文学界新人賞へ応募 I氏の助言


「ブログ読んだよ」

と、I氏は、私を優しく射るような目をして言った。

「何か感想はある?」と私は返事した。

「そうだな、まあよくあんなにも多く書けるなと驚いたね。どうせ同じことの繰り返しなんだろうと思ってたらそれぞれ違っている。あれだけ書くネタがあるのは正直うらやましい気もしたね。でも、それぞれには残念ながら深みがないよ。だからむだにたくさん書けるとも言えるかもね。実際どういうつもりでブログを書いてる?」

「文学は好きだし、ああいった自分の好む傾向のものを書いていれば、共感してくれる人や同じ趣味を持つ人たちと交流できるんじゃないかって期待もあるんだ」

「文学をやってるつもりかい?俺はね、Hがまず一本作品を仕上げないと認めないよ。ブログなんて所詮娯楽だ。作品として仕上げると気分がいい。それに同志がやっぱりいて、彼らと話すのは非常に有意義だ。君は現実世界はバカばかりだというが、ネット界はそうではないと言い切れるかい?ブログを通じて知り合った人たちと俺の同志と比べてみたらどうだろうか。彼らは毎日必死に作品に取り組んでいて、賞に応募して切磋琢磨している。次こそは、と俺も思って試行錯誤している。俺からみると、ブログなんかやってないで、小説でも書いて、文学賞に応募するなりした方がいいんじゃないかって思う。書けないことはないと思う。書くことが好きだろうし、続ける根気さもある。俺は誰が見てるとも知れないブログを書き続けることはできそうにない。賞がとれるかもしれないと思えばがんばれるけどね。そうそう、今書いているやつを今度「文学界新人賞」に応募するつもりなんだけど、Hも試しに応募してみないか?俺も刺激になる」

私が内心抱えていた文学に対する葛藤。ブログと作品制作の意義。I氏はそれを鋭く追及したのだ。彼は文学界新人賞のみならず群像や新潮新人賞など様々な作品賞に応募してあと一、二歩というところでもがいているのを私は知っていた。私はどこか彼の才能に対する引け目から応募することにためらいがあった。作品として物語を完結させることさえできないほど才能に恵まれていなかったのである。ところが、彼は適切なアドバイスを私に与えた。

「俺には作品として完結させる実力もなければ、作品にするような物語のテーマもない。新人賞に応募するなんてとても望めないよ」

「わかってないね。大層立派なテーマなんて必要ないんだ。ただ恋愛するだけ、それでもいい。お前が考える恋愛は実はだれもが考える恋愛というわけではないんだ。適当にテーマを決めて、よし、書き始めよう。というのもいけない。書いたことがない人間はそうやって勢いで書いて途中で行き詰まる。それは当たり前だ。でもね、小説にはプロットっていう設計図があるんだよ。物語の骨組みを、そうだな、10個くらい、ざっと場面展開でもいい書いてみるんだ。たとえば、基本の4つは起承転結。細かいことはその都度相談してくれれば、俺だって大した実力はないけど、経験の中からアドバイスできることはあると思う」

彼にアドバイスを聞きつつ、書き始めてみると、なるほど案外すらすらと物語が紡がれていく。ちょうど私は資格の試験を終え、何かこの能動的集中力をせっかくだし、そのまま引き継ぎたいと考えていたので絶好のタイミングであった。ブログの方でも失望させられることもあったりして、少し変化というか刺激を求めていたところであった。こちらはある意味ネタ帳、練習帳として機能するに違いないし、面白いので続けながら、9月末の文学界新人賞に作品を応募することに決めた。
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甚五郎ラーメン 旅の一興としての中華そば


寒い時期のラーメン一杯、それが旅先での中華そばならこれ以上のごちそうはない。

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私は飛騨高山方面へ行くときには必ず「高山ラーメン」を食べる。日本人なら嫌いな人はいないであろう醤油の香ばしくも上品な芳香を楽しめる料理の一つがこの高山ラーメンだと私は思っている。これ以上ない中華そばのビジュアル。ザ・高山ラーメン。スープはまろやかでカツオ?のしっかりとしたうまみと鶏ガラ?のコクが絶妙に一体となってうまい。麺はちぢれ麺でやや白っぽい。際立ったなにかがあるわけではないが、それだけ日常的に食すのに適した、まさに中華そばのイメージにぴったり。

私がこの「甚五郎ラーメン」を選んだ理由は単純に幹線道路沿いにあって、ミニを停めるための駐車場が容易に確保できるからだ。店舗の隣には持ち帰り用ラーメンの製造工場が併設されていて、なるほど人気の程がうかがえたし、ひっそりとたたずむ名店という風情ではないけれども、親しみやすく年季もあって味わいがあった。旅行者にとってはこれくらいはっきりとした店構えだと利用しやすい。絶品のご当地ラーメンとはいいがたいかもしれないが、のんびりとあくまで腹ごしらえとしてのラーメンだと考えると旅の一興となりうるラーメン店である。
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死期の予感 親しい人への還元 みんなで『ヘインズ プレミアム ジャパンフィット』を着よう

親父が昔こんなことを言っていた。

「世の中には不思議なことがある。

あるとき、私の向かいの席だった会社の同僚が新品のネクタイをいらないか、と言ってきたことがあった。私はネクタイなら使う機会があるじゃないかと言ったんだが、使わないからぜひ。ということだったから、強く断る理由もなくそれをもらった。たまたまその日、別の同僚とその彼からネクタイをもらったという話をすると、自分も彼から同じカメラの趣味があったから、高価なカメラを先週もらったという。しばらくしてそのネクタイをプレゼントしてくれた同僚が不慮の事故で亡くなってしまった。生前彼と親しかった人たちが口をそろえて言ったことが、彼が自分がこの世を覚っていたかのように、死の少し前から身辺整理といった感じで身の回りの物を捨てたり、人にあげたりしていたということだった。

人間は自分の死期が分かるものなのかもなぁ。」

私はこの頃、身の回りをすっきりさせたくて仕方がない。小銭が邪魔でしかたがないからあげるようにしている。募金も積極的に。なんか引き出しに商品券があったから、たまたま7月末に誕生日の友達に会う機会があったから、「今月誕生日だよね?おめでとう」といってその内の5000円分あげた。「まだ先ですけどいいんですか?!」と驚いた様子だった。私はうれしいというよりかはすっきりした気持ちだった。

私は高校時代、野球部に所属していたのだが部員が多かったため、クラスには複数人チームメイトがいるというのが普通だったのに、2年のときクラスに一人も野球部がいなかった。どうしても普段から交流のあるチームメイトと親しくなりがちなので、クラスに同じ部活の生徒がいれば彼らと仲良くすることになるのだが、このときはそういうわけにいかなかった。すると野球部ではない4人の友達ができ、いまだに親しく付き合っている―チームメイトだとかえって深い関係になりづらいという面もあるような気がする、私の場合、特殊な状況であったこともあり、チームメイトとは疎遠になってしまった。

その四人に私は大きな感謝の念を抱いていた。Iはとにかくお金持ちのご子息で、海外の土産をいつも買ってきてくれたし、常に満たされていたからだろう、いつもニコニコしていて、怒った彼の姿を見たことがない。私はいつも彼とは気楽にふざけることができたものだった。でも、私が彼にしてあげられたこととなると何もないのである。彼は常に満足していたから、楽しんでいたから。私によって何かプラスに働いたことはなかったに違いない。いつもプラスの感情で、時に私がマイナスなことをしたことがあったとしても。

Mは実直な面倒見のいい男。そして賢い。私と似た趣味を持っていて、大人になってコーヒーをドリップしたり、ファッションについて語り合ったり、今も昔も変わらず遊べる貴重な友人だ。

Kは東京で俳優をしている、長身のスポーツ万能イケメン。高校時代、英語がずば抜けてできて、私は彼から英語の神髄を教わった。女子にはモテたが、とてもシャイだった。日々稽古に励む彼の姿に私は尊敬の念を覚える。私の文学に対する姿勢はどうか?いつもそんな風に彼から言われてるような気がする。私たち三人は名古屋だが、彼は東京にいるため、なかなか4人そろって遊ぶことはできなくなってしまった。私はなんか一体感を得られるものが欲しいと思った。

私はこんな企画を思いついた。

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”この夏はみんなで『ヘインズ プレミアム ジャパンフィット』を着よう”

夏になると必ずと言っていいほどファッション誌で取り上げられるアイテムだ。

下着としてでなく、これ一枚でも着られるよう設計されていて、生地や縫製に至るまで国産にこだわり、適度な厚み、滑らかな肌触りは上質そのもの。ジャパンフィットの名の通り、日本人向けにつくられているため、非常に着心地が良い。なかなか自分で買うには、下着と考えると高価で、無地のTシャツとしても安価というわけではない。グッチしかほとんど着ないというIもなんとか許してくれるのではないか、と私は考え、ファッションに関心のあるMは以前から欲しがっていたのを知っていたし、Kは稽古や普段着として着てくれるだろうと思った。

それぞれがこのTシャツを着るときに他の三人のことが少しだけちらつくと思うとなんだか楽しい気分になる。みんなが着ているという一体感を私は感じることができた。案の定、Mは「欲しかったんだよな!ほんとにもらっちゃっていいのか?」と興奮気味だったし、Iにこれはいいものなんだぜ!と私に代わって説明してくれたので、Iももちろん着るよ!と喜んでいた。Kは突然宅配便で届いたものだからまさにサプライズとなった。

まさか私に死期が近づいていようとは思えないが、死の予感というようなものがして、私は今一度生き方を見直している。死を実感を持って考えるとき、人は生き方が変わるのだ。私の所持しているものを親しい人々に還元していきたい、そんな強い気持ちにとらわれている。一つひとつ実践してゆきたい。
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「ブログと真実」 ”死”と思い出

私のブログのテーマは『過去の再構築』である。”失われた時を求める”ことにも近い。”過去の再現”ではないため、ここに記すことのすべてが事実であるわけではないのだが、事実に基づき、不要なものは除き、強調したいところは強調する。すなわち脚色をほどこすのである。このブログによって私自身の人格を判断されてはちと困る、要はそう言いたいのである。ブログは独立した思想体系を持ちながら、ほんの少しでもおもしろさと意義がうまれるよう試行錯誤して書いている。世界三大自伝の一つと言われるゲーテが書いた『詩と真実』、私はここで『ブログと真実』とでも言いたいような気がする。『詩と真実』、これが意味するところを私は少し掴みつつあるのではないであろうかと思う。こうして二項が並べられることが可能であるのは、互いに関係性を持っているからであるし、また二つで一つの何か深い意味を含んでいる。ブログと真実は異なる。いや、現実と真実が異なり、ブログと真実は同等であるのかもしれない。私によって忘れられた私の過去は、もはや何でもない。ブログには再構築された過去とは異なる世界が広がる。過去が失われる代わりに新たな認識対象に変わって把握させられている。現実よりも印象が強調された過去を私は持つことになる。

「死」によって突然過去が全く違った姿をみせることに私は愕然とした。それはまるで、いつでも過去という、中にいれられているものを自由に動かせるようなビン容器に突然フタが締められ、中の様子は変えることができなくなってしまうばかりか、死という暗幕をかけられてしまうようであった。そしてそのビン容器はぼんやりと美しい思い出としてやわらかな明るい光に照らされるのだ。

特に彼の死は未来の絶望であるよりも、喪失であるほうが大きかった。すべてが美しき思い出となり、彼が関係する思い出のすべてが、彼を中心とした思い出に変化した。私は自分自身に別れを告げるまで、今後ただひたすら喪失し続けるのである。さわやかで凛とした思い出が、悲しさの色味をおびて私の心を圧迫するであろう。私はすっかり年をとってしまった。毎日なにかが失われていく。

「死」は一度でも訪れれば、万事休す。運よく一度も訪れなければ、それが生きているということ。たまたま心筋梗塞になってしまった、もしそのときならなければ?今も生きているに違いない。肉体は若く、今にも動き出しそうだった。しかし、燃やされ灰になる運命とはこれ如何に?「死」を意識して生きる?それすらも無力だ。どんな生き方をしたとしても、その一切を修復不能の過去へと葬り去る。奇跡の積み重なりで成り立つ、現実に私は何を与えようというのであろうか?美しき思い出、それはその時間を共に過ごした人々のたのしそうな、うれしそうな笑顔であり、彼らが私に与えてくれた思いやりではないだろうか。
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虚無に蔽われたこの世界、ありがとう


テレビ離れ、活字離れ、セックス離れ……われわれの行き着く先は虚無なのか。

この”離れ”によって経済や社会が損なわれるため、このようなシグナルが発信される。だからといってこのシグナルによって改善されるわけもないので、ほとんどこうした言葉は意味を持たない。実際にこうした現状に直面しているそれぞれの業界はなんとか改善しようと努力をしているようだが、一度生まれた悪循環を好循環にすることはほとんど不可能なのである。それよりも、こうした現状に乗じて新たな流れを生み出すような試みをしたほうがよさそうだ。人間は飽きやすく、欲望は際限ない。栄枯盛衰。憂うことでもないのだが、メディアは騒ぎ立てている。

テレビがつまらなくなり、出版業界の元気がなくなり、男女交流が少なくなる……、私には好都合だ。

テレビは魔力を持っていて、一度つけてしまうとダラダラといつまでも見続けてしまう。だが、つまらなければテレビをつけなくてすみ、私は時間を手に入れることができる。本が売れない、中身の薄い本が大量に出版され、文学の価値は相対的に上がり、また読書する人間が少なくなればなっただけ、質のいい読書をする人間は有益な時間を邪魔されることなく、他者に侵されることなく手に入れることができる。自分しか知らない、オアシスを知っているような快い気分で読書ができる。本のことが話題に上らないため、余計な労力、余分な情報が入らなくてすむ。

電車に乗ると、殆どの人がスマホでなにかしているのだが、何をそんなにすることがあるのか私には分からない。私もスマホを持っているのだけれど、SNSなんて素人がやっていることだから薄っぺらくておもしろいわけもないし、ネットの情報はでたらめで、ゲームはクソゲー。スマホに時間をとられることもない。私に楽しみを与えてくれるものは、すっかり厳選されて、文学・芸術・音楽・表象・夢想・思索。食べ物なんて何を食べてもそんなに変わりはないのに、テレビでは過剰に高カロリーで希少な食材を使った料理などが紹介されている。欲を満たすための情報を垂れ流しているテレビは本当にくだらないと思う。

このくだらない世界のおかげで、私は自分の楽しみに没頭することができる。自然の美しさ、身近な人間関係、芸術、純粋な人々の営みに心を向けることができる。虚無に蔽われたこの世界、ありがとう。
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hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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