映画『リンカーン』 『偉大なる人物はもれなく詩人である』


主演ダニエル・デイ=ルイスがアカデミー賞を受賞したことで日本でも話題を呼んだ映画『リンカーン』。

監督はスティーブン・スピルバーグということもあってなじみやすい感じを受けた人も多かっただろうが、中身はなかなか重厚で、政治・社会を忠実かつ真面目に描き、博学と識見を要するきわめて国際性・普遍性の高い作品に仕上がっていた。

僕はアメリカの歴史どころか世界の歴史に疎く、その内容について論じることはもちろんのこと、自分自身がどれほど理解と吟味をできているかわからない、大意をつかめたのか、はなはだ疑わしいところがある。

それでも偉人好きとあって、エイブラハム・リンカーンその人は研究と関心の対象ではあった。

岩波文庫から出版されている『リンカーン演説集』やしばしば取り上げられることもある偉人伝のようなものから少しではあったが学んだのである。

先ほどもいったようにアメリカの歴史や奴隷制に疎い僕に彼の事業の偉大さや演説の実質的価値は計り知ることができない。

しかしながら、もっとも有名な演説の1つとして知られる『ゲティスバーグの演説』を紹介することは無責任ではない価値あることだと考えるし、無知といえる僕にも感慨を与えるほどの力を持っている。

『八十七年前、われわれの父祖たちは、自由の精神にはぐくまれ、すべての人は平等につくられているという信条に献げられた、新しい国家を、この大陸に打ち建てました。

現在われわれは一大国内戦争のさなかにあり、これによりこの国家が、あるいはまた、このような精神にはぐくまれ、このように献げられたあらゆる国家が、永続できるか否かの試練を受けているわけであります。

われわれはこの戦争の一大激戦の地で相い会しています。

われわれはこの国家が永らえるようにと、ここでその生命を投げ出した人びとの、最後の安息の場所として、この戦場の一部を献げるために来たのであります。

われわれがこのことをするのはまことに適切であり適当であります。

しかし、さらに大きな意味において、われわれは、この土地を献げることはできません―聖め献げることができません―聖別することができません。

生き残っている者と戦死した者とを問わず、ここで戦った勇敢な人々こそ、この場所を聖め献げたのでありまして、われわれの微力をもってしては、それに寸毫の増減も企てがたいのであります。

われわれがここで述べることは、世界はさして注意を払わないでありましょう、また永く記憶することもないでしょう。

しかし彼らがここでなしたことは、決して忘れられることはないのであります。

ここで戦った人々が、これまでかくも立派にすすめてきた未完の事業に、ここで身を捧げるべきは、むしろ生きているわれわれ自身であります―それは、これらの名誉の戦死者が最後の全力を尽して身命を捧げた、偉大な主義に対して、彼らの後をうけ継いで、われわれが一層の献身を決意するため、これら戦死者の死をむだに終らしめないように、われらがここで堅く決心するため、またこの国家をして、神のもとに、新しく自由の誕生をなさしめるため、そして人民の、人民による、人民のための、政治を地上から絶滅させないため、であります』   リンカーン『ゲティスバーグ演説』より


リンカーンは学校で学んだという経験は総じても一年に満たないと自身回想している。

ほとんどの知識や学力を学習や読書によって自力で培ったのだ。

映画中でも、ユークリッド幾何学の自明の理を引用しながら、人間の平等性を説く場面や、独立戦争後のアメリカ国民がイギリスへ行った折のワシントン大統領の肖像画がトイレに飾ってあったことによるエピソードを話す場面など幾度かその博学さのみならず、それに伴う詩的趣向を発現していた。

僕はいつもこうした歴史上の偉人にふれると思うことがある。

『偉大なる人物はもれなく詩人である』

その裏づけは彼らの世界に対する好奇心と、ひたむきな世界の探求、そして神、あるいは自然、世界を愛する心にあるのだと思わずにはいられない。

死にゆく子どもの祈り 黒柳徹子さん

今日の夕方、BSプレミアムで黒柳徹子さんを招き、色々な話を伺うという番組を放送していた。

伝説的番組『徹子の部屋』で知られる黒柳徹子さんだが、いつもとは逆の立場であるゲストの徹子さんを拝見するだけでも興味が湧いた。

話はご自身が務めるユニセフ親善大使としての活動についてになった。

徹子さんは、盛んに『子どもたちのため』という言葉を口にしていて、印象的であった。

そのなかでも特に僕が強く感銘を受けたのは、

徹子さんがある貧しい国を訪問したときのこと、そこでは破傷風によって多くの子どもが亡くなっていて―破傷風は予防接種によって完全に防げるものであるから、そうした予防接種を施すこともユニセフの活動の一つだという―、病院を訪ねてみると、そこには治療も十分に施されず今にも死んでしまいそうな子どもたちが横になっていた。

徹子さんは一人の子どものそばへいき、声をかけたという。

その子は声にならない声で徹子さんに答えた。

病気によって、筋肉が硬直してしまい、声も十分に出せなくなってしまっていた。

徹子さんはなんと言ったか聞き取ることができず、近くの看護をしている方に尋ねると、

「あなたの人生が豊かであるように祈ります」といっていますとの答えだった。

そのとき、徹子さんは思ったそうだ。

今死のうとしているのに自分に声をかけてくれた人に対して、そうした言葉を言えるのが子どもなんだ。

子どもは本当に純粋で、素直にものを見ることができるんだと。

そんな子どもたちが死んでいくときはまわりの大人たちを信頼して死んでいく。

だから大人たちはそれに応えられるようなしっかりした人間でなければならないし、またそうやって死んでいく子どもたちもせめて人の腕の中、愛の中で死んでゆきたいだろう。

それがユニセフの活動を始めたきっかけだったそうだ。

また、そうした活動をすることで少しでも他の人々にそうした現状があることなどが伝わればいいと思うと話していた。

戦地や地雷が埋まっているような地域に足を踏み入れることは怖くないのですか?の質問に、

自分は小さいときに飢えを経験しているし、戦争も経てきたので、いつ死ぬかわからないというは経験済みだからそのときはそのときだというふうに思える。

だから、決してそんなふうに思ったことはナイト答えていた。

子どもたちが食べ物や水を求めるのと同じように、愛も必要なんだ。

テレビに携わるものとして、子どもたちに堂々と見せられる番組をつくり、テレビは子どもたちにいい影響を与えるものでなければならない。

はじめてみるものがテレビの映像だったとき、それが美しくなければならない。

そんなことも話していた。

徹子さんは本当にすごい方だなと率直に思った。




天才と教師 天才と平等の矛盾 『車輪の下』より

『天才と教師連とのあいだには、昔から動かしがたい深いみぞがある。

天才的な人間が学校で示すことは、教授たちにとっては由来禁物である。

教授たちにとっては、天才というものは、教授を尊敬せず、十四の年にタバコをすいはじめ、十五で恋をし、十六で酒房に行き、禁制の本を読み、大胆な作文を書き、先生たちをときおり嘲笑的に見つめ、日誌の中で扇動者と監禁候補者をつとめる不逞の輩である。

学校の教師は自分の組に、ひとりの天才を持つより、十人の折り紙つきのとんまを持ちたがるものである。

よく考えてみると、それももっともである。

教師の役目は、常軌を逸した人間ではなくて、よきラテン語通、よき計算家、堅気な人間を作りあげる点にあるのだからである。

しかし、だれがより多くのひどい苦しみを受けるか。

先生が生徒から苦しめられるのか。あるいはその逆であるか。

両者のいずれがより多く暴君であるか。両者のいずれがより多く苦しめ手であるか。

他方の心と生活とをそこない汚すのは、両者のいずれであるか。

それを検討すれば、だれしも苦い気持ちになり、怒りと恥じらいとをもって自分の若い時代を思い出すのである。

しかし、それはわれわれの取り上ぐべきことではない。

真に天才的な人間ならば、傷はたいていの場合よく癒着し、学校に屈せず、よき作品を創り、他日、死んでからは、時の隔たりの快い後光に包まれ、幾世代にかけて後世の学校の先生たちから傑作として高貴な範として引き合いに出されるような人物になる、ということをもってわれわれは慰めとするのである。

こうして学校から学校へと、規則と精神とのあいだの戦いの場面は繰り返されている。

そして国家と学校とが、毎日現れて来る数人の一段と深くすぐれた精神を打ち殺し、根元から折り取ろうと、息もつかずに努めているのを、われわれはたえず見ている。

しかもいつもながら、ほかならぬ学校の先生に憎まれたもの、たびたび罰せられたもの、脱走したもの、追い出されたものが、のちにわれわれ国民の宝を富ますものとなるのである。

しかし、内心の反抗のうちにみずからをすりへらして、破滅するものも少なくない―その数がどのくらいあるか、誰が知ろう?』     『車輪の下』ヘルマン・ヘッセ著より

この文章を読んで、真っ先にわが国の若きカリスマ、僕も学生時代心酔した尾崎豊、彼は高校を中退し、その卒業式にライブを行った。

『卒業』には校舎の裏でたばこをふかしたことが書かれているし、恋やダンスホールの記述もこれらの年代とぴったり合っている。

最近ではiPhoneで知られるアップル社を創設したスティーブ・ジョブズ氏―彼は大学を中退した理由の一つとして「大学の教授よりも自分のほうが優秀なことがわかったため」と言っている―

や相対性理論を提唱し、天才と呼ばれるアインシュタイン―彼はよく先生に楯をついていたようで、「君がいるだけで僕の権威が損なわれるのだ」と言われ退学を勧められている―

あるいは発明王エジソン―彼は「君の頭は腐っている」と担任の先生に言われてたという―を思い浮べずにはいられなかった。

ほかにも歴史上のさまざまなここでいう国民の宝を富ませたこうした偉人たちはたくさんいるのだろう。

常に、この平等と繁栄、民主主義と発展という矛盾は存在し、多数派の平等や民主主義が幅を利かすだろう。

しかし、それでも僕たちはこうした才能、天才を黙殺し、可能性を摘み取ってしまわないように注意しなければならない。

そして最後に、僕自身これを読んで、自分の学生時代を思い浮べずにはいられなかった。

結局大学に在学し続けることが困難であったし、小、中、高、大と先生連と打ち解けあうことができなかったし、一部の先生とは和解すらできずにいるのだ・・・

クレイジーな人たちがいる

ときどき心を打たれる、考えさせられるCMに出会うことがある。

このブログではできるかぎり美しいもの、すばらしいもの、賞賛すべきもの、純粋な思想から生まれた真情を記していきたい。

今、世界を動かしている会社の1つであるアップル社はそのCMをはじめとする発信力がすばらしい。

その中でもとりわけすばらしいCMはこれだとおもう。



クレージーな人たちがいる。
 反逆者、厄介者と
  呼ばれる人たち。
   四角い穴に,丸い杭を打ち込むように
物事をまるで違う目で見る人たち。

彼らは規則を嫌う。彼らは現状を肯定しない。


彼らの言葉に心うたれる人がいる。
 反対する人も、賞賛する人も、けなす人もいる。
しかし、彼らを無視することは誰にもできない。


なぜなら、彼らは物事を変えたからだ。
 彼らは発明した。創造した。
  人の心をいやし、奮い立たせてくれた。
彼らは人間を前進させた。


彼らは人と違った発想をする。
 そうでなければ、何もないキャンバスの上に
  芸術作品は見えてくるだろうか?
静寂の中に、今までにない音楽が聞こえてくるだろうか?


私たちは、そんな人たちのための道具を作る。
 クレージーと言われる人たちを、私たちは天才だと思う。

自分が世界を変えられると
 本気で信じる人たちこそが、
  本当に世界を変えているのだから。


日本人が1人も入っていないことは少し残念だが、映し出されるのは天才と呼ばれる人たちだ。

中には僕の知らない人物も含まれているから、今後の人生の中で深く知る機会に恵まれるといいとおもう。

万能の天才、ダヴィンチの手記より

レオナルド・ダ・ヴィンチは「万物の天才」として有名である。

正真正銘の偉人とされる人物だ。

しかし僕たちはあまりにレオナルド・ダ・ヴィンチに関する知識をもっていないのではないか?

そう考え、彼について少しでも実際の観念を持つために「レオナルド・ダ・ヴィンチの手記」を読んだ。

僕はそれを読む前は彼を偉人として漠然と尊敬もし、天才たるゆえんをその作品に見出していた。

作品を見るにしても、この手記における記述を読むにしても彼の生きた時代背景や現在との時の隔たりの実質的な感覚をもつ必要があるのだが、それが難しいため正当な評価を下すのはほぼできない。

だからあくまで手記を読んだ印象である、作品も同様である。

モナ・リザであれば世間的な評価によるところが多くもはや価値観の意味での自分の目だけで見ることはできない状態だ。

レオナルド如何の前にこの上下巻はどうだろう。便宜的な分けられ方がされているわけだがこれは退屈だった。

上巻には人生論と文学論、絵画論が含まれており、彼の人生に対する鋭い視点や世界を正確に捉える観察力を知ることができとてもよかった。

彼は絵画を文学よりも上位においている。

それというのは絵画は現実を超えたものを人類の眼前にまさにありありと現すことができるからだという。

文学というのは文字によるものであり、文字というのはこの世界において二次的な役割であるから、それによる表現はやはり自由度を失う。なるほどそのとおりだ。

下巻は退屈だった!

これを楽しんで読み進められる人はどんな人なのだろう。

科学論にしても正しき科学論ではなくして、確かに正しい理論、現在にも通ずる概念もたくさん含まれている。にしても現在との隔たりを自分なりに補正しながら読まなければならない。

しかもそれが現在の大方既成概念によることなのだ。知識欲を満たすものではなく、レオナルドの観察眼や思考、想像力の一端を見ることができるだけだ。

ただ普段感じることのない天才と呼ばれる人の「天才」に触れることができる。

論理的思考と、鋭い洞察力、観察力、集中力。

彼は実験を、すなわち結果を重視した。

実際に存在する鳥をよく観察することで飛行するための手がかりとした。

それは現在の僕たちにとって有益な発想である。

すでに今の世界は計算による数値的な理解である。

しかしよく観察し、実際に起こっていることに対する的確な分析が必要であることは原発事故でも明らかなように今必要な人間の力であるが、そのことを教えてくれた。

有名ではないが、惹かれた絵画があったので載せておく。
http://blogs.yahoo.co.jp/tctbx135/31530838.htmlから転載

マグダラのマリア (レオナルド・ダ・ビンチ16世紀初頭)

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プロフィール

hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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