。山で亡き友の好きだったやまびこの声を聞くと、彼の声かと思ったり、亡き友が足繁く通った森に佇めば彼の魂と遭遇できるような気持ちになったりした。寂寥感の漂う丘に上がっても、あるいは哀愁の渓谷に分け入っても、やはり亡き友のことが思い出されるのである。気持ちのいい爽やかな朝などには、快活な微笑みを浮かべた陽気な亡き友の顔が心のなかに甦る。穏やかな夕べのひとときが訪れて、次第に夕闇が深まり静寂が辺りを包み込む頃になると、黄昏どきの心地よい憂愁に沈み込んで優しい口調で語った亡き友の声がふと聞こえるのだ。

どんな寂しい場所にいても、君のことを想って、とめどもなく溢れ出す涙の滴。

これ以上魅せられるものがないほど君を愛し、憐みの心が消えるまで君を悲しむ。

   『スケッチ・ブック』 アーヴィング著より



幸い私は友を亡くすという大きな不幸から未だ免れている。しかし、いずれ経験しなければならない、生きていることと同等の意味を持つ愛する人の死に私はときどき恐れおののく。人生の厳しさと過酷さを思い知る。

私は自分の友の顔ぶれを思い浮かべてみる。幼馴染、小・中・高・大、それぞれの同級生、部活動やその他活動の所属、バイト、会社、友人同士のグループ、その出会いの時期やきっかけ、形は様々だがなにかの縁があって親しみあっているのであろう。たとえば、この私の友を私を中心として、その周りに輪っかのようにつなぎ合わせ、私を取り除いてみたとき、彼らから私の存在、人間性を再現することはできるであろうか?類は友を呼ぶという言葉が示すように、彼らは私と共通する価値観や考え方を有していて、もちろんすべてが一致するわけではなく、友のそれぞれは全くタイプの違う人間で、それがまた一個人の複雑性を示している。彼らがそれぞれがもつ個性を選び取っていって、空っぽの人間に加えて行けば、私という個人を大体つくれるように思える、それほど友というのは不思議な存在なのである。

一方、彼らの共通点はどうだろうか?驚くことに、そのほとんどがまともな?職業についていない。私の出自、経歴から考えれば当然そうあるべき、トヨタなどの大企業、あるいはその関連企業、すなわち将来安泰(現代において安泰というものは大企業でもおそらく難しく、言い切れない)といえる企業や国家公務員(学校の先生以上の、官僚クラス)はおろか、学校の先生などの一般的な公務員(安定といわれる)もいないのである。簡単に言えば、まったく安定志向にないのだ。彼らは能力はあるはずであるのにもかかわらず(ひょっとしたら能力がないのかもしれない?)それでいて、社会的に成功しているのかというとそういうわけでもない。もっともこの年代で成功するなどということはほとんど考えられないことではあるが、しかしながら、私の友とはいえないまでも、知人のいくらかはすでに社会的地位を築いている者もいるのである。彼らは皆人間性の魅力に富んでいる。私は付き合っていて楽しいし、学ぶことも多く、誇りに思う。けれども、自分の現状に満足かと言われれば、もう少し状況を好転させられるはずである。どこに?どのように?もう少し自由で、負担の少ない、ストレスのかからない生活がありそうだ。そう、私が思うのは、付き合う人間を変えていくことで私の状況が変えられるはずであり、それは彼らとの決別なのか、それとも彼らとの成長にあるのか、現状に甘んじるのでなければ、ときに傷のなめあいになりかねない付き合い方にシビアに取り組みながら、自由への道を歩んでいく覚悟とその実践が必要なのではないか、私は最近強く思うのである。実際に、閉塞感のような、諦念のようなものが、私たちの間に漂っているような気がする。私のように強い向上心を持って善く生き、闘いの日々を送ろうとする者はいないようである。私は今日もひとり、書を読み、思考を巡らせ、ペンを走らせる。それではあまりに心もとないから、なりふり構わず世界に働きかける。
プロフィール

hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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