生活条件:使い勝手のいいキッチン 食への関心は健康意識


私たちは生活に必要なもののほとんどを自分自身で用意することができない。裏を返せばそれが我々が日々従事している仕事の本質ということになる。だから私はできる限り自分の力でできることは人やサービスに頼らず自分でやろうと思うし、仕事であれば誰かの役に立っていることでなければ本当でない気がする。そして人間としてすべきこと、それは自分の日々の糧は自分で手に入れるということであり、それは仕事をするという意味として現代社会では通用しているが、自分の食事は自分で作り、そこに日々の充実と明日への活力を見出すことができるのではないか、私はそんな風に考えている。それでこそ、料理人がいかに地道な努力を続け、匠の技と深い味わいに到達したのか、その偉大さも少し理解できるのではないだろうか。代金を支払い、美食を味わうというのはすばらしい贅沢でこの上ない幸せのひとときで、私はそのために日々労働に励んでいる、そう言っても過言ではなく、自分で料理をつくるときには洗練されたこだわりのつまった食材を用いることで、また違った喜びと幸せを感じることができる。そのためにキッチンが担う役割というのも無視することができず、1DKという一人暮らし向けの物件でありながらも、充実したキッチンのある住居を私は望んだ。これは本当に僥倖としか言いようがないが、シンクが広く、2口ガスコンロ設置可の物件を条件を満たす立地に発見し、私はほとんど即決だった。そのキッチンに立って、私は想像してみた。どんな風に食材と格闘しながら日々の食事を用意していくのだろうと。私の食に対する関心は、人生においてもっとも尊ぶべきものは健康であるとの判断から発生したものであって、決して贅沢、欲望からではないと自ら信じるのだが、果たして本当のところはどうであろうか、食生活をじっくり見つめてみる必要がありそうである。

生活の必要条件:使い勝手のいいキッチン
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ちょうどいい居住空間 1DK


居住地を定めた私は、続いて居住空間について検討した。人生において難しいのは、すべてが一度きりであるため、同一条件での試験や比較ができないことで、この居住空間についてもやはり住んでみなければ分からないというのが本当のところであった。とはいえ、按配が難しいのであるものの、与えられた時間の中で有益な参考資料を得ることは可能で―もっとも参考になるのはやはり、経験で―人生は経験と実験の連続なのである。私は試験的な意味で、前段階として駐車場付2LDKという独り暮らしには広々とした空間で暮らし始めた。それはいかなる可能性も排除すべきでないという考えから、シェアハウスや同棲などにも対応できるためでもあった。この試験をいつまで続けるべきか、これは住み始めて以来ずっと念頭にあって、結局投資と同じであろう、なかなか最善の、意味のある見切り、見極めが難しかったが、ときに時間や環境が解決する例にもれず、そうした流れに自然となっていた。ただ一つ大きなポイントになったのは、”車”だったと思っている。あのとき、ミニに大きな故障が生じなければ、気に入る車が見つかって買い替えていれば―ほとんどアルファロメオを買うつもりになっていたが、故障しがちというところが乗る機会が減ることを考えると買うことは賢明な判断と思えず保留にした―名古屋への引っ越しは考えもしなかったことであろう。結果として、車を手放し、妙な都会的ミニマリズムへと向かうこととなった。そして私が最適な居住空間と結論したのは1DKであった。単純に一人でリビングでくつろぐことはこの上ない贅沢な気持ちを湧き起らせたものの、それに見合うコストではなかった。誰かと一緒に過ごすリビングであって、一人なら自室で十分心地よく時間を過ごせるというわけだ。

ちょうどいい居住空間:1DK
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私が居住地に求めたものはウォールデン湖?


ソロー作「森の生活」に強く感激し、定職に就かず、放浪を続けてきた私だったが、行き着いたのはウォールデン湖ではなく名古屋駅のツインタワーが通りから眺められる住宅街だった。名古屋といったら、名古屋城か駅ビル群だと勝手な判断を下し、私は次なる住まいを自ら選んだ。車を手放し、利便性を考え、駅と住居は目と鼻の先。交通網の発達した都会へ出れば望むものは手に入る。日々はあわただしく、人生は戦いだと自ら鼓舞する毎日。果してこれでよかったのだろうかと、自問自答を繰り返すのだが、なによりも私を肯定するのはこの瞬間さえ感じるこの充足である。

私はすべてのものを手放し、一から生活というものを再構築してみようと思った。それから何を優先してそれを構築していくのか、私自身が予測できなかったのだが、日々形作られていく環境が私自身を表現していく。ようやく私は社会の中で生き始めた、その実感と共に日々を過している。私が何か生活の一動作をすればそれは誰かの手によって支えられているという事実にぶつかり、ただ驚くとともに感謝の念を禁じ得ない。そして私がそれにこたえるだけの働きを社会の中でしていないことを思うと非常にふがいない。この不均衡を是正すべく日々何かを変えていかなければならないが、しかし何を変えていくのか、というところが全く判然としない。

私が居住地に求めたもの:日常で都会を感じるシンボル(JRセントラルタワーズ)、名古屋駅沿線・駅近

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私の思想に巣くうファシズム


「俺が文学と認めたものじゃないとなんと言われたって俺は読まないよ」

私はそう言って巷に溢れる、一切の現代の文学を否定した。

「大体なんだその文学ってのは、抽象的でさっぱりわからない」とユウタは丸眼鏡を外して入念にレンズを磨き始めた。

「そうだな、端的に言えば時間の試練に打ち勝った、淘汰され現代にまで生き残った作品群だ」

「ほぉ。じゃあどうするんだ現代の文学作品は。価値を認めないかい?」

「俺には判断のしようがない。そして文学的評価さえ定まっていない作品を読んでみようという博打をするほどの時間が人生に与えられているとは思えない」

ユウタは怪訝な表情をした。

「そうなると現代活動している作家は無価値で認められないってことになる。お前がやっていることは文学を殺すことではないのか」

この言葉が私の心にひどく響いた。

「文学、文学っていって、自分の認める価値に準じないものは切り捨てる。そのやり方はファッショそのものだ」

彼は私の思想に巣くうファシズムをいとも簡単に見抜き、批判した。文学に限らず、趣味嗜好、生活スタイルの細部にまでファシズムは行き届き、他者をもファシズムによって私は取り扱っていた。

「お前は読みもしないものをくだらない、つまらんものだと言って酷評する。なぜそんなことがわかる」

「わかるんだよ。ダメな人間かいい人間かがわかるようにね。俺だってね、生れた時からそうだったわけじゃない。何度も失敗して、自分の意見を曲げて、他人の意見に耳を傾け、世間がいいというものを試してみたり、私がつまらないと予想したものを確認するつもりでやってみるとやっぱりつまらない。経験則なんだ。もううんざりなんだ、愚かで程度の低いものに時間を取られるのは」

「それにね、どう考えたってベートーヴェンを超える音楽を俺は想像できないし、失われた時を求めてを超える文学が現在の出版業界において登場するとは思えないんだよ。わからんかい?」

「俺は村上春樹の書くやつなんて最高にクールだと思うね。まぁ、好きなものを読めばいいさ。そういえば、この前ユキちゃんと飲んだ時にお前のことを彼女が価値の多様性ってことを考えないのね、残念な人なのねっていってたぜ」

「女が言うことなんて放っとけばいい。それに20そこそこの奴に何がわかるってんだ。あいつはいつも偉そうだからな。年間200も300も本を読むからって」

私とユウタの話は一向に平行線のままだった。しかし、この出来事が後の私の行動に大きな影響を与えることとなった。これだけではだめだったが、これがなければ後の出来事が起こっても何も私は変化しなかったであろう。
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「文学界新人賞」落選 足りぬ”おもしろさ” ブログの頼もしさ


「文学界新人賞」への挑戦は落選という結果に終わった。私はこの厳しくはないが正当な現実に改めて真摯に向き合わなければならないと切に感じた。そしてそれまで無関心とは言えないまでもさほど関心を向けていなかった芥川賞、そしてもちろん「文学界新人賞」の過去受賞作がどのようなものか目を向けてみようと思ったのだ。「百年泥」の冒頭を文芸春秋で立ち読みし、「おらおらでひとりゆぐも」を―これはネットの試し読みだったか―、中村文則さんのいくつかの小説のあらすじを、「コンビニ人間」の審査員の評価を読んでみた。私が早々に、はっきりと認めたそれらの共通点は”おもしろさ”であった。そして私が描いたものには私が見出したその”おもしろさ”の要素は一切含まれていなかった。さらに再認識と言ってもいい感覚だったのが、かつて私が小・中・高の学生時代に国語の授業で体感した平易で重厚さのない読み応えのない、頭脳に理解のための認識力を要求しない物足りなさであった。私になぜ、最上ともいえる読書体験を「吾輩は猫である」が与えたのか、いまだに謎ではあるが―たしか高2の国語の授業で一部ではあったが「こころ」が取り上げられたのに、そのときは大きな感動を覚えなかった―実際に自分で小説を書く段になってみると、「吾輩は猫である」ではなく、「三四郎」や「こころ」のようなものが書きたいと思い、いずれにせよ見方によっては古臭いものを書いた。それはある男性の悲劇の物語で、このテーマは今後何度か書き直しながら精度を上げていくような方向性で進めたいテーマの一つであるから、また少し時間をおいて書き直していきたい。私が思う、このいわゆる文学賞という位置づけというのが、野球に例えると、打者を巧みに打ち取るような投球ができる投手になるというもので、私の状況というのは、まだキャッチャーを座らせる前段階で相手の胸のあたりへ投球ができるようになるための投げ込みの段階だと考えているのでとにかく半期ごとに作品賞に応募することを続ける。その後、キャッチャーを座らせコーナーに投げ分けられるようなコントロールをつける入念な投球練習が必要になるといった具合で、ひとつの作品を丁寧に吟味し、推敲を重ねながら仕上げるという作業に移っていきたいと思う。

また、改めて考えさせられたのが、作品とブログの役割についてである。私がブログを始めたのは、とにかくなにか文学的な活動がしたかったから、それに尽きると思うが、なぜ小説を書かなかったかといえば、私が小説というものに対してあまりにも理解が浅かったし、その”書きたい”という気持ちも薄かった。当時の私は、名言や哲学的考察に過剰な価値を置き、人生とは何か、私はどう生きるべきなのか、それが重要な関心ごとであったのだが、今では人間とは何か、私はどういう人間なのか、心はいかに動き、存在とはなんであるのか。そうしたより、具体的で詳細なものへ遷移していった。そこでようやく小説に取り掛かることができたわけだが、こうして理想と現実というのか、私の力不足と才能の乏しさに直面し、力を注いだ作品がこの世界から葬り去られてみると、意義的価値は低いにしろ、こうしてひっそりとでも残り続けるブログのありがたみと、頼もしさを感じるのである。たとえ遊戯に過ぎないと言われても楽しさを感じながら投稿を続けていこうと思う。
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ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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