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奢るより奢られる質(たち)  


こんにちは。よろしくお願いします。

Dさんとかつてこんな話をしたことがあった。

「有名人は基本的にすごく稼いでいるんだけど、その中でもお金持ちとお金持ちというわけではない人がいるのね、どうしてかっていうと、有名になるとそれだけ経費がかかって、たとえばスタッフさんや知人と食事をする機会も多くあったりして、そのときにやっぱりその有名な人が中心となってその食事が行われることがほとんどで、支払いもその人が全部することになるみたい。食事に限らず、有名になるってことはそれだけ関わる人やお世話になっている人がたくさんで、その方々に心づくしをしようと思うとどうしても金銭も必要というわけなの。他人から聞いた話なんだけど、井上陽水さんはそのお金持ちの部類に入るそうなんだけど、一度も支払いをしたことがないんですって。なんでも、支払いをしようとするときにはすでに誰かによって済んでいて、自分のお金をないのだそうよ。食事に限らず、本来払うべきタイミングのところで払わなくて済んでしまって、結果財産がどんどん増えていくということみたいね」

おそらく井上陽水さんはお金を払いたくないというわけではないだろう、しかし払わないで済んでしまう、周りが払おうという心理になってしまう、そういうことなのだろうと思う。一方で、芸人さんは先輩芸人が稼ぎに関わらず先輩が後輩におごるというのが決まりのようになっているといっているのをテレビで見たことがある。たしかに、自分のために使えるお金は限られているし、実際出費のほとんどは自分の為ではなく、直接的にも間接的にも他人のために使っているといえそうである。すなわち、他人のために使っているお金を節すれば、貯蓄しやすいということになる。

私がこんなことを書きだしたのは、社会人として自立をし、友人などと外で食事をする機会もだんだんと増えてきて、一つ気が付いたことがあったのである。それは、私の支払いの負担が総合的にみると少ないということである。私の経歴の当然の結果として、年上よりも年下との交流が多く、先ほどのルールに従えば、私が年下におごることが多くなるはずで、支払いの負担は全体として多くならなければならないのにも関わらずである。今日はごちそうするよ、といっても結構強めに断れることが多く―その場合、多めにだすと願い出て、なんとか了承してもらう―逆に、「ああ、いいよ払うから」と言われる場合にも私はそれを断るのだが、結局私が少し負担するという形におさまってしまう。なぜだか知らないが、このように「私が、払う」と言われる場合が多いのである。私が貧乏そうにしているから慈悲の念に駆られ、代わりに払うと言ってくれるのだろうか?あるいは、私がおごってほしいとねだっているような振る舞いをしているのだろうか?それとも、なにかリズムや行動がそのような気を起させるのだろうか?しかも、「今日はギャンブルで儲かったからおごるわ」なんていう話もしばしばなのである。Dさんの話ではないが、払わないで済んでしまう力?的なものがはたしてあるのだろうか。次こそはおごるぞ!と意気込みはするのだけれど、あまりおごる、おごられるという関係も望ましくないというのが本当のところでもあり、結果一人で食事をするのが気楽で最近そのような機会が増えた。しかし、やはり食事というものは誰かと一緒にした方が断然愉快である。もっとしっかりと稼いでいればこんなことにはならないのにと、自分の労働を恨むのである。
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富を得るのに努力と苦労は必要なし

僕は自分の人生における哲学の最上位に『シンプル』というものを置いている。

これはひょっとしたら老子の『無為自然』に近いのかもしれない。

そして、人生というのはつまり、日々を生きていくということに他ならないので、では日々生きていくとはどういうことなのかといえば、『衣食住』を満たすということだろうと思う。

では僕が自力で拵えることができるものでこの『衣食住』に含まれるものがあるかといえば、皆無である。

自分で着る物、靴下でさえも作ることはできないし、食べ物といっては家庭菜園で夏にトマトが作れるくらいのものだ。

住居にいたっては、作れなくもないかもしれないが社会生活を営んでいる以上、建築技術に則った家屋に住まなければ体面が悪いだろう。

いずれにせよ、それを建てるには土地がいるので、国・自治体からは少なからず恩恵をいただかなくてはならない。

ここに仕事というものが生れる。

なにかのおかげをこうむるかわりに、自分もまた誰かを利する働きをしなければならないのだ。

けれども、それは直接的でなくてもよい、役所のおかげをこうむったので、役所を利さなければならないわけではない。

それを可能にしたのがお金であって、とてもすばらしいシステムだと常に思うところだ。

誰かを利してことの証明がお金であり、その証明を持っていることでなにかの恩恵に授かれるというわけなのだ。

『働かざるもの食うべからず』とはまさに現代社会の掟であって、これからは逃れられないであろう。

他人を利した分だけそれ相応のお金が手に入る道理なので、お金がほしければ他人を利することを考えればよい。

そう考えてみると、仕事というのは他人本位であって自己本位ではないということになる。

誰しも自分のためにすることには楽しみを覚えるが、それが失われ、ただ他人のためのみのことであったらやはり嫌であろう。

一般的に商人という人が儲かることができるのは、目に見えて、直接的に人を利しているからだろう。

人びとが食べていけるのは、根本的にはその野菜や米をつくっている農家のおかげなのだが、彼らは間接的に結果として利していることにはなるが、それを家庭に届けている商人のほうが利しているといえよう。

また、実質的に利することよりも喜ばせるということのほうが金銭的ポイントが高いように思われる。

勉強の成績を上げたりだとか、もっと生々しい話をすれば、キャバクラやパチンコなどの歓楽に供する仕事はお金を多くいただけるだろう。

だから、ある程度のところまではお追従やお世辞や社会的立場が苦にならない感性を持っている人がある種お金に恵まれる立場といえるのかもしれない。

自己本位でプライドが高く、気位のあるひとというのはなかなか厳しい立場に立たされるのかもしれない。

ではこうした人たちにはお金に恵まれる機会が与えられないのかといえばそうではないと断言せざるを得ない。

自分の欲するところのものに力を注いで、それが結果として衆人を喜ばすこととなれば立派な仕事となるからだ。

僕の目指すところはまさにそこのところで、もちろん折り合いをつけなければならないところもあるのだが、書きたいものを書き、他にも自己本位でやりたいことはあるのだが、それは明らかに道楽の域をでないように思われる。

例えば旅をする、読書をするなどは一体誰を利することになろう?

決して利することなどない、せめてそれを書いたり、話したりしなければならないから結局前に言った書きたいもののなかにそれを含めていくのがよかろうと思う。

今はバイトなどの細かいお金を稼ぐには健康な体さえあれば困らなさそうなので気楽に構えているが、安泰ではないことだけは肝に命じておかなければならない。

一人で生きていくならば細かなお金ですむかもしれないが、一生を考えればそうともいくまい。

そうした自己本位の仕事を芸術家や学者、哲学者とみてよいだろう。

彼らは決して衆人を益しようとは考えてはいない。

まったく自分のため、したいことをして、気ままにそれを発表したりすることで、うまくいけばそれで食べていくという具合なのだ。

努力や苦労が大金を生むというような誤解が世の中ではまかり通っているのであるが、それは決して違うと思う。

人を喜ばせるように楽しく、貢献することがお金につながるのであり、それはつらい努力によって得られるものではないし、自己本位のことに努力という言葉は使えないだろう。

僕が選んだ後者の自己本位の結果他者を利するというような仕事は偶然の産物、幸運によるところのものといわざるをえないのであるから、そういった運を呼び込めるような行動を日々とっていくことがもっとも成功への近道なのかもしれない。

この他人を利する主体の仕事にせよ、自己本位の結果の他人を利する仕事にせよ、それによって富を得るためには努力や苦労、それは少なからず疲弊や不機嫌、無気力を生み出す、ではなく、喜びとやる気、上機嫌が必要である。

そうであるから、まず始めることは笑顔をつくること、笑顔は日々の充実からやってこようし、前向きな考えから生れてこよう。

毎日を前向きな考えで生き、運を呼び込むような暮らし、生活、行動を心がけることが富を得ることにつながるのではないかと思う。

お金の貸し借りについて

僕は人にお金を借りたときは絶対に忘れないように心に深く刻むようにし、携帯電話のメモ帳に借りたことを明記することにしている。

お金を借りた側は貸した側よりも忘れてしまいがちである上、貸した側は忘れないものだ。

しかも貸した側は好意や信頼のもと、貸したのにそれを返してもらえないのはひどく残念だし、ましてやそれの催促をしなければならないという嫌な役目も果さなければならなかったりする。

どうして貸した自分が気まずい催促をしなければならないのだろうか?

もし、自分が貸したことを忘れてしまった日には好意を示して損害を被るという自体にもなってしまう。

これは本当に理不尽極まりない。

そこで僕は1つ面白い対策を思いついた。


それは、

『たとえば1,000円がないとかいった場合、大きいお金しかない場合だが、そのときはそのお金を貸して、今度会うときに残りの4,000円を返してもらう(5,000円を貸した場合)という方法だ』

忘れたら、忘れた側が損をするのは当然だから。

これは効果的だと思う。今度自分で実践したいと思う。

富を得ることについて

富を得ることについて少し考えた。

特にここでは金銭を問題にする。富といえばいろいろなものが実際にはあるのだが、富=巨額の金銭ということにする。

まず僕たちはお金に関してそれぞれさまざまな概念、先入観を持っている。

年収1,000万なら金持ちだ、とかフェラーリを持っている人が金持ちだとかほんとに人それぞれ。

しかしながら大体共通している感覚も存在する。

とりわけ日本の場合、若いうちは薄給、高学歴でなければ給料はよくない、働く時間に給料は比例する、年を追うごとに給料が増える。

これらは実際のところ構造上の話である。

つまりなんの構造上かといえば、経済上の会社という組織内における構造である。

この経済という枠組みの中で巨額の金銭を得ることはほぼ不可能である。

考えてみればわかるが、会社の単位、世界経済の中である一つどころにお金が集中するなんてことはありえないわけだ。

経済は常にまわり、お金はものすごいスピードでまわる。

そこに安定した報酬が上がってくるという仕組みができるわけがない。

常に、銀行や投資家によってお金の制限や操作が行われている、もちろんバランスを保つためである。だから大きな会社で勤めるということは巨額の金銭を得ることと完全に縁を切ってしまうことになる。


巨額の金銭を得るためには自分と消費者との直接の関係を結ばなければならない。

そしてもちろん報酬というものはその代償としてサービスやモノを提供しなければならない。

さて、巨額の金銭を得られるようなサービスやモノとはなにか?

ここで考えなければならないのは、モノのそれ自体の物理的な価値には限界がある。ということだ。

もちろん、たくさんの人にモノを一度に提供することができるのならば、巨額の金銭を得ることは可能だ。

だが安定的に提供できるか?ニーズにこたえ続けることができるか?それが難しい。

それよりも付加価値をつけることのほうが賢明だとおもう。

いい例がブランド品である。

もちろん品質はすばらしいものがあるが値段の割合からしたら実質の機能はそれほどの大差はない。

人々は何にお金を払うのかといえば、その人や実績、歴史、伝統にお金を払うのだ。

つまりは個性や他と差別化された確固たる品質により以上の金額を払うである。

お金持ちと自由であることの矛盾

お金持ちであることと自由であることは矛盾するように思える。

もともと財産があるとかなにか権利を持っているとかは別だ。

そんなものは人間的成長の妨げとなる。そんなものはすぐに捨てたほうがきっといい。

だけどそれはできない。

誰もが楽をしたい。働かずに暮らしたい。

でもそれはフェアではない。

僕はなにをするにもフェアであるかどうかを考える。

みんなが働いている中で自分だけ楽をする、みんなが苦しんでいるのに自分だけいい思いをする。

それは許されることではないと思う。


僕は自分がそうだとしたら我慢ならない。

しかし僕は自由でいたい。

自由とは自分が思うように生きる、そういった意味だ。


つまり、自分、まわりのひとたち、社会、環境、すべてに貢献するような生き方だ。

自分がやりたいことがまわりのひと、社会、環境のためになることはとてもすばらしいことだ。

僕はそういった欲求を持てるようになりたい。


それは可能なのだろうか?

お金を稼ぐには時間や人や欺瞞などあらゆる良心とは反した手立てでもってお金にかえなければならない。

僕は時間を売るような労働はごめんだ。

人を使うなんてことはしたくない。もちろんこき使われるのもごめんだ。

だますような、ほとんど商売はそうなのかもしれないが、そんなことはしたくない。

できることならそれなりに見合った報酬をいただく。それで十分だ。

その見合った報酬がむずかしいが、僕自身も生きていかなければならない。つまり金が要る。

こうして考えてくれば、お金を稼ぐということを考えないほうがいいという結論になる。

自分のため、他人のため、社会のため、環境のためになることがなんなのか考えよう。

そして生活に必要な金銭はなるべくお金を稼ぐという感覚から離れた方法によって手に入れるようにしよう。

たった一つ、道は用意されていると信じている。
プロフィール

hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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