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『人が賛成しないことにこそ成功が期待できる』


何気なくテレビをつけると、ソロモン流が放送されていた。

今回はパフォーマー「須藤元気」さんが率いる異色ダンスパフォーマンスユニット「WORLD ORDER」の武道館ライブに密着ということだった。

その中で須藤さんは、

「こうしたことをやってみようと思う。と誰かに夢や目標を語ったときに、『いいね』というような肯定的な言葉を言われたら大体はやらないほうがいい、成功しない。

なぜなら、その相手でも想像できるようなことなのだから、すでに誰かがやってしまっているに違いない。

だれも想像していないようなことを、自分は想像できていて、しかもそうした自分の姿をおばさん世代の目線からみても、小さな女の子の目線でみてもおもしろいと思ったからできると考えた」

「エンターテイメントというのは、どうやっていわば『爪あと』を残すかだと思うんです」

世間に受け入れられ、名が知られるようになる人というのはしっかりとした自分流のぶれない哲学を持っているのだなとひしひしと感じた。

どんな成功者でも、その大きな成功の始めはあらゆる人から反対されたということはよく聞く話だ。

もちろんこの反対されることというのも1つ大きな意味合いを含んでいて、誰にも明らかな"想像できる"無謀な挑戦や失敗と、彼らの想像を超えた企てであるという2つのパターンがある。

その後者にあてはまる夢や目標であるとき、それは大成功となって身を結ぶのだろう。

普通のことをやっていては、エンターテイメントの世界では注目されることはない。

常軌を逸するとは違う、常識を超えた、イマジネーション豊かな、クリエイティブな作品や演出、パフォーマンスがさまざまなものが混在する現代にあって、人びとを魅了するものとなるのだろう。
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成功者に地味な人が多いわけ 成功とは大多数の支持


まず始めに断っておくことは、僕は成功者という言葉も成功者も好きではないということ。

けれども人それぞれなりたい人物像や、やり遂げたいことが異なるので成功者について書くことは無駄ではないと思い表題にも書いたことについて書いてみる。

その前に成功者が好きではない理由は単純に成功とは現在において社会の大多数の人によって支持され、その結果として金銭や名誉、希望、夢を勝ち得ることだと考えるからである。

何が不満なのか?

まず現在という限定的な範囲に立脚している概念だからである。

現在―現代といってもいいかもしれないが―の流行や風潮に受けることというのは人為的操作によって、あるいは不規則な社会的潮流によって生み出される、いわば権力や運の働きによるところが大きい。

僕は生来、そういった自分の意図しないところの動きによって影響を受けるのを嫌っていた。

試験にしても、仕事にしても、恋愛にしても相手によってその結果は左右される。

しかし、そうかといって競争相手や仕事相手、恋愛対象に人為的に、あるいはその境遇に適した行動をとることを僕は自分に許したくない。

試験のために勉強をする、誠意を持って仕事に取り組む、相手と心遣いをもって相互関係を築こうと励むという方向に進むことに努めたい。

それは成功とはいわないだろう。

ただすがすがしい気持が自分を包み込む。それで満足だ。

成功者は地味な人が多いと書いたが、それは

成功には現在における即席的な支持を得る必要がある。

常に成功している人は存在し、そうした巨人を打ち倒すか、その巨人の一部分を構成するかそのどちらかである。

打ち倒すにしても、なんにもできない赤ん坊同然の無力な一個人ではどうしようもないから結局は巨人の一部分を担うことが第一歩となろう。

地味な人はまずこの一歩をすんなり踏み出せるだろう。

派手な馬鹿な人、若い人は巨人を打ち倒そうと躍起になるが、いわゆる社会の洗礼とでもいようか、まったく歯が立たず意味のない挫折を味わうだろう。

地味に、プライドが高ければそれを隔しながら気づかれぬよう権利の傘下に入ることだ。

自分でなにかをしようとするのではない、なにかの恵みに与かる。

なんだかずるいような感じもするが、人間が元来自然の恵みに与かる存在であるからして、これは当然のことなのだ、成功を目論む野心家は誤解することなかれ。

地味であれば競争相手もつくらなければ、そのマークにもあわず、安全に権利の膝元に入り込めるわけだ。

地味な人間と野心ある人間どちらが権利の寵愛を受けることができるだろうか?

こんなこといわずもがなである。地味な人間には寵愛の手が差し伸べられる可能性が大いにある。

人の話を聞き、聞かなくとも地味にただそこにいつもいるというような存在でいいわけだ。

支持を受けること、そのために適した性格が「地味」ということなのだろう。

成功法則 『ゲーテとの対話』

『これこそ、まさに自然のもつ偉大さなのさ。

自然はこんなにも単純だし、どんなに大きな現象であっても、いつも小っぽけなものの中に再現されるのだからね』


『「しかし、ニュートン学派の人たちは、この単純きわまる現象をどう説明しているのでしょうか」

「君がそんなことを知る必要など毛頭ないさ、あまりに馬鹿げているよ。

そんな馬鹿げたことにいつまでもかかわりあっていると、せっかくのいい頭もどんなに毒されるかということがみんなにはまるで分かっていないのだ。

ニュートン学派のことなど、少しも気にするには及ばない。

純粋な学説に満足していればいいのさ。

そうすれば、君も成功するに違いない」』


『私は数学は適切な場合に利用されるかぎりにおいては、もっとも高級な、もっとも有益な学問として、尊敬している。

しかし、およそ当該領域でもないことで、この高尚な学問を、たちまち無意味さが露呈してしまうようなことにまで誤用しようとするのは、感心できないよ。

おまけに数学的に証明されなければ、一切のものも存在しないみたいな調子だからな。

娘が愛を数学的に証明できないからといって、その娘の愛を信じようとしない人がいたら、それは大へんな愚か者だよ!

持参金なら、数学的に証明できるかもしれないが、愛情はできやしないよ』


『色彩論の諸現象を理解するには、純粋な直感と健全な頭脳のほかには、なにも要らない。

しかし、この二つをそなえた人は、世間で想像している以上に、滅多にいるものでないことは、もちろんだ』     『ゲーテとの対話』より


『自然の摂理』という言葉があるように、自然には一定の法則が知らずとも存在しており、万象はその法則にしたがっている。

であるから、それらを的確に区分・分類することが真理の解明への近道であろう。

カブトムシを研究しなくとも、同じ昆虫であることがわかっておれば、すぐに見つかるアリを研究してみれば、そこにカブトムシの構造などが再現されていることを発見できるであろう。

これはもはや全くの真理である。

『細分化し、分類し、着実にひとつひとつを処理していくことが、いわゆる成功の秘訣である』


僕たちには怖いもの見たさや自暴自棄を好むといったような性癖をもっている。

世の中には知らなくてもいいもの、やらなくてもいいことがたくさんあることを理解しなければならない。

それらは一時的な欲求に属するものが多く、案外たやすく回避することができる性質のものである。

そうした欲求に従うのではなく、最善の道を歩むことに関心をよせ、集中するべきだ。

失敗する人が陥りやすいのは、成功するための情報、方法ではなく、失敗するための情報や方法に関心が向いてしまうことだ。

そして失敗談や失敗した人に興味を持ち、その話などを盛んにする。

しかし、成功したいのであれば、失敗した人や、誤った道のりを歩んでいる人びとにかかわっていてはいけない。

つねに、成功者の言葉に耳を傾け、自らの歩んでいる道と、その先の道のりを考えることに集中しなければいけない。


高校時代、僕は数学を学問のうちで第一級のものだと思っていた。

だから数学に力を注ぎ、ほとんどの学習の時間を数学に費やした。

しかし、哲学や文学の存在をはじめて痛感して以来、数学は道具としては一級品であるが、人生の行路を示す羅針盤の役割までは果すことができないことを悟り、それらに力と時間を費やすことにしている。

現代では経済や政治などを数式にあてはめ、景気などを予測する評論家などがテレビで好き勝手に自論を展開しているが、そうした人びとの行動を数字として捉えるのを僕は好まない。

そして、これがもっとも重要かつ誤りがちである事柄であると思うが、それは

『数学に適応できるものは、心という神秘には作用を与えない。

愛や友情、やさしさなどは数字化できない。

その数字化されないものこそ僕たちにとって大切なものである』


『純粋な直感』と『健全な頭脳』。

なんと率直な的確な表現であろう。

あらゆるものを五感、あるいは六感で率直に、純粋に感知し、にごりなき、清明な頭脳でそれらを認識する。

これこそ生活ではないだろうか。

そこには自然、正しき欲求のみが生れてくるであろう。

そして、それに純粋に従うことで、また純粋な認識をえる・・・という繰り返しである。

『最も偉大な技術とは、自分を限定し、他から隔離するもの』

『洞察と活動とは、しっかり区別されなければならない。

芸術と名のつくものは、すべて実際にそれをやりだすとなると、実に困難なものともいえるし、偉大なものともいえるのであって、大家の域に達するには、おのれの一生を賭けなければならないということをよくよく考えるべきである。

ゲーテにしても、つとめて多面的な洞察を得ようと努めたが、活動面では、ただ一つのことに自分を限定した。

唯一の技術だけに打ちこみ、しかも大家にふさわしくなるまでに打ちこんできた。

すなわち、ドイツ語で書くという技術である。

彼が表現した素材が、多面的な性質を持っていたということはまた別の問題である。

同じように、修行も、活動とはしっかり区別されなければならない。

詩人が、外界の対象をつかむために、自分の目をあらゆる方法をつかって訓練しておくということも、修行の一つにかぞえていい。

そしてゲーテが造形美術をじっさいにやろうとしたことを間違った傾向とよんだのは、それを自分の活動にしようとした限りにおいてのことで、詩人としての修行に値するかぎりは、まったく当を得たものであった。

「私の詩に具象性のあるのは、やはり、あの深い注意力と目の訓練を大いにやったおかげなのだ。

そこから得た知識も、同じように高く評価しなければいけない。

しかし、修行の限界をあまり広げすぎないように注意すべきだね。

だがこれに反して、自分の専門に欠くことのできない知識に関しては、せまく制限したり、一面的な見方におちいることをつとめて警戒しなければならない。

劇場のためにものを書こうとする詩人は、舞台の知識を持っているのが当然である。

自分に駆使できる道具を良く考えて、いつでも、何ができるか、何ができないかを知っていなければならないのだから。

結局、最も偉大な技術とは、自分を限定し、他から隔離するものをいうのだ」』


『人間は、ただ一つのことだけに打ち込むべきだ』     『ゲーテとの対話』より


この話を聞いたエッカーマンは自然、このような疑問が生まれてくることに気づく。

「なぜ、ゲーテ自身は、きわめて多方面のことに生涯を費やしたのだろうか?」

というのは、ゲーテはドイツを代表する文豪であるのはもちろんのこと、宰相を務め、「色彩論」という論文を発表するほどの自然科学者でもあったからだ。

そして、エッカーマン自身このような分析をする。

ゲーテが世に出たとき、2つの大きな遺産―誤謬と不完全を受け継いだため、どれを取り除かなければならなかった、それが時代の要請でもあったのだと。

才能に恵まれ、知力にも優れていた彼にはそれが可能であった。

それゆえに、一つのことに限定することが難しかった。

彼は真理への愛と、人類にとっての害悪となる遺産を払拭するためにその仕事に取り組んだ。

エッカーマンはこのように結んでいる。

「もし、『ヴィルヘルム・マイスター』のような作品が、国民のあいだにすでにあらわれていたら、ゲーテは小説を書いたかどうかも、大いに疑問で、その場合、ひたすら戯曲だけに没頭しなかったかどうかも、大変疑問である。

彼がただ一つの方面にだけ全力を傾けたような場合、どれだけのものを創造し、どれだけの影響を及ぼしたかは、まったく見きわめがつきがたい。

しかし、たしかな点は、聡明な人間なら、全体を見渡せばすぐに、ゲーテがやむにやまれず神の御心にかなおうとして努めてきたすべてのことを作り出さないほうがよかったなどとはだれも夢にも思わないだろう、ということである」

才能、優れた知力、精神を持っていさえすればどの方面でも、その時代の要請にしたがって人類のために仕事をすることができるのであろう。


世間のほとんどのひとは、「ただ一つのことにだけ打ち込むのではなく、色々な経験を経なければ成長できないから、一つごとにかかずらっているのはやめなさい」と教えをたれてくる。

これは完全に意味を取り違えているし、誤謬だ。

一つのことだけに打ち込んでいるからこそ、人生の役に立つような経験を得ることもでき、関わる人もそうした経験豊かな上質の人たちであろうから、色々なことを学べるのだ。

情熱を燃やすこと、熱心に取り組むこと、まさに『自分を限定し、他から隔離すること』が最高の技術であり、そのためにつとめなければならない。

「小さいことを積み重ねる」 『ゲーテとの対話』

『芸術の才能というやつは、技術によっても、美学によっても、発展するものじゃない』


『人間のもっているさまざまの力を同時に育てることは、望ましいことであり、世にもすばらしいことだ。

しかし人間は、生れつきそうはできていないのであって、実は一人ひとりが自分を特殊な存在につくりあげなければならないのだ。

しかし、一方また、みんなが一緒になれば何ができるかという概念をも得るように努力しなければならない』


『すべての人間を集めてはじめて人類は形成される。

また他人を尊重してはじめてわれわれも他人から尊敬される』


『いつもただ一つの手仕事に自分を限定するようにすすめて、今は一面性の時代だ、このことをつかんで、自分のためにも他人のためにも、この意味で働く人こそ幸いなれ』


『多くの専門を概観し、判断し、指導することを本分とする者は、またできるだけ多くの専門にわたって洞察できるように努力すべきである。

だから、君主や未来の政治家は、いかに多面的な教養を身につけていても十分すぎるということはない。

すなわち多面的であることが、その人の職業なのだから。

同様に、詩人もさまざまな知識を持つよう努めるべきである。

なぜなら、世界全体が彼の素材であり、それをどう取り扱い、表現するかを理解しなければならないからである。

しかし、詩人は、画家になろうなどという了簡を起してはいけない。

世界を言葉で再現することができれば、もって瞑すべきである。

同じように、からだの表現によって世界を目の前にみせるのは、俳優にまかせておけばよい』     『ゲーテとの対話』より


素質、もって生まれた才能というのは努力によって得られるものではない。

昨日、Dさんは、「他人のことを羨まないこと、それが私のモットー」と言っていたし、イチロー選手は『あこがれを持ちすぎて、自分の可能性をつぶしてしまう人はたくさんいます。

自分の持っている能力を活かすことができれば、可能性が広がると思います』

という言葉を残している。

こうした例から、芸術に限らず、あらゆることには多かれ少なかれ才能がいることがわかる。

また、こうした才能は結局人間同士の比較に過ぎないので、単純に考えれば、才能という概念が生じるところに当てはまる才能ある人というのが存在することになる。

だから、自分自身にどんな才能があるかを見極めること、また周りの人が見極めてあげること、がとても大切なことである。

努力次第でなんとかなるという幻想は早く捨ててしまわなければならない。

誰しもがそんなことは経験的にわかっていることなのだが・・・

ただし、これは超一流になるための条件であるから、努力すれば他人よりぬきんでることができるのは当然のこと。

超一流は圧倒的で偉大だ。

若いときにそういった圧倒的偉大さに触れる機会があった僕は幸いだった。

無駄な努力や、思い込みなどで若い才能が消されてしまうことがないように願う。


「自分は他人とは違う人間なんだ」、「他人より優れているから、一般論は通用しないのだ」という身の程知らずの勘違いは若くて血気盛ん、野心家で、優秀であった人間が抱きやすい。

僕も自分自身を振り返ってみると、そんな生意気な生徒であり、少年であった。

しかし、あるとき気がついた。

自分自身を他人とは異なった人間に、特殊な、特徴をもった人間につくりあげようと努力することが、ひとかどのものになるための方法である!と。

ここで、ゲーテは諭してくれる。

自分を特殊な人間、特別な人間に仕上げようと努力するだけでは足りない。

みんなが力をあわせてできることはなにがあるか、どのようにすればそれを実現することができるのか、そのための努力もしなければならないと。


僕たちにとって、実感としての世界、人類というのは得がたく、それゆえに争いは絶えず、貧困や不公平、不平等が見えない原因や思惑によって生じている。

だれが、自分の家族や友人を傷つけようと思うであろうか?もし思うのであれば、それは必ず原因をどこかにもっている。

いつか、技術の進歩によって、その人類、世界の実感を得ることができるようになれば、さまざまな問題は解決に向かっていくだろう。

それまでに、僕たちは周りの人たちと和合することに努め、準備するべきだ。

他人を尊重する。ただ尊重するのだ。

他人の尊敬を得よう、信頼を得よう、そんなことは第三者が決めることで、僕が決めることではない。

他人を尊重するという自分のルールを順守するだけなのだ。


結局は人は人の手によって救われ、生かされ、励まされる。

人の手による仕事を好み、文字通り手当てがどれほど僕たちを癒してくれるかは、みんなが承知している。

そういった仕事を生業とできることはどれほどすばらしく、幸せなことであろうか。

では、言葉をつづることも間違いなく手仕事であり、言葉には力がある。

僕の言葉が他人のためとなり、そのための自分のためになるよう小さなことを積み重ねよう。


自分に要求されているものがなんなのか、自分が欲するものが要求する条件とはなんであるのか?

それをしっかりと見極め、問いただしてみること、それが哲学的ではあるが、近道であろう。

仕事にせよ、遊びにせよ、それが要求するものを事細かく分析し、その要望に忠実に倣って獲得していく。

それはほとんどの場合、知識に他ならない。

技術の元にも知識がある。哲学ですら知識を要する。宗教観もまた然り。

そして本分をわきまえ、わき目をふらず、浮気心や欲を出さぬこと。

自らの仕事を忠実にぬかりなくこなすこと。

単純であるが、実際にそこに身をおくとなかなか難しいことである。
プロフィール

hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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